2017年5月31日 (水)

伊南房州通往還⑨

2017年5月22日

南三原駅(JR内房線)・・・自性院・・・子安神社標石・・(内房線)・・・古川上橋(丸山川)・・・南小学校・・・(国道410号)・・・莫越山神社・・・日運寺・・・賀茂神社鳥居・・・弘法供養塔道標・・・加茂坂・・・地蔵・馬頭観音・・・(館山市)・・・道標・・・竹原地区・・・八幡神社・・・権現橋(滝川)・・・両社神社・・・国道128号・・・(岩川橋)・・・(稲村城跡)・・・莫越山神社町石・・・道標・地蔵祠・・・三義民刑場跡・・・諏訪神社・・・安房国分寺・・・国道128号・・・房総往還合流地点(南町交差点)・・・館山駅(JR内房線)

 加茂坂を越えて館山まで、伊南房州通往還歩きの最終日だ。
難所といわれた加茂坂だが標高は100mもなく、急坂でも長い峠道でもない。ただ、標識や案内板などはなく、悩ましい分岐点がいくつかある難所というより迷所でちょっと苦労した。
 加茂坂を越えれば後は国道128号を館山の房総往還との合流点を目指すだけ。でも今日も陽射しの強い暑い日で、単調な国道歩きは飽きて疲れる。やっぱり難所を歩いていた方が歩きがいがあるようだ。

  【ル-ト地図

Img_2445自性院 《地図

左右端は文殊・普賢菩薩の丸彫像(享和元年(1801)の石祠

Img_2440略縁起

子安神社の標石の先で内房線を越える。

Img_2452としまや弁当店の手前で国道から右に入る。

古川橋を渡ってまた国道に出てしまって引き返した。

Img_2463古川橋から丸山川(上流方向) 《地図

橋の袂に莫越山神社への町石が立つというが見当たらず。
南小学校先の分岐点の馬頭観音・六地蔵道標も見当たらず。

南小学校の先でも間違って左折してしまった。加茂坂をひかえ先が思いやられる。

Img_2470風車の向こうに莫越山(なこしやま)神社の鳥居が2つ

Img_2474莫越山神社

子育てのシイと言われる「スダジイ」の大木

Img_2471説明板

Img_2516日運寺

あじさいはこれからか。

Img_2513境内図

日蓮が杖で水を湧き出したという「御杖井戸」があるが、元の場所から移設されているというから、本来の御杖井戸ではない。実際普通の井戸で写真を載せるのも止めた。

Img_2480賀茂神社鳥居

遥拝で済ます。本殿は千葉県指定文化財

Img_2483加茂坂(右)・円鏡寺(左)分岐地点 《地図

Img_2485弘法大師供養塔(天保12年(1841)・分岐地点の左側)

台石は道標で、「當国八十八ヶ所 第七十六番 従是四町入 圓鏡寺」だそうだ。

分岐を右に行き加茂坂の上りとなる。
Img_2490途中までは舗装されている。

Img_2507地蔵(左の穴内)・馬頭観音・題目塔など

Img_2493地蔵

ここまではすんなり来た。

Img_2496山道風になる。

この先、分岐がいくつかあり標識・案内板もなく迷った。【ル-ト地図】には正しい(と思われる)道筋だけを記載した。

Img_2543峠あたりだろうか?

標高は100mもないか。

南房総市から館山市に入ったろう。

Img_2548ゆるやかに下って行く。

Img_2552荒れている所もある。

Img_2553民家にぶつかりほっとだが、この道でいいのかまだ分からない。

Img_2554下る途中の崖下に石仏を見つけて一安心

これは道標(天明3年(1783))になっていて、「これより右 清澄道 ■■よ■■ 那古道」だそうだ。■は「これより左」だろう。左に下って行けば那古(館山)でOKだ。

Img_2562明るい竹原地区に出た。

Img_2565八幡神社

Img_2568竹原地区を南下する。

Img_2572田植えを終えた田んぼが広がる。

Img_2576権現橋から滝川 《地図

農業用水だろう。

Img_2535両社神社

伊豆山権現と箱根権現を祀るそうだ。ここも源頼朝ゆかりの地か。ここで一休み、二休みした。時間はたっぷりある。

国道128号に出て西進する。

Img_2586稲村城跡あたり 《地図

里見義実が文明18年(1486)に築城をはじめたと伝えられ、五代義豊までが居城とした里見氏の城跡。

Img_2588莫越山神社町石

神社方向を見ている。「右 一里十九丁廿八間・・」でちょっと方向が違うが。他所から移設されたのか?

Img_2619左から地蔵祠・道標①・孝子墓(塚)道標・道標(三義民殉難之跡・孝子塚) 《地図

道標①(寛政10年(1798))には、「東 きよすみ 南 こくぶん寺 南 一のみ■ 西 やわたなこ寺」、だそうだ。

北の三義民刑場跡に向かう。

Img_2611三義民刑場跡  《地図

万石騒動で処刑された名主3名の供養塔

Img_2609義の伝承碑

Img_2602説明板

北側に孝子塚があるというが見当たらない。後日調べるとかなり離れていた。
往還は南下して安房国分寺の前を通って行く。

Img_2620旧家

Img_2623諏訪神社 《地図

Img_2628安房国分寺境内図

ここにも④孝子石碑・⑦孝子碑がある。

Img_2624三義民供養塔(墓)

墓はそれぞれ国分寺・医王寺(館山市薗)・薬師堂(館山市湊)にある。

Img_2626山門

槙の生垣の参道

Img_2636薬師堂

Img_2635金堂跡

Img_2631説明板

Img_2643マキ(槙)の生垣の道を南下して、突き当りを右折して進み、国道128号に出て西進する。

Img_2657房総往還合流地点(南町交差点) 《地図

ここを終点とし左折して館山駅に向かった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2017年5月29日 (月)

伊南房州通往還⑧

2017年5月21日

太海駅(JR内房線)・・県道217号・・・薬師堂・・・地蔵祠・・・一つ地蔵・・・旧道・・・西院の河原地蔵・・・西徳寺・・四社神社・・・天面漁港・・・江一号踏切(内房線)・・・山生の入江・・・(出世不動尊)・・・(内房線)・・・回国供養塔・牛頭観音・・・道標・・(内房線)・・波切不動尊・・・(内房線)・・・名馬橋(名馬川)・・・薬師堂・・・道祖神・・・薬王院・・・観音寺墓地・・・洲貝川橋(洲貝川)・・・(南房総市)・・・諏訪神社・・・長香寺・・・長者川橋(長者川)・・・六地蔵・・・和一号踏切(内房線)・・・地蔵祠・・・和田浦駅・・・南一号踏切・・・観音堂・・・熊野神社・・普門寺・・・小浦踏切(内房線)・・上野観音堂・・・(真浦川)・・・三界万霊塔・・・地蔵祠・・・和田サーフ橋・・旭橋(三原川)・・・(温石川)・・・正運寺・・・南三原駅(JR内房線)

  【ル-ト地図

Img_2226太海駅から県道217号を進む。

Img_2229薬師堂 《地図

Img_2233地蔵祠

中央は延享2年(1745)に浜波太村の女念仏講中15人の造立。

Img_2236一つ地蔵(左) 《地図

右は昭和30年代に、このあたりの大きく湾曲していた入江を埋め立てて道路を改修した時の殉職者供養の地蔵。

Img_2239今日も快晴で海も穏やかだ。

Img_2241右へ旧道へ入る。

Img_2242西院の河原地蔵堂(右) 《地図

昔はこのあたりは絶壁が続く、波太村と天面村の間の難所だった。海岸には石がゴロゴロしていて、「賽の河原に似ている所からこう呼ばれるようになったようだ。

Img_2244幼児や若くして亡くなった人の霊が祀られ、11月3日の御施餓鬼には近郷近在から多くの人が訪れるという。

Img_2248浅間宮石灯籠(嘉永2年(1849))

右はツナツリ(綱吊り)で、昔はここに大きな「綱吊りの松」があり、天面村への悪病・悪霊などの侵入を防いでいたという。塞神・道祖神と同類だろう。浅間宮は北西の浅間山にあるという。

Img_2250西徳寺

善光寺式三尊像の銅造阿弥陀如来及び両脇侍立像が安置

Img_2253四社神社

土地の人は「ウチカンサマ」と呼ぶ天面村の鎮守

Img_2258天面漁港

Img_2263山生の入り江 《地図

かつては50~60トンの舟も入ったそうだ。

Img_2268出世不動?

Img_2274日本回国供養塔(文化2年(1805))・地蔵・牛頭観音(右端)・その後ろが庚申塔(延宝8年(1680))だろう。

国道を横切り、岩屋山波切不動尊に向かう。

Img_2283波切不動参道 《地図

右の草むらに倒れかけて立つのが道標か?
「右ハはまみち 左ハきよすみ道四里」・「右ハなこ道六り 左ハはまみち」だそうだが摩滅していて読めず。

Img_2284内房線の線路を横切る。

踏切などはないが致し方なし。「危険」の標識はあるが「横断禁止」とはなっていない。

アクセスが悪いせいか参拝客などは見当たらない。境内も荒れた感じだ。

Img_2297百体観音

寛政から享和にかけて太夫崎村や前原町の人々が奉納したものという。

Img_2290不動堂

Img_2289不動の滝

水は流れ落ちているのだが写真だと分からない。
滝の向こう側には「駒穴」と呼ばれる洞窟があり、源義経が一の谷の合戦の時、鵯越の坂落しで活躍した名馬の太夫黒が出た洞窟という伝説がある。嶺岡山地は古くから馬の放牧が行われ、江戸時代には嶺岡牧が置かれた。太夫黒伝説が生まれたこととも関連があるか。
「太夫」はこのあたりの太夫崎からきている。『源頼朝と鴨川

Img_2300名馬橋(名馬川)を渡って国道に出る。《地図

名馬「太夫黒」に由来する名だ。

Img_2305東覚寺薬師堂 《地図

鎌倉末期の板碑が保存されているそうだ。

Img_2310内房線が近くなる。

Img_2313道祖猿田彦大神(嘉永4年(1851)) 《地図

Img_2317薬王院

Img_2318左に祠

Img_2319地蔵と観音?

Img_2320観音寺墓地 《地図

左は延命地蔵の廻国供養塔(享保6年(1721))
右は廻国供養塔(享保11年(1726))

Img_2325洲貝川橋(洲貝川)から内房線

鴨川市から南房総市に入る。

Img_2341諏訪神社 《地図

右に手水鉢(慶應4年(1868)正月の銘)

Img_2337力士が持ち上げている。

花園村出身の「外の海」のようだ。

Img_2348長香寺

Img_2349向西坊供養塔(享保17年(1732))

赤穂藩士片岡源五右衛門の下男で、四十七士の菩提を弔いながらこの地に巡錫し、長者川上流の不動ヶ滝の窟で入定したという。

Img_2353花嫁街道ハイキングコース分岐地点

Img_2356槙の生垣

防風・防潮・防砂・防暑・防寒などの多彩の役割。

Img_2364長者川橋 《地図

ここにも藁の大蛇の「つなつり」(綱吊り)で、悪疫退散「無病息災」だ。

Img_2361反対側にはなぜか船が置かれている。

Img_2371六体地蔵

Img_2372ここも槙の生垣が続いている。

Img_2376大量祈願の地蔵さんで大漁旗がたなびいていたそうだ。

和一号踏切で内房線を横切る。

Img_2377和田浦駅

ここで一休みした。

南一号踏切で再び内房線を横切る。

Img_2381観音堂

Img_2384静かというか寂れた感じの通りだ。

この手前の千葉銀行の所が和田町役場跡。

Img_2386熊野神社 《地図

Img_2388上野観音堂?

Img_2394三界万霊塔(天保2年(1831)) 《地図

ここを右に入って行く。

Img_2398国道と内房線の間の道を行く。

Img_2401地蔵の石祠など

Img_2415和田サーフ橋 《地図

Img_2411サーファーもちらほら見える。

Img_2417三原川を渡る内房線

旭橋から

Img_2423大乗妙典塔(万延2年(1861))など

海雲寺の前あたり?

この先の右側にも地蔵の祠が2つある。

Img_2430正運寺

Img_2437南三原(みなみはら)駅

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月26日 (金)

伊南房州通往還⑦

2017年5月20日

安房小湊駅(JR外房線)・・・国道128号(外房黒潮ライン)・・・実入歩道トンネル・・・新神明橋(神明川)・・・日澄寺・・・善覚寺・・仲宿・・海福寺・・・城戸バス停・・須賀神社・・萬福寺・・・天津小湊公民館・道標(清澄道)・・・天津橋(二タ間川)・・(二ツ山(葛ヶ崎城址))・・・八重門(やえむ)坂・・薬師堂バス停・・・貴船神社・・・多聞寺・・・(日蓮)疵洗い井戸・・・(東町交差点)・・・八幡神社・・・夜長川橋(夜長川)・夜長川碑・・・新田の道標・・・(鴨川シーワールド)・・・永明寺・・・龍性院・・・白旗神社・旗掛松跡・・・待崎橋(待崎川)・・・諏訪神社・・太子堂跡・・・御天王様・・・道標・・・加茂川橋(加茂川)・小社・・・貝渚地区・・釈迦寺・・万騎坂・・金剛院・・妙昌寺・・・八雲神社・・・魚見塚展望台・・・(魚見塚一戦場公園)・・・県道247号・・・波田橋(曽呂川)・・・宝光寺・・・太海駅(JR内房線)

 安房小湊駅から館山まで日帰りにしようか、泊りがけで行くか迷って後回しにしているうちに2年以上経ってしまった。
 3日間で館山の内房回りの房総往還との合流地点まで行き、房総半島一周を完結させる。

 伊南房州通往還⑥(勝浦駅→安房小湊駅)』からの続きです。

 参考:『伊南房州通往還 Ⅰ・Ⅱ』(歴史の道調査報告書・千葉県教育委員会)

  【ル-ト地図

Img_2034鯛の浦

内浦湾から入道ヶ岬にかけての鯛の群生地。

Img_2036説明板

Img_2038実入トンネル 《地図

左の歩道トンネルを抜ける。山側を通る新坂道は途中で途切れるようだ。昔は波の押し寄せる岩浜づたいを千葉大研究センターの先の松ヶ鼻を回って天津に抜けていたという。

Img_2044トンネル水族館になっている。

女子美術大生の壁画が涼しげだ。

新神明橋で神明川を渡る。外房線の北側に天津神明神社がある。
新町から仲宿へと進んで行く。

Img_2054日澄寺  《地図

小松原法難で日蓮の救出に駆け付け殉教した天津領主・工藤左近尉吉隆の居館に、弘安5年(1282)、子の日隆が父の菩提供養に建立したという。

Img_2053説明板

Img_2058善覚寺

摂州西宮の出身者が旦那寺としていた。天津村は近畿地方から干鰯(ほしか)生産のために漁民が進出していた。次第に土着するようになったが、元禄の大地震による津波で大きな損害を受け、地元漁民により漁場から締め出されていったそうだ。

Img_2059仲宿の通り

Img_2061呉服店

Img_2064大日堂(中)・淡嶋堂(右)・稲荷社(左)(ここは海福寺境内?)

Img_2063説明板

「淡嶋堂は江戸時代にこの地に進出してきた関西漁民が、紀州の淡嶋明神を勧請したのが始まり」とある。

Img_2070須賀神社

Img_2071萬福寺

Img_2077「清澄道」道標(明治24年) 《地図

北方の清澄寺への道標で、この先の天津交差点から、ここ天津小湊公民館の敷地内に移設された。

Img_2080二ツ山(葛ヶ崎(くずがさき)城址) 天津橋(二タ間川)から

天正8年(1580)、大多喜城正木憲時里見義弘が死んだ隙に安房の地に侵入し、葛ヶ崎城を攻撃した。城を守っていた角田丹後守は討ち死にし、城は落ちたが、里見の軍勢が押し寄せて来ると、正木氏は大多喜に引き上げたという。
外房の海をおさえるための湊城で、 幕末の異国船打払い用の砲台跡もあったといわれる。

Img_2085八重門(ヤエム)坂を上る。 《地図

葛ヶ崎城の大手門があったともいう。右に袋倉川が流れている。

薬師堂バス停から下って行く。浜荻地区には「山際の道」と「中通り」があるが、山際の道を通る。

Img_2091貴船神社② 《地図

Img_2093多聞寺

小松原法難で日蓮を助けた北浦忠吾・忠内兄弟の墓がある。

Img_2096(日蓮)疵(きず)洗い井戸(山際通り沿い)

小湊の日蓮寺にもあった。『伊南房州通往還⑥

東町交差点を横切って行く。

Img_2105八幡神社前 《地図

左に御嶽様の石祠と庚申塔(宝永6年(1709))
八幡神社は鳥居をくぐった外房線の北側にある。

Img_2109八幡神社

フェンスの下が外房線

Img_2106由緒

Img_2117夜長川橋から夜長川(上流方向) 《地図

日蓮はこのあたりで小松原法難での疵の手当をしながら侍者に時を尋ねた。侍者が四更なりと答えると、日蓮は「夜もまた長いかな」と嘆じたという。

Img_2116「奮蹟夜長川」碑

無残にも残欠という体だ。

Img_2118「新田の道標」の祠(分岐点) 《地図

Img_2121地蔵道標(天明5年(1785))

右側面に、「小松原十一丁」・左側面に、「なご道八り」で、右は小松原法難にまつわる掛松寺から小松原山鏡忍寺への道。左が那古(なご・館山)への往還道。

Img_2123鴨川シーワールド

土曜日で親子連れなどが、向かっている。

Img_2125永明寺向唐門

文化9年(1812)改築

Img_2130寺と思ったら旅館だった。

Img_2133飛梅山龍性院(りゅうしょういん)

Img_2134逆梅

源頼朝が手近の梅の枝を折って逆さに挿したところ根付いたという。

Img_2135本堂向拝の龍の彫刻

上段の龍は後藤利兵衛橘義光の慶応4年(1868)作という。(下段の龍は平成12年の製作)

Img_2137旗掛松碑 《地図

ここは白旗神社境内だが、社殿は見当たらない。

Img_2139旗掛松の切り株

石橋山の合戦に敗れ、安房国に逃れてきた源頼朝は貝渚の一戦場(いっせんば)で長狭六郎常伴を破り、この地に白旗を掲げて上総介広常待ったという。『源頼朝と鴨川』・『長狭六郎常伴と鴨川

「待崎」の地名由来でもある。

Img_2145待崎橋から待崎川河口方向

Img_2156諏訪神社 《地図

Img_2149説明板

Img_2155本殿向拝の龍の彫刻

初代伊八の作という。

Img_2154説明板

諏訪神社の隣の墓地は太子堂跡という。

Img_2159稲荷社?

地元では「御天王様」と呼んでいるそうだ。

Img_2161道標(右の電柱脇) 《地図

Img_2164道標(明治43年)

「→ わだ あさひ ・・・・・」・「・・・・ おほやま・・・・」?
この道標は、『伊南房州通往還 Ⅰ・Ⅱ』(歴史の道調査報告書)にも載っていない。

本町通りを進む。右方の日枝神社慶長地震の大津波の後(前記の『伊南房州通往還』では元禄の大津波後)に築かれた「津波避難丘」に建てられた。元禄大地震では、この丘に逃げ上ったとの言い伝えがあり、犠牲者の供養碑が建てられているようだが、うっかり通り過ぎてしまった。 《地図

Img_2171加茂川橋から河口方向

架橋は明治20年で、それまでは渡し船だった。
前原町は漁業より干鰯を中心とする物産集積地で、加茂川沿いに船着き場が並んでいた。元禄大地震の津波で河岸は崩され、加茂川の隆起で船の出入りができなくなり、漁民も天津や浜荻に移って衰微していった。

Img_2172加茂川橋のたもとの小社

水神社か?

Img_2180万騎坂を上る。《地図

源頼朝が挙兵した時、多くの武士が参集したことによる坂名という。その他、平忠常の安房国府攻めの時、犬掛の合戦での里見義堯の義豊攻めの際の軍勢揃いとする論考などもある。

Img_2183金剛院境内

左は百番巡礼供養塔(弘化3年(1846)・
右は『伊南房州通往還』によれば、「伝梶原清の墓」(応永10年(1403))で、勝負事にご利益があるといい、博徒たちが欠いて持って行ったため笠や相輪の部分が破損しているという。平(藤原)景清のことか。梶原景清もいるが?

Img_2187妙昌寺

仁王門前に船の碇が奉納?

Img_2189魚見塚展望台へ上る。

右は妙昌寺

Img_2191八雲神社  《地図

ここから浅間神社を通って魚見塚に行く道があるのだが、遠回りしてしまったようだ。

Img_2193山道のような所を上ると展望台の下に出た。

Img_2207魚見塚展望台

仏の化身の乙女の「暁風像」の後ろ姿。魚の群れを探さずに、何を見ているのか?

Img_2194説明板

Img_2208加茂川方向

Img_2204仁右衛門島方向

Img_2211弁天島方向

展望台から下って県道247号に出る。

Img_2219宝光寺 《地図

「北ん寺」(宝光寺)と「中の寺」(西福寺)が合併して西福山宝光寺になったそうだ。

Img_2222仁右衛門島(正面)

源頼朝や日蓮の伝説のある島だが、個人の所有で渡船と観覧料で1350円也。

Img_2225太海駅(内房線)

外房線と思っていたが、安房鴨川駅までは内房線だった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月20日 (土)

六郷用水を歩く③

2017年5月16日

武蔵新田駅(東急多摩川線)・・・六郷用水南堀跡・・工事開始の碑・・・耕田橋の堰跡あたり・・・(第二京浜国道)・・・(多摩堤通り)・・・遍照院・・安方神社・・・(多摩川線)・・(環八通り)・・・金剛院・・・六郷田無道交差地点・・・蒲田電車区・蛸の手跡・・・跨線橋(JR京浜東北線)・・・六郷用水物語(田中丘隅①)・・六郷用水物語(田中丘隅②)・・・(京浜急行線)・・(第一京浜国道)・・・真光寺・妙覚寺・善永寺・報身寺・福称寺・延徳寺・正覚寺・・・上田妙法稲荷神社・・・馬頭観音・・・多摩川土手・・・八雲神社・・水門通り商店街・・・(第一京浜国道)・・雑色駅(京浜急行線)

  【ル-ト地図

Img_1922六郷用水の南堀跡を進む。

植込みの中に「六郷用水工事物語 工事開始」の説明碑がある。

Img_1919工事開始碑

Img_1924耕田橋の堰跡 《地図

Img_1925説明板

Img_1928第二京浜を横切った所

Img_1933供養塔群(遍照院) 

右から2番目が承応3年(1654)の阿弥陀如来像が線刻された念仏供養塔。

Img_1929説明板

Img_1932阿弥陀如来像の線刻

Img_1935安方神社

多摩川線と環八通りを横切って行く。

Img_1942金剛院前を通る。

Img_1943説明板

Img_1945六郷田無道交差地点 《地図

六郷用水跡は直進

Img_1952蒲田電車区(操車場) 《地図

ここは何本かの分水口で、「蛸の手」と呼ばれていた。松本清張の『砂の器』の殺害死体発見現場でもある。

Img_2009蛸の手から分水している。

電車区を迂回し、JR線を跨線橋で越えて用水跡沿いに出る。

Img_1960六郷用水物語(左)

Img_1957田中丘隅(休愚)物語① 《地図

Img_1964

仲よし児童公園前

京浜急行線をくぐり、第一京浜国道(東海道)を横切って行く。

Img_1975上流方向を見ている。

Img_1977右の路面にマーク

Img_1985用水の流れ方向を示している。

この先で右折して七辻を見る。

Img_1979確かに七辻だった。《地図

信号機はなく、正面に「日本一ゆずり合いモデル交差点」の看板が立つ。野火止用水用水沿いに「九道の辻」があるが、今は9つの道はなく信号機もある。

用水跡の東側の寺院群を巡る。いずれも築地本願寺寺中から当地に移転してきたようだ。

Img_2000最後の正覚寺では、仔猫が三つ指をついて出迎えてくれた。

Img_2008上田妙法稲荷神社

七福神ではなく「羽田七福いなり」めぐりだそうだ。

Img_2011六郷用水物語(左) 《地図

先ほどの「蛸の手」が載る流路の地図

道路の向かい側に馬頭観音の祠

Img_2012馬頭観音

Img_2015多摩川(上流方向)

少し上流へ進む。

Img_2024?水門から多摩川

これをすっかり六郷水門と勘違いしてしまった。六郷水門は少し上流側にある。

ここを六郷用水歩きの終点とし、雑色駅に向かった。

Img_2029八雲神社

Img_2033水門通り商店街

六郷水門方向

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2017年5月18日 (木)

六郷用水を歩く②

2017年5月12日

二子玉川駅(東急大井町線)・・・調布橋(丸子川)・行善寺坂下・・大山道道標・・・工事中迂回・・・(東急大井町線)・・・界橋・・・稲荷橋・稲荷坂下・上野毛自然公園・・・明神橋・明神坂下・・・(第三京浜国道)・・・倉田橋・・・岸橋・・・宮下橋・・六所神社・・善養寺・・大日橋・・・流見橋・・・東橋・・・天神橋・浄音寺坂下・・谷沢川合流地点・・・玉根橋・等々力坂下(目黒通り)・・・稲荷橋・・・浄楽橋・・東京都市大学・・西根橋・・・中の橋・・・北原橋・・・八幡橋・・・天慶橋・・・尾山橋・・・上の橋・(大田区)・・吹上橋・・・庵谷橋・・・八幡神社・・・照善寺・・中ノ橋・馬坂下・・・荏野橋・・・下ノ橋・・・宝来橋・・・小島橋・・・多摩川台公園(宝来山古墳・亀の甲山古墳)・・・丸子川・・(東急東横線)・・多摩川放流口・・・浅間神社・・・田園調布せせらぎ公園(旧多摩川園・滝坂・大山坂・いろは坂・松の木坂)・・・富士見坂・・・(中原街道)・・六郷用水跡・・・鎌倉街道(下の道)・桜坂下(旧中原街道)・東光院・おいと坂下・・・(東海道新幹線)・・・密蔵院・・・嶺村の庚申塔・・・観蔵院・・・河原坂上あたり・・・(環八通り)・・六郷用水物語(女堀のみち)標柱・・・藤森稲荷神社・ぬめり坂下(平間道)・・・光明寺大門前堰跡あたり・・・下丸子への分水口跡・・南北引き分け跡・鎌倉街道(下の道)分岐地点・南堀跡・・・六郷用水物語(南堀のみち)標柱・・・(環八通り)・・武蔵新田駅(東急多摩川線)

  【ル-ト地図

Img_1573東急田園都市線をくぐった丸子川(六郷用水)

Img_1575調布橋から行善寺坂(大山道) 《地図

西方の慈眼寺坂を下る大山道とともに、二子の渡しで多摩川を渡っていた。

Img_1565大山道道標(安永6年(1777)・瀬田村庚申供養講中) 《地図

「南大山道 左西赤坂道 右東目黒道」
この用水前の道は奥多摩へ帰る筏師たちが利用した筏道。

この先はガス工事中で通れず、大きく右に迂回して大井町線の先の界橋に出る。

Img_1582稲荷橋から稲荷坂

坂の途中の左側に稲荷神社がある。右は上野毛自然公園

Img_1586上野毛自然公園

国分寺崖線の斜面を利用した公園で、『せたがや百景の№92

Img_1589明神橋から明神坂

坂上に野毛2丁目の六所神社に移された「六所明神」があった。坂下の明神池は埋め立てられいる。

Img_1592第三京浜下の水門

余水を多摩川へ排水するのためか。

Img_1601「おもいはせの路」(国分寺崖線散歩道

思いを馳せるほどの道でもないが。

宮下橋から急坂を上って六所神社に寄る。

Img_1603坂上近くから

右は明神坂の坂上から移された六所神社。この坂に名前はついていないようだが、宮坂と呼びたい。

Img_1605六所神社

Img_1610境内の水神社

左下に石造のミニ砂利舟

Img_1606砂利舟の

多摩川の砂利採掘』(稲城市)

Img_1636善養寺

境内は異国風な石造物でにぎやかだ。山門の後ろには大カヤがそびえている。『せたがや百景№94』

Img_1657天神橋から浄音寺坂

等々力渓谷の日本庭園あたりの天神山から由来する橋名か。浄音寺は天保の頃に焼失したという。

Img_1658この先で右にカーブして谷沢川に注いでいる。《地図

かつて六郷用水は、谷沢川の上を越えて流れていたが、現在は谷沢川と合流して多摩川に注ぐ。しかし、清流復活事業として、合流した川の水の一部をポンプで引き上げ、ここから下流の丸子川(六郷用水)に流しているそうだ。

Img_1659谷沢川へと流れる。

Img_1665谷沢川下流方向

Img_1666丸子川(下流方向)

石積みの護岸が続く、谷沢川との混合水の流れ。

Img_1672玉根橋から等々力坂(目黒通り)

Img_1679浄楽橋から尾山台ナザレン教会

教会には似合わない橋の名だ。

Img_1687東京都市大学

首都大学東京と紛らわしい。

Img_1695八幡橋の北側には、八幡塚古墳、宇佐神社、伝乗寺、寮の坂などがある。『世田谷区の坂①

Img_1705上の橋

水辺に下りられるが、あまりきれいとはいえない流れだ。

大田区に入った。

Img_1721八幡神社

鎌倉時代の建長年間(1249~55年)の創建と伝える。当時は篭(籠)谷戸(ろうやと)と呼ばれる多摩川の入江の良港があり、物資を積んだ舟が盛んに出入りしていた。高台部分には東西を鎌倉街道が通る要衝の地だった。鎮座地は舟の出入りを監視できる港の入口に突き出した台地で、その場所に祠を建て、八幡神社を勧請したのが始まりという。

Img_1719新八幡橋から丸子川の南側の細い流れ。

お鷹の圦で、丸子川からの流れと合わせて多摩川へ流れて行くようだ。

Img_1725鷹の圦(いり)樋地図

右の水門から余水を多摩川へ流している。名前の由来は何か?

Img_1727この先で多摩川に続いている。

多摩川の入江の名残りだろうか?

Img_1734照善寺

Img_1735手入れの行き届いた境内だ。

Img_1738中ノ橋から馬坂

左から右(北)に曲がって上って行く。このあたりは『大田区の坂④』で歩いている。

Img_1742坂上方向 《地図

左は照善寺で、坂上を進むと急坂(坂名)上に出る。

Img_1756ここから多摩川台公園に上る。

宝来山古墳・亀の甲山古墳は、『大田区の坂④』に記載。

Img_1763公園内を通って行く。

丸子川に下る。

Img_1780この先で丸子川は終わり、右へ多摩川へ放流している。

Img_1781多摩川への放流口

Img_1786多摩川へ流れ出ている。《地図

正面は丸子橋

Img_1790浅間神社

浅間神社古墳の後円部上に建つ。宝来山古墳~亀の甲山古墳から連なる古墳か。東横線で遮断されているが。

Img_1797多摩川を渡る東横線

富士山は見えず。

Img_1793丸子橋

多摩川園遊園地跡の田園調布せせらぎ公園に寄る。

Img_1801園内図

多摩川園の頃はプールもあった。井戸水なのか冷たくて長く入っていられなかったことを覚えている。今はすっかり変わってしまった。が4つもある。一般道の坂ではないが、23区の新しい坂を見つけたのは久しぶりだ。六郷用水歩きはどうでもよくなって、本職の坂道散歩に取りかかる。

Img_1803

名前はついていないようだ。

Img_1806滝坂を上る。

滝の中間部の上を通っている。

Img_1808滝の上部

Img_1815大山坂

坂上に建物があるが大山の不動堂ではなかった。

Img_1816坂上方向

Img_1818いろは坂

日光のいろは坂のように曲がりながら上る坂だが、いろは48の曲がりとはほど遠い。多摩市にもいろは坂がある。

Img_1824松の木坂

松の木門から公園を出る。

Img_1835富士見坂を下る。《地図

正面方向が富士山だが望むべくもないか。

坂下から多摩川線沿いを進み、中原街道をくぐると六郷用水跡の流れが始まる。

Img_1848国分寺崖線からの湧き水を流している。《地図

Img_1853色とりどり、選り取り見取り?

鯉のぼりは終わったが。

Img_1859ジャバラ(足踏み水車)

Img_1861説明板

Img_1863現在地の桜坂下(旧中原街道)から南北引き分けまでは、鎌倉街道(下の道)に記載で略す。

Img_1911南北引き分け跡(右に説明板) 《地図

北堀・鎌倉街道(下の道)は左へ、今回は右へ南堀沿いを行く。

Img_1910説明板

Img_1914環八沿いに出て左に入って行く。

Img_1916六郷用水物語(南堀のみち)標柱

少し進んで右折し、環八通りを横断して武蔵新田駅に出た。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

«六郷用水を歩く①