2017年5月26日 (金)

伊南房州通往還⑦

2017年5月20日

安房小湊駅(JR外房線)・・・国道128号(外房黒潮ライン)・・・実入歩道トンネル・・・新神明橋(神明川)・・・日澄寺・・・善覚寺・・仲宿・・海福寺・・・城戸バス停・・須賀神社・・萬福寺・・・天津小湊公民館・道標(清澄道)・・・天津橋(二タ間川)・・(二ツ山(葛ヶ崎城址))・・・八重門(やえむ)坂・・薬師堂バス停・・・貴船神社・・・多聞寺・・・(日蓮)疵洗い井戸・・・(東町交差点)・・・八幡神社・・・夜長川橋(夜長川)・夜長川碑・・・新田の道標・・・(鴨川シーワールド)・・・永明寺・・・龍性院・・・白旗神社・旗掛松跡・・・待崎橋(待崎川)・・・諏訪神社・・太子堂跡・・・御天王様・・・道標・・・加茂川橋(加茂川)・小社・・・貝渚地区・・釈迦寺・・万騎坂・・金剛院・・妙昌寺・・・八雲神社・・・魚見塚展望台・・・(魚見塚一戦場公園)・・・県道247号・・・波田橋(曽呂川)・・・宝光寺・・・太海駅(JR内房線)

 安房小湊駅から館山まで日帰りにしようか、泊りがけで行くか迷って後回しにしているうちに2年以上経ってしまった。
 3日間で館山の内房回りの房総往還との合流地点まで行き、房総半島一周を完結させる。

 伊南房州通往還⑥(勝浦駅→安房小湊駅)』からの続きです。

 参考:『伊南房州通往還 Ⅰ・Ⅱ』(歴史の道調査報告書・千葉県教育委員会)

  【ル-ト地図

Img_2034鯛の浦

内浦湾から入道ヶ岬にかけての鯛の群生地。

Img_2036説明板

Img_2038実入トンネル 《地図

左の歩道トンネルを抜ける。山側を通る新坂道は途中で途切れるようだ。昔は波の押し寄せる岩浜づたいを千葉大研究センターの先の松ヶ鼻を回って天津に抜けていたという。

Img_2044トンネル水族館になっている。

女子美術大生の壁画が涼しげだ。

新神明橋で神明川を渡る。外房線の北側に天津神明神社がある。
新町から仲宿へと進んで行く。

Img_2054日澄寺  《地図

小松原法難で日蓮の救出に駆け付け殉教した天津領主・工藤左近尉吉隆の居館に、弘安5年(1282)、子の日隆が父の菩提供養に建立したという。

Img_2053説明板

Img_2058善覚寺

摂州西宮の出身者が旦那寺としていた。天津村は近畿地方から干鰯(ほしか)生産のために漁民が進出していた。次第に土着するようになったが、元禄の大地震による津波で大きな損害を受け、地元漁民により漁場から締め出されていったそうだ。

Img_2059仲宿の通り

Img_2061呉服店

Img_2064大日堂(中)・淡嶋堂(右)・稲荷社(左)(ここは海福寺境内?)

Img_2063説明板

「淡嶋堂は江戸時代にこの地に進出してきた関西漁民が、紀州の淡嶋明神を勧請したのが始まり」とある。

Img_2070須賀神社

Img_2071萬福寺

Img_2077「清澄道」道標(明治24年) 《地図

北方の清澄寺への道標で、この先の天津交差点から、ここ天津小湊公民館の敷地内に移設された。

Img_2080二ツ山(葛ヶ崎(くずがさき)城址) 天津橋(二タ間川)から

天正8年(1580)、大多喜城正木憲時里見義弘が死んだ隙に安房の地に侵入し、葛ヶ崎城を攻撃した。城を守っていた角田丹後守は討ち死にし、城は落ちたが、里見の軍勢が押し寄せて来ると、正木氏は大多喜に引き上げたという。
外房の海をおさえるための湊城で、 幕末の異国船打払い用の砲台跡もあったといわれる。

Img_2085八重門(ヤエム)坂を上る。 《地図

葛ヶ崎城の大手門があったともいう。右に袋倉川が流れている。

薬師堂バス停から下って行く。浜荻地区には「山際の道」と「中通り」があるが、山際の道を通る。

Img_2091貴船神社② 《地図

Img_2093多聞寺

小松原法難で日蓮を助けた北浦忠吾・忠内兄弟の墓がある。

Img_2096(日蓮)疵(きず)洗い井戸(山際通り沿い)

小湊の日蓮寺にもあった。『伊南房州通往還⑥

東町交差点を横切って行く。

Img_2105八幡神社前 《地図

左に御嶽様の石祠と庚申塔(宝永6年(1709))
八幡神社は鳥居をくぐった外房線の北側にある。

Img_2109八幡神社

フェンスの下が外房線

Img_2106由緒

Img_2117夜長川橋から夜長川(上流方向) 《地図

日蓮はこのあたりで小松原法難での疵の手当をしながら侍者に時を尋ねた。侍者が四更なりと答えると、日蓮は「夜もまた長いかな」と嘆じたという。

Img_2116「奮蹟夜長川」碑

無残にも残欠という体だ。

Img_2118「新田の道標」の祠(分岐点) 《地図

Img_2121地蔵道標(天明5年(1785))

右側面に、「小松原十一丁」・左側面に、「なご道八り」で、右は小松原法難にまつわる掛松寺から小松原山鏡忍寺への道。左が那古(なご・館山)への往還道。

Img_2123鴨川シーワールド

土曜日で親子連れなどが、向かっている。

Img_2125永明寺向唐門

文化9年(1812)改築

Img_2130寺と思ったら旅館だった。

Img_2133飛梅山龍性院(りゅうしょういん)

Img_2134逆梅

源頼朝が手近の梅の枝を折って逆さに挿したところ根付いたという。

Img_2135本堂向拝の龍の彫刻

上段の龍は後藤利兵衛橘義光の慶応4年(1868)作という。(下段の龍は平成12年の製作)

Img_2137旗掛松碑 《地図

ここは白旗神社境内だが、社殿は見当たらない。

Img_2139旗掛松の切り株

石橋山の合戦に敗れ、安房国に逃れてきた源頼朝は貝渚の一戦場(いっせんば)で長狭六郎常伴を破り、この地に白旗を掲げて上総介広常待ったという。『源頼朝と鴨川』・『長狭六郎常伴と鴨川

「待崎」の地名由来でもある。

Img_2145待崎橋から待崎川河口方向

Img_2156諏訪神社 《地図

Img_2149説明板

Img_2155本殿向拝の龍の彫刻

初代伊八の作という。

Img_2154説明板

諏訪神社の隣の墓地は太子堂跡という。

Img_2159稲荷社?

地元では「御天王様」と呼んでいるそうだ。

Img_2161道標(右の電柱脇) 《地図

Img_2164道標(明治43年)

「→ わだ あさひ ・・・・・」・「・・・・ おほやま・・・・」?
この道標は、『伊南房州通往還 Ⅰ・Ⅱ』(歴史の道調査報告書)にも載っていない。

本町通りを進む。右方の日枝神社慶長地震の大津波の後(前記の『伊南房州通往還』では元禄の大津波後)に築かれた「津波避難丘」に建てられた。元禄大地震では、この丘に逃げ上ったとの言い伝えがあり、犠牲者の供養碑が建てられているようだが、うっかり通り過ぎてしまった。 《地図

Img_2171加茂川橋から河口方向

架橋は明治20年で、それまでは渡し船だった。
前原町は漁業より干鰯を中心とする物産集積地で、加茂川沿いに船着き場が並んでいた。元禄大地震の津波で河岸は崩され、加茂川の隆起で船の出入りができなくなり、漁民も天津や浜荻に移って衰微していった。

Img_2172加茂川橋のたもとの小社

水神社か?

Img_2180万騎坂を上る。《地図

源頼朝が挙兵した時、多くの武士が参集したことによる坂名という。

Img_2183金剛院境内

左は百番巡礼供養塔(弘化3年(1846)・
右は『伊南房州通往還』によれば、「伝梶原清の墓」(応永10年(1403))で、勝負事にご利益があるといい、博徒たちが欠いて持って行ったため笠や相輪の部分が破損しているという。平(藤原)景清のことか。梶原景清もいるが?

Img_2187妙昌寺

仁王門前に船の碇が奉納?

Img_2189魚見塚展望台へ上る。

右は妙昌寺

Img_2191八雲神社  《地図

ここから浅間神社を通って魚見塚に行く道があるのだが、遠回りしてしまったようだ。

Img_2193山道のような所を上ると展望台の下に出た。

Img_2207魚見塚展望台

仏の化身の乙女の「暁風像」の後ろ姿。魚の群れを探さずに、何を見ているのか?

Img_2194説明板

Img_2208加茂川方向

Img_2204仁右衛門島方向

Img_2211弁天島方向

展望台から下って県道247号に出る。

Img_2219宝光寺 《地図

「北ん寺」(宝光寺)と「中の寺」(西福寺)が合併して西福山宝光寺になったそうだ。

Img_2222仁右衛門島(正面)

源頼朝や日蓮の伝説のある島だが、個人の所有で渡船と観覧料で1350円也。

Img_2225太海駅(内房線)

外房線と思っていたが、安房鴨川駅までは内房線だった。

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2017年5月20日 (土)

六郷用水を歩く③

2017年5月16日

武蔵新田駅(東急多摩川線)・・・六郷用水南堀跡・・工事開始の碑・・・耕田橋の堰跡あたり・・・(第二京浜国道)・・・(多摩堤通り)・・・遍照院・・安方神社・・・(多摩川線)・・(環八通り)・・・金剛院・・・六郷田無道交差地点・・・蒲田電車区・蛸の手跡・・・跨線橋(JR京浜東北線)・・・六郷用水物語(田中丘隅①)・・六郷用水物語(田中丘隅②)・・・(京浜急行線)・・(第一京浜国道)・・・真光寺・妙覚寺・善永寺・報身寺・福称寺・延徳寺・正覚寺・・・上田妙法稲荷神社・・・馬頭観音・・・多摩川土手・・・八雲神社・・水門通り商店街・・・(第一京浜国道)・・雑色駅(京浜急行線)

  【ル-ト地図

Img_1922六郷用水の南堀跡を進む。

植込みの中に「六郷用水工事物語 工事開始」の説明碑がある。

Img_1919工事開始碑

Img_1924耕田橋の堰跡 《地図

Img_1925説明板

Img_1928第二京浜を横切った所

Img_1933供養塔群(遍照院) 

右から2番目が承応3年(1654)の阿弥陀如来像が線刻された念仏供養塔。

Img_1929説明板

Img_1932阿弥陀如来像の線刻

Img_1935安方神社

多摩川線と環八通りを横切って行く。

Img_1942金剛院前を通る。

Img_1943説明板

Img_1945六郷田無道交差地点 《地図

六郷用水跡は直進

Img_1952蒲田電車区(操車場) 《地図

ここは何本かの分水口で、「蛸の手」と呼ばれていた。松本清張の『砂の器』の殺害死体発見現場でもある。

Img_2009蛸の手から分水している。

電車区を迂回し、JR線を跨線橋で越えて用水跡沿いに出る。

Img_1960六郷用水物語(左)

Img_1957田中丘隅(休愚)物語① 《地図

Img_1964

仲よし児童公園前

京浜急行線をくぐり、第一京浜国道(東海道)を横切って行く。

Img_1975上流方向を見ている。

Img_1977右の路面にマーク

Img_1985用水の流れ方向を示している。

この先で右折して七辻を見る。

Img_1979確かに七辻だった。《地図

信号機はなく、正面に「日本一ゆずり合いモデル交差点」の看板が立つ。野火止用水用水沿いに「九道の辻」があるが、今は9つの道はなく信号機もある。

用水跡の東側の寺院群を巡る。いずれも築地本願寺寺中から当地に移転してきたようだ。

Img_2000最後の正覚寺では、仔猫が三つ指をついて出迎えてくれた。

Img_2008上田妙法稲荷神社

七福神ではなく「羽田七福いなり」めぐりだそうだ。

Img_2011六郷用水物語(左) 《地図

先ほどの「蛸の手」が載る流路の地図

道路の向かい側に馬頭観音の祠

Img_2012馬頭観音

Img_2015多摩川(上流方向)

少し上流へ進む。

Img_2024?水門から多摩川

これをすっかり六郷水門と勘違いしてしまった。六郷水門は少し上流側にある。

ここを六郷用水歩きの終点とし、雑色駅に向かった。

Img_2029八雲神社

Img_2033水門通り商店街

六郷水門方向

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2017年5月18日 (木)

六郷用水を歩く②

2017年5月12日

二子玉川駅(東急大井町線)・・・調布橋(丸子川)・行善寺坂下・・大山道道標・・・工事中迂回・・・(東急大井町線)・・・界橋・・・稲荷橋・稲荷坂下・上野毛自然公園・・・明神橋・明神坂下・・・(第三京浜国道)・・・倉田橋・・・岸橋・・・宮下橋・・六所神社・・善養寺・・大日橋・・・流見橋・・・東橋・・・天神橋・浄音寺坂下・・谷沢川合流地点・・・玉根橋・等々力坂下(目黒通り)・・・稲荷橋・・・浄楽橋・・東京都市大学・・西根橋・・・中の橋・・・北原橋・・・八幡橋・・・天慶橋・・・尾山橋・・・上の橋・(大田区)・・吹上橋・・・庵谷橋・・・八幡神社・・・照善寺・・中ノ橋・馬坂下・・・荏野橋・・・下ノ橋・・・宝来橋・・・小島橋・・・多摩川台公園(宝来山古墳・亀の甲山古墳)・・・丸子川・・(東急東横線)・・多摩川放流口・・・浅間神社・・・田園調布せせらぎ公園(旧多摩川園・滝坂・大山坂・いろは坂・松の木坂)・・・富士見坂・・・(中原街道)・・六郷用水跡・・・鎌倉街道(下の道)・桜坂下(旧中原街道)・東光院・おいと坂下・・・(東海道新幹線)・・・密蔵院・・・嶺村の庚申塔・・・観蔵院・・・河原坂上あたり・・・(環八通り)・・六郷用水物語(女堀のみち)標柱・・・藤森稲荷神社・ぬめり坂下(平間道)・・・光明寺大門前堰跡あたり・・・下丸子への分水口跡・・南北引き分け跡・鎌倉街道(下の道)分岐地点・南堀跡・・・六郷用水物語(南堀のみち)標柱・・・(環八通り)・・武蔵新田駅(東急多摩川線)

  【ル-ト地図

Img_1573東急田園都市線をくぐった丸子川(六郷用水)

Img_1575調布橋から行善寺坂(大山道) 《地図

西方の慈眼寺坂を下る大山道とともに、二子の渡しで多摩川を渡っていた。

Img_1565大山道道標(安永6年(1777)・瀬田村庚申供養講中) 《地図

「南大山道 左西赤坂道 右東目黒道」
この用水前の道は奥多摩へ帰る筏師たちが利用した筏道。

この先はガス工事中で通れず、大きく右に迂回して大井町線の先の界橋に出る。

Img_1582稲荷橋から稲荷坂

坂の途中の左側に稲荷神社がある。右は上野毛自然公園

Img_1586上野毛自然公園

国分寺崖線の斜面を利用した公園で、『せたがや百景の№92

Img_1589明神橋から明神坂

坂上に野毛2丁目の六所神社に移された「六所明神」があった。坂下の明神池は埋め立てられいる。

Img_1592第三京浜下の水門

余水を多摩川へ排水するのためか。

Img_1601「おもいはせの路」(国分寺崖線散歩道

思いを馳せるほどの道でもないが。

宮下橋から急坂を上って六所神社に寄る。

Img_1603坂上近くから

右は明神坂の坂上から移された六所神社。この坂に名前はついていないようだが、宮坂と呼びたい。

Img_1605六所神社

Img_1610境内の水神社

左下に石造のミニ砂利舟

Img_1606砂利舟の

多摩川の砂利採掘』(稲城市)

Img_1636善養寺

境内は異国風な石造物でにぎやかだ。山門の後ろには大カヤがそびえている。『せたがや百景№94』

Img_1657天神橋から浄音寺坂

等々力渓谷の日本庭園あたりの天神山から由来する橋名か。浄音寺は天保の頃に焼失したという。

Img_1658この先で右にカーブして谷沢川に注いでいる。《地図

かつて六郷用水は、谷沢川の上を越えて流れていたが、現在は谷沢川と合流して多摩川に注ぐ。しかし、清流復活事業として、合流した川の水の一部をポンプで引き上げ、ここから下流の丸子川(六郷用水)に流しているそうだ。

Img_1659谷沢川へと流れる。

Img_1665谷沢川下流方向

Img_1666丸子川(下流方向)

石積みの護岸が続く、谷沢川との混合水の流れ。

Img_1672玉根橋から等々力坂(目黒通り)

Img_1679浄楽橋から尾山台ナザレン教会

教会には似合わない橋の名だ。

Img_1687東京都市大学

首都大学東京と紛らわしい。

Img_1695八幡橋の北側には、八幡塚古墳、宇佐神社、伝乗寺、寮の坂などがある。『世田谷区の坂①

Img_1705上の橋

水辺に下りられるが、あまりきれいとはいえない流れだ。

大田区に入った。

Img_1721八幡神社

鎌倉時代の建長年間(1249~55年)の創建と伝える。当時は篭(籠)谷戸(ろうやと)と呼ばれる多摩川の入江の良港があり、物資を積んだ舟が盛んに出入りしていた。高台部分には東西を鎌倉街道が通る要衝の地だった。鎮座地は舟の出入りを監視できる港の入口に突き出した台地で、その場所に祠を建て、八幡神社を勧請したのが始まりという。

Img_1719新八幡橋から丸子川の南側の細い流れ。

お鷹の圦で、丸子川からの流れと合わせて多摩川へ流れて行くようだ。

Img_1725鷹の圦(いり)樋地図

右の水門から余水を多摩川へ流している。名前の由来は何か?

Img_1727この先で多摩川に続いている。

多摩川の入江の名残りだろうか?

Img_1734照善寺

Img_1735手入れの行き届いた境内だ。

Img_1738中ノ橋から馬坂

左から右(北)に曲がって上って行く。このあたりは『大田区の坂④』で歩いている。

Img_1742坂上方向 《地図

左は照善寺で、坂上を進むと急坂(坂名)上に出る。

Img_1756ここから多摩川台公園に上る。

宝来山古墳・亀の甲山古墳は、『大田区の坂④』に記載。

Img_1763公園内を通って行く。

丸子川に下る。

Img_1780この先で丸子川は終わり、右へ多摩川へ放流している。

Img_1781多摩川への放流口

Img_1786多摩川へ流れ出ている。《地図

正面は丸子橋

Img_1790浅間神社

浅間神社古墳の後円部上に建つ。宝来山古墳~亀の甲山古墳から連なる古墳か。東横線で遮断されているが。

Img_1797多摩川を渡る東横線

富士山は見えず。

Img_1793丸子橋

多摩川園遊園地跡の田園調布せせらぎ公園に寄る。

Img_1801園内図

多摩川園の頃はプールもあった。井戸水なのか冷たくて長く入っていられなかったことを覚えている。今はすっかり変わってしまった。が4つもある。一般道の坂ではないが、23区の新しい坂を見つけたのは久しぶりだ。六郷用水歩きはどうでもよくなって、本職の坂道散歩に取りかかる。

Img_1803

名前はついていないようだ。

Img_1806滝坂を上る。

滝の中間部の上を通っている。

Img_1808滝の上部

Img_1815大山坂

坂上に建物があるが大山の不動堂ではなかった。

Img_1816坂上方向

Img_1818いろは坂

日光のいろは坂のように曲がりながら上る坂だが、いろは48の曲がりとはほど遠い。多摩市にもいろは坂がある。

Img_1824松の木坂

松の木門から公園を出る。

Img_1835富士見坂を下る。《地図

正面方向が富士山だが望むべくもないか。

坂下から多摩川線沿いを進み、中原街道をくぐると六郷用水跡の流れが始まる。

Img_1848国分寺崖線からの湧き水を流している。《地図

Img_1853色とりどり、選り取り見取り?

鯉のぼりは終わったが。

Img_1859ジャバラ(足踏み水車)

Img_1861説明板

Img_1863現在地の桜坂下(旧中原街道)から南北引き分けまでは、鎌倉街道(下の道)に記載で略す。

Img_1911南北引き分け跡(右に説明板) 《地図

北堀・鎌倉街道(下の道)は左へ、今回は右へ南堀沿いを行く。

Img_1910説明板

Img_1914環八沿いに出て左に入って行く。

Img_1916六郷用水物語(南堀のみち)標柱

少し進んで右折し、環八通りを横断して武蔵新田駅に出た。

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2017年5月16日 (火)

六郷用水を歩く①

2017年5月11日

狛江駅(小田急線)・・・多摩川・・六郷用水取水口跡あたり・・玉翠園石垣跡・・水神社・・六郷さくら通り・・仏寿寺・・・伊豆美神社・・兜塚古墳・・・むいから民家園・・・穴守稲荷分神社・・田中橋交差点・・高千穂稲荷神社・・泉龍寺・・・品川道交差地点・駄倉橋跡・・(狛江通り)・・・(小田急線)・・いちょう通り・・・新一の橋交差点・品川道合流地点・・一の橋交差点・石橋供養塔・・・慶岸寺・・・二の橋交差点・品川道分岐地点・・・滝下橋緑道・・・野川合流地点・・・雁追橋(がんおいばし)・・・中野田橋・・・野川分岐地点・・次大夫堀公園・・・内田橋(六郷用水)・・・パズルトンネル(多摩堤通り)・・・野川合流地点・・・大正橋・・・新井橋・・野川分岐地点・・(東名高速)・・・六郷用水跡碑・・・新坂下・品川道分岐地点・・石橋供養塔・永安寺・・・大蔵氷川神社・・・水神橋・仙川交差地点・・西谷戸橋(仙川)・・岡本三丁目の坂下・・・水神橋・丸子川(六郷用水)・・丸子川親水公園(六郷用水の歴史碑)・・・堂ヶ谷戸橋・堂ヶ谷戸坂下・・・岡本民家園・・岡本八幡神社・・静嘉堂文庫・・・八之橋(谷戸川)・・・馬坂・・瀬田四丁目旧小坂緑地・・旧小坂家住宅・・庚申塔・・・下山橋(丸子川)・・・彩翠橋・・・雁追橋(かりおいばし)・まむし沢・まむし坂下・・・大夫橋(大山街道)・慈眼寺坂下・・・瀬田アートトンネル(国道246号)・・・逍遥橋・・・(東急田園都市線)・・・二子玉川駅(東急大井町線)

 狛江市の多摩川から取水し、東へ世田谷領と六郷領を流れて農業用水を供給し、北堀と南堀に分かれて、南堀は六郷橋の下流で多摩川に注いでいた。開削監督者の小泉次大夫の名を取って「次大夫堀」、世田谷区から大田区の一部区間は「丸子川」と呼ばれている。

  【ル-ト地図

Img_1342六郷用水取水口跡あたりから多摩川上流方向 

写真の右方に六郷排水樋門があり、根川の水が流れ込む。

Img_1341多摩川から六郷用水取水口(昭和初期の写真)

左側が玉翠園で石垣が見える。

Img_1337玉翠園石垣跡 《地図

Img_1333
説明板

Img_1345水神社

伊豆美神社の旧地で、六郷用水を開削した小泉次大夫を祀る。

Img_1349六郷さくら通り

むいから民家園」に寄る。「むいから」とは当地で古くから屋根葺きに用いられていた、麦から(麦藁)の転訛だそうだ。 《地図

Img_1367旧荒井家住宅

Img_1368旧高木家長屋門

Img_1366説明板

Img_1372穴守稲荷分神社

羽田の穴守稲荷神社の分社で、細い路地を入った螺旋階段の上に鎮座する。千川上水跡沿いの穴守神社よりもさらに「穴守」という感じだ。

Img_1369由緒

Img_1377高千穂稲荷神社 《地図

裏側に田中橋の親柱が保存されているようだが、見逃した。

伊豆美神社・兜塚古墳・泉龍寺は、『品川道①』に記載。

Img_3194駄倉橋跡 《地図

品川道との交差地点で親柱が保存

Img_3193説明板

狛江通りを横切り、小田急線をくぐり、いちょう通りを進み、新一の橋交差点で品川道(世田谷通り)に合流する。

Img_1385一の橋交差点 《地図

石橋供養塔道標(文政6年(1823))で、正面右下に「西 登戸 府中 道」、右面に「南 家村道」、左面に「北 ほりの内 高井戸 道」、左面に「東 六郷 江戸 道」。「家村道」とは何か?

Img_1389慶岸寺

二の橋交差点で品川道が右に分れて行く。世田谷区に入る。

Img_1396滝下橋緑道となる。 《地図

滝下橋の親柱も手前に残っているようだ。

Img_1399野川に合流する。

Img_1403所々に立っている案内板

国分寺崖線発見マップ

Img_1406野川

雁追橋(がんおいばし)から下流方向

Img_1409手前の流れが次大夫堀公園へ

次大夫堀=六郷用水=丸子川

Img_1411取水口 《地図

Img_1412次大夫堀公園に入る。

Img_1416せせらぎ風な流れと、民家園がある。

Img_1414復元水路

Img_1436旧谷岡家表門

納屋と穀倉に門をつけて長屋門とした。

Img_1434説明板

Img_1420旧城田家住宅

Img_1419説明板

Img_1430旧加藤家住宅

Img_1426旧安藤家主屋

屋根補修工事中

次太夫堀公園から出る。

Img_1439内田橋から上流方向 《地図

Img_1397内田橋の上流方向(昭和30年頃)

今は次大夫堀公園となっている方向だろう。

Img_1446パズルトンネルで多摩堤通りをくぐる。

卵の形を直線で9のパーツに分割して、その組合せを変えていろんな鳥の形を作っている。

Img_1450再び流れが現れる。

Img_1453また野川に注ぐ。《地図

Img_1457野川沿いを進む。

上は「東京外かく環状道路本線トンネル(南行)東名北工事」中。その向こうが東名高速の下あたりで野川から分かれて行く。

Img_1463六郷用水跡標柱の立つポケットパーク 《地図

道標にもなっていて、「西 新井橋を経て次太夫堀公園へ」・「東 水神橋を経て丸子川へ」と刻む。

永安寺の西側の新坂を上って行くのが品川道。このあたりから二子玉川駅までは、『世田谷区の坂④』でも歩いている。

Img_1476永安寺山門

右に石橋供養塔(明治23年)

Img_1479大蔵氷川神社

Img_1482水神橋から仙川上流方向 《地図

正面は西谷戸橋

Img_1486西谷戸橋あたりから岡本三丁目の坂

豊島区ののぞき坂のような急坂だ。

Img_1493水神橋から下流で、六郷用水(次大夫堀)は丸子川と名を変える。

六郷用水の水ではなく仙川の北側の水路からの水のようだが。

Img_1497丸子川親水公園

「六郷用水の歴史碑」に「堀の幅は、世田谷領では平均約4.5mありました」とあるからけっこう広い。

Img_1500堂ヶ谷戸橋から堂ヶ谷戸坂

岡本公園に寄る。

Img_1509岡本民家園

旧長崎家主屋

Img_1513岡本八幡神社の男坂

東側に女坂がある。

Img_1516静嘉堂文庫

Img_1519八之橋(やのはし)から谷戸川下流方向 《地図

Img_1523馬坂を少し上る。 《地図

右に「馬坂」の標石

馬坂出入口から、右側の瀬田四丁目旧小坂緑地に入る。

Img_1533旧小坂家住宅中門

Img_1532主屋

Img_1535回遊式庭園内を下る。

Img_1538庚申塔(幽篁堂庭園跡(玉川4-36)から小坂緑地内に移設)

右は元禄2年(1689)・左は宝永5年(1708)の造立

Img_1536説明板

裏門から小坂緑地を出て丸子川に戻る。

Img_1541下山橋から下流方向 《地図

少し上流で谷戸川が合流している。

Img_1546雁追橋(かりおいばし)からまむし坂

Img_1544まむし沢からの流れが注ぐ。

Img_1549大夫橋から慈眼寺坂 《地図

この道は大山街道で通った。東方の行善寺坂を下るのも大山道の道筋で、二子の渡しで多摩川を渡っていた。

Img_1551説明板

Img_1554最後の大山登山はけっこうきつかった。

Img_1556国道246号(玉川通り)をくぐって行く。

Img_1557
左方の瀬田アートトンネルに迂回する。

Img_1563東急田園都市線をくぐる所までとし、高架沿いを二子玉川駅に向かった。 《地図

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2017年5月14日 (日)

野火止用水を歩く②

2017年5月3日

清瀬駅(西武池袋線)・・・野火止橋・・・(西武池袋線)・・・野火止用水碑・・・新堀交差点・新堀八軒回し堀跡あたり・・・御成橋・・・庚申塔祠・深大寺道交差地点・・・史跡公園・平林寺堀・陣屋堀跡分岐地点・・・本多緑道・・百笊稲荷神社・・・野火止水路橋(関越道)・・向橋(関越道)・・・伊豆殿橋・地蔵・・・平林寺境内(平林寺堀・野火止塚・松平信綱墓・業平塚)・・野火止陣屋跡(睡足軒の森)・・・野火止緑地総合公園(野鳥の森)・・・山下橋(野火止用水)・・・野火止緑道憩いの森・・野火止公園・・野火止用水緑道橋(川越街道(国道254号)・・公園・・・旧川越街道・八雲神社・・・第二中学校・・・野火止配水場・・(新座中央通り)・・・地下歩道(東武東上線)・・・上の水車跡・里程標・・市場坂・・かっぱふれあい館・・あさひ薬局・里程標・・下の水車跡・・西川家潜り門・・いろは樋復元模型・・・栄橋(柳瀬川)・・いろは橋(新河岸川)・・・志木駅(東武東上線)

  【ル-ト地図

Img_1046西武池袋線をくぐって行く。

Img_1063新堀八軒回し堀跡(新堀交差点あたり)

Img_1062説明板

Img_1074御成橋あたり

Img_1078深大寺道(馬喰橋通り)と交差する。 《地図

正面に小祠

Img_1080庚申塔・馬頭観音

Img_1082史跡公園

ここで本流・平林寺堀・陣屋堀に分かれていた。

Img_1052地図

睡足軒の森が野火止陣屋跡

Img_1085野火止用水本流(左)・平林寺堀(右)

Img_1091本流沿いを進む。

Img_1095本多緑道に入る。《地図

春は桜、初夏の新緑、秋には虫の音と雑木林の紅葉が楽しめるという。

Img_1101武蔵野の雑木林が広がる。

Img_1103百笊稲荷神社(左)

石祠も新しそうだ。何と読むのか? 由緒なども分からず。

本多緑道を出る。

Img_1118用水は野火止水路橋で関越道を越える。《地図

人間は右方の向橋に迂回する。

Img_1119これが水路とは、下を通る連中は知るまい。

Img_1129伊豆殿橋下の流れ 《地図

伊豆殿は野火止用水を作らせた松平信綱

Img_1125橋のたもとの地蔵(享保3年(1718))

本流から離れ、広大な敷地の平林寺の南側を進み正門に向かう。

Img_1132平林寺半僧門

境内を一巡する。「境内林案内図

Img_1135総門

本堂まで一直線に並ぶ、四天王寺式伽藍配置

平林寺大門」(『江戸名所図会』)

Img_1139山門

Img_1143仏殿

Img_1144中門

Img_1145本堂

Img_1148片割れ地蔵

もとは一対だった地蔵の「片割れ」を祀ったという。

Img_1151境内林の中を行く。

総面積13万坪(東京ドーム約9個分)だそうだ。

平林寺」(『江戸名所図会』)

Img_1153島原の乱供養塔

原城を訪れたのは40年以上も前のこと。当時は整備されてなく荒れた城址から茫々たる海をしばし眺めていたことを覚えている。

Img_1152説明板

Img_1163平林寺堀が流れている。

史跡公園の分岐点から引かれた野火止用水の分水路

Img_1167野火止塚

Img_1168説明板

Img_1171業平塚

ここも野火の見張り台で、東下りの業平に結び付けたようだ。業平ゆかりの地は、落語『千早振る』で。

Img_1170説明板

Img_1180睡足軒の森

野火止陣屋跡

Img_1176説明板

Img_1179紅葉亭(旧座禅堂)

平林寺の北側沿いに野火止用水に戻る。

Img_1185野鳥の森を抜けようとしたら行き止まりになってしまった。

山下橋で野火止用水に出る。《地図

Img_1190野火止緑道憩いの森

右は野火止公園

野火止用水緑道橋で川越街道(国道254号)を越える。

Img_1201新しい公園内を通って行く。《地図

右折し公園を抜けて左折して行く。

Img_1210この先で遊歩道が終わる。

Img_1211旧川越街道と交差する。《地図

正面は小さな八雲神社

Img_1215武蔵野線をくぐる。

Img_1225第二中学校沿いの歩道を行く。

Img_1228野火止配水場

新座中央通りを横切る。

Img_1234右に歩道が続いている。《地図

Img_1239この先は流路跡はたどれない。《地図

Img_1245東武東上線をくぐって志木駅の北側に出る。

志木市内の野火止用水分水路跡」の地図の4をたどる。

Img_1256上の水車・里程標 《地図

左側の歩道が水路跡のようだ。下の水車は市場坂交差点の右側あたりにあった。(説明板のみ)

Img_1251説明板

野火止用水ではなく、「玉川上水筋」としてある。

市場坂を下る。

Img_1263河童像

そばに『かっぱふれあい館』もある。
志木市のカッパ伝説

野火止用水は新河岸川へ注ぐ流れと、いろは樋で新河岸川を越えて宗岡地区へと続く流れがあった。
(『志木市内の野火止用水分水路跡」の地図の5)

Img_1270「いろは樋」の復元模型(説明板) 《地図

左が大桝

Oomasu大桝

(2007年11月撮影)

水を大桝に溜め、正面右の管(下り竜)から勢いをつけ樋に送り出した。

Irohahi新河岸川を渡るいろは樋

このあたりの引又河岸・引又宿は、『新河岸川を歩く④』・『志木市の坂』に記載。

Img_2136いろは橋から新河岸川下流方向

右から柳瀬川が合流する。

ここを野火止用水歩きの終点とし、寄り道しながら志木駅に向かった。

Img_1279栄橋(柳瀬川)の手前で西から流れて来る水路がある。《地図

Img_1281栄橋下の水門から流れ出て来る。

Img_1285少し水路の上流へ行ってみる。

Img_1286馬頭観音の祠 《地図

右は馬頭観音石橋供養塔で、野火止用水に架かっていた橋だろうか?
左は延宝6年(1678)の銘がある。

Img_1302旧家の前を通り、市場坂に出て志木駅に向かった。

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