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2005年12月24日 (土)

千代田区の坂-2

2005年12月24日(土)

市ヶ谷駅(JR総武線)・・・帯坂・・・新坂・・・三年坂・・・東郷坂・・・行人坂・・・南法眼坂・・・袖摺坂 ・・・五味坂・・・御厩谷(おんまやだに)坂・・・鍋割坂(九段南2丁目)・・・永井坂・・・正和坂・・・正和新坂・・・善国寺坂・・・いちょう坂・・・清水谷坂・・・紀尾井坂・喰違見附跡・・・貝坂・・・中坂・・・平河天満宮・・・国立劇場・・・鍋割坂(隼町)・・・太田姫稲荷神社・・・半蔵門駅

 帯坂、新坂、三年坂は南に上る緩やかな坂です。東郷公園から南に東郷坂、行人坂、南法眼坂が一直線に続いています。もとは、法眼坂の一つの坂名で呼ばれていたようです。御厩谷坂を上り、内堀通りに出ました。内堀通りから千鳥が淵の方へ上って下るのが鍋割坂です。

 善国寺坂の坂上の新宿通りを西に少し行くと南に下るいちょう坂通りがあります。短い坂で坂下で清水谷坂とぶつかります。いちょう坂商店街でもあるのかと思っていましたが、両側はビルだけです。枝を切られたいちょう並木があり、葉がわずかに残っている木もありました。

 清水谷坂を下って、紀尾井坂を上りました。坂上は喰違見附跡です。紀尾井坂を下り、清水谷坂を上り、東へ平河天満宮の近くの貝坂から中坂へ出ました。半蔵門駅通りを渡り国立劇場の北側の鍋割坂に向いました。この坂の位置については、①国立劇場とグランドアーク半蔵門の間 ②グランドアーク半蔵門の北側の坂の二通りの道筋が考えられます。どちらの坂も桜田濠へ上って下る坂です。

 半蔵門駅の向かい側に太田姫稲荷神社が小さく、ひっそりと祀られていました。説明板によると、神田駿河台淡路坂(一口(いもあらい)坂)の太田姫稲荷神社の分社だそうです。説明文は天然痘(イモガサ・ヘモガサ)、一口(いもあらい)坂のことにも触れていました。

  写真をクリックすると拡大します。

DSC04595 帯坂  九段南4丁目と五番町の間を南東に上る。《地図

怪談『番町皿屋敷』のお菊が髪を振り乱し、帯を引きずりながら通ったという伝説のある坂。寛永年間(1624-43) の外堀普請後に市ヶ谷御門へ抜ける切通しとして作られたので、「切通し坂」の名もある。 

東海道平塚宿には「お菊塚」、播州姫路には「お菊神社」、姫路城に「お菊井戸」がある。『東海道(藤沢宿→大磯宿』・『出雲街道①』に記載。落語の『皿屋敷

DSC04597 新坂  五番町3と4の間を南西に上る。《地図

明治中頃の道路計画に含まれていたが、工事が遅れ、明治末年になってやっとできた通り。住民の待ち遠しかった気持ち新坂の名に表れているか。

DSC04603 三年坂  五番町10と12の間を南に上る。《地図

三念寺があり三念寺坂だったのが誤り称され三年坂となった。【坂標】

DSC04609 東郷坂  三番町18の東郷公園と四番町の間を北に上る。《地図

東郷元帥宅があった。別名の法眼坂は、宅間法眼または斉藤法眼の屋敷があった。『今昔東京の坂』

 

DSC04616 行人坂  三番町7と四番町1の間を南に上る。東郷坂の坂下から続く坂。

何がしの法印という行人が住んでいた。法印坂とも呼び法眼坂ともいう。【坂標】

DSC04625 南法眼坂  一番町6と8の間を北に上る。行人坂の坂上から続く坂。

『紫の一本』に「斎藤法眼という人の屋敷、この坂のきわにあり」とある。

DSC04630 袖摺坂  一番町4と6の間を北東に上る。《地図

昔は狭い坂で、行き交う人たちの袖が触れ合うほどだった。

DSC04635 五味坂  一番町4と三番町5の間を南西に上る。《地図

別名を近くにあった寺から光感寺坂、これが転じて甲賀坂、芥坂、埃坂。「ゴミ」ではなく「ゴニ」で、五番町から上二番町へ登る坂で「五二坂」が「五味坂」に変わったとの説もある。【坂標】

DSC04640 御厩谷坂  三番町10と12の間を北東に上る。《地図

将軍家の厩舎があった。『新編江戸志』に「今も紅梅勘左衛門殿やしきに、御馬の足洗いし池残りてあるなり」とある。

DSC04648 鍋割坂  九段南2丁目と三番町の間を西に上る。

土鍋を伏せた形の丘を切り通した坂。《地図

DSC04654 永井坂  一番町21と23の間を南に上る。袖摺坂から南に続く坂。《地図

坂を挟んで二つの永井家の武家屋敷があった。

DSC04658 正和坂  麹町2丁目と3丁目の間を南に上る。麹町小学校の西側。《地図

太平洋戦争中にこの地域に正和会という隣組があったことなどが坂の名の由来か。

DSC04665 正和新坂  麹町2-8と2-10の間を南に上る。麹町小学校の東側。《地図

DSC04677 善国寺坂  麹町3-4と3-8の間を南に上る。《地図

坂上に鎮護山善国寺があった。別名を鈴振坂、坂下の低地を善国寺谷または鈴降(振)谷という。善国寺は寛政4年(1792)(千代田区の設置した坂標では寛政10年となっているようだが未確認)の火事で消失し、牛込神楽坂に移った。

DSC04682 いちょう坂  麹町4-3と4-5の間を北に上る「いちょう坂通り」。《地図

まばらないちょう並木にはわずかに葉っぱが残り寂しい感じだ。

DSC04690 清水谷坂  麹町4丁目と紀尾井町の間を北東に上る。《地図

坂下が清水谷、シミズダニをつめて、シダニ坂・シタン坂の別名がある。

DSC04699 紀尾井坂  麹町5丁目と紀尾井町の間を南西に上る。《地図

州、張、伊の屋敷があった。明治11年、大久保利通が島田一郎らに襲われた「紀尾井坂の変」のあった場所。坂下に清水谷があるので別名を清水坂。坂上は「喰違見付跡」(「絵本江戸土産」広重画) 落語『ちきり伊勢屋(上)』

Dsc04706 無名の坂 紀尾井坂下から上智大学に沿って北東に上る。坂上は新宿通り。《地図

DSC04712 貝坂 平河町2-3と2-4の間を北に上る。《地図

貝塚があったというのが現在の定説。もともと半蔵門外一帯を古い地名では貝塚と呼んでいたことがある。また、甲州街道の一里塚があったので土地の人が甲斐坂と呼んだといわれている。落語『文七元結』の最後のところに登場する坂。

DSC04716 中坂  平河町1-7と2-2、2-3の間を北西に上る。《地図

北側に町家、南側に武家の間の坂。【坂標】

Dsc04719平河天満宮

DSC04733 鍋割坂①  隼町の国立劇場とグランドアーク半蔵門の間を東に上り、内堀通りへ下る。《地図

天保6年(1835)~文久元年(1861)の『御府内沿革図書』の各図には、堀側から平河天満宮のわきに向かって一直線に通じています。『千代田区内の坂

DSC04735 鍋割坂② 隼町のグランドアーク半蔵門の北側の坂。《地図

Dsc04724  周辺案内図

地図のグランドアーク半蔵門の右側の道が鍋割坂① 左側の道が鍋割坂②

Dsc04741 太田姫稲荷神社(神田駿河台にある分社)

太田姫とは天然痘(てんねんとう)に罹った太田道灌の娘のことではなく、道灌に狐の姿で現れて江戸城鬼門に祀れと告げた「太田姫命」のことのようだ。天然痘は「イモガサ」、山城の一口(エモアライ)稲荷神社、一口(イモアライ)坂などつながりが面白い。

Dsc04742 太田姫稲荷神社縁起

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コメント

ぼちょさんへ
 どうぞ、ご自由に使ってください。

投稿: 坂道散歩 | 2010年8月 2日 (月) 14:46

お写真お借りしてもよろしいですか?

投稿: ぽちょ | 2010年8月 2日 (月) 03:03

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