函館市の坂-2
2005年8月17日
函館駅・・・二十間坂・・・大三坂・・・チャチャ登り・・・聖ヨハネ教会・ハリストス教会・カトリック元町教会・・・八幡坂・・・船魂神社・・・日和坂・・・基(もとい)坂・・・東坂・・・弥生坂・・・聖マリア教会・・・常盤坂・・・姿見坂・・・幸坂・・・鯨族供養塔・・・旧ロシア領事館・・・千歳坂・・・魚見坂・・・外国人墓地・・・船見坂・・・緑の島・・・赤レンガ倉庫群・・・函館ビール・・・函館駅
函館の坂は坂名の説明板 が坂下と坂上に立っていて歩きやすい。ただ、函館山から直線的に海に向かって下る坂なので変化に乏しい気がする。今日も暑く、強い陽射しの下を南から北へ、14もの坂を上り下りしているうちにいい加減バテてきた。もう一度、涼しい季節にゆっくりと坂沿いの町並みも楽しみながら歩いてみたい。「函館ビール」で地ビールをたらふく飲んで、今回の旅の打ち上げとした。
*参考:『函館観光スポット・坂』
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二十間坂 《地図》
かつて、坂上に大工や工人が多く住んでいたことから「大工町坂」とも呼ばれた。函館は大火が多く、明治12年(1879)の大火後、防火帯としてできた坂で、路幅が二十間あるので「二十間坂」と呼ばれた。【坂標】
大三(だいさん)坂 《地図》
昔、坂の入口に大三という家印の郷宿があったのでこの名が付いた。郷宿というのは、地方から公用で出てくる村民が泊まった宿である。それ以前は、木下という人の宿があったので、「木下坂」といった。昭和62年「日本の道百選」に選ばれた。【坂標】
チャチャ登り 《地図》
函館では珍しいアイヌ語の坂名で幕末頃ついた名らしい。チャチャとはおじいさんのことで、この坂が急なため、前かがみに腰を曲げて登る姿が老人に似ていたことから「チャチャ登り」と呼ばれた。【坂標】
八幡坂 《地図》
基坂上の函館奉行所(元町公園)付近にあった八幡宮が、文化元年(1804)奉行所の拡張工事に伴い、この坂の上に移されたことからこの名がついた。八幡宮は明治11年(1878年)の火災によって焼失し、明治13年に現在の谷地頭町に移った。【坂標】
日和坂 《地図》
坂の上から港の景色を一望でき、空模様を良く判断できるということからこの名が付いた。また、坂の上にある船魂神社辺りからはトビの飛ぶ姿がよく見えたことから、坂の上の方を「トビ坂」と呼んだ。日和もトビも共に天気に関係がある。【坂標】
基(もとい)坂 《地図》
かつては、函館から札幌へ向う函館本線の起点で、坂下に里数を計る元標がたてられていたので「基坂」といった。坂の上は函館奉行所があった中心地で江戸時代には「お役所坂」、「御殿坂」とも呼ばれた。【坂標】
東坂 《地図》
明治12年(1879年)の大火までは弥生小学校の東半分に浄玄寺(現東本願寺別院)があり、その下に坂が二本あった。西側の坂を「浄玄寺坂」。東側の坂を「東の坂」または「白鳥坂」ともいった。その後、坂は一本になり上まで通された。いまの「東坂」はその名残りである。【坂標】
弥生坂 《地図》
明治12年(1879)の大火後改良された坂で、それまでは浄玄寺、称名寺、実行寺が並び、「寺町の坂」といわれた。「弥生」とは、「春」を意味し、発展を祈念して付けられたといわれている。明治15年(1882)、坂の横に小学校ができ、坂名に因んで弥生小学校と名付けられた。【坂標】
常盤坂 《地図》
江戸時代後期、この坂上に大石忠次郎の屋敷があり、そこに奥州の「義経腰掛けの松」と称された名木の種を植えたという大きな松があったので、常盤の松に因みこの名がついた。また昔、坂の中ほど一帯に遊郭があって遊女と別れを惜しんだ客が坂を見返るということから「見返り坂」といわれ、上に芝居小屋があったことから「芝居町の坂」ともいわれた。【坂標】
姿見坂 《地図》
かつて、坂上にあった遊郭に因む名で、遊女達のあで姿が見られたことからこの名がついた。遊郭は江戸の吉原を模し、付近は茶屋町と呼ばれ賑わいを見せたが、明治4年(1871)の大火で焼失し、蓬莱町(現宝来町)へ移った。【坂標】
幸(さいわい)坂 《地図》
昔、坂の中ほどに神社があり、これを神明社といったので、この坂も「神明坂」と呼ばれた。神明社は明治7年(1874)山上大神宮と現在名に改め、のち坂の最上部に移転した。明治8年、坂下の海岸が埋め立てられ幸多かれと幸町(現弁天町)ができたので、町名に従い「幸坂」となった。【坂標】
千歳坂 《地図》
明治12年(1879)の大火以降にできた坂で、坂の東側に神社があり、ここに松の木があったので、千歳の松に因んでこの名が付いた。「松蔭坂」とも呼んだ。それ以前は、東脇に短い坂があって「神楽坂」と呼んでいた。これは神社の神楽殿に由来したものであった。【坂標】
魚見坂 《地図》
函館で一番西にある坂で、坂の上から湾岸に押し寄せてくる魚群の発見に便利なところだったのでこの名が付いたといわれている。この坂の上の方は昭和40年まで台町という町名だったので、最近まで「台町の坂」とも呼ばれていた。
船見坂 《地図》
港に出入りする船舶がよく見えることから、明治6年(1873)坂上を船見町と名付け、その町に通じる坂なので「船見坂」と呼んだ。また称名寺の下の坂なので「称名寺坂」とも呼ばれた。戦後、上が校地となり坂は途中までとなった。【坂標】
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