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2005年11月 4日 (金)

世田谷区の坂-2

2005年11月4日(金)

Dsc02721_2  二子玉川駅(東急大井町線)・・・調布橋(丸子川)・・・行善寺坂行火(あんか)坂・・・行善寺・・・慈眼寺・慈眼寺・・・玉川神社・・・下山橋・・・静嘉堂文庫・・・馬坂・・・無名坂・・・堂ケ谷戸坂・・・アルジェリア大使館・・・岡本3丁目の坂・・・西谷戸橋・・・清水橋・・・座頭ころがし坂(右の写真)・・・愛宕坂・・・畳屋坂・・・赤土坂・・・成城学園前駅(小田急線)→梅ヶ丘駅・・・えんま坂・・・凧坂・・・半田塚・・・世田谷八幡神社・宮の坂・・・宮の坂駅(世田谷線)→豪徳寺駅・・・世田谷城趾・・・豪徳寺・・・豪徳寺駅

 大山道の行善寺坂の途中から上るのが行火坂ですが、行善寺坂=行火坂とする説(行火坂の別名が行善寺坂)があります。(後述) 「行火」とは寺院の修行などに関係するものかと思いましたが、「あんか」は「こたつ」のことで、急な坂で上ると体が温かくなることによるらしいです。無名坂は「無名」という名前の坂です。仲代達也の「無名塾」の前の坂です。 

 畳屋坂は大蔵3丁目の大蔵団地と砧5丁目の間を東に上る坂で、昔、坂沿いに畳屋があり、もっと急で荷車などは後押しが無ければ上れなかったそうです。赤土坂は畳屋坂の坂下付近(砧7丁目)から北方向に上る坂です。

 えんま坂と凧坂は松原6丁目と赤堤2丁目の境を北方向に上り、途中馬頭観音の石像の所で左右に分岐し、右がえんま坂、左が凧坂となります。 『今昔東京の坂』(岡崎清記著)では、えんま坂を半田坂と呼んでいます。凧坂の坂上近くに半田塚(円墳)があります。

 吉良氏の世田谷城趾と井伊直弼の墓のある豪徳寺に寄りました。招き猫の発祥地で「猫寺」とも呼ばれる豪徳寺の三重塔は竣工間近です。

 写真をクリックすると拡大します。

DSC02678 行善寺坂(坂上方向) 瀬田1-8と1-12の間を北に、行善寺まで上る。《地図

大山道の一つで、西方の慈眼寺坂を下る大山道と合流し、二子の渡しで多摩川を渡っていた。

Dsc02676 坂下から

Dsc02686 坂下方向

Dsc09603 行善寺

玉川八景(岡本の紅葉・二子の帰帆・瀬田の黄稲・大蔵の夜雨・登戸の晩鐘・川辺の夕煙・富士の晴雪・吉沢の落雁。他に吉沢の夕映えや行善寺の雪景等を選ぶ場合もあった)の一つ。行善寺八景もあるというが、玉川八景と同じなのか?

境内には三味線に使われた猫を供養するバチ形の猫塚がある。

Dsc02688 説明板

最後の「二子渡舟」の和歌に「鵜舟の篝(かがり)」とある。多摩川でも明治時代から昭和の初期まで鵜飼による鮎漁が行われていたそうだ。『多摩川の鮎漁

DSC02680 行火坂(坂上から) 瀬田1丁目、行善寺坂の途中から南東に上る。《地図

急坂なため上るだけで体が熱くなるので「あんか坂」と名づけられた。行善寺坂は行火坂の別名とする説があり、説得力がある。すると、この坂は無名の坂ということになる.。参照:『大山道と行火坂

Dsc02682 坂下方向

坂下は行善寺坂の途中に出る。

Dsc02683 坂下から

右下に「行火坂」の小さな坂標が立つ。これはこの坂の坂標か、それとも行善寺坂のものなのか。

DSC02693 慈眼寺坂(坂下方向) 瀬田4-12と4-13の間を北方向に上る大山道。《地図

Dsc02696 坂上方向

Dsc09604 慈眼寺

Dsc09606玉川神社

Dsc09608玉川寺

DSC02701 馬坂(坂上方向) 瀬田5-41と岡本1-1の間をカーブして北方向に上る。坂下に静嘉堂文庫の入口がある。《地図

Dsc02697 馬坂【坂標】

Dsc02700 坂下の静嘉堂文庫から

DSC02708 無名坂(坂上の無名塾の所) 岡本1-3と1-6の間を北東に上る。《地図

坂上に仲代達也の無名塾(写真の右側)がある。

Dsc02707 無名坂の詩碑(坂上の無名塾の壁)

Dsc02710坂下方向

Dsc02712 坂下から

DSC02714 堂ケ谷戸坂(坂上から) 岡本2-17と3-30の間を南西に堂ケ谷戸橋(丸子川)まで下る。坂上にアルジェリア大使館。 《地図

Dsc02715 坂下の堂ケ谷戸橋から

Dsc02717 岡本3丁目の坂(坂下から) 岡本3-35と3-36の間を北東に上る。坂下を進むと仙川の西谷戸橋。《地図

岡本は坂ばかりだから、可愛い娘は嫁にやるなといわれた。『ふるさと世田谷を語る(岡本)』

DSC02720 座頭ころがし坂  大蔵4-1と4-2の間を北東に上る。《地図

昔は、人里離れたさびしい所で、あたり一面雑木林で通る人はこわくて山から里へ転げ落ちるようにして通ったので「里ころがし」「ざとうころがし」と呼ばれるようになった。座頭がこの坂からころげおちたので「座頭ころがし」とも言い伝えられている。『世田谷の地名-砧の昔話より』

Dsc02722 愛宕坂(坂下方向) 座頭ころがし坂の坂上から大蔵運動公園に沿って北西へ上る。《地図

坂の近くに愛宕社があるのか、あったのか未確認。『ふるさと世田谷を語る』の大蔵の所に記載がある坂。

DSC02726 畳屋坂(坂上方向) 砧5丁目と大蔵3丁目、大蔵団地の間を北東に上る。《地図

坂沿いに畳屋があった。昔はもっと急で荷車は後押しがなければ登れない急坂だった。『世田谷の地名』

Dsc02728坂下方向

DSC02732 赤土坂(坂下方向) 砧7-2と7-4の間を、畳屋坂の坂下辺りから北方向に上る。《地図

Dsc02731 坂下の畳屋坂から

DSC02734 えんま坂(右)・凧坂(左)

Dsc02747 馬頭観音(凧坂とえんま坂の分岐点)《地図

Dsc02743 半田塚(凧坂の坂上)

円墳か

Dsc02742 半田塚説明板

DSC02738 えんま坂(坂上方向) 松原6-21と6-22の間を曲がりながら北東に上る。坂下は凧坂下と同じ。《地図

坂の途中の西側に十王堂と十三仏堂があったという。十王堂の閻魔大王にちなむ坂名。十王とは冥土にいて死者を裁く10人の王。秦広王・初江王・宋帝王・五官王・閻魔王・変成王・泰山王・平等王・都市王・五道転輪王の総称。中国、唐代末に道教の影響で成立し、平安中期以降日本にも移入された。

DSC02737 凧坂(坂上方向) 松原6-21と赤堤2-32の間を曲がりながら北方向に上る。《地図

「たこう坂」の当て字で、傾斜のやや急な坂。『世田谷の地名』

DSC02750宮の坂  宮坂1-26の世田谷八幡と東急世田谷線の間を北方向に上る。《地図

Dsc02748 坂上から

Dsc09609世田谷八幡宮

Dsc02753 豪徳寺三重塔

Dsc02752 説明板

Dsc02755 瘞首(えいしゅ)塚

戊辰戦争の小山の戦いで戦死した彦根藩士11人の慰霊塚。青木貞兵衛率いる彦根藩砲隊は、旧幕府軍の伝習隊に囲まれ全滅したそうだ。

 

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コメント

 詳細で丁寧な調査報告をありがとうございます。
 機会をみて再訪し、自分の眼で確認してみたいと思います。

投稿: 多気山様へ(坂道散歩から) | 2011年4月13日 (水) 07:32

「あたご橋」から東に延びる階段道を登ってみました。上りきったところは、アスレチックの広場になっていました。テニスコートの西側です。近辺に愛宕社は存在しません。喜多見氷川神社の宮司にお尋ねしたところ、運動公園は小字を石井戸といい、明治期まで愛宕社があったとのことです。現在は、大蔵氷川神社に合祀されてるとのことでした。明治政府がおこなった一村一社(これで民間習俗の遺産が数多く失われました)の政策かどうだかは、不明だそうです。さて先ほどのアスレチック広場ですが、大きさがちっさな神社にふさわしい広さなので、ここに愛宕社があったのかもしれません。そうすると、その東側に古道があって、現在愛宕坂といわれる方向につながっていたのではと推測しているところです。

投稿: 多気山 白日講中 | 2011年4月12日 (火) 16:09

『ふるさと世田谷を語る』(大蔵)では「愛宕坂(区総合グランド西側の坂)は大変急な坂で、昔は砂利敷きなので、大変上り下りに苦労しました。」とあり、愛宕社の記載はありません。私も歩いた時には愛宕社には気づきませんでいた。「あたご橋」から上る坂だとすると地図に示した坂ではないかも知れません。

投稿: 多気山様へ(坂道散歩から) | 2011年3月11日 (金) 16:04

はじめまして、世田谷区在住の多気山です。散歩が好きで古道や、暗渠になった水路跡を探しながら歩いています。足に障碍があるので、ゆっくりと歩いています。遠くへ行くときは途中までバスを利用します。さて、愛宕坂は近々往こうと思っていたところです。文化2年(1805)作成の古地図『目黒筋御場絵図』には、愛宕社が記されています。現在この社がどこに行ってしまったのか調べているのですが、まだ判りません。仙川にかかる橋の名も「あたご橋」です。情報をお持ちでしたら、お教えください。
どうか、今後もよろしくお願いいたします。

投稿: 多気山 白日講中 | 2011年3月11日 (金) 10:38

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