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2005年11月29日 (火)

渋谷区の坂-4

2005年11月29日(火)

代々木駅(山手線)・・・日陰坂・・・切通しの坂・・・初台坂・・・切通坂・・・弥之助坂・・・旭坂・・・ やりくり坂・・・代々木上原駅(小田急線)

 切通しの坂は、岸田劉生の「切通しの写生」で知られていますが、今は絵のような急坂の面影はありません。長く緩やかな初台坂を下り、山手通りを渡ると代々木八幡神社です。神社の南側に切通坂があります。両側が高く切通しされた様子がよく残っています。

 弥之助坂、旭坂は北に小田急線の線路に向って下る坂です。旭坂を下ってガードをくぐると上り坂となり、少し行くと急な上り坂となります。やりくり坂は古賀政男音楽博物館の裏手の直線的な急坂です。

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DSC03396 日陰坂(坂上方向)  代々木1-5、1-6と首都高速4号の間を北西に上る。《地図》 

市中から甲州街道へつながる裏街道で、樹木が生い茂り、薄暗い日陰の坂だった。日本青年館(新宿区霞丘町)の地にあった幕府の煙硝蔵(火薬庫)から、硝煙を運ぶ荷車がこの坂を通って甲州街道へと往復していた。『渋谷の坂』

DSC03402 切通しの坂(坂上方向)  代々木4-21と4-22の間を北東に上る。《地図

岸田劉生の「切通しの写生」で描かれた坂。劉生がこの近くに住んでいた大正の初め頃は、絵のとおり一帯が代々木野と呼ばれる原っぱで軍事教練などが行われていた。『渋谷の坂』

DSC03412 初台坂(坂下方向)  初台2-2、2-3と2-27の間を北に上る。《地図

家康の側室宝台院に仕え、将軍秀忠の乳母をつとめた初台の局が、天正19年(1591)代々木村に200石の地を賜りこのあたりに隠居した。正春寺(代々木3-27)に初台の墓がある。『渋谷の坂』
また初台という地名は、太田道灌が築いた8ケ所の砦の一つ(狼煙台)から出た名であるともいわれる。

Dsc03415坂上方向

DSC03422 切通坂(坂上方向)  代々木5-2の代々木八幡と5-9の間を南東に上り下る。《地図

かなり古い時代に開かれた切通しで、明治から昭和の初めにかけては郊外の農民が野菜を車に積んで上渋谷や青山久保町にあった市場に出荷のためこの坂を通ったという。舗装前は赤土の坂で滑りやすく難渋したという。『渋谷の坂』

Dsc03417 代々木八幡神社

Dsc03416 代々木八幡遺

縄文時代の住居跡(復元)

DSC03434 弥之助坂(坂下方向)  上原1-40と1-41の間を南西に上る。《地図

享保年間(1716~35)、池上弥之助の所有地の前だったことによる。別名は「しりもち坂」で、舗装前は粘土質のため雨が降ると通行人が滑って転び、尻餅をついた。坂下の野菜を洗う小川の水溜りで、転んだ人がよく尻を洗っていたという。

DSC03436 旭坂(坂下方向)  上原1-35と1-36の間を北に下り、小田急線の高架をくぐり北に上る。《地図

坂の両側は上原商店街で賑わっているが、昔は暗くてさみしい坂道だったという。昭和の初期に改修された時に、坂道に朝日が射すことから、町会で「あさひ坂」と呼ぶこととして、「旭」の文字をあてた。『渋谷の坂』

Dsc03437 坂上方向

Dsc03447 旭坂の坂下から上る坂の坂上から。

DSC03449 やりくり坂(坂下方向)  上原3-6と3-7の間を東に上る。《地図

昭和4年頃、住民がやりくり算段と労力を提供して造った坂。代々木上原から渋谷、青山方面へ出るのが大変便利になった。『渋谷の坂』

Dsc03451 坂下から

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2005年11月21日 (月)

渋谷区の坂-3

2005年11月21日(月)

恵比寿駅(JR山手線)・・・南郭坂・・・ネギヤマ坂・・・ビール坂・・・伊達坂・・・和田・・・恵比寿駅 →原宿駅・・・ネッコ坂・・・勢揃坂・・・観音坂・・・榎坂・瑞円寺・榎稲荷・・・将棋会館・・・八幡坂・鳩森八幡神社・・・聖輪寺・・・千駄ヶ谷駅(JR総武線)

 ネギヤマ坂は明治通りから入り東北寺の方へ上る短い坂で、このあたりにねぎ畑があったそうですが今の周辺の様子からは想像できません。ビール坂は恵比寿橋から曲がりながらサッポロビールまで上る坂です。港区との境付近にある和田坂も短い坂です。和田姓の著名人でも住んでいたのでしょうか? 

 原宿の表参道の南側にあるネッコ坂。細い坂で根っこのように曲がりくねっているのでこの名がついたといいます。外苑西通りから勢揃坂に出ました。後三年の役の時、八幡太郎義家がこの坂で軍勢を揃え出陣したという伝承の坂です。坂上に熊野神社、坂の途中に竜厳禅寺、坂下に慈光寺があります。

 観音坂は坂下の聖輪寺の今はなき十一面如意輪観音による坂です。榎坂の由来となった榎稲荷は移築されて坂下近くにあり、お萬榎の石柱、由縁碑もあります。鳩森八幡神社の境内には、富士塚、甲賀神社、将棋堂などがありました。

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DSC03318 南郭坂(坂上近く)  東2丁目と3丁目の間を東に上る。《地図

坂上に儒学者服部南郭の別邸「白賁塾」(はくふんじゅく)があった(東2-10)。 邸内には高野マキがそびえていたが、今は切り倒されてその面影はない。南郭の子孫が代々住んでいる。『渋谷の坂』

別名を富士見坂だが今は冨士は望めない。

Dsc03313 坂下方向

Dsc03319_1 服部南郭屋敷の説明板

DSC03322 ネギヤマ坂(坂上方向)  広尾1-5と1-7の間を東北寺に向け、北東に上る。《地図

かつてこの辺にねぎ畑があった。

Dsc03323 坂下方向

DSC03326 ビール坂  恵比寿1-21と1-24の間から4-10と4-25の間へ曲がりながら南方向に上る。坂上はサッポロビール。《地図

明治20年(1887)目黒村三田に開業した日本麦酒醸造有限会社は、商品名を恵比寿ビールと命名し、明治36年に恵比寿荷扱駅を設置した。この年に工場の敷地が渋谷村まで拡張された。ビールを馬車で東京市中に運ぶために恵比寿橋が架けられ、ビール橋、ビール坂と呼ぶようになった。『渋谷の坂』

Dsc03328 坂上方向

Dsc03331 サッポロビール

DSC03340 伊達坂(坂上方向)  恵比寿3-1、3-7と3-2、3-5の間を南に上る。《地図

坂上に享保3年(1718)から伊予宇和島藩伊達家の下屋敷があった。それ以前は長府藩毛利甲斐守綱元の拝領屋敷で約11000坪あったという。明治22年から伊達跡、その東側を伊達前と称されるようになり、昭和3年に合併して伊達町となった。『渋谷の坂』

Dsc03342 坂下方向

DSC03343 和田坂(坂上方向)  恵比寿2-29と2-30の間を南東に下る短い坂。《地図

由来不明、坂付近に和田姓の著名人か坂に関係した人が住んでいたのか? 和田義盛と関係がある坂なのか?

Dsc03345 坂下方向

DSC03353 ネッコ坂(坂上方向) 神宮前5-12と5-16の間を曲がりながら東南に上る。《地図

坂が木の根っこのように曲がっていることによる。鎌倉道の一部ともいわれる。明治42年に代々木練兵場ができると練兵場に向かう兵隊や、演習を終えて市内へ向かう兵隊で、この狭い坂道が一日中混雑したという。

Dsc03354 坂下方向

DSC03365 勢揃坂  神宮前2-3と2-2の間を南に上る。《地図

後三年の役の時、八幡太郎(源)義家がここで軍勢を整え出陣したという伝承の坂で、『鎌倉街道中の道』の道筋。
この坂に面している国学院高校の校門を、同校は「勢揃坂門」と命名している。 別名を源氏坂

Dsc03361 勢揃坂の説明板

Dsc03360 坂下方向

Dsc00643竜厳禅寺(勢揃坂坂下近く)

DSC03370 観音坂  千駄ヶ谷1丁目と2丁目の間を北西に上る。《地図

聖輪寺の慈覚大師の作(行基の作のと伝もある)と伝える十一面如意輪観音によるが、戦災で焼失してしまった。観音の眼は金だと聞いた賊が盗みに入ったが自分の刀に貫かれて死んでしまった。爾来、「目玉の観音」として崇められたという。『渋谷の坂』

Dsc00646 聖輪寺

今は鉄筋のビルだが広大な敷地で本堂も壮大だったという。

Dsc00644 瑞円寺

DSC03373 榎坂(坂下方向)  千駄ヶ谷2-35、瑞円寺の南側を東北に観音坂の方へ上る。《地図

坂下(千駄ヶ谷2-29)にかつて、俗に「お万榎」と呼ばれていた榎の老巨木があった。江戸初期の大風で折られ、根幹は朽ちて洞穴を開けていたが、不思議にも2本の檗(ひこばえ)(切り株や根元から群がり生える若芽。又生え)を生じて伸長し、それが人間が逆立ちしたような形になったので評判となり、その洞穴に稲荷を祀り、拝むようになった。やがてこの木の形による性的信仰から、子授かり、子育て、縁結び、商売繁盛、金縁など多方面の俗信仰を集めた。今でも柳楊枝や飴などが祀られ、新しい供物や幟を見かける。昔は新宿の遊女や、堀の内詣りの男女のお参りが多かったという。『渋谷の坂』

お万榎の名は、仙寿院を創建した紀州藩主徳川頼宣の生母お万の方がこの木を信仰したことによる。榎の根元に洞窟があり、江戸庶民は「古里大明神」と幟を立てて祀り、色街の信仰が厚かったという。『今昔東京の坂』

Dsc03374 坂上方向

Dsc03379 榎稲荷

榎は戦災で焼失してしまったので移築された。

Dsc03377「 江戸名所 お萬榎 榎稲荷」

Img_3980古里大明神」の洞窟だろう。

 2013年7月25日撮影

Dsc03378 由縁碑

お万榎と榎稲荷の縁起と由緒が書かれている。昭和25年5月に仙寿院と瑞円寺で建てたもの。

DSC03389 八幡坂(坂下方向)  千駄ヶ谷3丁目の鳩森八幡神社の北側を北東に上る。左が鳩森八幡。《地図

鳩森八幡は千駄谷八幡ともいい、江戸時代には千駄ヶ谷の総鎮守だった。境内で定芝居が行われ、水茶屋、楊弓場などもあって庶民の遊興の場となっていた。『渋谷の坂』

Dsc03384 坂上方向

Dsc03383 甲賀稲荷神社(鳩森八幡神社境内)

Dsc03381 富士塚

寛政元年(1789)の築造で、都内最古。

Dsc03382 説明板

Img_3986将棋堂

鳩森八幡神社の向いに将棋会館がある。

Img_3985由来記

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2005年11月19日 (土)

渋谷区の坂-2

2005年11月19日(土)

渋谷駅・・・間坂(あいだざか)・・・南平坂・・・かめやま坂・・・天狗坂・・・代官山坂・・・ 古代住居跡・・・上村坂(目黒区)・・・目切坂(目黒区)・・・猿楽塚・・・内記坂・・・衆楽坂・・・夕焼け坂・・・新富士坂・・・いなり坂・福徳稲荷・・恵比寿駅

 今日は北風が吹き寒く感じました。玉川通りから南西方向に上る間坂を上り、南平坂を下り、向かい合うかめやま坂を上りました。天狗坂は短い坂、説明板がありましたが落書きがされていました。代官山坂には4本の道筋があるようですが、代官山町14と15の間の坂が一番ふさわしく感じました。この坂は下って東横線を渡り、無名の坂を上ると衆楽坂の坂上に出ます。

 目切坂の坂上の近くに猿楽塚があります。6~7世紀頃の径20mほどの円墳で、上に神社が祀られています。南にもう一基の円墳があり、その間を鎌倉街道が通っていたそうです。代官山駅から内記坂を下り、衆楽坂を上りました。旧町名の衆楽町に因む坂名です。 坂上から南に進み内記坂を横切り、夕焼け坂に出ました。「夕焼け小焼け」の作曲家が音楽の先生をしていた長谷戸小学校の前の坂です。

 新富士坂(11月10日「目黒区の坂-2」に記載)は、「新富士」と呼ばれた別所坂上に続く坂です。恵比寿駅線路沿いの、いなり坂の途中に福徳稲荷の小さな社が祀られていました。

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DSC03228 間坂(あいださか)  桜丘町24と25の間を西南に南平台町に上る。《地図

かつての大和田町と桜丘町の境で、「両町の間にある坂」の意。『渋谷区の坂』

Dsc03231 坂上方向

DSC03234 南平坂(坂下方向)  南平台町7と8の間を北西に上る。坂下でかめやま坂と向き合う。《地図

町名に由来

Dsc03237 坂下方向

DSC03240 かめやま(亀山)坂(坂上方向)  鉢山町3と9の間を南東に上る。《地図

坂の形状を亀の背に見立てた。『渋谷区の坂』

Dsc03242 坂下方向

DSC03247 天狗坂  猿楽町2と5の間を南東に上る。《地図

明治38年に紙巻煙草(金天狗・銀天狗)の開祖、岩谷商会を設立した岩谷松平(自称岩谷天狗)が銀座からここに移り住み邸宅(赤く塗って、岩谷御殿と称した)を構えた。敷地内で養豚業を始めたが失敗し、大正9年にこの地で没した。梅窓院に墓がある。

Dsc03245 天狗坂の説明板

Dsc03244 坂上から

DSC03258 代官山坂(坂下方向)  代官山町14と15の間を北西に上る。《地図

代官山の名は昔、代官所があったからと伝えるが、その証左はなく、むしろ「関東郡代(代官)の持地の山林があったためこの名が起こった」(『大日本名所図会』)のではないか。『渋谷の坂』

Dsc03261 猿楽古代住居跡

Dsc03262 古代住居跡(復元)

Dsc03263 猿楽塚

Dsc03265 猿楽塚

円墳・古墳時代末期

DSC03268 内記坂(坂上方向)  恵比寿西1-30と2-17の間を南西に上る。《地図

寛延3年(1750)の江戸絵図を見ると、ここに「横山内記抱屋敷」があった。内記は当時の定火消しの頭となった人で、のちに西の丸御小姓組の番頭から西の丸書院組の番頭になっている。采地(さいち)(領地、知行地)4500石の大身の旗本であった。『渋谷の坂』 別名は富士見坂

Dsc03267 坂下方向

DSC03278 衆楽坂(坂下方向)  恵比寿西1の交差点から恵比寿西2-10と2-11の間を西北に上る。《地図

旧衆楽町の真ん中を通っていた坂。

Dsc03282 無名の坂  衆楽坂上から西に下り東横線の線路を越え代官山坂につながる坂。

DSC03285 夕焼け坂  恵比寿西1-18と1-23の間、長谷戸小学校の北側を西北に上る。《地図

「夕焼け小焼け」の作曲家草川信が大正から昭和にかけ長谷戸小学校の音楽教師をしていた。記念碑がある。

Dsc03286 「夕やけこやけ」の碑

Dsc03289 「夕やけこやけ小学校」の長谷戸小学校

Dsc03287 坂上方向

DSC03307 いなり坂  恵比寿駅西側の恵比寿南1-13と1-18の間を南に上る。《地図

坂の途中に福徳稲荷がある。

Dsc03348 福徳稲荷

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2005年11月17日 (木)

渋谷区の坂-1

2005年11月17日(火)

渋谷駅・・・間坂(まさか)・・・スペイン坂・・・オルガン坂・・・道玄坂・・・宮益坂・御嶽神 社・・・金王坂・・・金王八幡宮・豊栄稲荷・・・八幡坂・・・羽沢坂・・・白根記念渋谷郷土博物館・・・吸江寺・・・渋谷駅 

 今日の坂道散歩は苦手な渋谷駅周辺です。間坂、スペイン坂、オルガン坂は人が多くて写真が撮りづらいと思っていましたが意外と簡単に撮れ一安心しました。間坂は井の頭通りからロフト沿いに公園通りに上る坂、スペイン坂は井の頭通りからペンギン通りに上る細く小さな坂です。両方の坂に坂名を記した小さな石柱が立っています。オルガン坂は東急ハンズ前からパルコPART1に上る坂です。

 道玄坂、宮益坂、金王坂、八幡坂と車と人ごみの中を進みました。八幡坂の通りは、中世の鎌倉街道の名残で並木橋で渋谷川を渡り、目黒川から末は鎌倉まで通じていたそうです。港区南青山との境にある羽沢坂は、細く長い坂で日赤医療センターまで上っています。坂下近くに常陸宮邸があり向かい側に白根記念渋谷郷土博物館があります。

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DSC03183 間(ま)坂  井の頭通りからロフト沿いに北方向に公園通りに上る。《地図

公募によりRoftが命名。「渋谷駅と公園通りとの間」・「ビルとビルの間」・「『まさか』という語呂のよさ」・「『間』という漢字が人と人との関わり合いをイメージする」との理由から。

Dsc03184 間坂の坂標

DSC03188 スペイン坂  宇田川町13と16の間を北に上る。井の頭通りからペンギン通りへ抜ける道。《地図

スペインの風景に憧れた喫茶「阿羅比花(あらびか)」の店主が命名。

Dsc03187 スペイン坂の坂標

DSC03189 オルガン坂  宇田川町、東急ハンズ前からパルコPARTへ上る。《地図

①周辺に音楽関係の店が多かった。②東急ハンズ前の階段がオルガンの鍵盤に見えるからとの説もある。

DSC03193 道玄坂  道玄坂2-6と2-29の間を曲がりながら西南に上る。《地図

①江戸時代、和田義盛の残党、大和田太郎道玄が、渋谷氏滅亡後にこの坂に出没し、山賊野盗の振舞いをしたところから命名された。②「天正日記」によると、道玄庵という寺の庵主が、徳川家康に由緒書を出していることからこの名がついたという説もある。道玄庵は松見坂(目黒区)の近くにあったらしく、世田谷街道に入って松見坂までを道玄坂と呼んでいたらしい。『渋谷の坂』・『道玄坂の歴史

DSC03199 宮益坂  JR渋谷駅、道玄坂下から東に青山通り(国道246号)に上る。《地図

古くは富士見坂といい、矢倉沢往還(大山街道)の最初の坂。正徳3年(1716)に坂の途中にある千代田稲荷(現在の御嶽神社)にあやかって、町名を渋谷宮益町に変えたためこの坂名になった。

DSC03204 金王坂  宮益坂上から渋谷駅方向に南西に下る青山通り。《地図

かつての町名、金王町に因む。

DSC03214 八幡坂  東1丁目と渋谷3丁目の間を北東に上る八幡通り。《地図

坂上近くに、金王八幡宮がある。鎌倉道で、並木橋→猿楽塚→目黒川→鎌倉へ。反対方向は青山学院→原宿→千駄ヶ谷で奥州道につながっていた。

Dsc00634 金王八幡宮

源義朝、頼朝の家来の渋谷金王丸(土佐房昌俊)にちなむ名。

Dsc00635豊栄稲荷神社(金王八幡宮の隣)

境内に集められた庚申塔には、「めぐろ・こんわう道」と刻まれた道標を兼ねた物、渋谷伝左衛門以下同姓の名が見え、旧領主渋谷氏との関連を想像させる物などがある。

DSC03216 羽沢坂(坂上方向)  広尾3-6と港区南青山7-6の間を東に上る。《地図

かつての町名、羽沢町にちなむ。ここは源頼朝の飼っていた鶴の雛がはじめて羽を打った所で羽沢という。

Dsc03221 坂下方向

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2005年11月15日 (火)

目黒区の坂-4

2005年11月15日(火)

大岡山駅(大井町線)・・・鶯坂・・・鉄飛坂・・・寺郷坂・・・兵庫坂・中根公園・・・蜀江坂・・・どぜむ坂・・・柿の木坂・・・天神坂・北野天満宮・・・氷川神社・氷川坂・・・しとみ坂・・・太鼓坂・・・化坂・・・睦坂・・・谷畑坂・・・自由が丘駅(大井町線)

 鉄飛坂と寺郷坂は向かい合う坂です。寺郷は旧地名で「衾の茶屋坂」の別名があります。浄真寺(九品仏)参りの人たち相手の水茶屋があったそうです。

 兵庫坂とすぐ北にある蜀江坂。「ひょうご」と「しょっこう」は音が似ています。元はどちらかの坂に名がついていて、その名が転訛してもう一つの坂の坂名になったのではと思いました。後で調べると、『今昔東京の坂』(岡崎清記著)には、現存しない坂名一覧の中で、「兵庫坂(ひょっこ坂)蜀江坂(しょっこ坂)中根2-18と19の間、住宅が建ち、姿を消す。『江戸名所図会』」とありました。しかし、中根2-18と19の間に今も道はあり中根公園の北側を東方向に下っています。

 「どぜむ」は、人の名か堂の前かどちらでしょうか? 柿の木坂の由来についても諸説あります。しとみ坂、太鼓坂は呑川緑道から目黒通りに上る直線的で美しい坂です。

 化坂の由来については、①文字通り「化」でこの辺で怪異があった。②寺があり井戸があった。③「化」は、崖の古称「ハケ」の当て字で「崖の坂」という意味。④目黒と世田谷をの境を分ける「分け坂」が訛って「ばけ」となり「化」の字を当てた。など諸説があります。目黒通りを渡り、自由通りの睦坂から谷畑坂を下り、自由が丘駅に出ました。

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DSC03087 鶯坂 大岡山1-22と2-6の間を東に上る。《地図

両側に杉木立と竹林がありウグイスがよく鳴いていた。(目黒区のHP「目黒区の坂一覧表」)

Dsc03086 鶯坂標

DSC03094 鉄飛坂  平町2-20と大岡山1-37の間を東に上る。《地図

①旧小字名の「鉄飛」から ②山頂、てっぺんの意から ③坂の近くに、ポルトガル人のテッピョウスが住んでいた。④鉄砲鍛冶がいたともいわれる。

Dsc03091 鉄飛坂の庚申塔説明板

Dsc03092 庚申塔(鉄飛坂上)

説明板の帝釈堂内の庚申塔は非公開だと。

DSC03097 寺郷坂  中根2-5と緑ヶ丘1-1の間を南西に上る。《地図

旧地名の衾村の寺郷に因る。別名を「衾の茶屋坂」といい、浄真寺(九品仏)参りの人々目当ての4軒の水茶屋があった。『目黒の坂』

DSC03103 兵庫坂  中根2-6と2-7の間を西に、中根公園の北側に上る。《地図

兵庫は人名だろうか?

DSC03108 蜀江坂  中根2-17と2-18の間を西方向に上る。《地図

中国の蜀江台に因むか?

DSC03117 どぜむ坂  碑文谷4丁目と丁目5の間を碑文谷交差点あたりから西南に上る目黒通り。坂上は柿の木坂上。《地図

①坂を開いた土左衛門の名から ②「堂前」の意で、近くにお堂があった。

DSC03122 柿の木坂 柿の木坂1-6と平町1-10の間を北東に上る目黒通り。《地図

①大きな柿の木があった。②子どもが野菜車から柿を抜き取る「柿抜き坂」が転訛した。③この辺は人家が少なく、夕暮れになると人の往来が絶えさびしい坂だったので、この坂を駆け抜けて通り、「かけ抜け坂」と呼ばれそれが転訛した。 などの説がある。『目黒の坂』

DSC03128 天神坂  柿の木坂1-32と八雲1-2の間を北西に上る。《地図

坂の東側に北野天神がある。

Dsc03130 北野天満宮(天神坂)

DSC03138 氷川坂  八雲2-7と2-12の間を南に上る。《地図

坂下に氷川神社。別名を宮前坂、かつては宮前町だった。

Dsc03135氷川神社

Dsc03136 氷川神社境内から氷川坂

DSC03143 しとみ(しどめ)坂  八雲3-9と3-13の間を南に上る。《地図

くさぼけ(草木瓜)の異名(しとみ、しどめともいう。) 

DSC03149 太鼓坂  八雲3-13と3-22の間を南に上る。《地図

①昔、斜面が太鼓のような形をしていた。②急坂で太鼓を転がすように、人が坂を転がり落ちた。

Dsc03150 宮前小学校の塀にある坂の説明板。

①化坂 ②しどめ坂 ③氷川坂 ④谷畑坂 ⑤睦坂

Dsc03151 説明板の地図

①の化坂を八雲3-5の中の対角線の道と標示してあるが、この道はなかったと思う。

DSC03159 化坂  八雲3-4と3-5の間を西に上る。《地図

傾斜はほとんどない。坂名の由来は4説(上述)

DSC03173 睦坂  自由が丘1-17と1-22の間を北に上る自由通り。《地図

DSC03177 谷畑坂  自由が丘2-18と3-6の間を北に上る。《地図

衾村の旧小字名谷畑(やわた)から

 

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2005年11月12日 (土)

目黒区の坂-3

2005年11月12日(土)

中目黒駅(東横線)・・・なべころ坂・庚申塔・庚申道・・長泉院・・・現代彫刻美術館・・・馬喰坂・庚申塔・・・十七が坂・庚申塔・・・大鳥神社・・・金毘羅坂・・・元競馬場前・・・寄生虫館・・・不動公園・・・三折坂・・・目黒不動男坂・女坂・・・比翼塚・・・林試の森公園・・・石古坂・・・武蔵小山駅(目黒線)→(高輪白金)→(日比谷)→西日暮里駅・・・富士見坂(荒川区)・・・西日暮里駅

 なべころ坂を上り、庚申道を進み現代彫刻美術館の外に展示してある作品を見て十七が坂の坂上に出ました。 この坂の読み方は①じゅうしちがさか②とながさか、坂名の由来は①この坂で17才の娘が殺された。②この坂で転ぶと17才の時に災難に遭う。③17軒の家があった。④急坂なので若者だけが利用した。「じゅうしち」とは目黒の方言で元気な若者という意。など様々です。

 金毘羅坂の途中に寄生虫館がありますが、どうも入る気にはなれません。不動公園から三折坂を下り目黒不動尊の境内に入りました。独鈷の滝から男坂の石段を上り、本堂内、大日如来、八大童子などを見て女坂を下りました。 仁王門そばの白井権八、小紫の比翼塚から林試の森公園、石古坂へ行き武蔵小山駅へ出ました。

 今日も日暮里の富士見坂へダイヤモンド富士を見に行きました。かなりの人が出ていましたがあいにくの曇り空で富士は見えませんでした。

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DSC03013 なべころ坂 中目黒4-13と4-14の間を西南に上る。《地図

①昔は鍋が転がるほどの急坂だった。 ②道の粘土状の露出物を「なべころ」といった。

Dsc09952 庚申塔(なべころ坂上)

ここに藤の大木があったことから「藤の庚申」と呼ばれている。左 貞享元年(1684)、右 元禄元年(1688)の建立。

Dsc03017 「藤の庚申」と庚申道の説明板

Dsc03018 現代彫刻美術館(中目黒4-12)

DSC03023 馬喰(ばくろ・ばくろう)坂 目黒3-2と中目黒4-9の間を南西に上る。《地図

①赤土の坂道の凸凹の状態を方言で「ばくろ」という。【坂標】 ②馬車引き泣かせの急坂だった。『今昔東京の坂』

Dsc03020 庚申塔(馬喰坂上)

右から宝永7年(1710)、延宝8年(1680)、宝永3年(1706)、寛保2年(1742)の建立。

Dsc03019 庚申塔説明板

DSC03037 十七が坂  目黒3-5と3-18を北西に上る。《地図

坂名の由来は4説(上述) 東側一帯は旧毛利邸跡。

Dsc09954 庚申塔(十七が坂上)

宝筺印塔型の庚申塔は寛永3年(1626)のもので、都内最古。その前の板碑型庚申塔は明暦3年(1657)で、建立者の筆頭の「権之助」は「権之助坂」の由来となった菅沼権之助らしい。

Dsc03031 庚申塔説明板

DSC03044 金毘羅坂  目黒3丁目と下目黒3丁目の間を南西に上る目黒通り。《地図

坂の西側に目黒三社の一つの金毘羅権現社(明治初年に廃寺)があった。

DSC03047 三折坂  下目黒3丁目の目黒不動の西側と下目黒4-18の間を曲がりながら北に上る。《地図

三つに折れ曲がった坂の形状から。目黒不動への参拝者が下った坂なので、御降坂とも呼んだという。【坂標】

DSC03070目黒不動男坂

DSC03068 目黒不動女坂

男坂に向って右側(東側)

Dsc03067 女坂標

Dsc03059 大日如来(天和3年(1683) ・目黒不動境内)

江戸の鋳物師横山半右衛門尉正重作等の刻名があるそうだ。

Dsc03073 白井権八、小紫比翼塚

DSC03080 石古坂  下目黒5丁目の林試の森公園の東側と西五反田4丁目の間を南方向に上る。《地図

①石ころの多い坂だった。②近くに石河という屋敷があった。

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2005年11月10日 (木)

目黒区の坂-2

2005年11月10日(木)

目黒駅(JR山手線)・・・行人坂大円寺・・・権之助坂・・・富士見坂・・・茶屋坂・・・新茶屋坂・・・目黒川・・・別所坂・・・新富士坂(渋谷区)・・新道(しんどう)坂・・・けころ(けこぼ)坂・正覚寺・・・天祖神社・・・中目黒駅(地下鉄日比谷線・千代田線)→西日暮里駅・・・富士見坂(荒川区)・・・西日暮里駅

 行人坂は文字通り通行人が多い坂です。坂下の雅叙園に向かう(中年)女性が目立ちました。大円寺境内の石仏を熱心に見て、写真を撮っている若い外国人の女性が印象的でした。富士見坂の一本手前の目黒寄りの坂から撮った富士山の写真が「郷土目黒」という小冊子に載っていました。

 茶屋坂には爺ケ茶屋があったといい、落語の「目黒のさんま」の話の由来ともなっています。住宅街を曲がりながら上る静かな雰囲気の坂です。別所坂は曲がりくねった急坂で、かつて坂上からの眺望はよく、新富士と呼ばれた近藤重蔵の屋敷がありました。長男の富蔵がここで殺傷事件を起こし八丈島に流され、重蔵も近江国大溝藩に預けられました。この坂は恵比寿駅への通勤、通学路ですが、坂下に住んでいたことがある友人は、二日酔いなどで体調が悪い時はこの急坂を上るのはしんどく、中目黒駅まで歩くと言っていました。坂上から新富士坂(渋谷区)の下り坂になります。

 新道坂は駒沢通りの坂としていますが、『続江戸の坂東京の坂』(横関英一著)ではこの坂を駒沢通りと東横線の間の坂であるとし、詳しく考証しています。

 日暮里の富士見坂にダイヤモンド富士(富士の山頂から日が沈む)を見に行きましたが晴れてはいても風が無いせいか、富士山ははっきりとは見えませんでした。

 写真をクリックすると拡大します。

DSC02904 行人坂(坂下方向) 下目黒1-4と1-8の間を北東に上る。《地図

湯殿山の行者、法印大海が大日如来堂(後の大円寺)を建てて修行を始めたところ、次第に多くの行者が集まり住むようになったことからつけられた坂名という。江戸時代に権之助坂が開かれる以前は、二子道として江戸市中から目黒筋に通ずる主要道路だった。

Dsc02906 行人坂案内板

太鼓橋・行人坂

行人坂・夕日岡『江戸名所図会』

Dsc02905 坂上方向

Dsc02907大円寺の石仏

江戸三大火のひとつ、明和9年(1772)の明和の大火(行人坂の火事)の火元の寺。とろけ地蔵、お七地蔵、西運(八百屋お七の恋人、吉三の出家後の名)の墓もある。
本尊の木造釈迦如来立像は鎌倉の釈迦堂切通しの釈迦堂にあったものという。『鎌倉市の坂③

DSC02900 権之助坂(坂下方向・左側の道) 目黒区1-4と下目黒1-2の間を南東に目黒駅前に上る目黒通り。《地図

江戸時代中期の、菅沼権之助という名主に由来する坂名。

DSC02915 富士見坂(坂下方向) 目黒1-1(都立教育研究所)と目黒1-2の間を東に上る。《地図

Dsc02914 坂上方向

Dsc02910 富士山が望めるという無名の坂(目黒1-3と1-2の間)《地図

Dsc02912 坂下方向

DSC02924 茶屋坂(坂下方向) 三田2-14と2-15の間を曲がりながら北方向に上る。《地図》(茶屋坂の標示の所は新茶屋坂)

別名を爺ケ茶屋坂といい、将軍家光が鷹狩の時に立ち寄った茶屋があった。落語「目黒のさんま」はこれのパロディ。

Dsc02918 坂上方向

Dsc02920 茶屋坂と清水碑

DSC02933 新茶屋坂(坂下方向) 三田二丁目と中目黒2丁目、防衛庁幹部学校の間を東北に上る。

Dsc02935 坂下方向

DSC02942 別所坂(坂上方向) 中目黒1丁目と2丁目の間を東北に上る。《地図

坂下に別所と呼ばれる地名の所があり、坂上は別所台と呼ばれた景勝地だった。えぞ・千島を探検した近藤重蔵の屋敷があり、「新富士」と呼ばれた富士塚があった。長男の近藤富蔵の殺傷事件により、近江国大溝藩に預けられその地で没した。

Dsc02944 坂上方向

Dsc02941 坂下近くから坂上方向

正面の高台まで何度も曲がりながら上る長い急坂。写真では急坂の感じがうまくでない。

Dsc02951坂下方向

Dsc02952 別所坂上(目黒新富士)からの眺望(安藤広重)

目黒新富士

Dsc02953 新富士説明板

Dsc02950 別所坂上の庚申塔

寛文~明和頃(1665~1764)の建立。

Dsc02949 説明板

DSC02959 新富士坂(渋谷区)(坂上方向)  別所坂上から北東に下る。渋谷区恵比寿3-11と3-9の間を北東に下る。《地図

別所坂上の「新富士」に通ずる坂。傾斜はゆるい。『今昔東京の坂』はこの坂を中山坂としている。防衛庁技術研究所一帯は将軍の狩猟地で、お留め山だった。地守の中山勘右衛門の屋敷が坂沿いにあったことに因むという。

Dsc02955 坂下方向

Dsc03292 馬頭観音(新富士坂の途中)

Dsc03293 馬頭観音

DSC02962 新道(しんどう)坂①(駒沢通り)(坂下方向) 中目黒1丁目と上目黒1丁目の間を北に上る駒沢通り。《地図

別所坂と目切坂の間に新しく開かれた坂。『目黒の川と用水と坂の今昔』

DSC02965 新道坂②(東横線と駒沢通りの間)(坂下方向) 《地図

『続江戸の坂東京の坂』、『今昔東京の坂』は、この坂を新道坂とする。

Dsc02963 坂下方向

右側は東横線

Dsc02966 坂下から

DSC02976 けこぼ坂(けころ坂) 中目黒3丁目と上目黒2丁目の間を南西に上る駒沢通り。《地図

①地面の土が崩れ、その痕が凹んでいる状態をこのあたりの古い方言で「けこぼ」といった。【坂標】 ②この辺に「けころ」と呼ばれた売娼婦がいた。『今昔東京の坂』

Dsc02971 バス停は「けこぼ坂上」 

Dsc02969正覚寺

けこぼ坂の坂下近く

Dsc02975天祖神社の庚申塔

左は宝永5年(1708)・右は享保元年(1716)で、九品仏、世田谷方面、目黒不動への道標も兼ねている。

Dsc02974 説明板

日暮里の富士見坂に向かう。

Dsc02979 富士見坂(日暮里)「通行止め」の立看板

Dsc02986 富士見坂(坂上から)

Dsc02987 太陽と富士山の位置

Dsc02995 日暮里富士見坂(《地図》)のダイヤモンド富士(16時30分前後)

太陽が欠けている所が富士山の稜線。「日暮里富士見坂を守る会」にダイヤモンド富士の写真が載っている。

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2005年11月 8日 (火)

目黒区の坂-1

2005年11月8日(火)

Dsc02875 神泉駅(井の頭線)・・・松見坂・・・富士見坂・・・大坂(旧・新)・・・上目黒氷川神社・・・蛇坂・・・相ノ坂・・・菅刈公園・・・西郷山公園・・・上村坂・・・目切坂(上の写真)・・・小川坂・・・寿福寺・・・半兵衛坂・・・ 稲荷坂・・・謡坂・・・祐天寺駅(東横線)

 富士見坂は松見坂と向き合う坂です。かつては坂上から富士山が見えたのでしょう。大坂は玉川通りの坂で、旧大坂は北側を通っていて厚木街道の48坂の中で一番急で大きな坂でした。

 大坂の坂上あたりから南に曲がりながら下るのが蛇坂です。途中から石段坂になります。相ノ坂は大坂と新道坂の間の坂という意味で、細い見事な急坂が玉川通りまで上っています。鎌倉街道の道筋の目切坂も緑が多く、静かで気分のいい坂です。稲荷坂には刺抜(とげぬき)稲荷があるはずですが今回は見つけることができませんでした。

 謡坂の坂標は新しくなっていましたが、説明文は以前と同じで「昭和の初めに謡の好きな人が坂の付近に住んでいた。」というものです。どうも納得がいきません。歌坂などと同様に「うとう坂」が転訛し、「うたい坂」となり「謡」の字を当てたのではないでしょうか。この坂標とは別に石で造られた新しい坂標もありました。

 参考:『目黒の坂

 写真をクリックすると拡大します。

DSC02846 松見坂(坂下方向) 駒場1-4と大橋2-1の間を西に上る。《地図

①道玄太郎という山賊が松の木に上り、旅人を狙っていたという「道玄物見の松」があった。道玄太郎は和田義盛の残党の大和田太郎道玄とする説がある。②坂の途中に松見地蔵があった。 

昔はこの坂の北西は駒場野といわれた広大な原野だったというが、今はまったくその面影はない。別名を駒場坂。

Dsc02847 【坂標】

東京都が設置したもの。石製だが設置位置が低すぎて読みにくい。

DSC02849 富士見坂(坂下方向) 青葉台4-2と4-6の間を東に上る。松見坂と向き合う坂。《地図

Dsc02850 晴れていてもむろん富士山は見えない。

DSC02852 旧大坂(坂上方向) 青葉台4-7と4-8の間を東に上る。《地図

Dsc02854 坂下方向

DSC02858 大坂 旧大坂の南側の玉川通り(厚木街道)。《地図

Dsc09949上目黒氷川神社

Dsc02859 蛇坂(坂上から) 青葉台3-5と3-6の間を南に曲がりながら下る。 《地図

昔はもっと蛇のように曲がりくねった坂だったのだろう。

Dsc02860_1坂途中から石段になる。

Dsc02861_2 坂下から

Dsc02865相ノ坂(坂上方向) 青葉台3-3の菅刈小学校の北西側と3-5の間を北に上る。 《地図

大坂と新道坂の間という意味。

Dsc02867坂下方向

Dsc09950西郷山公園から

DSC02870 上村(かみむら)坂(坂上方向) 青葉台1-4と1-5の間を北方向に上る。《地図

坂の西側に海軍大将上村彦之丞の屋敷があった。

Dsc02869 坂下方向

Dsc02874 目切坂(坂上方向) 青葉台1-6と上目黒1-9の間を東方向に上る。《地図

①坂上に伊藤與右衛門という石臼の目切りを業とする者が住んでいた。②丸旦山の斜面を斜めに切通したのでちょうどひき臼の目切に似ていた。

ここは目黒の元富士(富士講の富士塚、別所坂上の富士塚は新富士と呼ばれた)があった所。別名を〆切坂・くらやみ坂。

目黒元不二

Dsc02878 坂下方向

DSC02884 小川坂(坂上方向) 東山1-19と上目黒3-19の間を南西に烏森小学校まで上る。《地図

①坂下は小川田んぼと呼ばれた。【坂標】 ②坂の周辺に宿山の旧家小川家の所有地が多かった。『目黒の坂』 

この坂も鎌倉街道の一つで、下って目黒川の宿山橋、目切坂から渋谷へ通じ、上って寿福寺から碑文谷八幡宮、下野毛へと通じていた。

DSC02888 半兵衛坂(坂下から) 上目黒5-25と5-26の間を北東に寿福寺前まで上る。《地図

名主の清水半兵衛に因む。

Dsc09951 寿福寺(上目黒5-16)

「権兵衛が種まきゃ・・・」の権兵衛の墓があるとか?

DSC02895 稲荷坂(坂下方向) 上目黒4-4と4-9の間を南に上る。《地図》 

坂の途中の東側に旧家田中家の刺抜稲荷がある。

Dsc02891 坂上方向

DSC02897 謡坂(坂上方向) 五本木1-6と上目黒4-30の間を南東に上る。《地図

①謡の好きな人が坂の付近に住んでいた。【坂標】 ②「うとう」坂の転訛で、坂が鳥の口ばしのように突き出て、出崎のようになっている。坂下の蛇崩川の出崎だろう。
「うとう坂」については『白河市(福島県)の坂』の善知鳥坂の所を参照。『うとう坂表

Dsc02896謡坂の新しい石標

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2005年11月 5日 (土)

世田谷区の坂-3

2005年11月5日(土)

Dsc02825 成城学園前駅(小田急線)・・・お茶屋(*ヘビ坂だった)・・・病院坂・・・砧古墳群・・・稲荷塚古墳・・・第六天塚・・・須賀神社(天神塚古墳)・・・慶元寺・・・氷川神社・・・(喜多見駅)・・・喜多見不動・不動坂・・・野川・・・ビール坂緑地・ビール坂(上の写真)・・・谷戸橋(野川)・・・喜多見駅→豪徳寺駅(世田谷線)→上町駅・・・世田谷区立郷土資料館・・・上町駅

*お茶屋坂と思っていた坂は、「ヘビ坂」(成城3丁目緑地内)でした。お茶屋坂は2006年9月23日(世田谷区の坂-5)に再訪し、記載してあります。

 お茶屋坂(ヘビ坂です)は明正小学校の脇の成城3丁目緑地内の坂、病院坂は世田谷通りから成城学園駅の方へ上る長い坂です。戦時中、坂下近くの砧中学校の所に野戦病院があったとか。砧中学校の前の丘は砧古墳群のはずですが、柵で囲われ入れませんでした。

 世田谷通りを渡り、稲荷塚古墳から須賀神社のそばの第六天塚、慶元寺、氷川神社、治太夫堀公園、喜多見駅へと歩き、野川を渡り喜多見不動へ出ました。意外に小さな不動堂でした。脇を通る不動坂は曲がりくねった、車の往来が多い坂でした。

 野川沿いに西に行き、「ビール坂緑地」と書いた標示板を見つけました。背後を一直線に調布市入間町3丁目との境を坂が東方向へ上っています。一直線の坂の上を木々が覆うきれいな坂です。洗車をしている人の話では、この辺(パークシティ成城)にかつてサッポロビールの工場があったそうです。なお、この坂を調布市では「ハケの坂」と呼んでいます。『調布の古道・坂道・水路・橋』

 世田谷線で上町まで行き郷土資料館に寄りました。井伊家の代官(大場氏)屋敷の所です。稲荷塚古墳出土の圭頭太刀などが展示してありました。

 写真をクリックすると拡大します。

DSC02759 お茶屋坂(ヘビ坂です)  成城3丁目緑地内の坂。《地図

(お茶屋坂は緑地の西側に沿う坂)

DSC02772 病院坂(坂下の歩道橋から坂上方向) 成城1-10の砧中学校と成城3丁目の間を世田谷通りから成城学園駅方向に北に上る。《地図

砧中学校の所に戦時中、野戦病院があった。『HP喜多見の坂』より

Dsc02766 坂上近く

Dsc02769 坂下方向

Dsc02767 坂下近く

Dsc02775砧古墳群?(成城1-10)

円墳、方墳、前方後円墳。

Dsc02778稲荷塚古墳(世田谷区喜多見4丁目7)

円墳、直径13m、横穴式石室。7世紀の築造。

Dsc02843 圭頭太刀

横穴石室からの出土品

Dsc02777 稲荷塚古墳説明板

Dsc02782 第六天塚古墳説明板

Dsc02783 第六天塚古墳(喜多見4丁目)

円墳、直径29m、5C末~6C初。

Dsc02785 天神塚古墳(須賀神社 ・喜多見4-3)

円墳、直径7m、横穴式石室。

Dsc02787慶元寺(喜多見4丁目)

宝暦5年(1755)建立の山門。もとは今の皇居紅葉山辺にあった江戸氏(後に喜多見氏を名乗る)の氏寺。江戸氏、喜多見氏の墓がある。

Dsc02786 説明板

Dsc02793 慶元寺三重塔

Dsc02797氷川神社

Dsc02805喜多見不動

慶元寺の境外仏堂。冬至の日に南瓜(かぼちゃ)に「真田幸村」と自分の名を書くという、「南瓜護摩」は今でも行われているのだろうか?

Dsc02804 説明板

DSC02808 不動坂(坂上方向) 成城4-2の喜多見不動堂の西側を曲がりながら北方向に上る。《地図

Dsc02815坂下方向

Dsc02812 坂上近く

Dsc02816 ビール坂

Dsc02829 ビール坂(坂下方向) 狛江市東野川4の谷戸橋を渡り、成城4-32と調布市入間町3-19の間を南東に上る。《地図

パークシティ成城の辺りは以前サッポロビールの工場だった。

Dsc02833 坂上方向

Dsc02836野川にて

Dsc02844 世田谷代官屋敷表門(世田谷1-29-8) 《地図

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2005年11月 4日 (金)

世田谷区の坂-2

2005年11月4日(金)

Dsc02721_2  二子玉川駅(東急大井町線)・・・調布橋(丸子川)・・・行善寺坂行火(あんか)坂・・・行善寺・・・慈眼寺・慈眼寺・・・玉川神社・・・下山橋・・・静嘉堂文庫・・・馬坂・・・無名坂・・・堂ケ谷戸坂・・・アルジェリア大使館・・・岡本3丁目の坂・・・西谷戸橋・・・清水橋・・・座頭ころがし坂(右の写真)・・・愛宕坂・・・畳屋坂・・・赤土坂・・・成城学園前駅(小田急線)→梅ヶ丘駅・・・えんま坂・・・凧坂・・・半田塚・・・世田谷八幡神社・宮の坂・・・宮の坂駅(世田谷線)→豪徳寺駅・・・世田谷城趾・・・豪徳寺・・・豪徳寺駅

 大山道の行善寺坂の途中から上るのが行火坂ですが、行善寺坂=行火坂とする説(行火坂の別名が行善寺坂)があります。(後述) 「行火」とは寺院の修行などに関係するものかと思いましたが、「あんか」は「こたつ」のことで、急な坂で上ると体が温かくなることによるらしいです。無名坂は「無名」という名前の坂です。仲代達也の「無名塾」の前の坂です。 

 畳屋坂は大蔵3丁目の大蔵団地と砧5丁目の間を東に上る坂で、昔、坂沿いに畳屋があり、もっと急で荷車などは後押しが無ければ上れなかったそうです。赤土坂は畳屋坂の坂下付近(砧7丁目)から北方向に上る坂です。

 えんま坂と凧坂は松原6丁目と赤堤2丁目の境を北方向に上り、途中馬頭観音の石像の所で左右に分岐し、右がえんま坂、左が凧坂となります。 『今昔東京の坂』(岡崎清記著)では、えんま坂を半田坂と呼んでいます。凧坂の坂上近くに半田塚(円墳)があります。

 吉良氏の世田谷城趾と井伊直弼の墓のある豪徳寺に寄りました。招き猫の発祥地で「猫寺」とも呼ばれる豪徳寺の三重塔は竣工間近です。

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DSC02678 行善寺坂(坂上方向) 瀬田1-8と1-12の間を北に、行善寺まで上る。《地図

Dsc02676 坂下から

Dsc02686 坂下方向

Dsc09603 行善寺

玉川八景(岡本の紅葉・二子の帰帆・瀬田の黄稲・大蔵の夜雨・登戸の晩鐘・川辺の夕煙・富士の晴雪・吉沢の落雁。他に吉沢の夕映えや行善寺の雪景等を選ぶ場合もあった)の一つ。行善寺八景もあるというが、玉川八景と同じなのか?

境内には三味線に使われた猫を供養するバチ形の猫塚がある。

Dsc02688 説明板

最後の「二子渡舟」の和歌に「鵜舟の篝(かがり)」とある。多摩川でも明治時代から昭和の初期まで鵜飼による鮎漁が行われていたそうだ。『多摩川の鮎漁

DSC02680 行火坂(坂上から) 瀬田1丁目、行善寺坂の途中から南東に上る。《地図

急坂なため上るだけで体が熱くなるので「あんか坂」と名づけられた。行善寺坂は行火坂の別名とする説があり、説得力がある。すると、この坂は無名の坂ということになる.。参照:『大山道と行火坂

Dsc02682 坂下方向

坂下は行善寺坂の途中に出る。

Dsc02683 坂下から

右下に「行火坂」の小さな坂標が立つ。これはこの坂の坂標か、それとも行善寺坂のものなのか。

DSC02693 慈眼寺坂(坂下方向) 瀬田4-12と4-13の間を北方向に上る。《地図

Dsc02696 坂上方向

Dsc09604 慈眼寺

Dsc09606 玉川神社

Dsc09608  玉川寺

DSC02701 馬坂(坂上方向) 瀬田5-41と岡本1-1の間をカーブして北方向に上る。坂下に静嘉堂文庫の入口がある。《地図

Dsc02697 馬坂【坂標】

Dsc02700 坂下の静嘉堂文庫から

DSC02708 無名坂(坂上の無名塾の所) 岡本1-3と1-6の間を北東に上る。《地図

坂上に仲代達也の無名塾(写真の右側)がある。

Dsc02707 無名坂の詩碑(坂上の無名塾の壁)

Dsc02710坂下方向

Dsc02712 坂下から

DSC02714 堂ケ谷戸坂(坂上から) 岡本2-17と3-30の間を南西に堂ケ谷戸橋(丸子川)まで下る。坂上にアルジェリア大使館。 《地図

Dsc02715 坂下の堂ケ谷戸橋から

Dsc02717 岡本3丁目の坂(坂下から) 岡本3-35と3-36の間を北東に上る。坂下を進むと仙川の西谷戸橋。《地図

岡本は坂ばかりだから、可愛い娘は嫁にやるなといわれた。『ふるさと世田谷を語る(岡本)』

DSC02720 座頭ころがし坂  大蔵4-1と4-2の間を北東に上る。《地図

昔は、人里離れたさびしい所で、あたり一面雑木林で通る人はこわくて山から里へ転げ落ちるようにして通ったので「里ころがし」「ざとうころがし」と呼ばれるようになった。座頭がこの坂からころげおちたので「座頭ころがし」とも言い伝えられている。『世田谷の地名-砧の昔話より』

Dsc02722 愛宕坂(坂下方向) 座頭ころがし坂の坂上から大蔵運動公園に沿って北西へ上る。《地図

坂の近くに愛宕社があるのか、あったのか未確認。『ふるさと世田谷を語る』の大蔵の所に記載がある坂。

DSC02726 畳屋坂(坂上方向) 砧5丁目と大蔵3丁目、大蔵団地の間を北東に上る。《地図

坂沿いに畳屋があった。昔はもっと急で荷車は後押しがなければ登れない急坂だった。『世田谷の地名』

Dsc02728坂下方向

DSC02732 赤土坂(坂下方向) 砧7-2と7-4の間を、畳屋坂の坂下辺りから北方向に上る。《地図

Dsc02731 坂下の畳屋坂から

DSC02734 えんま坂(右)・凧坂(左)

Dsc02747 馬頭観音(凧坂とえんま坂の分岐点)《地図

Dsc02743 半田塚(凧坂の坂上)

円墳か

Dsc02742 半田塚説明板

DSC02738 えんま坂(坂上方向) 松原6-21と6-22の間を曲がりながら北東に上る。坂下は凧坂下と同じ。《地図

坂の途中の西側に十王堂と十三仏堂があったという。十王堂の閻魔大王にちなむ坂名。十王とは冥土にいて死者を裁く10人の王。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称。中国、唐代末に道教の影響で成立し、平安中期以降日本にも移入された。

DSC02737 凧坂(坂上方向) 松原6-21と赤堤2-32の間を曲がりながら北方向に上る。《地図

「たこう坂」の当て字で、傾斜のやや急な坂。『世田谷の地名』

DSC02750  宮の坂  宮坂1-26の世田谷八幡と東急世田谷線の間を北方向に上る。《地図

Dsc02748 坂上から

Dsc09609 世田谷八幡

Dsc02753 豪徳寺三重塔

Dsc02752 説明板

Dsc02755 瘞首(えいしゅ)塚

戊辰戦争の小山の戦いで戦死した彦根藩士11人の慰霊塚。青木貞兵衛率いる彦根藩砲隊は、旧幕府軍の伝習隊に囲まれ全滅したそうだ。

 

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2005年11月 1日 (火)

世田谷区の坂-1

2005年11月1日(火)

Dsc02647 尾山台駅(東急大井町線)・・・寮の坂・・・八幡塚古墳・宇佐神社・傳乗寺・・狐塚古墳・・・向田坂・・・地頭坂・・・御岳山古墳・・・等々力坂・・・等々力不動・等々力渓谷・横穴墓・・・野毛大塚古墳・・・六所神社・・・明神橋(丸子川)・明神坂・・・稲荷坂(上の写真)・稲荷神社・・・原の坂・・・深沢坂・・・満願寺坂・・・等々力駅(大井町線)

 等々力方面の坂と古墳を歩きました。寮の坂には詳しい説明の石板があります。坂下にこの坂にゆかりの傳乗寺があり、今年の3月に完成したばかりのきれいな五重塔があります。

 向田坂はどう読むのでしょうか? ムカイダ、ムコウダ、コウデン、ムコンダ、ムコンデなど分かりません。地頭坂は向田坂に向き合う石段の坂です。周辺の丘陵は地頭山と呼ばれていたそうです。この辺は今も静かで昔の面影の残る風景があります。

 野毛大塚古墳は全長84mの帆立貝式前方後円墳で、公園になっていて、古墳の上は子供たちの遊び場になっています。明神坂の坂名の由来の六所明神は野毛2丁目に移って六所神社となっています。明神坂は丸子川の明神橋から上る急坂で、曲がりながら上り緩やかになり、坂上から環8通りまで通じています。坂下には明神池がありました。

 稲荷坂は上野毛駅近くの環8通りから曲がりながら下る、長くて急な坂です。木々が坂を覆い気持ちのいい坂道です。途中に稲荷神社があります。原の坂は二つの道筋が考えられます。

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DSC02593 寮の坂(坂上方向) 尾山台1-10と2-11の間を北東に上る。《地図

昔は傳乗寺は坂の東側の台地上にあり、本堂と並んで僧侶の学寮が建てられたためこの坂名で呼ばれるようになった。今は傳乗寺は坂下の尾山台2-10にある。江戸時代には、この坂は軍用道路として兵馬の往来がはげしかったという。

Dsc02585 寮の坂由来碑

Dsc02584 坂標

Dsc02587_2 坂下方向

Dsc02591 八幡塚古墳(尾山台2丁目)

円墳

Dsc02592 宇佐神社

Dsc02595 傳乗寺五重塔

今年の3月完成したばかり。

Dsc02598 狐塚古墳(尾山台2丁目)

円墳、直径40m

Dsc02612 御岳山古墳(等々力1丁目)

円墳、全長57m、5C中頃。

Dsc02610 説明板

DSC02602 向田坂(坂下方向) 等々力1-15と1-27の間を東に上る。《地図

田んぼに向う坂の意か? 坂下正面に見える石段が地頭坂。

Dsc02603 坂下から

DSC02605 地頭坂 等々力1-16と1-26の間を西に上る石段。《地図

周辺の丘陵地帯は地頭山と呼ばれた。この坂を向田坂とする説が多い。

Dsc02606 坂下方向

向い正面は向田坂。

DSC02624 等々力坂 等々力1-17と1-20の間を北に上る目黒通り。《地図

Dsc02614 坂下方向

Dsc09500等々力不動尊(等々力1丁目)

Dsc02616 等々力渓谷説明板

Dsc02618 等々力渓谷横穴墓(3号)

Dsc02617 説明板

Dsc02630 野毛大塚古墳(野毛1丁目)

帆立貝式前方後円墳、全長83m、5C前半。

Dsc02632 説明板

DSC02638 明神坂(坂下から) 上野毛2丁目と野毛3丁目の間を南西に下る。丸子川の明神橋から上る。《地図

坂上に野毛2丁目の六所神社に移された「六所明神」があった。坂下に明神池があったが今は埋め立てられいる。

Dsc02641 坂下方向

Dsc02639 坂標

Dsc02640_2 左へ曲がってさらに上る。

Dsc02636 六所神社(野毛2丁目) 《地図

明神坂にあった「六所明神」がここへ移され、野毛の神社と合祀されたそうだ。

DSC02654 稲荷坂(坂下方向) 上野毛2-16と3-6の間を東北に上る。《地図

坂の途中に稲荷社がある。

Dsc02651 坂上方向

Dsc09501 稲荷神社

DSC02662 原の坂 ①中町2-9と3-1の間を西に、天祖神社の方へ下る上野毛通り。《地図》 ②等々力8-15と8-6の間を東に、東横学園の方へ下る坂。《地図》 ①②の両方の坂か、どちらかの坂? 『今昔東京の坂』は①の坂としている。

小字名による坂名。

DSC02667 深沢坂(坂下方向) 深沢4丁目と5丁目の間を南に上る駒沢公園通り。《地図

DSC02674 満願寺坂(坂上方向) 等々力駅前近くから北東に、満願寺前を通り目黒通りまで上る。《地図

正面の満願寺は平安時代末の開創で、室町時代に吉良氏の世田谷城の出城、兎々呂城(トドロジョウ、それとも「等々力」の地名の由来のトドロキか?)に祈願寺として中興したという古刹。現在地に450年くらい前に移転した。

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