2016年9月25日 (日)

山口街道

2016年9月13日

東大手駅(名鉄瀬戸線)・・・清水橋・・・稲置街道分岐地点・・・清水口交差点・・・心海寺・・善光寺街道交差地点・赤塚交差点・神明社・・・山口町交差点・・・徳源寺・・・徳川園・・・新出来町交差点…出来町橋(JR中央線)・・・東界寺・・・須佐之男神社・・・古出来町交差点・ごまたまご歩道橋・・・塩付街道交差地点・・・愛宕神社・・・明山交差点・・・晴明神社・・・永弘院・・・弘法大師堂・・・長養寺・・・上野天満宮・・・弘法堂・・・金森明神・・・(出来町通り)・・・四観音道合流地点・旧茶屋ヶ坂・・三十番神社・・・茶屋が坂交差点・・・ちょろちょろ弘法・・・東海病院・・四観音道分岐地点・・・横堤・・・長福寺・・・香流橋(香流川)・馬頭観音・・・竹越バス停

 名古屋城下と瀬戸、長久手方面を結ぶ道で、巡見使の巡見道にも使われたという山口街道を、香流橋まで行く。

  【ル-ト地図

Img_8120清水橋(名古屋城方向)

名古屋城の外堀(空濠)に架かる橋で、東の大手門だった清水口。かつてこの堀の中を名鉄瀬戸線が走っていた。現在は地下を通っている。
ここを山口街道歩きの起点として東へ向かう。

清水口交差点の手前で、稲置街道が北に分かれて行く。赤塚交差点あたりで善光寺街道(下街道)と交差する。

Img_8130山口町バス停

名古屋市電が走っていた道路の真ん中にバス停がある。

Img_8139徳源寺地図

Img_8138説明板

Img_8142徳川園

出来町橋でJR中央線を越える。

Img_8151東界寺

名古屋二十一大師第7番札所

Img_8152ごまたまご歩道橋(古出来町交差点) 《地図

名古屋市の「歩道橋ネーミングライツパートナー事業」による命名で、「ごまたまご」の宣伝効果も大いにあるようだ。

Img_8156塩付街道交差地点 《地図

Img_8159愛宕神社

上野城主下方貞清が弘治2年(1556)に創建。尾張藩の塩硝蔵がこの付近に建てられ、その守護神としての役目という説もある。

明山交差点から北に晴明神社に向かう。

Img_8163晴明神社

陰陽師の安倍晴明が、一時この上野に住んでいたといわれる跡に建てられた神社。
熊野街道沿いの安倍晴明神社は『熊野古道(紀伊路①)』、信太森葛葉稲荷神社(大阪府和泉市)は『熊野古道(紀伊路②)』に記載。

Img_8161説明板

Img_8165永弘院(ようこういん) 《地図

天文7年(1538)、上野城主下方貞清が建立した寺で、戦での勝利をもたらすとされる、勝軍地蔵を安置する。

Img_8166上野城址碑

Img_8173弘法大師堂

「名古屋 八十八ヶ所」の標石が立ち、21番札所らしいが境内は荒れている。

Img_8174長養寺

名古屋城築城の折に城の安全を祈願して四方に置かれた石の一つの「青竜石」があるというが、境内はあまり整備されてなく、どれか分からず。「天満幼稚園」の看板がかかり、「願書配布」の貼り紙がしてある。

Img_8181上野天満宮(名古屋天神)

山口街道と民俗史跡めぐり』・『説明詳細

Img_8185弘法堂 《地図

廿日弘法ともいわれ、毎月20、21日に地域の人が集まり、「お待夜(おたいや)」を行う。堂内には四体の石仏があり、その内一番大きい地蔵像は道標仏で、「右 みなみかさでら道 左 坂を下って左へりゅうせんじ道」、だそうだが扉は閉まっていて見えず。「笠寺」・「龍泉寺」で、四観音道沿いにあった道標だろう。

Img_8488金森明神 《地図

別名「景清さま」と呼ばれ、眼病に霊験があるという。 落語『景清

出来町通りを横切り鍋屋上野浄水場そばの墓地にある吉見幸和の墓を探したが、吉見家の墓は多かったがどれか分からず。四観音道と合流して旧茶屋ヶ坂を下る。

Img_8191旧茶屋ヶ坂

傾斜はゆるい。

Img_8193三十番神社 《地図

陰暦の1日から30日までの毎日を交替して、法華経を守る神を三十番神といい、その神々を祀った社だという。30もの神を祀るにしては小さな社で見過ごしそうになった。

Img_8195茶屋が坂交差点

茶屋ヶ坂と赤坂(正面)の坂下。このあたりは『名古屋の坂①』で歩いている。

Img_8198ちょろちょろ弘法 《地図

堂の脇からちょろちょろと清水(弘法清水)がわき出ていたことから、こう呼ばれている。
「第八番弘法大師」の標石が立っている。

東海病院の先で四観音道は北に分かれて行く。

Img_8204横堤 《地図

香流川の治水対策として、あふれた水をくい止め、矢田川に導くために幕末に築かれた土堤。今は下に猫ヶ洞池からの排水路が通っている。

Img_8212長福寺

丸窓の中国風の造りの黄檗宗の寺

Img_8209たたり石

小牧・長久手の戦いの戦死者を葬っ た時に使われた石で、もとは畑の真ん中にあった。この石をいじったりすると祟りがあると、村人は恐れていた。
山口街道は長久手街道ともいう。

Img_8214香流川

前方は香流橋

Img_8215馬頭観音(香流橋のたもと) 《地図

右が安永9年(1780)の建立で、戦時中に行方不明になったが、昭和44年の区画整理中に発見された。左は平成10年の建立。

竹越バス停から大津橋に出た。

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2016年9月21日 (水)

百曲街道と番割観音巡り

2016年9月12日

神宮西駅(地下鉄名城線)・・・全隆寺・・・弥勒院・・・白鳥橋(堀川)・・・梅萼院・・・一番割観音・・・一番一丁目交差点・・・八剱社①・・・番神堂・・・熱田社・・二.番・三番割観音(慈教寺)・・・四番町神明社①・・・四番・五番割観音・・・六番・七番割観音・江川跡・(東海道新幹線)・・・専光寺・・・八番・九番割観音・・・(東臨港線)・・・十番・十一番割観音・・・八剱社②・・・昭和橋(中川運河)・・・小碓橋(小碓運河交差地点)・南郊公園・・・十二番・十三番割観音・・・スサノオ神社・・・愛知県武道館・・・十四番・十五番・十六番割観音(天年寺)・・・神明社②・・・十七番割観音・・・十八番・十九番割観音・神明社③・・・正徳公園・・・二十番割観音・神明社④・・・(あおなみ線)・・・二十一番・二十二番・二十三番割観音・・・荒子橋(荒子川)・・・空雲寺・・・二十五番割観音・・・二十六番・二十七番・二十八番割観音・・・小碓神明社⑤・・・二十四番割観音・・・西亥橋(稲葉地井筋)・・・二十九番~三十三番割観音・神明社⑥・・・白山社・・・百曲街道終点・正徳橋(庄内川)・・・下之一色魚市場・漁港跡・・・浅間社・・・みよどめ観音(三十三番割観音堂)・・・地蔵堂・・・青峯堂跡あたり・・・下之一色城址碑(正色小学校)・・・青峯堂(共愛の里内)・・・国道1号・・・権野バス停→高畑駅(地下鉄東山線)

 百曲街道は、江戸時代初期の熱田新田開拓に伴い、その北側に既にすでに干拓されていた中野外新田・中島新田の干拓堤防の上にできた道筋で、多くの屈曲があったのでこう呼ばれた。
 番割観音は熱田新田を干拓した際に工事の無事を祈り、番割と呼ばれた区画ごとに西国三十三観音を模して33か所に観音堂を祀ったもので、現在も複数の観音を1ヶ所に集めたりして受け継がれている。

  参考:『百曲街道と番割観音めぐり

  【ル-ト地図

Img_8223弥勒院

名古屋二十一大師霊場の第13番

Img_8228白鳥橋から堀川(上流方向)

Img_8229一番割観音堂 《地図

左は交通安全の「身代わり地蔵」

すぐ西側が「一番一丁目」交差点で、一番町から十一番町まで「番割」の名残りの地名が残っている。

Img_8236八剱社①

一番町の氏神社

Img_8237番神堂

熱田新田開拓当初に熱田・定徳寺の三十番神を迎えて開いた由緒ある寺というが、民家風の建物は廃屋のようになっている。定徳寺(じょうとくじ)は熱田区ではなく中村区にあり、番神堂もあるようだ。
番割観音とは関係はないのだろう。

Img_8242熱田社(正面の鳥居)

右端の山門が二.番・三番割観音(慈教寺)

Img_8244第二番・第三番観音堂 《地図

Img_8246四番町神明社(四番と五番割の氏神) 《地図

寛永3年(1626)、村民が集まり熱田新田干拓工事の安全を祈願した。

Img_8247由緒

Img_8249四番・五番割観音堂

Img_8251千手観音像と弘法大師像

Img_8252六番・七番割観音堂 《地図

Img_8254六番と七番割の観音像と西国三十三観音の六番(南法華寺)七番(岡寺)と同じ御詠歌

Img_8253観音堂前あたりを流れていた江川に架かっていた大矢橋の親柱

東海道新幹線をくぐって行く。

Img_8262八番・九番割観音堂

堂前に道標がある。

Img_8259「あつた なごや」

方向が逆で、この北の旧道分岐点から移設されたようだ。

Img_8261八番・九番観音像

東臨港線をくぐって行く。

Img_8269十番・十一番割観音堂

Img_8270街道沿いの家並み

Img_8274八剱社②の鳥居

旧道はここを通っていた。

Img_8271八剱社② 《地図

ここは「八剱町」

Img_8275昭和橋から中川運河

熱田新田は中間を流れる流れる中川(上流は笈瀬川)を境に、西組と東組に分かれていた。昭和7年、中川を開削して中川運河が完成する。両岸は工業地帯となり、最盛期には250艘の船が行き交った。町名は西側を○船町、東側を○川町とし、○の部分には縁起のいい同じ漢字を当てて両岸が対比した町名となった。(福船町・福川町、玉船町・玉川町など)

Img_8277中川運河と南郊運河・小碓(おうす)運河交差地点(小碓橋から) 《地図

南郊・小碓運河ともすぐに行き止まりで、流れは続いていないようだ。

Img_8283十二番・十三番割観音堂

民家風な建物に別部屋に祀られている。

Img_8284十二番観音像

Img_8286十三番観音像

Img_8287スサノオ神社 《地図

Img_8290愛知県武道館

Img_8292十四番・十五番・十六番割観音堂(天年寺) 《地図

Img_8293神明社② 《地図

Img_8296十七番割観音堂

Img_8294十七番割観音像

十一面観音

Img_8297神明社③ 《地図

Img_8298十八番・十九番割観音堂

Img_8299十八番・十九番割観音像

Img_8301二十番割観音堂・神明社④ 《地図

Img_8302二十番割観音像

Img_8306二十一番・二十二番・二十三番割観音堂

Img_8307二十一番・二十二番・二十三番割観音像と御詠歌

Img_8313荒子橋から荒子川(上流方向) 《地図

北に尾張四観音の荒子観音があるが、「四観音道」を歩く時に訪れよう。

Img_8314空雲寺(くううんじ)

熱田新田などを開拓した鬼頭勘兵衛景義の開基で、墓碑と木像がある。

Img_8315説明板

Img_8317二十五番割観音堂 《地図

Img_8319千手観音と弘法大師像

Img_8323二十六番・二十七番・二十八番割観音堂

Img_8322観音像

Img_8320説明板

Img_8324小碓神明社⑤ 《地図

Img_8326「熱田新田廿八番割」とある。

Img_8325説明板

Img_8332二十四番割観音堂 《地図

25~28番より西にある。

Img_8333堂内

Img_8336西亥橋(せいいばし・稲葉地用水) 《地図

中島新田が完成したのが寛永12年(1635)乙亥の年。新田の中で最も西にある橋。橋の標石には「稲葉地井筋」とある。水は流れている。

Img_8342往時の百曲街道を偲ばせるくねった道。

Img_8343二十九番~三十三番割観音 《地図

隣は明正一丁目神明社⑥

Img_8344説明板

Img_8345堂内

Img_8353白山社前の旧家

Img_8350白山社 《地図

この地は前田氏の東起(ひがしおこし)城跡という。また尾張藩徳川義直が鷹狩りをした時、休息した場所ともいう。

正徳橋(庄内川)の手前で百曲街道は終わる。

Img_8356正徳橋から庄内川 《地図

正徳橋を渡って漁業で栄えた下之一色(しものいっしき)町へ入る。

Img_8362漁村独特の閑所(かんしょ)と呼ばれる細い道。 《地図

漁港の施設が廃墟となって並んでいる。右の銭湯「新元湯」は今も営業しているのだろうか?

Img_8360新元湯

大正時代の建物で、名古屋市の「登録地域建造物資産」。最盛期には小さな下之一色の町に8軒もの銭湯があったそうだ。

Img_8368下之一色魚市場(下之一色漁港跡)

下之一色は庄内川と新川が合流する三角州にあり、昔から漁業が盛んで、大正から昭和にかけても名古屋の台所を支える魚市場として栄えていた。だが太平洋戦争や伊勢湾台風の影響で漁業はすたれてしまった。

Img_8367説明板

Img_8366浅間神社鳥居から漁港の寂れた建物

Img_8365浅間神社 《地図

創立年代は不詳だが、湯立神事等の伝承があることから、かなり古くからこの地に鎮座しているものと思われる。

Img_8373みよどめ観音(三十三番割観音堂) 《地図》(中ノ切観音堂と標示)

干拓工事の最後となる堤防の締切りを「みよどめ(澪止め)」という。
熱田新田の最後、三十三番割工事の責任者・鬼頭景義は成功を祈願して三十三番割(港区当知町)に観音堂を造った。その後、庄内川の川筋を変えた時、ここの新川堤防に移された。慶応2年(1866)に御堂を再建し、阿弥陀如来・釈迦如来と33体の観音像を安置した。

Img_8378青峯堂跡・下之一色城址あたり

嘉永3年(1850)、下之一色の漁師は、志摩半島にある船乗りや漁師の信仰が篤い青峰山正福寺から勧請して新川の堤防上に青峰堂を建てた。
明治10年、下之一色漁業組合が堂を改修して管理することになった。下之一色城址碑も境内にあったが、青峰堂は老人福祉施設の「共愛の里」に、下之一色城址碑は正色小学校門前に移された。

Img_8379下之一色城址碑(正色小学校前)

城跡は天明年間(1781~88)の新川開削の時に川底になった。「正色」の正は下ノ一を組み合わせたもの。

Img_8382青峯堂 《地図

「共愛の里」内の新しい堂

国道1号に出て、権野(ごんの)バス停から高畑駅に出た。

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2016年7月31日 (日)

深大寺道

2016年7月25日・26日

東所沢駅(JR武蔵野線)・・・下組八幡稲荷神社・・・滝城跡(滝の城址公園)・・・城前橋(柳瀬川)・(清瀬市)・・・庚申塔・・円通寺・・・上宮稲荷神社・・・清瀬旭が丘団地・・・(新座市)・桜株通り・・・志木街道・・富士見新通り・・(陣屋通り)・・・総合運動公園・米軍通信施設・・・西堀公園交差点(水道通り)・野火止用水・庚申塔祠・・・野猿坂・・・神宝大橋(黒目川)・・・馬頭観音・・・(西東京市)・・・(ひばりヶ丘駅(西武池袋線))・・・東禅寺・・・尉殿神社・・・宝晃院・・・榎の木の庚申様・・・宝樹院・・・(保谷街道)・・・(新青梅街道)・・・(富士街道)・・・六角地蔵尊・・西武新宿線踏切・・・青梅街道交差地点・六郷田無道合流地点・・・深大寺通り・・・境橋(石神井川)・・・ほうろく地蔵堂・・・馬頭観音道標・・・武蔵野大学前交差点・五日市街道合流地点・千川上水・(武蔵野市)・・・御門訴事件記念碑・五日市街道分岐地点・大師通り・・・市民の森公園・・・境浄水場迂回・・・大橋(玉川上水)・・・武蔵境駅(JR中央線)・(26日)・・・大鷲神社・・三鷹市塚交差点・六郷田無道分岐地点・(三鷹市)・・・庚申塚・・井口八幡神社・・・上連雀浄水場・・・野崎交差点(人見街道交差地点)・・・野崎八幡神社・・(東八通り)・・(調布市)・・・庚申塔・・・三鷹通り・・・あおなみさんの坂・・青渭神社・・・稲荷坂上多聞院坂(深大寺東参道)・・神代水生植物園・深大寺城跡・・・城山の坂下・・・仁王坂・・・池上院・・・橋場橋(野川)・・・御塔坂橋(野川)・・御塔坂交差点・佐須街道・・・(中央自動車道)・・・又住橋(野川)・・・稲荷神社・・虎狛神社・・・(三鷹通り)・・・祇園寺・・・(原山通り)・・・甲州街道合流地点・・・柴崎駅(京王線)

 深大寺道は前回歩いた牟礼道に対するもので、河越上杉氏の河越城難波田城柏城-滝城-深大寺城を結ぶ軍道という。『武蔵古道ロマンの旅』(芳賀善次郎)
 滝城から南に深大寺城跡まで行き、御塔坂下から佐須街道を東に、甲州街道との合流地点まで歩く。

  【ル-ト地図

Img_7328下組八幡稲荷神社地図

Takijyou滝の城本丸跡(滝の城址公園) 

戦国時代に武蔵国の多摩・入間・高麗郡を支配した山内上杉氏の家臣大石氏が築城。天文15年(1546)の「河越夜戦」で上杉方が敗れたため、北条氏照の滝山城の支城となった。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城した。平山城式で、別名を本郷城という。
この城は、『所沢市の坂③』に記載

Img_7331城前橋(柳瀬川)から滝城跡方向 《地図

円通寺・上宮稲荷神社は『清瀬市の坂』に記載

Img_7355米軍通信施設沿いを南下する。

ここは歩道がついていて歩きやすい。

Img_7356水道通り・野火止用水と交差する。《地図

庚申塔と馬頭観音の祠がある。

Img_7362野火止用水

Img_7364野猿坂を神宝大橋の方へ下る。《地図

このあたりは昔は猿も出たのだろう。

Img_7368神宝大橋から

左から落合川が黒目川に合流する。

西東京市に入り、ひばりヶ丘駅(西武池袋線)を横切って行く。

Img_7375尉殿(じょうどの)神社  《地図

Img_7379宝晃院

「保谷四軒寺」の一つ

Img_7380説明板

木彫彩色倶利迦羅不動明王像

Img_7383水子地蔵(明和8年(1771))

Img_7381説明板

Img_7388
榎の木の庚申様(左) 《地図

Img_7387青面金剛庚申塔(正徳4年(1714))

Img_7386説明板

Img_7390宝樹院

Img_7391説明板

一文銭向い目絵馬

Img_7397六角地蔵尊(六角地蔵石憧)(寛政7年(1795)) 《地図

「つや」という女性と「光山童子」の菩提を弔うために建立。ここは富士街道と深大寺道との交差点で、脚部は道標になっている。

Img_7396説明板

西武新宿線の踏切を渡り、青梅街道との交差地点で六郷田無道と合流して南下し、三鷹市塚交差点で分かれて行く。その間は『六郷田無道』に記載。

ここから26日

Img_7401大鷲神社 《地図

地元では「お西棟」と呼ばれ、社名碑の揮毫は武者小路実篤によるそうだ。

Img_7400塚交差点

六郷田無道は左折、深大寺道は直進。

Img_7409庚申塚 《地図

後ろは庚申株式会社・庚申マンション

Img_7406井口八幡神社

Img_7411上連雀浄水場 《地図

大地震の時などの応急給水所

Img_7415人見街道交差地点(野崎交差点) 《地図

Img_7420野崎八幡神社

盆踊りの準備だろう。右奥に薬師堂がある。毎年10月8日薬師の縁日の夜には、地元の人達によって「団子まき」の供養が行われ賑わうそうだ。

東八通りを横切り、調布市に入り三鷹通りに通じる道を進む。

Img_7422緑の残る道だ。

Img_7423庚申塔(寛延元年(1748))と後ろは地蔵か 《地図

すぐ先で三鷹通りに出て、「あおなみさんの坂」を南下する。

Img_7433青渭(あおい)神社ケヤキ

『江戸名所図会』などにも記された巨木だが、今は鉄柱に支えられている。境内にあった大池の湧水が青波のように見えたことから「青波天神社」とも称されていた。

深大寺とその周辺は、『調布市の坂③』・『調布市の坂①』に記載。

Img_7440深大寺城跡空堀跡

Img_7442第一郭跡(本丸跡) 《地図

築城年は不明だが、武蔵七党の狛江氏の築城とも伝承される。16世紀には扇谷上杉氏が北条氏に対する南武蔵の防衛拠点としていた。天文6年(1537)には上杉朝定が難波田弾正広宗に命じて深大寺城を増築させたが、北条氏綱が深大寺城を迂回して扇谷上杉氏の本拠の河越城を攻略したことにより、戦略的価値が失われ廃城となった。

ここを深大寺道の終点とし、御塔(おとう)坂下の佐須(さず)街道に向かう。

Img_7458御塔(おと)坂橋から野川 

Img_7461御塔(おとう)坂交差点 《地図

ここを左折するのが佐須(さず)街道。
「佐須」の地名由来は、①佐須村名主の温井三郎左衛門の先祖の佐須豊後の姓にちなむ。②佐須は滞水地域の中の砂州であるといったり、枝から新しい芽が出るのをサスということから、親村に対する分村の意味。③古代に渡来の高麗()人が開拓した焼畑を意味する、「サス」・「サシ」に由来する。などがある。
 このあたりを「の里」というのは、深大寺縁起に柏江という所が出てくることからとも、柏はの誤りで狛江市とともに古代の狛江郷のことであろうともいわれている。

Img_7468稲荷神社 《地図

創建年代等は不詳。又住地区の鎮守。

Img_7470虎狛(こはく)神社の社叢

角の2基の庚申塔の右側のは宝暦7年(1757)に、佐須村講中15名が建立。

Img_7474虎狛神社

狛江郷(現在の狛江市と調布市あたり)に住居を定めた渡来人の集落神として祀られたものという。

Img_7473説明板

Img_7477説明板

Img_7478佐須町交差点・「佐須街道」の標識

ただの車道で面白味のある道ではない。

Img_7484祇園寺  《地図

中西悟玄(中西悟堂の養父)が住職となり、明治41年に自由民権運動家の慰霊祭を当寺で行った。境内に板垣退助が植えた2本の「自由の松」がある。右の唐様石人像(向かい側にもある)は、池貝鉄工所社長の別荘にあったものを戦後移したものだそうだ。

Img_7482説明板

Img_7489旧家の長屋門?

Img_7490古そうな蔵

長屋門とは別の家

Img_7496甲州街道合流地点 《地図

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2016年7月30日 (土)

牟礼道

2016年7月20日・21日

北朝霞駅(JR武蔵野線)・・・岡橋(黒目川)・・・岡城跡(城山公園)・・・城山通り・・・東円寺・・・中道跨線橋(東武東上線)・・斜めの坂・・・氷川神社・・・溝沼氷川神社・・・綿屋の坂坂下・・・聖観世音堂・・泉蔵寺・・・一乗院閻魔堂・・・膝折町1丁目交差点・川越街道膝折宿・・・道標・・・子之神氷川神社・・・(陸上自衛隊朝霞駐屯地・新座市営墓園迂回)・・・山川橋(黒目川)・・・市場坂橋(黒目川)・・・(練馬区)・・・(関越道)・・・清戸道交差地点(都道24号大泉西中入口交差点)・・・横山道交差地点(丸山東橋交差点)・・・妙福寺・・・保谷駅(西武池袋線)・(21日)・・・(旧早稲田通)・・・富士街道・・・高塚交差点・・・(新青梅街道)・・・西武新宿線踏切・・・武蔵関公園・・溜渕橋(石神井川)・・・(青梅街道)・・・千川上水・・・更新橋の庚申塔・・・(武蔵野市)・・・武蔵野中央交差点・五日市街道・・・吉祥寺北町交差点・成蹊通り・・・(JR中央線)・・・(三鷹市)・・井の頭公園・・井の頭通り・・・井の頭橋(玉川上水)・・・牟礼二丁目交差点・人見街道交差地点・道供養塔・地蔵・・・牟礼の里公園・・・牟礼城跡(牟礼神明社)・・・宮下橋(玉川上水)・・・三鷹台駅(井の頭線)

 小田原北条氏の軍道で、河越上杉氏の軍道の深大寺道に対するものとする牟礼(むれ)道(『武蔵野古道ロマンの旅』(芳賀善次郎))を、岡城跡から牟礼城跡まで行く。 

  【ル-ト地図

Okanosiroyama岡城跡(城山公園)

中世に築城された平山城で、築城者・城主は不明という。「新編武蔵風土記稿」には太田道灌や太田康資との関係も記されているという。城の北側斜面は低地を流れる黒目川が取り巻くように流れ、舌状台地上にあって天然の要塞となっていた。「案内図

Touennji東円寺

Hudounotaki不動の滝

弘法大師が錫杖をついた所から湧き出したという霊泉から流れ落ちる。滝の上に倶利伽羅竜王と不動明王が立っている。

中道跨線橋(東武東上線)を渡ると、「斜めの坂」の下りとなる。

Img_7197斜めの坂 《地図

Img_7203氷川神社

小さな社で、左に庚申塔と石尊大権現の石灯籠。

Img_7206溝沼氷川神社 地図

江戸時代に村人が畑から「地類権現」と彫られた石を発見し、領主の中山勘三郎が「地類権現社」を建てたのが始まりという。

Img_7205由緒

Img_7212聖観世音堂・泉蔵寺

Img_7215銅鐘(正徳4年(1714)・朝霞市指定文化財)

粉河市正作銘のある市内最古の銅鐘

Img_7217一乗院閻魔堂 《地図

Img_7218薬師坐像が本尊で閻魔大王は脇役か。

膝折町1丁目交差点を左折し、川越街道の膝折宿を進む。このあたりは、『川越街道の坂』・『川越街道』に記載。

Img_7223道標(明治42年) 《地図

「子之神たき」でここを右折して行く。

Img_7233子之神氷川神社地図

子之神滝は見当たらない。自衛隊朝霞駐屯地ができて消滅してしまったのか?

Img_7234由緒

陸上自衛隊朝霞駐屯地・新座市営墓園を迂回して、黒目川沿いを進む。

Img_7242市場坂橋を渡る。

鶴が未来に向ってはばたく姿をイメージしているという橋。昔の板橋だった頃の板橋供養塔が馬頭観音とともに橋の歩道の脇に保存されている。ここは妙音沢に近く茶店もあり、市も立ち賑わった所という。『朝霞市の坂-2・新座市の坂-3』に記載

墓園の正門前で右折し南下して行く。《地図

新座市と練馬区の境を進み、関越道の手前で練馬区に入る。

Img_7257清戸道交差地点(大泉西中入口交差点) 《地図

今日は西武池袋線の手前までとし、右折して保谷駅に向かった。

ここから21日で雨中の行軍となった。旧早稲田通りを横切り、富士街道に出て少し西に進み、高塚交差点で左折し、新青梅街道を横切り、西武新宿線踏切を渡って行く。

Img_7277武蔵関公園沿いを進む。《地図

Img_7275富士見池

昔は「関の溜め井」と呼ばれた武蔵野台地の湧水によってできた池。

Img_7280石神井川(溜渕橋から上流方向)

Img_7282青梅街道との交差地点

横切れないので前方の東伏見四丁目歩道橋を渡る。

この先は江戸時代の五日市街道沿いの新田開発の新しい地割で、道筋は消滅したという。右折左折を繰り返しながら牟礼城跡を目指す。

Img_7285千川上水沿いを進む。

Img_7289更新橋の庚申塔 《地図》 

なぜ「庚申」橋でないのか?

Img_7291説明板

武蔵野中央交差点で左折し、五日市街道を少し進む。

Img_7297五日市街道は檜原、五日市から木材を運んだ道だった。

Img_7300井の頭公園の間を抜ける。

Img_7303井の頭橋から玉川上水 《地図

Img_7307牟礼二丁目交差点で人見街道にぶつかる。《地図

右角に道供養塔・地蔵

Img_7308道供養塔(文化9年(1812))・地蔵

地蔵尊は行き倒れになった僧を弔うために建てられたとも。

Img_7318ここにあった石灯籠

現在は牟礼神明社に移設されている。

Img_7317説明板

Img_7310牟礼の里公園

三鷹市内で一番標高の高い所だそうだ。牟礼城跡の城域だったのかも。

Img_7313牟礼城跡(牟礼神明社

Img_7314説明板①

「北條綱種が深大寺城の相対して築陣した旧跡」とある。

Img_7317_2説明板②

「綱種は深大寺城に対峙して砦を築く」とある。

宮下橋(玉川上水)を渡って三鷹台駅に出た。

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2016年6月14日 (火)

守口街道

2016年5月11日

守口市駅(京阪本線)・・・十三夜坂・・京街道・道標①・来迎(寺)坂・守口街道起点・・・難宗寺・道標②・・・(門真市)・・・(西三荘駅)・・・元町遺跡(元町中央公園)・・・(中央環状線・大阪モノレール・門真市駅)・・・(古川橋駅)・・・八坂神社・・・願得寺・・・(京阪本線)・・・道標③・・・人道橋(古川)・・(古川橋)・(京阪本線)・・・堤根神社・(伝)茨田堤跡・・(京阪本線)・・・(第二京阪道路)・・・猪鼻橋(寝屋川)・(寝屋川市)・・・鶯関神社・・・大念寺・・道標④・・本覚寺・・・堀溝交差点・国道163号・(四條畷市)・・・(外環状線)・・・蔀屋東交差点・旧道・・・雁塔・西南戦争招魂碑・・・国中神社・・・中野踏切(片町駅)・・・東高野街道合流地点・・東高野街道分岐地点・道標⑤・・・忍ケ丘駅(片町線)

 大阪と奈良を結ぶ街道の一つで、京街道守口宿→守口街道→清滝街道→竜田越奈良街道で奈良へと通じる守口街道を、東高野街道と交差する清滝街道の起点まで行く。清滝街道に含めて呼ばれることもある。

  【ル-ト地図

Img_6896京街道守口宿の文禄堤を進む。

Img_6897来迎坂(来迎寺坂) 《地図

ここが守口街道の起点で、佐太に移転した来迎寺があった。

Img_6898道標①

「のざきみち」は野崎参りで知られる野崎観音の慈眼寺への道のこと。

Img_6902難宗寺(守口西御坊)

明治天皇の行幸の際には行在所となった寺。樹齢500年という大イチョウがそびえる。

Img_6904道標②(難宗寺北西角)

「すぐ守口街道」がある。

京阪本線沿いに出て東に向かい、門真市に入る。

Img_6918元町遺跡(元町中央公園) 《地図

Img_6917説明板

門真市駅を抜けて行く。

Img_6925門真小学校

やけに古ぼけた校舎だ。それとも歴史的建造物というべきか。

古川橋駅の手前で京阪本線の北側に出る。

Img_6937八坂神社 《地図

Img_6939願得寺

客間(国登録有形文化財)

Img_6944道標③(右の電柱脇) 《地図

左守口街道」・「右守口街道 左徳庵八尾道」で左折して古川の人道橋を渡る。

Img_6950古川橋 《地図

Img_6928古川橋駅そばに設置の碑

「古川橋あたりは京大坂への道と清滝街道(守口街道のこと)が交わる交通の要所で料亭などの店が軒を並べ賑わいました」とある。

Img_6953堤根神社

茨田堤の鎮守として創建。

Img_6958(伝)茨田堤(まんだのつつみ)跡 《地図

茨田堤ゆかりの所は、『京街道③』にもある。

Img_6954説明板①

Img_6957

第二京阪道路をくぐり、国道163号を横切って行く。

Img_6969寝屋川を渡って寝屋川市に入る。

Img_6974ねや川 文化と歴史のみち」沿いを進む。

案内図を持っているのは「鉢かづき姫」で、東高野街道の「打上げの四ツ辻」には、頭にすっぽりと鉢を被った鉢かづき姫が立っていた。

Img_6975鶯関(おうかん)神社 《地図

古代の奈良への「行基みち」(守口街道)の要衝地で関所があり、このあたりは鶯の名所だったという。

「我が思ふ こころも尽きぬ ゆく春を 越えずもとめよ うぐひすの関」(康資王の母

竹内街道の竹内峠には、この歌の歌碑が立っている。時代的にはこちらの方がふさわしいか。

Img_6979堀溝地区の家並み

Img_6981大念寺

Img_6984説明板(十三仏板碑・梵鐘・行基みちと鶯の関跡)

Img_6985十三仏板碑

Img_6986道標④

左手前(明治37年):「右守口街道」・「左守口街道」・「すぐ守口街道」
左後ろ(慶応2年(1866)):「右大峯山 なら いせ 道」・「右 やはた 柳谷 左 大坂 もり口 道」

Img_6990右の自販機前の自然石の道標(延宝3年(1675))

ここを清滝街道の起点としている。「やハたみちすじ」は、この先の東高野街道との交差地点から北に東高野街道を進んで石清水八幡宮への道ということか。

堀溝交差点で国道163号に出て・四條畷市に入り、蔀屋東交差地点で左へ旧道を進む。

Img_7012雁塔(右)・西南の役碑(西征戦死招魂碑)(左) 《地図

Img_7001説明板

Img_7004説明板

Img_7005清滝街道説明板①

③が雁塔の所

Img_7011

Img_7014清滝川沿いを進み、片町線の踏切を渡る。

このあたりはまだ名前負けしている流れだ。

Img_7020東高野街道合流地点(案内図の④) 《地図

左は中野交番

Img_7021東高野街道分岐地点 《地図

道標⑤(左の民家前):左は「右清滝街道 すぐ東高野街道」、
中は「靍澤亀梥 東いせなら 南かりや 門弟中」で、文楽三味線師匠の靍澤亀梥(かめさわかめまつ)の遺徳を顕彰しての建立とか。
右の地蔵(寛政10年(1798))には「右ならいせ道 左京やハた道」

手前の清滝川沿いには、小さな「三坪橋」の標石がある。ここを守口街道の終点、清滝街道(直進)の起点とし、左折して東高野街道を進んで忍ケ丘駅に向かった。

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