2016年7月31日 (日)

深大寺道

2016年7月25日・26日

東所沢駅(JR武蔵野線)・・・下組八幡稲荷神社・・・滝城跡(滝の城址公園)・・・城前橋(柳瀬川)・(清瀬市)・・・庚申塔・・円通寺・・・上宮稲荷神社・・・清瀬旭が丘団地・・・(新座市)・桜株通り・・・志木街道・・富士見新通り・・(陣屋通り)・・・総合運動公園・米軍通信施設・・・西堀公園交差点(水道通り)・野火止用水・庚申塔祠・・・野猿坂・・・神宝大橋(黒目川)・・・馬頭観音・・・(西東京市)・・・(ひばりヶ丘駅(西武池袋線))・・・東禅寺・・・尉殿神社・・・宝晃院・・・榎の木の庚申様・・・宝樹院・・・(保谷街道)・・・(新青梅街道)・・・(富士街道)・・・六角地蔵尊・・西武新宿線踏切・・・青梅街道交差地点・六郷田無道合流地点・・・深大寺通り・・・境橋(石神井川)・・・ほうろく地蔵堂・・・馬頭観音道標・・・武蔵野大学前交差点・五日市街道合流地点・千川上水・(武蔵野市)・・・御門訴事件記念碑・五日市街道分岐地点・大師通り・・・市民の森公園・・・境浄水場迂回・・・大橋(玉川上水)・・・武蔵境駅(JR中央線)・(26日)・・・大鷲神社・・三鷹市塚交差点・六郷田無道分岐地点・(三鷹市)・・・庚申塚・・井口八幡神社・・・上連雀浄水場・・・野崎交差点(人見街道交差地点)・・・野崎八幡神社・・(東八通り)・・(調布市)・・・庚申塔・・・三鷹通り・・・あおなみさんの坂・・青渭神社・・・稲荷坂上多聞院坂(深大寺東参道)・・神代水生植物園・深大寺城跡・・・城山の坂下・・・仁王坂・・・池上院・・・橋場橋(野川)・・・御塔坂橋(野川)・・御塔坂交差点・佐須街道・・・(中央自動車道)・・・又住橋(野川)・・・稲荷神社・・虎狛神社・・・(三鷹通り)・・・祇園寺・・・(原山通り)・・・甲州街道合流地点・・・柴崎駅(京王線)

 深大寺道は前回歩いた牟礼道に対するもので、河越上杉氏の河越城難波田城柏城-滝城-深大寺城を結ぶ軍道という。『武蔵古道ロマンの旅』(芳賀善次郎)
 滝城から南に深大寺城跡まで行き、御塔坂下から佐須街道を東に、甲州街道との合流地点まで歩く。

  【ル-ト地図

Img_7328下組八幡稲荷神社地図

Takijyou滝の城本丸跡(滝の城址公園) 

戦国時代に武蔵国の多摩・入間・高麗郡を支配した山内上杉氏の家臣大石氏が築城。天文15年(1546)の「河越夜戦」で上杉方が敗れたため、北条氏照の滝山城の支城となった。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城した。平山城式で、別名を本郷城という。
この城は、『所沢市の坂③』に記載

Img_7331城前橋(柳瀬川)から滝城跡方向 《地図

円通寺・上宮稲荷神社は『清瀬市の坂』に記載

Img_7355米軍通信施設沿いを南下する。

ここは歩道がついていて歩きやすい。

Img_7356水道通り・野火止用水と交差する。《地図

庚申塔と馬頭観音の祠がある。

Img_7362野火止用水

Img_7364野猿坂を神宝大橋の方へ下る。《地図

このあたりは昔は猿も出たのだろう。

Img_7368神宝大橋から

左から落合川が黒目川に合流する。

西東京市に入り、ひばりヶ丘駅(西武池袋線)を横切って行く。

Img_7375尉殿(じょうどの)神社  《地図

Img_7379宝晃院

「保谷四軒寺」の一つ

Img_7380説明板

木彫彩色倶利迦羅不動明王像

Img_7383水子地蔵(明和8年(1771))

Img_7381説明板

Img_7388
榎の木の庚申様(左) 《地図

Img_7387青面金剛庚申塔(正徳4年(1714))

Img_7386説明板

Img_7390宝樹院

Img_7391説明板

一文銭向い目絵馬

Img_7397六角地蔵尊(六角地蔵石憧)(寛政7年(1795)) 《地図

「つや」という女性と「光山童子」の菩提を弔うために建立。ここは富士街道と深大寺道との交差点で、脚部は道標になっている。

Img_7396説明板

西武新宿線の踏切を渡り、青梅街道との交差地点で六郷田無道と合流して南下し、三鷹市塚交差点で分かれて行く。その間は『六郷田無道』に記載。

ここから26日

Img_7401大鷲神社 《地図

地元では「お西棟」と呼ばれ、社名碑の揮毫は武者小路実篤によるそうだ。

Img_7400塚交差点

六郷田無道は左折、深大寺道は直進。

Img_7409庚申塚 《地図

後ろは庚申株式会社・庚申マンション

Img_7406井口八幡神社

Img_7411上連雀浄水場 《地図

大地震の時などの応急給水所

Img_7415人見街道交差地点(野崎交差点) 《地図

Img_7420野崎八幡神社

盆踊りの準備だろう。右奥に薬師堂がある。毎年10月8日薬師の縁日の夜には、地元の人達によって「団子まき」の供養が行われ賑わうそうだ。

東八通りを横切り、調布市に入り三鷹通りに通じる道を進む。

Img_7422緑の残る道だ。

Img_7423庚申塔(寛延元年(1748))と後ろは地蔵か 《地図

すぐ先で三鷹通りに出て、「あおなみさんの坂」を南下する。

Img_7433青渭(あおい)神社ケヤキ

『江戸名所図会』などにも記された巨木だが、今は鉄柱に支えられている。境内にあった大池の湧水が青波のように見えたことから「青波天神社」とも称されていた。

深大寺とその周辺は、『調布市の坂③』・『調布市の坂①』に記載。

Img_7440深大寺城跡空堀跡

Img_7442第一郭跡(本丸跡) 《地図

築城年は不明だが、武蔵七党の狛江氏の築城とも伝承される。16世紀には扇谷上杉氏が北条氏に対する南武蔵の防衛拠点としていた。天文6年(1537)には上杉朝定が難波田弾正広宗に命じて深大寺城を増築させたが、北条氏綱が深大寺城を迂回して扇谷上杉氏の本拠の河越城を攻略したことにより、戦略的価値が失われ廃城となった。

ここを深大寺道の終点とし、御塔(おとう)坂下の佐須(さず)街道に向かう。

Img_7458御塔(おと)坂橋から野川 

Img_7461御塔(おとう)坂交差点 《地図

ここを左折するのが佐須(さず)街道。
「佐須」の地名由来は、①佐須村名主の温井三郎左衛門の先祖の佐須豊後の姓にちなむ。②佐須は滞水地域の中の砂州であるといったり、枝から新しい芽が出るのをサスということから、親村に対する分村の意味。③古代に渡来の高麗()人が開拓した焼畑を意味する、「サス」・「サシ」に由来する。などがある。
 このあたりを「の里」というのは、深大寺縁起に柏江という所が出てくることからとも、柏はの誤りで狛江市とともに古代の狛江郷のことであろうともいわれている。

Img_7468稲荷神社 《地図

創建年代等は不詳。又住地区の鎮守。

Img_7470虎狛(こはく)神社の社叢

角の2基の庚申塔の右側のは宝暦7年(1757)に、佐須村講中15名が建立。

Img_7474虎狛神社

狛江郷(現在の狛江市と調布市あたり)に住居を定めた渡来人の集落神として祀られたものという。

Img_7473説明板

Img_7477説明板

Img_7478佐須町交差点・「佐須街道」の標識

ただの車道で面白味のある道ではない。

Img_7484祇園寺  《地図

中西悟玄(中西悟堂の養父)が住職となり、明治41年に自由民権運動家の慰霊祭を当寺で行った。境内に板垣退助が植えた2本の「自由の松」がある。右の唐様石人像(向かい側にもある)は、池貝鉄工所社長の別荘にあったものを戦後移したものだそうだ。

Img_7482説明板

Img_7489旧家の長屋門?

Img_7490古そうな蔵

長屋門とは別の家

Img_7496甲州街道合流地点 《地図

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2016年7月30日 (土)

牟礼道

2016年7月20日・21日

北朝霞駅(JR武蔵野線)・・・岡橋(黒目川)・・・岡城跡(城山公園)・・・城山通り・・・東円寺・・・中道跨線橋(東武東上線)・・斜めの坂・・・氷川神社・・・溝沼氷川神社・・・綿屋の坂坂下・・・聖観世音堂・・泉蔵寺・・・一乗院閻魔堂・・・膝折町1丁目交差点・川越街道膝折宿・・・道標・・・子之神氷川神社・・・(陸上自衛隊朝霞駐屯地・新座市営墓園迂回)・・・山川橋(黒目川)・・・市場坂橋(黒目川)・・・(練馬区)・・・(関越道)・・・清戸道交差地点(都道24号大泉西中入口交差点)・・・横山道交差地点(丸山東橋交差点)・・・妙福寺・・・保谷駅(西武池袋線)・(21日)・・・(旧早稲田通)・・・富士街道・・・高塚交差点・・・(新青梅街道)・・・西武新宿線踏切・・・武蔵関公園・・溜渕橋(石神井川)・・・(青梅街道)・・・千川上水・・・更新橋の庚申塔・・・(武蔵野市)・・・武蔵野中央交差点・五日市街道・・・吉祥寺北町交差点・成蹊通り・・・(JR中央線)・・・(三鷹市)・・井の頭公園・・井の頭通り・・・井の頭橋(玉川上水)・・・牟礼二丁目交差点・人見街道交差地点・道供養塔・地蔵・・・牟礼の里公園・・・牟礼城跡(牟礼神明社)・・・宮下橋(玉川上水)・・・三鷹台駅(井の頭線)

 小田原北条氏の軍道で、河越上杉氏の軍道の深大寺道に対するものとする牟礼(むれ)道(『武蔵野古道ロマンの旅』(芳賀善次郎))を、岡城跡から牟礼城跡まで行く。 

  【ル-ト地図

Okanosiroyama岡城跡(城山公園)

中世に築城された平山城で、築城者・城主は不明という。「新編武蔵風土記稿」には太田道灌や太田康資との関係も記されているという。城の北側斜面は低地を流れる黒目川が取り巻くように流れ、舌状台地上にあって天然の要塞となっていた。「案内図

Touennji東円寺

Hudounotaki不動の滝

弘法大師が錫杖をついた所から湧き出したという霊泉から流れ落ちる。滝の上に倶利伽羅竜王と不動明王が立っている。

中道跨線橋(東武東上線)を渡ると、「斜めの坂」の下りとなる。

Img_7197斜めの坂 《地図

Img_7203氷川神社

小さな社で、左に庚申塔と石尊大権現の石灯籠。

Img_7206溝沼氷川神社 地図

江戸時代に村人が畑から「地類権現」と彫られた石を発見し、領主の中山勘三郎が「地類権現社」を建てたのが始まりという。

Img_7205由緒

Img_7212聖観世音堂・泉蔵寺

Img_7215銅鐘(正徳4年(1714)・朝霞市指定文化財)

粉河市正作銘のある市内最古の銅鐘

Img_7217一乗院閻魔堂 《地図

Img_7218薬師坐像が本尊で閻魔大王は脇役か。

膝折町1丁目交差点を左折し、川越街道の膝折宿を進む。このあたりは、『川越街道の坂』・『川越街道』に記載。

Img_7223道標(明治42年) 《地図

「子之神たき」でここを右折して行く。

Img_7233子之神氷川神社地図

子之神滝は見当たらない。自衛隊朝霞駐屯地ができて消滅してしまったのか?

Img_7234由緒

陸上自衛隊朝霞駐屯地・新座市営墓園を迂回して、黒目川沿いを進む。

Img_7242市場坂橋を渡る。

鶴が未来に向ってはばたく姿をイメージしているという橋。昔の板橋だった頃の板橋供養塔が馬頭観音とともに橋の歩道の脇に保存されている。ここは妙音沢に近く茶店もあり、市も立ち賑わった所という。『朝霞市の坂-2・新座市の坂-3』に記載

墓園の正門前で右折し南下して行く。《地図

新座市と練馬区の境を進み、関越道の手前で練馬区に入る。

Img_7257清戸道交差地点(大泉西中入口交差点) 《地図

今日は西武池袋線の手前までとし、右折して保谷駅に向かった。

ここから21日で雨中の行軍となった。旧早稲田通りを横切り、富士街道に出て少し西に進み、高塚交差点で左折し、新青梅街道を横切り、西武新宿線踏切を渡って行く。

Img_7277武蔵関公園沿いを進む。《地図

Img_7275富士見池

昔は「関の溜め井」と呼ばれた武蔵野台地の湧水によってできた池。

Img_7280石神井川(溜渕橋から上流方向)

Img_7282青梅街道との交差地点

横切れないので前方の東伏見四丁目歩道橋を渡る。

この先は江戸時代の五日市街道沿いの新田開発の新しい地割で、道筋は消滅したという。右折左折を繰り返しながら牟礼城跡を目指す。

Img_7285千川上水沿いを進む。

Img_7289更新橋の庚申塔 《地図》 

なぜ「庚申」橋でないのか?

Img_7291説明板

武蔵野中央交差点で左折し、五日市街道を少し進む。

Img_7297五日市街道は檜原、五日市から木材を運んだ道だった。

Img_7300井の頭公園の間を抜ける。

Img_7303井の頭橋から玉川上水 《地図

Img_7307牟礼二丁目交差点で人見街道にぶつかる。《地図

右角に道供養塔・地蔵

Img_7308道供養塔(文化9年(1812))・地蔵

地蔵尊は行き倒れになった僧を弔うために建てられたとも。

Img_7318ここにあった石灯籠

現在は牟礼神明社に移設されている。

Img_7317説明板

Img_7310牟礼の里公園

三鷹市内で一番標高の高い所だそうだ。牟礼城跡の城域だったのかも。

Img_7313牟礼城跡(牟礼神明社

Img_7314説明板①

「北條綱種が深大寺城の相対して築陣した旧跡」とある。

Img_7317_2説明板②

「綱種は深大寺城に対峙して砦を築く」とある。

宮下橋(玉川上水)を渡って三鷹台駅に出た。

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2016年6月14日 (火)

守口街道

2016年5月11日

守口市駅(京阪本線)・・・十三夜坂・・京街道・道標①・来迎(寺)坂・守口街道起点・・・難宗寺・道標②・・・(門真市)・・・(西三荘駅)・・・元町遺跡(元町中央公園)・・・(中央環状線・大阪モノレール・門真市駅)・・・(古川橋駅)・・・八坂神社・・・願得寺・・・(京阪本線)・・・道標③・・・人道橋(古川)・・(古川橋)・(京阪本線)・・・堤根神社・(伝)茨田堤跡・・(京阪本線)・・・(第二京阪道路)・・・猪鼻橋(寝屋川)・(寝屋川市)・・・鶯関神社・・・大念寺・・道標④・・本覚寺・・・堀溝交差点・国道163号・(四條畷市)・・・(外環状線)・・・蔀屋東交差点・旧道・・・雁塔・西南戦争招魂碑・・・国中神社・・・中野踏切(片町駅)・・・東高野街道合流地点・・東高野街道分岐地点・道標⑤・・・忍ケ丘駅(片町線)

 大阪と奈良を結ぶ街道の一つで、京街道守口宿→守口街道→清滝街道→竜田越奈良街道で奈良へと通じる守口街道を、東高野街道と交差する清滝街道の起点まで行く。清滝街道に含めて呼ばれることもある。

  【ル-ト地図

Img_6896京街道守口宿の文禄堤を進む。

Img_6897来迎坂(来迎寺坂) 《地図

ここが守口街道の起点で、佐太に移転した来迎寺があった。

Img_6898道標①

「のざきみち」は野崎参りで知られる野崎観音の慈眼寺への道のこと。

Img_6902難宗寺(守口西御坊)

明治天皇の行幸の際には行在所となった寺。樹齢500年という大イチョウがそびえる。

Img_6904道標②(難宗寺北西角)

「すぐ守口街道」がある。

京阪本線沿いに出て東に向かい、門真市に入る。

Img_6918元町遺跡(元町中央公園) 《地図

Img_6917説明板

門真市駅を抜けて行く。

Img_6925門真小学校

やけに古ぼけた校舎だ。それとも歴史的建造物というべきか。

古川橋駅の手前で京阪本線の北側に出る。

Img_6937八坂神社 《地図

Img_6939願得寺

客間(国登録有形文化財)

Img_6944道標③(右の電柱脇) 《地図

左守口街道」・「右守口街道 左徳庵八尾道」で左折して古川の人道橋を渡る。

Img_6950古川橋 《地図

Img_6928古川橋駅そばに設置の碑

「古川橋あたりは京大坂への道と清滝街道(守口街道のこと)が交わる交通の要所で料亭などの店が軒を並べ賑わいました」とある。

Img_6953堤根神社

茨田堤の鎮守として創建。

Img_6958(伝)茨田堤(まんだのつつみ)跡 《地図

茨田堤ゆかりの所は、『京街道③』にもある。

Img_6954説明板①

Img_6957

第二京阪道路をくぐり、国道163号を横切って行く。

Img_6969寝屋川を渡って寝屋川市に入る。

Img_6974ねや川 文化と歴史のみち」沿いを進む。

案内図を持っているのは「鉢かづき姫」で、東高野街道の「打上げの四ツ辻」には、頭にすっぽりと鉢を被った鉢かづき姫が立っていた。

Img_6975鶯関(おうかん)神社 《地図

古代の奈良への「行基みち」(守口街道)の要衝地で関所があり、このあたりは鶯の名所だったという。

「我が思ふ こころも尽きぬ ゆく春を 越えずもとめよ うぐひすの関」(康資王の母

竹内街道の竹内峠には、この歌の歌碑が立っている。時代的にはこちらの方がふさわしいか。

Img_6979堀溝地区の家並み

Img_6981大念寺

Img_6984説明板(十三仏板碑・梵鐘・行基みちと鶯の関跡)

Img_6985十三仏板碑

Img_6986道標④

左手前(明治37年):「右守口街道」・「左守口街道」・「すぐ守口街道」
左後ろ(慶応2年(1866)):「右大峯山 なら いせ 道」・「右 やはた 柳谷 左 大坂 もり口 道」

Img_6990右の自販機前の自然石の道標(延宝3年(1675))

ここを清滝街道の起点としている。「やハたみちすじ」は、この先の東高野街道との交差地点から北に東高野街道を進んで石清水八幡宮への道ということか。

堀溝交差点で国道163号に出て・四條畷市に入り、蔀屋東交差地点で左へ旧道を進む。

Img_7012雁塔(右)・西南の役碑(西征戦死招魂碑)(左) 《地図

Img_7001説明板

Img_7004説明板

Img_7005清滝街道説明板①

③が雁塔の所

Img_7011

Img_7014清滝川沿いを進み、片町線の踏切を渡る。

このあたりはまだ名前負けしている流れだ。

Img_7020東高野街道合流地点(案内図の④) 《地図

左は中野交番

Img_7021東高野街道分岐地点 《地図

道標⑤(左の民家前):左は「右清滝街道 すぐ東高野街道」、
中は「靍澤亀梥 東いせなら 南かりや 門弟中」で、文楽三味線師匠の靍澤亀梥(かめさわかめまつ)の遺徳を顕彰しての建立とか。
右の地蔵(寛政10年(1798))には「右ならいせ道 左京やハた道」

手前の清滝川沿いには、小さな「三坪橋」の標石がある。ここを守口街道の終点、清滝街道(直進)の起点とし、左折して東高野街道を進んで忍ケ丘駅に向かった。

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2016年6月11日 (土)

山根街道

2016年5月9日・12日

星田駅(JR片町線)・東高野街道・・・星田一里塚跡・・・府道20号・・・(第二京阪道)・・旧道・・・道標①②・山根街道分岐地点・・・万葉歌碑・逢合橋(平野川)・・砂子橋(前川)・・砂子坂交差点・磐船街道交差地点・・・(京阪交野線)・・私部地区・・北川家住宅・道標③・・・札之辻橋(在中川)・・・無量光寺・・・(免除川)・・・大仏坂・・・道標④・・・二平川の洗場跡あたり・・・外池・・倉治桜堤交差地点・府道736号・・・(枚方市)・・・かご池跡碑・・・(津田駅)・・・津田踏切(片町線)・・・尊光寺・・・道標⑤・・・春日神社・・・(穂谷川)・・・(藤阪駅)・・・府道736号・・・菅原神社参道・・・菅原交差点・・勝園寺・・・長尾駅(片町線)・(5/12日)・・府道736号・・・菅原交差点・府道735号・・・長尾地区・・・八幡橋(船橋川)・・・家具団地・・・長尾峠・・・(京都府八幡市)・・・八幡南山交差点(京阪国道)・・・東高野街道合流地点・・・(略)・・・八幡市駅(京阪本線)

 東高野街道から枚方市の茄子作で分かれて交野市に入り、私部・倉治を通って再び枚方市に入り、津田・藤阪・長尾を北上し、長尾峠を越えて京都府八幡市に入って東高野街道に合流する山根街道を行く。

  【ル-ト地図

Img_6669星田駅から雨の東高野街道を北上する。

府道20号に出て第二京阪道を横切り、左に旧道に入る。

Img_6675東高野街道との分岐地点 《地図

道標①(明治37年):「右 山根街道 すぐ東高野街道・・・・」
道標②(安政2年(1855)):「大峰山 右 宇治 左 京 八幡 道」と地蔵(享保10年(1725))が立つ。

Img_6683万葉歌碑(逢合(あいあい)橋のたもと)

交野が原の七夕伝説

Img_6685説明板

Img_6686逢合橋から天野川

下流には織姫と彦星の橋渡しをした鳥の鵲(かささぎ)橋がある。『京街道②

すぐ先で前川の砂子(すたこ)橋を渡り、磐船街道と交差する。

Img_6691砂子(すたこ・すだこ)坂 《地図

傾斜はほとんどいない。「砂子」の由来は、「洲田のある高台へ上る坂」という意だそうだ。詳しくは『交野物知り辞典』で。

京阪交野線の踏切を渡り、私部(きさべ)地区へと進む。

Img_6696私部地区の家並み

Img_6700北田家住宅  《地図

Img_6701蔵の先で左折して行く。

蔵の向かい側に道標③が立つ。

Img_6706道標③

正面に、「大峯山五十度供養」・左側面に、「左 京 よど あたご やわた 伏見 う治 すぐ いせ いか なら」

Img_6703北田家の長屋門

長さが約56mで、民家では日本一という。

Img_6709札之辻橋(在中川)

古い橋桁と親柱だ。

Img_6713無量光寺

Img_6718大仏坂(坂下方向) 《地図

奈良東大寺の大仏の鋳型に銅を流し込む作業が上手くいかず、宇佐八幡宮の付近にいる渡来技術者に来てもらった。彼らは交野の傍示に上り、生駒の傍示に通じる「大仏の道」を通って東大寺に急いだ。無事にその仕事を終えた技術者がこの地区で仏像を作った、または住み着いたとされる。

Img_6720道標④ 《地図

「右 京八王多道」・「すぐひらかた」・「すぐたき 」で、石清水八幡宮、枚方、源氏(倉治)の滝

Img_6727二平川の洗い場跡あたり 《地図

西側にある家の屋号が「二平」といい、この洗い場は、村の人々の語らい、息抜きの場だった。家で親夫婦、年寄りが昼寝をしている間にそっと洗濯に来たそうだ。

倉治桜堤交差地点で府道736号に出る。

Img_6732外池

枚方市に入る。

Img_6733かご池跡碑・石つき唄碑

Img_6735石つき唄

Img_6736山下政太頌徳碑

「津田そうめん」作りの尽力者 『ひらかた偉人伝』(3頁目)

Img_6737説明板

右折して津田踏切を渡る。

Img_6742津田地区の家並み 

Img_6745道標⑤(天保12年(1841)) 《地図

「右ひらかた 左のざき大坂道」

Img_6749春日神社

Img_6750説明板

Img_6755穂谷川の橋に「山根街道」 《地図

藤阪駅をくぐって府道736号に出る。

Img_6759菅原神社参道

参道は線路で分断されている。どしゃぶりの雨で参拝する気もないが。

Img_6761菅原交差点

府道から離れ左に府道735号に入って行くのが旧道だが、傘をさしていてもずぶ濡れの状態で寒くなってきた。今日はここまでとし長尾駅に向かった。

ここからは5月12日に歩いた。

Img_6364長尾地区の家並み① 《地図

Img_6368

船橋川を渡る。

Img_6383家具団地の間を通って行く。《地図

団地といっても19店舗しかないようだが。

Img_6385京都府八幡市との境の長尾峠へ上って行く。《地図

ここは長尾峠町で、正面奥は摂南大学。

長尾峠から下り京都府八幡市に入り、八幡南山交差点(京阪国道)を横切る。

Img_6398東高野街道合流地点 《地図

北から来た東高野街道はここを右折(写真では左折)して行く。東高野街道を歩いた時は京阪国道に出て、洞ヶ峠の方へ迂回して行った。ここに立っていた道標は、トラックがぶつかりへし折られて撤去され、今は「ふるさと学習館」《地図》の敷地に転がしてあるらしいが未確認。

この先、八幡市駅までは『東高野街道①』に記載。

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2016年6月 9日 (木)

中高野街道③

2016年5月10日

河内松原駅(南海高野線)・・・道標①・・・浄光寺・・・道標②・竹内街道交差地点・・・(中央環状線)・・・(堺市)・・・美原ふる里公園・・・(阪和道)・・・(国道309号)・・牛池・・舟渡池・・・(大阪狭山市)・・・道標③・菅生神社鳥居・・・旧道・・・常夜灯・・・大鳥池・・・地蔵堂・・・地蔵堂・・・(南海高野線)・・・狭山藩陣屋跡・・・下高野街道合流地点・・・報恩寺・・道標④・・・説明板(下高野・中高野街道)・・・(南海高野線踏切)・地蔵祠・道標⑤・・・(大阪狭山市3号踏切)・・・中高野街道標柱・・・常夜灯・・・風輪寺・・・西除川・・・春日神社・・・西高野街道合流地点・道標⑥⑦・・・千代田駅(南海高野線)

  【ル-ト地図】(河内松原駅(25km)から)

Img_6768道標①(天保5年(1834)・新堂3丁目)

「右 平野 大坂 道」・「左 さかい 住よし 道」・「すぐ かうやよしの 道」

Img_6774竹内街道交差地点 《地図

道標②(寛政9年(1797)・交差点右の電柱脇):「左 さやま 三日市 かうや 道」・「左 さかい」・「右 ひらの 大坂」

Img_6786美原ふる里公園 《地図

美原は河内鋳物師の発祥地という。奥は「みはら歴史博物館

Img_6784説明板

阪和道をくぐり、国道309号を横切る。

Img_6792舟渡池

大阪狭山市に入る。

Img_6796菅生神社鳥居 《地図

道標③(慶応2年(1866)):「すぐ 三日市 高野山」・「すぐ 平野総本山 大阪天王寺、右 藤井寺 誉田八幡宮 道明寺

Img_6802府道198号から分かれ左の旧道を進む。

右は天満宮の常夜灯

Img_6806中高野街道のプレート

Img_6810大鳥池

府道に出て南海高野線をくぐる。

Img_6819狭山藩陣屋跡

このあたりは上屋敷跡

Img_6821説明板

Img_6822位置図

Img_6823長屋門

Img_6824下高野街道合流地点あたり  《地図

下高野街道は、おわり坂の坂下の上三津屋橋(三津屋川)で西高野街道と合流するのが本道だろう。

Img_6829地蔵の石祠・報恩寺の説明碑(交差点手前の右側)

左の祠内の地蔵が説明碑の「恋坂地蔵」ではないようだ。

Img_6828説明碑

Img_6831報恩寺

狭山藩北条氏の位牌所

大阪狭山市駅方向に向かう。

Img_6832道標④(天保11年(1840)):「こいさか 子安地蔵尊」

かつては大阪狭山市駅の東側にあった地蔵寺の本尊だった子安地蔵で、現在は報恩寺に伝わる「恋坂地蔵」のことのようだ。

Img_6835説明板

下高野街道は狭山池の南西で西高野街道に合流する。

Img_6839地蔵祠・常夜灯・道標⑤(大阪狭山市駅前の踏切を渡った所)

常夜灯の前の古い道標は、「右こうや 左よしの」
恋坂子安地蔵の地蔵寺があったのはこのあたりか?

南海高野線沿いを南下し、大阪狭山市3号踏切で渡り返す。

Img_6847中高野街道標柱と説明板

Img_6849説明板

狭山神社・狭山池は『天野街道』に記載。

金剛駅前を過ぎて行く。

Img_6855風輪寺(右) 《地図

融通念仏宗の寺で、本尊は春日仏師の作と伝える子安地蔵尊で、古くから安産厄除の寺として知られている。本堂には、国の重要文化財に指定されている『絹本著色釈迦如来及四菩薩像』が所蔵されている。

この先で坂を下って西除川の方に下りてしまった。川沿いを進み府道に出て、松ヶ丘歩道橋の所で中高野街道に戻った。

Img_6872府道を横切って直進(南下)するのが中高野街道 《地図

Img_6876緩やかな坂を上る。

Img_6877常夜灯の右から来る西高野街道

Img_6883振り返る。《地図

右が中高野街道、左が西高野街道で、道標⑥(天保7年(1836))は、「右平野迄四里、左さかい大坂」
地蔵堂内の地蔵の前面は道標⑦で、「右ハ平野道 左ハ堺大坂道」か?

西高野街道を進み、千代田駅に向かった。

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