新宿区の坂-2
2005年12月3日(土)
市ヶ谷駅・・・浄瑠璃坂・・・歌坂・・・鰻坂・・・中根坂・・・安藤坂・・・鼠坂・・・芥(ごみ)坂 ・・・長延寺坂・・・左内坂・・・市谷八幡男坂・女坂・・・高力坂・・・比丘尼坂・・・坂町坂 ・・・津の守坂・・・新宿歴史博物館・・・四ッ谷駅
浄瑠璃坂は直線的でかなり傾斜のある長い坂です。坂名の由来は様々です。鰻坂は2度曲がる細く短い緩やかな坂です。中根坂と安藤坂は南北に向き合う坂ですが安藤坂の坂上にある坂標は、こちらも中根坂としてあります。このあたりは大日本印刷の敷地内らしく写真を撮っていたら守衛に会社の建物が入るから写真を撮るのはやめるように注意されました。ケチなことをいう会社です。
鼠坂から芥坂へ行く途中に浄瑠璃坂の仇討の碑がありました。長延寺坂は片側が工事中でした。市谷八幡(正式には、市谷亀岡八幡宮)の男坂の石段は急です。天気予報は晴れなのに小雨が降ってきました。外堀通りの高力坂は、先月20日の東京国際女子マラソンで高橋尚子がスパートをかけた坂です。広い道なのでさほど傾斜は感じませんが、35kmも走ってこの坂の上りはきついでしょう。
高力坂の坂上付近から本村町と本塩町の間を北に、靖国通りの防衛庁前に下る坂を比丘尼坂と思っていましたが、この坂の途中から西に入り下る小さな坂が比丘尼坂のようで坂標もありました。坂町坂は細い少し曲がりながら上る長い坂です。坂上の方が傾斜があります。津ノ守坂も工事中でした。雨はいつの間にかやんでいました。
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浄瑠璃坂 外堀通りから市谷砂土原町1丁目と2丁目の間を北西に上る。《地図》
①昔、この辺であやつり浄瑠璃の小屋興行があった。②近くに光円寺があり本尊の薬師如来は浄瑠璃世界の救主であるから。【坂標】 ③水野土佐守の長屋が六段になっていたので浄瑠璃になぞられてこの坂を浄瑠璃坂と呼んだ。「江戸鹿子」 ④坂そのものが六段になっていた。『続江戸の坂東京の坂』
「浄瑠璃坂の仇討」歌坂 市谷砂土原町3丁目と市谷田町2丁目の間を北東に上る。《地図》
善知鳥(うとう)の口嘴に似ている地形で「ウトウ坂」が転じて「ウタ坂」になった。【坂標】 『うとう坂表』
鰻坂 砂土原3丁目と払方町の間を曲がりながら北東に上る。《地図》
曲がりくねった形状からの坂名。
中根坂 市谷左内町と納戸町の間を北に上る。《地図》(地図の中根坂の所は安藤坂)
坂の西側に旗本中根家の屋敷があった。【坂標】
安藤坂 市谷左内町と市谷加賀町の間を南に上る。中根坂と向き合う坂。《地図》(中根坂と標示されている)
坂の北側に安藤杢之助の屋敷があった。『江戸の坂東京の坂』
鼠坂 鷹匠町と納戸町の間を曲がりながら北東に上る。《地図》
狭くて鼠の通るような坂 【坂標】
鍵屋の辻の仇討、赤穂浪士の討入りと並ぶ江戸時代の三大仇討の一つ。
芥坂 砂土原町1丁目と鷹匠町の間を北東に上る石段。《地図》
樹木が繁っていたので闇坂と呼んでいたが、芥が捨てられるので芥坂を呼ばれるようになった。『今昔東京の坂』
長延寺坂 田町1丁目から長延寺町の間を北西に上る。《地図》
かつて坂上に文禄3年創建の長延寺があった。『今昔東京の坂』
左内坂 市ヶ谷駅の北側の外堀通りから西北に上る。《地図》
江戸時代初期、この辺を開発した名主島田左内の名に因む。『今昔東京の坂』
市谷八幡男坂 《地図》
「市谷八幡宮」
高力坂 市谷本村町から本塩町に南西に上る外堀通り。《地図》
高力邸にあった高力松に因む。【坂標】
比丘尼坂 本塩町14と20の間を西に下る。《地図》
①この坂の近くの尾張家の屋敷に剃髪した老女がいた。【坂標】 ②尾張家があり、紀伊国坂に対し尾国坂といっていたのが転訛した。「新撰東京名所図会」
坂町坂 坂町7と8の間を南に上る。《地図》
津の守坂 靖国通りの合羽坂下交差点から荒木町と三栄町の間を南西に上る津の守坂通り。《地図》
松平摂津守の屋敷があり略して津ノ守坂と呼んだ。もとは、この坂を開いた小栗主計の名に因み小栗坂と呼んでいた。『今昔東京の坂』
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