渋谷区の坂-4
2005年11月29日(火)
代々木駅(山手線)・・・日陰坂・・・切通しの坂・・・初台坂・・・切通坂・・・弥之助坂・・・旭坂・・・ やりくり坂・・・代々木上原駅(小田急線)
切通しの坂は、岸田劉生の「切通しの写生」で知られていますが、今は絵のような急坂の面影はありません。長く緩やかな初台坂を下り、山手通りを渡ると代々木八幡神社です。神社の南側に切通坂があります。両側が高く切通しされた様子がよく残っています。
弥之助坂、旭坂は北に小田急線の線路に向って下る坂です。旭坂を下ってガードをくぐると上り坂となり、少し行くと急な上り坂となります。やりくり坂は古賀政男音楽博物館の裏手の直線的な急坂です。
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日陰坂(坂上方向) 代々木1-5、1-6と首都高速4号の間を北西に上る。《地図》
市中から甲州街道へつながる裏街道で、樹木が生い茂り、薄暗い日陰の坂だった。日本青年館(新宿区霞丘町)の地にあった幕府の煙硝蔵(火薬庫)から、硝煙を運ぶ荷車がこの坂を通って甲州街道へと往復していた。『渋谷の坂』
切通しの坂(坂上方向) 代々木4-21と4-22の間を北東に上る。《地図》
岸田劉生の「切通しの写生」で描かれた坂。劉生がこの近くに住んでいた大正の初め頃は、絵のとおり一帯が代々木野と呼ばれる原っぱで軍事教練などが行われていた。『渋谷の坂』
初台坂(坂下方向) 初台2-2、2-3と2-27の間を北に上る。《地図》
家康の側室宝台院に仕え、将軍秀忠の乳母をつとめた初台の局が、天正19年(1591)代々木村に200石の地を賜りこのあたりに隠居した。正春寺(代々木3-27)に初台の墓がある。『渋谷の坂』
また初台という地名は、太田道灌が築いた8ケ所の砦の一つ(狼煙台)から出た名であるともいわれる。
切通坂(坂上方向) 代々木5-2の代々木八幡と5-9の間を南東に上り下る。《地図》
かなり古い時代に開かれた切通しで、明治から昭和の初めにかけては郊外の農民が野菜を車に積んで上渋谷や青山久保町にあった市場に出荷のためこの坂を通ったという。舗装前は赤土の坂で滑りやすく難渋したという。『渋谷の坂』
縄文時代の住居跡(復元)
弥之助坂(坂下方向) 上原1-40と1-41の間を南西に上る。《地図》
享保年間(1716~35)、池上弥之助の所有地の前だったことによる。別名は「しりもち坂」で、舗装前は粘土質のため雨が降ると通行人が滑って転び、尻餅をついた。坂下の野菜を洗う小川の水溜りで、転んだ人がよく尻を洗っていたという。
旭坂(坂下方向) 上原1-35と1-36の間を北に下り、小田急線の高架をくぐり北に上る。《地図》
坂の両側は上原商店街で賑わっているが、昔は暗くてさみしい坂道だったという。昭和の初期に改修された時に、坂道に朝日が射すことから、町会で「あさひ坂」と呼ぶこととして、「旭」の文字をあてた。『渋谷の坂』
やりくり坂(坂下方向) 上原3-6と3-7の間を東に上る。《地図》
昭和4年頃、住民がやりくり算段と労力を提供して造った坂。代々木上原から渋谷、青山方面へ出るのが大変便利になった。『渋谷の坂』
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