大田区の坂-1
2005年10月20日(水)
大森駅(JR京浜東北線)・・・大森貝墟碑(大田区山王)・・・大森貝塚遺跡公園(品川区大井6丁目)・・・山王日枝神社・・・八景坂・・・天祖神社・・・闇(くらやみ)坂(右の写真)・・・熊野神社・善慶寺・・・春日神社・・・臼田坂・・・右近坂・・・鐙坂・・・おいはぎ坂・北向稲荷・・・万福寺男坂・女坂・・・蛇坂・・・馬込八幡神社・・・南坂・・・馬込坂・・・二本木坂・・・二本木橋・・・湯殿神社・・・大田区立郷土博物館(休館日)・・・馬込駅(都営地下鉄)
大森貝塚は大田区だと思っていましたが、朝日新聞の記事によると品川説があり、90年代にほぼ確定的(品川に)になったとありました。たいして離れていません、400m~500m程でしょうか。大森駅前の池上通りの八景坂は車が渋滞するなだらかな車道で、むろん今は海を見晴らすことなど望むべくもありません。天祖神社の正面の石段は狭く急です。今でも暗さの残るところがある闇坂の坂上から熊野神社まで起伏の多い、気分のいい道を行きました。臼田坂は馬込から荏原町、三軒茶屋を通り田無に通じて、田無街道と呼ばれ、坂周辺は萩原朔太郎、川端康成、石坂洋次郎など多くの作家が住み「馬込文士村」という言葉の生まれたところで、当時は赤土の急坂だったそうです。
おいはぎ坂の坂上付近は明るい住宅地ですが、坂の途中に万福寺の墓地があり、坂下の北向稲荷は木々に覆われ暗い感じです。おいはぎ坂から蛇坂に向かう途中に万福寺があります。境内の案内図に男坂、女坂が載っています。本堂へ正面から上る石段が男坂、鐘楼に上り本堂へ向かうのが女坂です。今は蛇坂に蛇など出そうもなく、蛇のように曲がった坂というのがふさわしい感じです。南坂を下ると第二京浜国道の馬込坂を挟んで、二本木坂の上りとなり東海道新幹線の二本木橋あたりまで上っています。この道は旧池上村の根方(仲池上1丁目付近)へ通じている古道です。
参考:『大田区の坂道』
写真をクリックすると拡大します。
山王日枝神社(山王1-6)
八景坂 JR大森駅西側を線路沿いに北東に上る池上通り。《地図》
かつては坂上からの眺めがよく、八景が選ばれたことによる。昔は急坂で、雨が降るたび坂が掘れて薬研の溝のようになったので薬研坂の別名がある。坂上に安藤広重の浮世絵にも描かれた源義家の鎧掛松も明治時代に枯れてしまった。「ハケの坂」と呼ばれていたのを、「八景」に結びつけたのだろう。
八景坂・鎧掛松『江戸名所図会』
石段横に八景碑があり、「笠島夜雨、鮫州晴嵐、大森暮雪、羽田帰帆、六郷夕照、大井落雁、袖浦秋月、池上晩鐘」と八勝景が刻まれているというが見逃した。
笠島夜雨の「笠島」はどこなのか? 京浜急行大森海岸駅南の第一京浜国道沿いの磐井神社の境内に東海七福神の笠島弁財天があり、万葉集の「草陰の荒藺(あらい)の崎の笠島を見つつ君が山路越ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁財天を指したものという説もあるが、この歌は「(海に浮かぶ)笠島を見ながら(高台の)荒藺の崎を越えて行く頃だろう」というもので、笠島弁財天のことではないだろう。弁財天はもとは笠島にあったものがここに移ってきたともいう。(万葉集に詠まれた時代より後) また、「荒藺の崎」は大森駅周辺の高台という説もあり、笠島は荒藺の崎の東下の現在の東京湾に浮かぶ小島だったのでは。磐井神社は東京湾の浜までが境内で、海中に鳥居があったという。笠島はその東方向にあったのではないだろうか。人工島の平和島を造る際に一緒に埋め立てられてしまったか? 袖浦秋月の「袖浦」は東京湾の対岸の千葉の袖ヶ浦のことだろう。
闇(くらやみ)坂(坂下方向) 山王2-12と3-31の間を曲がって北西に上る。《地図》
坂のそばに八景園(明治17年開園の遊園地)があり、反対側に加納子爵邸があっての樹木が坂を覆い、昼間でも暗かったためこの名がついた。
臼田坂(坂下方向) 南馬込3丁目と4丁目の間を北西に上る。《地図》
坂周辺に臼田姓が多いためにこの名がついた。今でも臼田家は何軒もある。
馬込文士村に住んでいた萩原朔太郎の散文詩「坂」の冒頭部分:「坂のある風景は、ふしぎに浪漫的で、のすたるぢやの感じをあたへるものだ。坂を見てゐると、その風景の向うに、別の遥《はる》かな地平があるやうに思はれる。特に遠方から、透視的に見る場合がさうである。坂が――風景としての坂が――何故にさうした特殊な情趣をもつのだらうか。(以下省略)」
朔太郎は馬込の前は田端文士村に住んでいた。『東京散歩(谷戸川跡~隅田川)』に記載。故郷の前橋には、「前橋望景の碑」が立っている。『前橋市の坂①』 奥州街道の白河宿には朔太郎の妻の生家の造り酒屋がある。
右近坂(坂上方向) 南馬込3-24と3-28の間を西北に上る。坂上は臼田坂上。《地図》
坂名の由来は、①臼田坂の右近くだから。②右近、あるいはおこんという名の人が住んでいた。③うこん色の着物を着た娘がよくこの坂を通った。などさまざま。
昔は人通りの少ない寂しい坂で、雨が降るとどろんこの道になった。
鐙(あぶみ)坂(坂上方向) 南馬込4-4と4-12の間を北に上る。《地図》
梶原景季の愛馬、磨墨の鐙が落ちていたという鐙谷の伝説に因る名。鐙谷は臼田坂上バス停あたりから南西の低い地帯。磨墨塚は南馬込3-19にある。本郷の菊坂の近くにも鐙坂がある。
正面の暗い方へ下る。
おいはぎ坂 南馬込4-7と4-9の間を北東に上る。《地図》
墓地があり、木が繁り暗く寂しい場所でかつてはおいはぎが出たところ。右側に北向稲荷。その上は万福寺の墓地。坂下には内川が流れ(現在は暗渠)、善照寺の角に牛洗戸橋があったので別名を牛洗戸坂。この道は池上本門寺に向かう裏道に当たる重要な道だった。
北向稲荷神社(おいはぎ坂の坂下)
昔は、北向上台神社と呼ばれていた。「出世稲荷」の扁額がかかっている。江戸時代にはたいそう流行った神社だったそうだ。
梶原氏とのつながりの深い寺院で、梶原景時が開基とも伝える。
鐘楼へ上る石段。
蛇坂 南馬込1-27と1-24の間を曲がりながら南西に上る。《地図》
この辺に蛇が多く住んでいたとも、蛇のように曲がっているのでついた名ともいわれる。
南坂 南馬込5-6と5-7の間を東北に上る。 《地図》
馬込の氏神の馬込八幡神社の南にあるためついた名。昔は狭い急坂だった。
旧馬込村の総鎮守
馬込坂 西馬込1丁目と南馬込5丁目の間を東北に上る第二京浜国道。《地図》
このあたりは、昔は小高い丘や水田で、坂下には内川の清流が流れていた。
二本木坂(坂下方向) 西馬込1-16と1-10の間を北西に上る。《地図》
この辺は馬込村小字二本木と呼ばれていた。
湯殿神社(南馬込5-18)
馬込村の根古屋谷の鎮守
| 固定リンク
「旅行・地域」カテゴリの記事
- 坂道散歩(2023年11月~)追加分(2023.12.14)
- 「歩いた坂」追加分(2023.12.10)
- JR京浜東北線を歩く①(2022.10.22)
- 大落古利根川・中川を歩く(2023.11.22)
- 柴又街道②(2023.11.21)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント