新宿区の坂-1
2005年12月1日(木)
四谷駅(JR中央線)・・・観音坂・・・東福院坂(須賀坂)・・・円通寺坂・・・女夫(めおと)坂・・・於岩稲荷(陽運寺)・お岩稲荷(田宮神社)・・・須賀神社・男坂・女坂・・・戒行寺坂・・・闇(くらやみ)坂・・・鉄砲坂・・・鮫河橋坂(さめがはしざか)・・・南元町公園・・・薬罐坂・・・朝日橋・・・鉄砲坂・・・出羽坂・・・新助坂・・・安鎮坂(港区)・・・千日坂・・・信濃町駅(JR総武線)
観音坂は真成院の塩踏観音、東福院坂は東福院、円通寺坂は円通寺といづれも寺院に由来する坂名です。女夫坂は向かい合う坂を夫婦に譬えた坂でしょうが、さほど傾斜は感じません。闇坂は細い急坂で坂の途中に墓地があり、両側から木々が覆い被さっている所があります。昔は坂名のとおりもっと暗い坂だったのでしょう。
鉄砲坂を上り、学習院初等科としゃれたオテル・ドゥ・ミクニの間から鮫河橋坂に出ました。坂下近くの南元町公園の北側の薬罐坂を上り、朝日橋で中央線の線路を越えました。方向を間違えたのかまた鉄砲坂に出てしまいました。出羽坂から新助坂への途中で南方向に下る無名の急坂があります。新助坂と平行する坂ですが、この坂の方が傾斜がきついようです。途中から金属製の手すりがついています。
安鎮坂まで足を伸ばし、千日坂を上り信濃町駅に出ました。千日坂の坂標には、かっこ書で(新千日坂)とありました。旧坂は新道造成のため消滅し、現在の千日坂はそれと前後して造られた、新千日坂だそうです。
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観音坂 若葉2-7と2-9の間を北東に上る。西念寺と真成院の間。《地図》
真成院の塩踏(汐干)観音の因む。
向かい側の西念寺には服部半蔵の墓がある。
東福院坂 若葉2-2の東福院と、2-8愛染院の間を北東に新宿通りへ上る。《地図》
別名を須賀坂、天王坂。須賀神社は明治以前牛頭天王社と称し、この辺は天王横町と呼ばれていた。【坂標】
円通寺坂 若葉2丁目から北西から北に若葉1丁目と須賀町の間を新宿通りへ上る。《地図》
坂の西側に円通寺
女夫坂 須賀町と左門町の間を北に下り、北に新宿通りへ上る。《地図》
向かい合う坂で夫婦に譬えた。
於岩稲荷(陽運寺)
昭和になって建てられた寺。
陽運寺(於岩稲荷)の向い側にある。どっちが本家のお岩稲荷か? 東京都は焼ける前の田宮稲荷神社をお岩稲荷神社の旧地としている。当然だろう。
正面の石段坂
妙行寺脇から上る石段
戒行寺坂 須賀町9と10の間を西に上る。《地図》
別名 油揚坂・油坂 坂の途中にうまい油揚げを作る店があった。
闇坂 須賀町11と12の間を北に上る。《地図》
別名 乞食坂・茶ノ木坂 松厳寺の俗称が茶ノ木寺。
鉄砲坂 若葉2丁目と3丁目の間を東に上る。《地図》
鉄砲組屋敷があり、訓練場や鍛冶場があった。それ以前はこの地に鈴振稲荷があり稲荷坂と呼ばれていた。
鮫河橋坂 元赤坂、迎賓館の西側を南西に下る。《地図》
鮫河にかかる橋を鮫河橋、この辺りを鮫河橋と呼んでいた。
薬罐坂 鮫河橋坂の途中、みなみもと公園の北側を西に上る。《地図》
『今昔東京の坂』では、①雨後には野草洗い落一面の赤土朝日に映し銅薬罐の色に類し候。 ②薬罐職人が居た。(以上御府内備考) ③風紀のよくない場所で、遊女・・・人を騙す野干(狐)・・・が薬罐に転訛した。
出羽坂 南元町8のJR中央線の線路沿いを西に上る。《地図》
①明治になり元松江藩主松平出羽守の松平氏がこの地に移ってきた。土地の人は出羽様の屋敷と呼び、そこに新しくできた坂を切通しといっていたのを出羽坂と呼ぶようになった。『続江戸の坂東京の坂』
新助坂 南元町5のソニースタジオと、南元町6の間を南に下る。《地図》
昔、この辺りに新助という人が住んでいた。【坂標】
安鎮坂 港区元赤坂2丁目の東宮御所と南元町2の間を南西に上る。鮫河橋坂から続く坂。 《地図》
近くに安鎮大権現の小社があった。別名を信濃坂、権田原坂
千日坂 南元町、一行院の西南側から信濃町駅に北西方向に上る。《地図》
坂下は一行院千日寺にちなみ千日谷と呼ばれていた。別名を久能坂といい久能丹波守の屋敷があった。
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