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2005年12月25日 (日)

千代田区の坂-3

2005年12月25日(日) 

市ヶ谷駅(JR中央線)・・一口坂(いもあらいざか)・・・富士見坂・・・幽霊坂①②③・・・二合半坂・・・ 冬青木坂(もちのきざか)・・・中坂・・・九段坂・・・田安門・・・北の丸公園・・・紀伊国坂 ・・・北桔橋門(きたはねばしもん)・・・皇居東御苑・・・梅林坂・・・汐見坂・白鳥濠・・・天守閣跡・・・大手門・・・大手町駅(地下鉄千代田線)

 坂標の説明文によれば、一口坂の坂名の由来となった疱瘡を洗う(治す)霊験あらたかな社がどの辺にあったのかは不明だそうです。富士見坂は法政大学の前を真直ぐに北東方向に上る坂です。勾配はさほどありません。もちろん富士は見えません。

 幽霊坂は富士見1丁目と2丁目の境付近に3本あります。今でも都心にしては寂しい感じの所でしょうか。二合半坂の坂名の由来については諸説あり、どれもこじつけのようで感じで面白いです(後述)。中坂と冬青木坂は直線的な急坂で、中坂は冬青木坂と九段坂の間の坂です。

 九段坂を上り下りし田安門から北の丸公園に入りました。武道館の前は何とかバンドのコンサートを待つ若い女性が長い列を作っていました。紀尾井坂に出ると今日もランナーの姿が目立ちました。北桔橋門から皇居東御苑に入りました。桔橋を拮橋と書いている本もあります。梅林坂から汐見坂、天守閣跡、石室、富士見櫓、松の廊下跡などを回り、大手門へ出ました。御苑内は外人の見学者が目立ちました。

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DSC04744 一口(いもあらい)坂  九段北3-2と4-1の間を南東に上る。《地図

「いもあらい」とは、疱瘡(ほうそう・天然痘)のことを「いもがさ」とか「へも」と呼び、「疱瘡を洗う(治す)」という意味からきている。疱瘡に霊験あらたかな神社(太田姫稲荷神社が有名だが)が坂付近にあったのだろうか。

DSC04757 富士見坂  九段北3-1と富士見2-15の法政大学の間を東に上る。《地図

DSC04760 幽霊坂①  富士見1-11と1-12の間を南西に上る。

地図

DSC04765 幽霊坂②  富士見1-12と2-13の間を南西に上る。

DSC04770 幽霊坂③  富士見2-14と2-13の間を南東に上る。坂上は②の幽霊坂と同じ。

DSC04780 二合半坂  富士見1-1と1-2の間を南に上る。《地図

別名を日光半坂・日光坂・こなから坂 ①日光山が半分見えるから。(日光山を五合とした。) ②富士山が四分の一見えるから。 ③日光山が半分見えるから日光半坂 ④急坂で酒を二合半飲んでも五合の効き目がある。⑤水や酒の二合半を「こなから」という。など様々。
紀州街道の岸和田城そばにも「こなから坂」がある。

DSC04784 冬青木(もちのき)坂  九段北1丁目と飯田橋1丁目の間を西に上る。《地図

古い「もちの木」があった。「もちの木」ではなく常盤木の古木だったとも。別名の万年坂の由来は?

DSC04800 中坂  九段北1-12と1-13の間を西に上る。冬青木坂の南側。

九段坂と冬青木坂の間の坂。江戸時代には九段坂より広く大きな坂だったようだ。

中坂・九段坂『江戸名所図会』

DSC04810 九段坂  九段北1丁目と九段南1丁目の間を西に上る。中坂の南側。

①急坂で石で段を造り九層の坂にしていた。②江戸城吹上庭園の役人の長屋が9棟並んでいた。③ ②の長屋が9段に立っていて九段長屋と呼んでいた。

DSC04823 紀伊国坂  北の丸公園の国立近代美術館前を南西に上る。《地図

尾張紀州家の屋敷があった。振袖火事(明暦3年(1657)正月の大火)で焼失し赤坂に移った。

Dsc04827 皇居内案内図

梅林坂・汐見坂の記載あり。

Dsc04826 平河濠(北桔橋(はねばし)門から)

DSC04837 梅林坂 皇居東御苑内 《地図

太田道灌が天神社をまつり、数百株の梅を植えた。【坂標】

Dsc04829 梅林坂説明板

Dsc04830 梅林坂坂標

Dsc04843 汐見坂説明板

Dsc04838 汐見坂坂標

DSC04849 汐見坂  皇居東御苑内の白鳥濠の北側の坂 《地図

昔は、皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、この坂からこの坂から海を眺めることができた。【坂標】

Dsc04839 坂下から左側が白鳥濠

Dsc04851 天守台跡

明暦の大火(振袖火事)で焼失、その後は再建されず。

Dsc04852 天守台説明板

Dsc04854 天守台跡から

Dsc04864 石室説明板

Dsc04865 石室

Dsc04870 富士見櫓説明板

Dsc04871 富士見櫓

Dsc04872 大手門

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2005年12月24日 (土)

千代田区の坂-2

2005年12月24日(土)

市ヶ谷駅(JR総武線)・・・帯坂・・・新坂・・・三年坂・・・東郷坂・・・行人坂・・・南法眼坂・・・袖摺坂 ・・・五味坂・・・御厩谷(おんまやだに)坂・・・鍋割坂(九段南2丁目)・・・永井坂・・・正和坂・・・正和新坂・・・善国寺坂・・・いちょう坂・・・清水谷坂・・・紀尾井坂喰違見附跡・・・貝坂・・・中坂・・・平河天満宮・・・国立劇場・・・鍋割坂(隼町)・・・太田姫稲荷神社・・・半蔵門駅

 帯坂、新坂、三年坂は南に上る緩やかな坂です。東郷公園から南に東郷坂、行人坂、南法眼坂が一直線に続いています。もとは、法眼坂の一つの坂名で呼ばれていたようです。御厩谷坂を上り、内堀通りに出ました。内堀通りから千鳥が淵の方へ上って下るのが鍋割坂です。

 善国寺坂の坂上の新宿通りを西に少し行くと南に下るいちょう坂通りがあります。短い坂で坂下で清水谷坂とぶつかります。いちょう坂商店街でもあるのかと思っていましたが、両側はビルだけです。枝を切られたいちょう並木があり、葉がわずかに残っている木もありました。

 清水谷坂を下って、紀尾井坂を上りました。坂上は喰違見附跡です。紀尾井坂を下り、清水谷坂を上り、東へ平河天満宮の近くの貝坂から中坂へ出ました。半蔵門駅通りを渡り国立劇場の北側の鍋割坂に向いました。この坂の位置については、①国立劇場とグランドアーク半蔵門の間 ②グランドアーク半蔵門の北側の坂の二通りの道筋が考えられます。どちらの坂も桜田濠へ上って下る坂です。

 半蔵門駅の向かい側に太田姫稲荷神社が小さく、ひっそりと祀られていました。説明板によると、神田駿河台淡路坂(一口(いもあらい)坂)の太田姫稲荷神社の分社だそうです。説明文は天然痘(イモガサ・ヘモガサ)、一口(いもあらい)坂のことにも触れていました。

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DSC04595 帯坂  九段南4丁目と五番町の間を南東に上る。《地図

怪談『番町皿屋敷』のお菊が髪を振り乱し、帯を引きずりながら通ったという伝説のある坂。寛永年間(1624-43) の外堀普請後に市ヶ谷御門へ抜ける切通しとして作られたので、「切通し坂」の名もある。 

東海道平塚宿には「お菊塚」、播州姫路には「お菊神社」、姫路城に「お菊井戸」がある。『東海道(藤沢宿→大磯宿』・『出雲街道①』に記載。落語の『皿屋敷

DSC04597 新坂  五番町3と4の間を南西に上る。《地図

明治中頃の道路計画に含まれていたが、工事が遅れ、明治末年になってやっとできた通り。住民の待ち遠しかった気持ち新坂の名に表れているか。

DSC04603 三年坂  五番町10と12の間を南に上る。《地図

三念寺があり三念寺坂だったのが誤り称され三年坂となった。【坂標】

DSC04609 東郷坂  三番町18の東郷公園と四番町の間を北に上る。《地図

東郷元帥宅があった。別名の法眼坂は、宅間法眼または斉藤法眼の屋敷があった。『今昔東京の坂』

 

DSC04616 行人坂  三番町7と四番町1の間を南に上る。東郷坂の坂下から続く坂。

何がしの法印という行人が住んでいた。法印坂とも呼び法眼坂ともいう。【坂標】

DSC04625 南法眼坂  一番町6と8の間を北に上る。行人坂の坂上から続く坂。

『紫の一本』に「斎藤法眼という人の屋敷、この坂のきわにあり」とある。

DSC04630 袖摺坂  一番町4と6の間を北東に上る。《地図

昔は狭い坂で、行き交う人たちの袖が触れ合うほどだった。

DSC04635 五味坂  一番町4と三番町5の間を南西に上る。《地図

別名を近くにあった寺から光感寺坂、これが転じて甲賀坂、芥坂、埃坂。「ゴミ」ではなく「ゴニ」で、五番町から上二番町へ登る坂で「五二坂」が「五味坂」に変わったとの説もある。【坂標】

DSC04640 御厩谷坂  三番町10と12の間を北東に上る。《地図

将軍家の厩舎があった。『新編江戸志』に「今も紅梅勘左衛門殿やしきに、御馬の足洗いし池残りてあるなり」とある。

DSC04648 鍋割坂  九段南2丁目と三番町の間を西に上る。

土鍋を伏せた形の丘を切り通した坂。《地図

DSC04654 永井坂  一番町21と23の間を南に上る。袖摺坂から南に続く坂。《地図

坂を挟んで二つの永井家の武家屋敷があった。

DSC04658 正和坂  麹町2丁目と3丁目の間を南に上る。麹町小学校の西側。《地図

太平洋戦争中にこの地域に正和会という隣組があったことなどが坂の名の由来か。

DSC04665 正和新坂  麹町2-8と2-10の間を南に上る。麹町小学校の東側。《地図

DSC04677 善国寺坂  麹町3-4と3-8の間を南に上る。《地図

坂上に鎮護山善国寺があった。別名を鈴振坂、坂下の低地を善国寺谷または鈴降(振)谷という。善国寺は寛政4年(1792)(千代田区の設置した坂標では寛政10年となっているようだが未確認)の火事で消失し、牛込神楽坂に移った。

DSC04682 いちょう坂  麹町4-3と4-5の間を北に上る「いちょう坂通り」。《地図

まばらないちょう並木にはわずかに葉っぱが残り寂しい感じだ。

DSC04690 清水谷坂  麹町4丁目と紀尾井町の間を北東に上る。《地図

坂下が清水谷、シミズダニをつめて、シダニ坂・シタン坂の別名がある。

DSC04699 紀尾井坂  麹町5丁目と紀尾井町の間を南西に上る。《地図

州、張、伊の屋敷があった。明治11年、大久保利通が島田一郎らに襲われた「紀尾井坂の変」のあった場所。坂下に清水谷があるので別名を清水坂

Dsc04706 無名の坂 紀尾井坂下から上智大学に沿って北東に上る。坂上は新宿通り。《地図

DSC04712 貝坂 平河町2-3と2-4の間を北に上る。《地図

貝塚があったというのが現在の定説。もともと半蔵門外一帯を古い地名では貝塚と呼んでいたことがある。また、甲州街道の一里塚があったので土地の人が甲斐坂と呼んだといわれている。落語『文七元結』の最後のところに登場する坂。

DSC04716 中坂  平河町1-7と2-2、2-3の間を北西に上る。《地図

北側に町家、南側に武家の間の坂。【坂標】

Dsc04719 平河天満宮

DSC04733 鍋割坂①  隼町の国立劇場とグランドアーク半蔵門の間を東に上り、内堀通りへ下る。《地図

天保6年(1835)~文久元年(1861)の『御府内沿革図書』の各図には、堀側から平河天満宮のわきに向かって一直線に通じています。『千代田区内の坂

DSC04735 鍋割坂② 隼町のグランドアーク半蔵門の北側の坂。《地図

Dsc04724  周辺案内図

地図のグランドアーク半蔵門の右側の道が鍋割坂① 左側の道が鍋割坂②

Dsc04741 太田姫稲荷神社(神田駿河台にある分社)

太田姫とは天然痘(てんねんとう)に罹った太田道灌の娘のことではなく、道灌に狐の姿で現れて江戸城鬼門に祀れと告げた「太田姫命」のことのようだ。天然痘は「イモガサ」、山城の一口(エモアライ)稲荷神社、一口(イモアライ)坂などつながりが面白い。

Dsc04742 太田姫稲荷神社縁起

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2005年12月23日 (金)

千代田区の坂-1

2005年12月23日(金)

有楽町駅(JR山手線)・・・日比谷公園・・・霞門・・・霞ヶ関坂・・・潮見坂・・・三年坂・・・茱萸坂・・・梨木坂・・・三宅坂・・・富士見坂・赤坂見附・弁慶堀・・・諏訪坂・・・三べ坂・・・山王坂・・・ 山王男坂・女坂・日枝神社・・・山王切通坂・・・新坂・・・溜池山王駅(地下鉄南北線)

 今日は天皇誕生日のせいか皇居周辺の警備が厳しいようでした。官庁街は休日で人影もまばらでした。霞ヶ関坂、潮見坂、三年坂は3本平行に並ぶ北西方向に上る坂です。

 三宅坂はお濠沿いにきれいにカーブする長い坂です。ジョギングを楽しんでいる人が多いです。山王坂は日枝神社の前から国会裏まで一直線に上る急坂です。日枝神社に赤坂方面から上る石段には、脇にエスカレーターがついていました。山王切通坂は、日枝神社の北側を巻くような坂です。新坂の坂上には、日比谷高校としゃれた建物のメキシコ大使館があり、遅刻坂の別名がついています。

 参考:『千代田区内の坂

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DSC04469 霞ヶ関坂  霞ヶ関2-1と2-2の間を北西に上る。《地図》(霞ヶ関坂・潮見坂・三年坂)

中世の頃、この辺りに関所が置かれていたことから名が起こった。

霞が関

DSC04473 潮見坂  霞ヶ関2丁目と3丁目の間を北西に上る。

中世の頃までは日比谷公園辺りが渚だったという。この坂も当時はもっと急坂で、眼下に海を臨むことができたので、この名がつけられたのだろう。

DSC04479 三年坂  霞ヶ関3-1と3-2の間を北西に上る。

この坂で転ぶと3年以内に死ぬという俗信から。『江戸の坂東京の坂』は、「明治5年にこの付近を三年町としたには、ここに有名な三年坂があったためにほかならいない。(中略)徳川家康の入国以前の状態を調べてみると、意外にもこの辺の高台は大きな寺院や墓地でふさがっていたようだ」と記している。

DSC04488 茱萸(ぐみ)坂  永田町1丁目、国会議事堂前の南側を西に上る。《地図

坂の両側にぐみの木があった。別名を番付坂、日枝神社の祭礼の時、ここに花車の番付札があり行列をあらためた。

DSC04493 梨木坂  永田町1-8と1-9の国会図書館の間を南に上る。《地図

かつて、梨の木があった。

DSC04506 三宅坂  永田町1丁目と桜田濠の間を北西に上る内堀通り。《地図

三河田原藩主、三宅備前守の屋敷があった。昔は堀端に皀莢(さいかち)の木や橿(かし)の木が多く茂っていたので皀莢坂とか橿木坂と呼ばれたこともある。

DSC04513 富士見坂  永田町2丁目と紀尾井町、平河町2丁目の間を東に上る青山通り。《地図

Dsc04515 赤坂見附(御門)説明板

Dsc04517 赤坂見附跡

大山街道の起点

Dsc04518 弁慶堀

弁慶堀

DSC04524 諏訪坂  紀尾井町と平河町2丁目の間を北に上る。《地図

諏訪氏の屋敷があった。別名を達磨坂、紀州藩邸の表門の柱にダルマに似た木目があり達磨門と呼ばれ、その前の坂を達磨坂と呼んだ。

DSC04536 三べ坂  永田町2-18の参議院議長公邸と2-19の間を北に上る。《地図

筑前守・安摂津守・渡丹後守の三邸があった。坂上の西側一帯は松平出羽守の屋敷で、松平家が赤坂御門の御水番役をかねていたところから、この坂は水坂とも呼ばれていた。

DSC04547 山王坂  永田町2-1と2-2の間を東に上る。《地図

日枝神社(山王社)前に下る坂。坂の近くに明治時代の豪商鹿島清兵衛の屋敷があったので鹿島坂とも呼ばれた。

Dsc04550 周辺案内図

DSC04558 山王男坂  永田町2丁目の日枝神社の東側から上る正面の石段。《地図

Dsc04561 山王日枝神社

DSC04563 山王女坂  日枝神社の正面から南側を廻って上る。(男坂の南側)

将軍の参詣の時だけ用いられたので、別名御成坂とも呼ばれた。

Dsc04564 赤坂方面から上る石段。右側にエスカレーター付き。

DSC04573 山王切通坂  日枝神社の西側から北側を廻って上り、下る坂。《地図

DSC04587 新坂  永田町2-13と2-14の間を東に上る。《地図

別名の遅刻坂は、官庁街、学校へ急ぐ学生が駆け上がる坂なので。

 

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2005年12月22日 (木)

墨田区の坂・足立区の古墳

2005年12月22日(木)

竹ノ塚駅(東武伊勢崎線)・・・白旗塚史跡公園・白旗塚古墳・・・古千谷橋・・・見沼親水公園・・・西門寺・・・尾久橋通り・・・源証寺・・・入谷氷川神社・入谷古墳・・・舎人町(バス)→竹ノ塚駅→曳舟駅・・・地蔵坂・・・子育地蔵・・・白鬚神社・・・曳舟駅(東武伊勢崎線)

 今日は足立区の古墳を見学してから、墨田区の地蔵坂へ行きました。白旗塚古墳、入谷古墳とも円墳で、古墳の上に白幡神社、入谷氷川神社があります。
 地蔵坂通りの地蔵坂はほとんど傾斜がありません。坂上に子育地蔵が庚申塔や石造物と一緒に祀られています。白鬚神社まで足を伸ばしました。社殿前の狛犬は、文化12年に料亭八百膳と松葉屋から奉納されたそうです。

  参考:『史跡めぐり伊興~舎人・入谷

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Dsc04431 白旗塚古墳(足立区東伊興)

Dsc04433説明板

塚にまつわる伝承で、古墳そのものの説明はない。

Dsc04438 入谷氷川神社(足立区入谷)

Dsc04440 入谷古墳(白幡塚古墳)

社殿の下

Dsc04439 入谷古墳説明板

DSC04450 地蔵坂  東向島1丁目と3丁目の間を北西に上る地蔵坂通り商店街。 《地図

坂上に子育地蔵。

Dsc04452 地蔵堂

Dsc04453 子育地蔵

Dsc04455 白鬚神社(東向島3丁目)

隅田川七福神の寿老神

Dsc04456 説明板

Dsc04457八百膳奉納の狛犬

文化12年(1815)の銘あり。

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2005年12月21日 (水)

板橋区の坂-2・和光市の坂

2005年12月21日(水)

和光市駅(東武東上線)・・・白子坂(和光市)・・・(白子)大坂(和光市)・・・熊野神社・清瀧寺不動院・・・滝坂(和光市)・・・白子橋(白子川)・・・新田坂(板橋区)・・・八坂神社・・・成増駅

 白子坂は和光市と板橋区成増の境あたりにあります。坂下から南西方向に入り、曲がりながら北西に上る長い坂が(白子)大坂です。坂の両側から樹木が被さる急坂で、道幅は広いですが車、人の通行も少ない雰囲気のある坂です。坂の途中に川越街道白子宿の上宿本陣、坂下に中宿本陣があったそうです。

 熊野神社の境内の北側を上ると滝坂の上に出ます。坂上の道路標識にTaKizaKa、とあり濁って呼ぶようです。清瀧寺不動院(通称滝不動)の「白子不動滝」の滝のよる坂名です。 急坂で住宅地の間を下り白子川の方へ続きます。白子橋の手前が川越街道の白子宿の下宿本陣があった所です。白子橋を渡ると新田宿と呼ばれた集落となり緩やかに上り坂となります。かつてはもっと急な坂だったといいます。この坂が新田坂ですが、白子坂と呼ぶ人もいます。坂途中に八坂神社があり、向かいの空き地にこの辺にあった石の地蔵、稲荷の石祠、道祖神、常夜灯を並べて保存、安置してありました。

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DSC04375 白子坂(和光市)  白子2-14と2-15の間を北西に上る。《地図

DSC04387 (白子)大坂  白子2-14と2-23の間を南西に上り、カーブして北西に上る川越街道。《地図

Dsc04395 清瀧不動院(白子2丁目)

Dsc01311 開運利益洞窟めぐり(不動院内の稲荷大明神)

反対側に抜けられる。

DSC04401 滝坂(坂下方向、正面へ下る坂)  白子2-15と2-17の間を北西に上る。《地図

清瀧寺不動院(通称滝不動)の「白子不動の滝」による。『新編武蔵風土記稿』に、「西北ノ方ヨリ下ル坂ナリ、滝不動ノ側ニアル故ニ名トセリ」とある。

Dsc04399標識

Dsc01312 白子橋から白子川

DSC04410 新田坂(板橋区)  成増2-35と3-37の間を南東に上る旧川越街道。《地図

昔このあたりは成増村の向新田と呼ばれた。かつては急勾配の曲がった道で旅人は難渋して行き倒れも多かったという。そこで新田宿の人たちは石地蔵を建立し供養した。この地蔵は坂の途中にある新田坂の石造物群の中に移されている。『郷土 板橋の坂道』

Dsc04417 新田宿と八坂神社説明板

Dsc01313 八坂神社

Dsc04424 新田坂の石造物群説明板

Dsc04425 道祖神

文久3年(1862)の銘

Dsc04426 稲荷の石祠

Dsc04427 地蔵の丸彫り

これが村人が行き倒れの旅人供養のために建てた石地蔵。「延命地蔵」という。

「白子坂の首欠け地蔵さん」『いたばしの昔ばなし』:いつの頃か、地蔵さんの首が折られてしまった。首欠け地蔵さんを毎日熱心に拝んでいた、旧家「油屋」のおばあさんの夢枕に立った地蔵さんが首のありかを教え、元通りにしてくれと告げた。おばあさんは首を見つけて、地蔵さんは元の姿になったというお話。坂の途中の旧家の油屋は最近まで残っていたようだが見当たらなかった。

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2005年12月20日 (火)

板橋区の坂-1

2005年12月20日(火)

赤羽駅(JR京浜東北線)・・・静勝寺坂(北区)・・・弁天坂(北区)・・・三岩通り・・・西が丘競技場・・・岩の坂縁切り榎・板橋・・・板橋本町駅(都営三田線)→志村坂上駅・・・志村坂・・・清水坂・・・城山の坂・・・熊野神社・志村城址・志村城址坂・・・志村一里塚・・・志村坂上駅

 赤羽駅から歩きました。岩の坂は旧中山道で、石神井川に架かる板橋から緩やかに上っています。清水坂は曲がりながら下る緑の多い坂で、旧中山道で江戸を出て最初の急坂でした。

 城山の坂は、志村2丁目の志村小学校の前を通る坂です。志村坂上で中山道から分かれ、この坂を下り下練馬宿に通ずる大山道の一部でした。城山とは、千葉氏の志村城で、空濠跡が残っています。志村城址坂は志村城山公園から熊野神社の裏に上る急坂です。熊野神社の社殿の下は古墳(前方後円墳か円墳)らしいです。熊野神社境内の城山幼稚園から帰る親子連れが多く、坂の写真を撮るのに苦労しました。

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DSC04313 岩の坂  本町の板橋(石神井川)あたりから北方向に上る旧中山道。《地図

昔、坂の左側に二股の榎の大木が聳え、奥に第六天社があった。今は榎は反対側に移され、3、4代目になっている。坂の両側から樹木が覆い被さり、昼なお暗い不気味な坂だったので「いやな坂」が訛って、「いわの坂」と呼ばれた。別名を縁切坂・いやの坂・宝来坂。『郷土 板橋の坂道』  坂下に石神井川に架かる板橋がある。

Dsc04308 縁切榎

10代将軍家治、12代家慶に降嫁の行列はここを避けて根村道を通ったが、二人とも若死した。縁切榎の名は高まり、その樹皮を煎じて飲めば男女の縁が切れるという俗信が生じ、榎の皮を粉にして売る者まであったという。

Dsc04310 板橋宿説明板

Dsc04318 石神井川と板橋

板橋

DSC04325 志村坂  志村2丁目と小豆沢3丁目の間を南東に上る中山道(国道17号)。《地図

DSC04334 清水坂  志村2-4と2-7の間を東南に志村坂上に上る。《地図》 隠岐殿坂、地蔵坂ともいう。

坂の中程を左に入った所に大善寺があり、徳川吉宗が鷹狩の折りに休憩して崖より落ちる清水を賞して、寺の本尊の薬師如来を清水薬師と命名したことから清水坂と呼ばれる。隠岐殿坂は大善寺の僧と勧進してこの坂を開いた隠岐守某にちなむ。地蔵坂は坂の中程にあった石の地蔵尊(元禄4年(1691)造立)による。勧進の由来の石碑と地蔵尊は坂上の総泉寺に移されている。 『郷土 板橋の坂道』 大善寺は今はないようだ。坂名は①隠岐殿坂→②地蔵坂→③清水坂と変わった。
中山道で唯一の「右富士」の名所だった。

清水坂『江戸名所図会』

Dsc04333 清水坂説明板

Dsc04328 清水坂の坂標

DSC07669 城山の坂  志村2-15と志村小学校の間を東に上る。《地図

城山の学校といわれた志村小学校の南側を通る坂道で、かなり急勾配な坂です。志村坂上の中山道から分かれ、ここを通り、中台の南坂を登りやがて下練馬宿に至る大山道の一部です。『いたばしの地名』

 

Dsc07675 熊野神社

Dsc07672 志村城址と熊野神社説明板

Dsc07676 志村城の空濠跡

DSC04355 志村城址坂  志村2-16と2-17の志村城山公園の間を東方向に上る。坂上はコパルの工場と熊野神社。志村城址の裏の坂。《地図

Dsc04361 志村一里塚説明板

Dsc04362 志村一里塚(志村坂上近くの中山道)

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2005年12月19日 (月)

豊島区の坂-2・足立区の坂-1

2005年12月19日(月)

雑司が谷駅(都電)・・・御嶽坂・・・富士見坂・日無坂・・・稲荷坂・高田稲荷・・・金乗院 (目白不動)・・・宿(しゅく)坂・・・のぞき坂・・・目白駅(山手線)→(駒込)→王子神谷(地下鉄南北線)・・・新田橋(隅田川)・・・ハートアイランド新田・さくら坂・ふじみ坂・・・新田橋・・・豊島馬場遺跡公園・・・王子神谷駅

 日無坂は、文京区目白台との区境にあります。坂上で富士見坂と一緒になります。稲荷坂、宿坂、のぞき坂と3本の急坂が並んでいます。稲荷坂上の住宅の敷地内に高田稲荷?が小さく祀られていました。

 宿坂下の金乗院不動堂は、江戸五色不動の一つの目白不動です。金乗院は中野宝仙寺の末寺だったそうです。宝仙寺の裏には犬坂があります。また、金乗院境内に慶安太平記でおなじみの丸橋忠弥の墓(品川区の妙蓮寺にもある)があり、文京区本郷に忠弥坂があります。坂に縁のある寺のようです。急坂ののぞき坂を下って、上り返したらちょっと暑くなりました。目白通りを西に行き、千登世橋を通り目白駅に出ました。

 王子神谷駅から東へ、隅田川の新田橋を渡りハートアイランド新田内のさくら坂、ふじみ坂を歩きました。どちらも団地内の遊歩道といった感じの道で坂らしくはありませんが坂上からの荒川の眺めはいいです。

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DSC04237 御嶽(みたけ)坂  西池袋4-2と雑司が谷霊園清立院の間を東に上る。《地図

御嶽山清立院の前の坂

Dsc01308 清立院

DSC04246 富士見坂(右)・日無坂(左)《地図

DSC04244 富士見坂  高田1-33と23の間を南西に下る。

DSC04257 日無坂  高田1-23と文京区目白台1丁目の間を北に上る。

DSC04265 稲荷坂  高田1-39と1-40の間を目白通りから南に下る。《地図

坂上の高田稲荷大明神に因む。

Dsc04258 高田稲荷だろう。

DSC04269 宿(しゅく)坂  高田1-36と2-18の間を目白通りから南に下る。《地図

中世の頃、「宿坂の関」と呼ばれる所がこの辺にあった。坂下の金乗院には江戸五色不動のひとつの「目白不動」がある。

宿坂『江戸名所図会』(右の急坂)

Dsc04267 宿坂説明板

Dsc01310 金乗院

Dsc04268 金乗院説明板

Dsc04272 丸橋忠弥の墓

DSC04282 のぞき坂  高田2-17と2-18の間を目白通りから南に下る。《地図

別名の胸突坂のとおりの急坂

Dsc04290 新田橋から隅田川

Dsc04293_2 さくら坂【坂標】

Dsc04300 さくら坂(坂上方向) 足立区新田3丁目のハートアイランド新田内の坂。《地図

Dsc04301 坂上近く

正面向うは荒川

Dsc04298 荒川(上流方向)

Dsc04295_3  ふじみ坂【坂標】

Dsc04296 坂上方向 《地図

Dsc04297_2  坂下方向

Dsc04304 豊島馬場遺跡説明板

古墳時代初期の遺跡

Dsc04305_2豊島馬場遺跡公園 《地図

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2005年12月17日 (土)

豊島区の坂-1

2005年12月17日(土)

駒込駅(JR山手線)・・・妙義坂・・・妙義神社・・・染井坂・西福寺・・・有松坂・・・木戸坂・・・駒込駅→大塚駅・・・宮坂(文京区との境)・・・さいとう坂・・・あさみ坂・・・大塚駅

 妙義神社は思ったより小さな神社でした。染井坂の西側に有松坂があります。坂名の由来は不明だそうです。木戸坂の坂上に駒込東公園があります。この辺一帯は木戸孝允の屋敷だったそうです。

 大塚駅から千川通りを進みさいとう坂を目指しましたが行き過ぎて文京区との区境まで来てしまいました。ここには、無名の急坂が北東方向に上っていました。(この坂は「宮坂」という名らしいです。2006年8月16日追記) 宮坂を上り大塚方面に引き返しながら、何とかさいとう坂に出ました。坂の途中に「さいとう坂」と書かれた石の坂標がありました。坂名の由来の「さいとう」氏は誰なのか、坂標を設置したのは誰なのでしょうか? 『豊島区の坂』?という小冊子に、坂標に「田村福太郎」の署名があると載っていたと思います。(未確認) 

 大塚駅方面に戻り、あさみ坂に出ました。直線的に上る急坂です。大塚の三業地(花街)の発展に貢献した「あさみ」という人の名から由来する坂名のようですが、「浅見」なのでしょうか? 花街らしく「あさみ」という女性なのでしょうか。なるほどこのあたりは花街の名残りの風情、匂いを感じさせるところです。→(浅見さんで男性です。ご子息の方から下記のとおりコメントが届きました。(2014年6月18日))

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DSC04179 妙義坂  駒込2丁目と3丁目の間を北に下る本郷通り。《地図

坂の西側に妙義神社

Dsc04181 妙義坂の坂標

Dsc01306 妙義神社

日本武尊(ヤマトタケル)が東征の折に陣営を構え、大田道灌が出陣に際し戦勝を祈願したというにしては小さな神社だ。

DSC04191 染井坂  駒込2丁目と6丁目の境、西福寺と駒込小の間を南西に上る。《地図

旧地名の染井村に因る。

Dsc04187 染井坂の坂標(西福寺の塀にある。)

Dsc01307 西福寺

ダダイストの辻潤の墓がある。

DSC04200 有松坂  駒込6-20と7-14の間を南西に上る。《地図

坂名の由来不明

DSC04206 木戸坂  駒込1-21と1-23の間を西に上る。坂上は駒込東公園、坂下近くに木戸坂クリニックがある。《地図

駒込東公園一帯は、木戸孝允の屋敷だった。

Dsc04225 宮坂? 南大塚1丁目と文京区千石3丁目との境を北東に上る。《地図

「坂学会」の「東京の坂」リスト一覧に載っている坂。坂上は文京区なので「文京区の坂」とする。坂の近辺に神社等が見当たらず、坂名の由来不明。→「ねずみ様」からのコメント(下欄)により、「有栖川親王の別邸があったことからつけられた名前」ということが分かりました。(2012年7月7日追記)

DSC04222 さいとう坂  南大塚1-10と1-25の間を東北に上る。《地図

坂名の由来不明。さいとう氏が開いた坂か、坂沿いに住んでいたのだろう。

Dsc04221 さいとう坂の坂標

DSC04229 あさみ坂  南大塚1-35と1-33の間を東北に上る。《地図

花街大塚三業(芸妓置屋・待合・料亭)の発展に貢献した「あさみ」という人の名からついた。「豊島区のHP」

 

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2005年12月16日 (金)

杉並区の坂-1

2005年12月16日(金)

西荻窪駅(JR中央線)・・・地蔵坂(御立場坂)・・・原寺分橋・・・善福寺川・・・置田橋・・・薬罐坂①②・・・光明院・・・善福寺川・・・矢来橋・・・尾崎熊野神社・・・三年坂・・・尾崎橋・・・五日市街道・・・ 左内坂・・・善福寺川・・・済美台遺跡・・・郷土博物館・・・大宮八幡神社・・・西永福駅(井の頭線)

 地蔵坂の坂下付近の原寺分橋から善福寺川に沿い、南東方向に歩きました。陽射しを正面から受け暖かい道のりでした。薬罐坂の位置については、何通りかの道筋があるようです。薬罐坂①②としました。

 矢来橋を渡り、尾崎熊野神社から三年坂の坂上に出ました。この坂には立派な坂標が設置してあり詳しい説明文があります。坂は宝昌寺と杉並第二小学校の間を下っています。以前は五日市街道の尾崎橋まで一直線に下る石坂だったそうです。坂下から写真を撮っていると自転車に乗った警官が近づいてきて何を撮っているのかと質問を受けました。子どもの誘拐、殺人事件などが続くので、小学校を撮る不審者と思ったのでしょう。

 五日市街道から南に入り、左内坂から荒玉水道通りへ出て済美台遺跡跡から郷土博物館、大宮八幡神社へ寄り、井の頭線の西永福駅に出ました。

 参考:『善福寺川沿いの寺社史跡

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DSC04137 地蔵坂  西荻北4丁目と善福寺1丁目の間を西に上る女子大通り。《地図

坂の途中に地蔵堂があり、「北向地蔵」と呼ばれていた。今は地蔵は観泉寺(今川2丁目)に安置されている。

別名の御立場坂は坂上南の旧家が将軍鷹狩の休息所(お立場)になったことに因む。『東京の坂道』 昔の字名の寺分(てらぶ)に因み寺分坂とも呼ぶ。『今昔東京の坂』

Dsc04133 地蔵坂の説明板

Dsc04141 原寺分橋から善福寺川

DSC04147 薬罐坂①  置田橋(善福寺川)から東から北東に上荻本町通りの方へ上る。《地図》

①他の薬罐坂と同様に、かつては暗く淋しく、野狐(野かんといった)などが出る所だった。野かん→薬罐となった。②雨模様の暗夜にここを通ると真赤に焼けたやかんが坂上から転がり落ちてくるという怪談が伝えられ、子どもたちは恐ろしがった。『杉並の通称地名』

DSC04151 薬罐坂②  南荻窪3丁目と4丁目の間を北に上荻本町通りに上る。《地図

Dsc04154 光明院(上荻1丁目)

「荻窪」の地名発祥由来の寺という。

Dsc01304 尾崎熊野神社(成田西3丁目)

DSC04162 三年坂  成田西3-3の宝昌寺と3-4の杉並第2小学校の間を東に下る。《地図

昔は急坂で近くに寺、墓地があり、この坂で転ぶと3年以内に死ぬという伝承があった。昔は尾崎橋から一直線に宝昌寺北に上っていた。【坂標】

Dsc04158 三年坂説明板

Dsc04167 尾崎橋から善福寺川

DSC04169 左内坂  堀の内3-8と3-13の間、坂の東側に左内坂教会、幼稚園がある。《地図

坂名の由来は不明だが、左内は人名だろう。

Dsc04172 左内坂幼稚園・教会

Dsc04175済美台遺跡説明板

Dsc01305大宮八幡神社

 

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2005年12月14日 (水)

中野区の坂-1

2005年12月14日(水)

中野富士見町駅(地下鉄丸ノ内線)・・・駒ケ坂・・・東坂・・・十貫坂・・・宝仙寺・・・犬坂・・・中野坂上駅(地下鉄丸ノ内線)

 駒ケ坂は善福寺川の駒ケ坂橋から南に上る坂です。坂上から方南町通りへ出て、地下鉄車庫の東側の東坂を北に下りました。十貫坂は中野通りの十貫坂上交差点から杉並区和田1丁目に下る坂で、坂名の由来には諸説(5説?)あります。

 犬坂の位置については、①中野警察署裏手にある宝仙寺裏の坂とする説(『今昔東京の坂』岡崎清記著・『中野の文化財11「中野の昔話、伝説、民話)の古老の話』。 ②中野坂上東側の山手通りとする説(中野区報第810号昭和59年5月15日)があるようです。また、坂名の由来についても説が分かれます。

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DSC04087 駒ケ坂  弥生町6丁目の駒ケ坂橋から南西に上る。《地図

昔の小字名、駒ケ崎に因るか。『今昔東京の坂』

Dsc04080 駒ケ坂橋(善福寺川)

DSC04095 東坂  弥生町5-6と5-7の間を方南通りへ南に上る。坂下は和田見橋。《地図

DSC04104 十貫(じっかん)坂  本町5丁目と6丁目の間を杉並区和田から北東に上る。《地図

①昔、中野の長者が十貫文の銭を埋めた。②中野の長者が坂上に立って目の及ぶ限りの土地を十貫文で買った。③江戸時代、銭十貫が掘り出された。この銭は①の中野の長者が埋めた物ともいう。④坂を上る荷物の後押しをすると十貫もらえた。⑤十貫の荷物を持って上れない急な坂だった。 など坂名の由来には諸説ある。

Dsc07854 十貫坂地蔵堂

Dsc07852 地蔵堂由来説明板

DSC04110 犬坂(宝仙寺裏)  中央2-33の宝仙寺の裏を曲がりながら東に上る。《地図

①「生類憐みの令」により中野駅を中心に30万坪にわたり野犬のための犬小屋が設けられたことに因むか。『今昔東京の坂』 ②江戸時代の末ごろ、将軍が狩猟のために連れていた猟犬がこのあたりの野犬とかみ合いのけんかをしたため、村人たちが飼い主のいない犬をつかまえてここにつないだことにより名づけられた。『中野区報第810号』

Dsc04105 宝仙寺

この寺には広南国から8代将軍吉宗に献上された象の頭骨と牙が納められ供養されていたという。昭和20年の戦災で一部を残し焼失したそうだ。(宝仙寺のHP『象と源助さんの話』から) 京から江戸へ下る象が通った姫街道には「象鳴き坂」がある。『姫街道③』に記載。

Dsc04106 宝仙寺三重塔

 

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2005年12月12日 (月)

新宿区の坂-7

2005年12月12日(月)

高田馬場駅(JR山手線)・・・相馬坂・・・氷川神社・・・七曲(囲)坂・・・薬王院・・・久七坂・・・聖母坂・・・西坂・・・霞坂・・・市郎兵衛坂・・・見晴坂・・・六天坂・・・一の坂・・・二の坂(蘭塔坂・・・三の坂・・・四の坂・・・五の坂・・・六の坂・・・七の坂・・・八の坂・御霊神社・・・妙正寺川・・・中井駅(西武新宿線)

 昨日から冷え込んでいます。今日は高田馬場から西へ落合、中井方面の坂を歩きました。地理的にも分かりやすく、住宅地なので車と人の往来もさほどでなく快適な坂道散歩ができました。相馬坂、七曲坂、久七坂は北に上る長く、気持ちのいい急坂です。聖母病院まで直線的に上る聖母坂、坂標はありませんが坂の途中に「クレール聖母坂」というマンションがあります。聖母病院は西洋の建築家の設計による美しい建物です。

 市郎兵衛坂は上って下る小さな坂です。電線工事の車が止まっていました。六天坂の坂上近くにマンションが建設中です。建設反対の旗が何本も坂の両側に立っていました。(旗には建築設計事務所は、耐震偽装事件の某事務所と書いてありました)

 中井2丁目から西へ、一の坂から八の坂までが並んでいます。どの坂も南方向の西武新宿線、妙正寺川方向へ下っています。四の坂には林芙美子記念館があります。八の坂上の御霊神社内の一本の銀杏の黄葉が見事でした。

 二の坂には「蘭塔坂」の別名があります。辞書には「蘭塔」とは、「禅僧の墓標などに用いられる台座の上に卵形の塔身がのせられた墓石。無縫塔・卵塔」とあります。坂上付近に法華宗獅子吼会の本堂がありますが、これと関係がある坂名なのでしょうか?(後日、八丈島に行った時に、「名号(みょうごう)墓」というのがありました。卵型の形の墓でこれが、「蘭塔(卵塔)」かと思いました。下に写真を載せておきます。) 朝霞市の一乗院の墓地脇にも「らんとう(卵塔)坂」があります。「和光市の坂-4・朝霞市の坂-3」(2007年10月17日記載。)

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DSC03933 相馬坂 下落合2-9とおとめ山公園の間を北に上る。《地図

おとめ山(御留山)公園の南側を買い取った相馬家が屋敷を建てた。同じ頃、新井薬師道から相馬邸に開削された坂。【坂標】

Dsc01303氷川神社(下落合2丁目)

DSC03948 七曲坂  下落合2丁目と4丁目の間を曲がりながら北に上る。《地図

曲がりくねった坂の意。七囲坂ともいう。

Dsc03953_2 薬王院(下落合4丁目)

DSC03959 久七坂  下落合4-3と4-4の間を北に上る。《地図

坂付近に久七という農民が住んでいたのか。

DSC03977 聖母坂  下落合4丁目と中落合2丁目の間を北に上る。《地図

坂上に聖母病院がある。坂の途中に「クレール聖母坂」というマンションもある。

Dsc03973_1聖母病院

スイス人マックス・フィンデルの設計により、昭和6年の開院。

DSC03983 西坂  中落合2-7と2-8の間を北西に上る。《地図

字本村の西にあったから。【坂標】

DSC03990 霞坂  中落合2-9、2-10と2-15、2-14の間を北東に上る。《地図

新しい坂、昔、坂下は一面の水田で春かすみの立つ、のどかな田園風景が美しかった。【坂標】

DSC03993 市郎兵衛坂  中落合2-11から新目白通りから離れ北西に上り、下って2-12で新目白通りに合流する。《地図

坂名の由来不明、この坂にゆかりのある人の名か【坂標】

DSC03998 見晴坂  中落合1-7と1-11の間を北に上る。《地図

昔、この坂からの眺望は素晴らしく、特に富士山の雄大な姿は抜群だった。【坂標】

DSC04009 六天坂  中落合1-11と1-14の間を北に上る。《地図

昔、坂上に第六天の祠が立っていた。【坂標】

Dsc04005_1 第六天の祠?(坂下近く)

DSC04017 一の坂  中井2-4と2-11の間を北に上る。《地図

DSC04028 二の坂(蘭塔坂)  中井2-11と2-12の間を北西に上る。《地図

蘭塔とは卵塔で、卵形の墓石。無縫塔のこと。近くの寺に由来するはずだが、坂上近くの法華宗獅子吼会なのか? よく分からない。朝霞市の一乗院の墓地脇にも卵塔坂がある。

Dsc06076 名号墓(八丈島の中之郷の藍が江港の近く)

卵形の石塔の墓。これが蘭塔(卵塔)だろう。(2006年2月18日撮影)

Dsc06075_1名号墓の説明板

DSC04032 三の坂  中井2-12と2-19の間を北に上る。《地図

DSC04041 四の坂  中井2-19と2-20の間を北に上る石段。《地図

林芙美子記念館がある。(写真右側の塀)

DSC04048 五の坂  中井2-20と2-24の間を北西に上る。《地図

DSC04052 六の坂  中井2-24と2-25の間を北に上る。《地図

DSC04058 七の坂  中井2-25と2-27の間を北に上る。《地図

DSC04063 八の坂  中井2-27と2-28の間を北に上る。《地図

坂上に御霊神社がある。

Dsc04060 御霊神社

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2005年12月10日 (土)

新宿区の坂-6

2005年12月10日(土)

早稲田駅(地下鉄東西線)・・・八幡坂・・・グランド坂・・・高田八幡男坂・女坂・・・夏目坂・・・下戸塚坂・・・椎木坂・・・梯子坂・・・蜀江坂・・・成子天神・成子坂・成子子育地蔵・・・中野坂・・・中野坂上駅(地下鉄丸の内線)

 穴八幡宮(高田八幡)の脇を通る八幡坂の坂上からグランド坂を下り、戻って穴八幡の境内に入りました。前回来た時は祭礼日らしく、境内と周辺はすごい人でしたが今日は静かで、ゆっくりと境内を歩けました。下戸塚坂は細い直線的な坂で、坂上近くで傾斜がきつくなります。椎木坂は下って上る向き合う坂です。久左衛門坂の裏手の住宅街に石段の梯子坂があります。急坂で梯子を上るようだったそうです。

 大久保通りを進み、新大久保駅、大久保駅近くの人ごみを抜け、山手線と中央線の線路を越え南に入ると蜀江坂があります。平将門と将軍家光の故事が坂標に記載されていました。

 成子天神から青梅街道の成子坂に出ました。坂の途中に子どもを抱いた成子子育地蔵がひっそりと祀られていました。成子坂下から続く中野坂は車の渋滞で路面が見えないほどで、写真を撮るの苦労しました。

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DSC03871 八幡坂  穴八幡宮(高田八幡)の北側を西北に上る早稲田通り。《地図

DSC03861 グランド坂  西早稲田1-6と1-20の間を西南に上る。《地図

早稲田総合学術情報センターの所に戸塚グランドがあった。【坂標】

DSC03875 高田八幡男坂 《地図

正面の石段。高田八幡は穴八幡の元の名。

DSC03877 高田八幡女坂

DSC03879 夏目坂  早稲田通りから喜久井町9と58の間を東南に上る。《地図

この辺の名主だった夏目漱石の父が、自分の姓をつけて呼んでいたのが人々の間に広まった。【坂標】

DSC03888 下戸塚坂  戸山町1丁目と若松町38の間を南に上る。《地図

明治になりこの辺は下戸塚町となったことによる。

DSC03896 椎木坂  新宿7-20から大久保通りから分かれ東に下り、上りとなって新宿中学校の前に至る坂。《地図

尾張家戸山屋敷内に大きな椎の木があった。東西に向かい合っている坂で向坂、昔からここは砂利取場だったので砂利場坂の別名がある。

DSC03905 梯子坂  新宿7-9と7-11の間を東に上る石段。《地図

急坂で梯子を登るようだったため。【坂標】

DSC03909 蜀江坂  北新宿1-32と2-4の間を北に上る。《地図

かつてこの辺は蜀江山と呼ばれていた。①天慶の乱の時、平将門が蜀江錦の衣の袖を落としたからとも、②将軍徳川家光がこの地の紅葉の美しさを蜀江の錦のようだと称賛したためともいう。【坂標】

DSC03912 成子坂  北新宿2丁目と西新宿5丁目の間を南東に上る青梅街道。《地図

成子天神社、成子子育地蔵尊がある。

Dsc01017 成子天神境内

Dsc03914 成子子育地蔵

子どもを抱いている。

DSC03918 中野坂(成子坂下から)  成子坂下から西に上る青梅街道。《地図

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2005年12月 9日 (金)

新宿区の坂-5

2005年12月9日(金)

曙橋駅(都営新宿線)・・・念仏坂・・・安養寺坂・・・台町坂・・・暗闇坂・・・自証院坂・・・禿(かむろ)坂・・・安保坂・・・茗荷坂・・・大木戸坂・・・瓶割坂・・・山吹坂・西向天神・不動坂・・・久左衛・・・抜弁天・弁天坂・・・団子坂・・・若松河田駅(都営大江戸線)

 念仏坂は急な石段坂で、昔は念仏でも唱え慎重に下りたのでしょう。今の暗闇坂に暗さはありません。禿坂は今は河童ではなく学生で賑わっています。大木戸坂は、茗荷坂下を少し南に行った所の大木戸坂下交差点から、南東方向に四谷4丁目の交差点に上る外苑西通りです。四谷4丁目の交差点の所に四谷大木戸門があったそうです。

 靖国通りの厚生年金会館(新宿1-34)付近が瓶割坂らしいですが、傾斜はほとんどありません。瓶はおなか(腹)で瓶割とはお産のことのようです。『江戸の坂東京の坂』(横関英一著)には、この坂についての詳しい考証があります。

 山吹坂と不動坂は西向天神の中にある小さな坂です。太田道灌に山吹を捧げたという紅皿碑(墓)が境内にあります。この話は落語の「道灌」に使われています。南北に通り抜けできる小さな抜弁天から弁天坂を下り、傾斜のあまりない団子坂を上り若松河田の駅に出ました。

「自証院」「西向天神」「抜弁天」は、『新宿史跡・文化財散策マップ』の「新宿あたり」に載っています。

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DSC03775 念仏坂  住吉町から市谷仲之町へ北東に上る石段。《地図

①昔、この坂辺りに老僧が住んでいて、昼夜念仏を唱えていた。②この坂の左右は谷に臨んで屈曲して危険なので通行人は念仏を唱え往来したという。【坂標】 ③坂の近くに安養寺がある。

DSC03782 安養寺坂  住吉町10と11の間を西に上る。《地図

坂上近くに安養寺がある。

Dsc01009 安養寺

DSC03790 台町坂 住吉町から市谷台町の中を西北に上る。《地図

DSC03798 暗闇坂  愛住町20と23の間を曲がりながら南に上る。《地図

全長寺の墓地の樹木が繁り暗かったため。

DSC03800 自証院坂  靖国通りから富久町7の成女学園と、富久町2の間を北西に自証院に上る。《地図

Dsc01012 自証院

堂塔の用材に檜の節目が多いため、「ふし寺」または「瘤寺(こぶでら)」とも呼ばれた。

DSC03807 禿坂  富久町7の成女学園と、富久町10の間から北東に東京医科大の方へ上る。《地図

①昔、坂下の自証院の横に小さな池があり、水遊びに来る禿頭(おかっぱを短く切りそろえたような髪型)の童の姿から呼ばれた。【坂標】 ②自証院前に川が流れていて、河童が棲むといわれたのであろう。別名の蜘蛛切坂は渡辺綱の土蜘蛛退治の伝説による。『今昔東京の坂』

DSC03810 安保坂  富久町9と10の間を西に上る靖国通り。《地図

安保清種海軍大将が住んでいた。

DSC03818 茗荷坂  四谷4丁目の東長寺と富久町の源慶寺の間を北西に上る。《地図

江戸時代後期まで坂下が市谷村の茗荷畑であった。【坂標】

DSC04124 大木戸坂  四谷4丁目の交差点から外苑西通りを北に下り、大木戸坂下交差点に至る坂。《地図

四谷4丁目の交差点に江戸市街地へ入る検問所の四谷大木戸があった。

DSC03831 瓶割坂  新宿1丁目と5丁目の間を西に上る靖国通り。《地図

瓶とは腹の意で。瓶割はお産のこと。弁慶が子どもを取上げたという各地に残る義経、弁慶伝説の一つがこの辺にあったのだろう。強く、元気な子が育つということ。新宿1-34付近に弁慶橋があった。『新宿区町名誌』
石川県金沢市にも弁慶にまつわる「瓶割坂」(金沢市の坂②)がある。

DSC03837 山吹坂  新宿6-21の西向天神に西から上る。《地図

太田道灌の「山吹の里伝説」に因む。落語「道灌」に登場する娘。『鎌倉街道中の道』の面影橋のそばにも「山吹の里碑」がある。

DSC03842 不動坂  西向天神内の大聖院不動堂に北から上る石段。《地図

Dsc01013 西向天神

Dsc01015 紅皿の碑説明板

Dsc01016 紅皿の碑

「山吹の里伝説」に登場する道灌に山吹を捧げた娘、紅皿の墓と伝える板碑。

DSC03849 久左衛門坂  新宿7-11と7-12の間を東に上る。《地図

島田久左衛門が開いた坂。【坂標】

Dsc03853 抜弁天(余丁町7)

境内が南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜くための弁天社でこう呼ばれる。あたり一帯には五代将軍綱吉の「生類憐みの令」による犬小屋あった。

Dsc03856_2 弁天坂 余丁町と若松町の間を抜弁天の前から東に下る抜弁天通り。坂下から団子坂に続く。 《地図

DSC03857 団子坂  若松町と河田町の間を北東に上る。《地図

昔、この辺は低湿地帯で歩くたびに泥だんごのようになった。別名を馬の首団子坂【坂標】

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2005年12月 7日 (水)

新宿区の坂-4

2005年12月7日(水)

飯田橋駅(JR総武線)・・・軽子坂・・・筑土八幡神社・御殿坂・・・芥(ごみ)坂・・・相生坂・・・瓢箪坂・・・赤城坂・・・朝日坂・・・袖摺坂・・・弁天坂・・・新坂・・・逢坂・掘兼の井・・・若宮八幡神社・・・庾嶺(ゆれい)坂・・・飯田橋駅

 軽子坂は神楽坂の北に平行する坂です。御殿坂上から下る芥坂、ともに小さな坂です。 相生坂は東西に並ぶ二つの坂が対で一つの坂名がついています。白銀公園まで上る瓢箪坂は、坂の形状が瓢箪に似ているというがどうでしょう? 『続江戸の坂東京の坂』(横関英一著)は、この坂名の由来について別解釈をしています。

 朝日坂は旧泉蔵院にあった朝日天満宮によります。袖摺坂下と大久保通りの弁天坂は工事中でした。新坂から逢坂の坂上に出ました。みごとな急坂が下っています。外人の親子が自転車のブレーキをかけながら慎重に下りていきました。坂名の由来は伝説のような恋物語ですが・・・。坂下に掘兼の井があります。こちらも伝説的な話があります。

 若宮八幡神社から下る庾嶺坂は石垣と木々に覆われた美しい坂です。坂標があったはずですが見当たりませんでした。

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DSC03702 軽子坂  神楽坂2丁目と揚場町の間を北西に上る。《地図

神楽河岸の揚場から船荷を運ぶ軽子が、この坂に集まっていた。『江戸の坂東京の坂』

DSC03709 御殿坂 筑土八幡町の八幡神社の西側を北に上る。《地図

かつて、この辺は牛込御殿山と呼ばれた。『今昔東京の坂』

Dsc01006 筑土八幡神社

DSC03711 芥坂  筑土八幡町3と4の間を南に八幡神社の西側に上る。坂上は御殿坂上。《地図

DSC03714 相生坂(東側)  東五軒町1と白銀町6の間を北東に下る。《地図

平行する2つの坂。別名を鼓坂

DSC03718 相生坂(西側)  赤城元町と東五軒町の間を北東に下る。《地図

DSC03727 瓢箪坂  白銀町と神楽坂6丁目の間を北西へ白銀公園の南側に上る。《地図

①坂の途中がくびれているためその形状から。【坂標】 たしかに坂上の方が膨らんだ形で瓢箪のように見えないこともない。

②昔は子供の下駄に瓢箪の絵を描いたものを売っていた。「ころばずの下駄」といった。転びやすい坂に転ばないまじないの瓢箪という名をつけたのではないか。『続江戸の坂東京の坂』 ちょっと考え過ぎ、こじつけの感がするが。昔は坂の周辺に瓢箪畑でもあったのでは。

                

DSC03730 赤城坂  築地町から南に曲がりながら赤城神社の西側を南に上る。《地図

DSC03737 朝日坂  横寺町15と38の間を北東に早稲田通りに下る。《地図

旧泉蔵院に朝日天満宮があった。『今昔東京の坂』

DSC03739 袖摺坂  大久保通りから横寺町と箪笥町の間を西北に上る。《地図

狭い坂で袖が摺りあうほどであった。【坂標】 今はちっぽけな石段で何の風情もない。

DSC03746 弁天坂  箪笥町の南蔵院の前を西南に上る大久保通り。《地図

南蔵院内に弁天堂があった。【坂標】

DSC03750 新坂  若宮町と袋町の間を南西に上る。《地図

享保16年(1731)、諏訪安芸守の屋敷地の中に新しい道路が造られ新坂と命名された。【坂標】

DSC03759 逢坂  市谷船河原町14と9の間を西に上る。《地図

坂名の由来とされる『美作吾とさねかずらの悲恋伝説』:「昔、武蔵守となってこの地に下った小野美作吾は、さねかずらという美しい娘と恋仲になった。時が経ち美作吾は都へ戻ったが、さねかずらを忘れることなく没した。さねかずらも美作吾のことを思い続け、夢の中の神のお告げにより、この坂で美作吾と逢った。そして生きていることのむなしさを感じたさねかずらは、坂下の流れに入水して死んでしまったという」別名を大坂・美男坂。

『江戸の坂東京の坂』はこの由来話に否定的で、大坂という坂を逢坂にして悲恋物語を創作したのだと。けだし正解だろう。歌枕の地の逢坂(の関)の古歌の一つ、「名にしおはば 逢坂山の さねかづら人に知られで くるよしもがな」を元にしたか。

坂下に「ほりかねの井」があった。ここにも、両親からいじめられ死んでしまった哀れな子の伝説が残る。

Dsc03756 掘兼の井の説明碑

児童虐待は古今東西、止むことなしか。

Dsc01007 船河原町築土神社

ここに掘兼の井戸があった。

DSC03769 庾嶺坂(ゆれいざか) 神楽坂1丁目と市谷船川原町の間を外堀通りから北西に上る。坂上右側に若宮八幡神社がある。別名を幽霊坂・若宮坂・新坂など。《地図

江戸の初期、この坂あたりは美しい梅林で、二代将軍秀忠が中国江西省の梅の名所大庾嶺に因み命名したと伝える。【坂標】 

将軍がわざわざ坂の名をつけるだろうか? 木々の覆い被さる暗い坂で、幽霊坂だったのを逢坂と同じく、閑なえせ文化人が気取ったこの名をつけたのでは。

Dsc01008 若宮八幡神社

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2005年12月 5日 (月)

新宿区の坂-3

2005年12月5日(月)

飯田橋駅(JR総武線)・・・神楽坂・・・善国寺・・・三年坂・・・地蔵坂①・光照寺・・・赤城坂・赤城神社・・・ おぼろの坂・・・比丘尼坂・・・地蔵坂②・・・渡邊坂・・・滝の坂・・・宝竜寺坂(幽霊坂)・・・ 焼餅坂・・・銀杏坂・・・新五段坂・・・合羽坂・・・新坂・全勝寺・・・四ツ谷駅(JR中央線)

 三年坂は神楽坂の途中から東に下る細く、真直ぐな坂で傾斜は緩やかです。地蔵坂上①の光照寺には坂名の由来となった地蔵像があるそうです。赤城坂は赤城神社から曲がりながら下る坂です。善国寺前の周辺案内図におぼろの坂が載っていました。比丘尼坂の2本東側の道で短い坂です。撮った写真がぶれていて「おぼろ」の感じです。『今昔東京の坂』(岡崎清記著)は朧(おぼろ)坂を比丘尼坂の別名としています。

 早稲田通りの地蔵坂②は渡邊坂と続いている坂で、一つの坂のように見えます。坂の近くに地蔵堂でもあったのでしょうか? 早稲田通りから南に上る滝の坂は、細く一直線に伸びた気持ちのいい坂です。傾斜はさほどではありません。宝竜寺坂は石段の坂で別名は幽霊坂ですが、今はそれほど暗い坂ではありません。

 外苑東通りを南に行き新五段坂を下り、合羽坂を下りました。新坂を上り靖国通りを東に行き四ッ谷駅に出ました。

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DSC03618 神楽坂  飯田橋駅南の外堀通りから北西に上る早稲田通り。《地図

神楽に因んだ諸説がある。神楽を奏した所は、①市谷八幡 ②穴八幡(高田八幡)の御旅所 ③津久戸八幡 ④若宮八幡 ⑤赤城神社 など。

牛込・神楽坂

神楽坂『江戸名所図会』

Dsc01003 善国寺毘沙門堂

DSC03622 三年坂  津久戸町から神楽坂3丁目と4丁目の間を南西に神楽坂まで上る。《地図

別名を三念坂

DSC03626 地蔵坂①  神楽坂5丁目から袋町3と10の間を南西に上る。《地図

光照寺内の子安地蔵に因る。藁を売る店があったので藁坂ともいわれた。【坂標】 

Dsc03629 地蔵菩薩像の説明板

DSC03634 赤城坂  築地町から南に曲がりながら赤城神社の西側を南に上る。《地図

Dsc01004 赤城神社

DSC03643 おぼろ(朧)の坂  矢来町120と123の間を北に下る。(比丘尼坂の2本東側の坂、善国寺前の周辺案内板に記載がある坂)《地図

Dsc03703_1 おぼろの坂が載っている地図

地蔵坂の位置がおかしい。

DSC03637 比丘尼坂  早稲田通りから矢来町と天神町の間を北に下り、中里町に至る坂。《地図

①昔、この辺に尼寺があった。『東京の坂道』 ②比丘尼スタイルの私娼がいたのでは。 『今昔東京の坂』

DSC03647 地蔵坂②  天神町から矢来町の間を神楽坂方面に南東に上る早稲田通り。《地図

由来不明、おそらく近辺にあった地蔵尊にかかわるものと思われる。 【坂標】

DSC03651 渡邊坂  天神町と中里町の間を南に上る。《地図

坂の東側に旗本渡邊源蔵の屋敷があった。

DSC03660 滝の坂  弁天町と南榎町の間を早稲田通りから南に上る。《地図》(弁天町交差点の所に渡辺坂とあるが、位置が間違っている)

酒井若狭守の上屋敷があり、邸内の池から流水が小滝となって流れ落ちていたことに因る。『今昔東京の坂』

DSC03669 宝竜寺坂  外苑東通りから市谷柳町と弁天町の間を東に上る石段。《地図

坂上に宝竜寺があった。明治の頃は寺の樹木が繁り淋しい所で幽霊坂とも呼ばれた。【坂標】

DSC03672 焼餅坂  市谷山伏町と市谷甲良町の間を東に上る大久保通り。《地図

この辺に焼餅を売る店があった。【坂標】

DSC03676 銀杏坂  市谷薬王寺町72と73の間を東に上る。《地図

坂の北側の、久貝因幡守の邸内に銀杏稲荷があり神木の銀杏の大樹に因む名 【坂標】

DSC03681 新五段坂  曙橋から市谷中之町と市谷本村町の間を北東に上る外苑東通り。《地図

DSC03686 合羽坂  片町5と6の間を北西に外苑東通りに上る。《地図

①坂の東南に蓮池という大池があり、雨後などにかわうそが出た。里人が誤って河童と思い、合羽の字を用い坂の呼び名となった。【坂標】 

②尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。『今昔東京の坂』

DSC03691 新坂  靖国通りから荒木町22と舟町12の間を南に上る。《地図》(位置表示が間違っている)

全勝寺の地所を削って新しく造った坂。【坂標】

Dsc01005全勝寺

尊王攘夷論者の山県大弐(やまがただいに)墓がある。

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2005年12月 3日 (土)

新宿区の坂-2

2005年12月3日(土)

市ヶ谷駅・・・浄瑠璃坂・・・歌坂・・・鰻坂・・・中根坂・・・安藤坂・・・鼠坂・・・芥(ごみ)坂 ・・・長延寺坂・・・左内坂・・・市谷八幡男坂・女坂・・・高力坂・・・比丘尼坂・・・坂町坂 ・・・津の守坂・・・新宿歴史博物館・・・四ッ谷駅

 浄瑠璃坂は直線的でかなり傾斜のある長い坂です。坂名の由来は様々です。鰻坂は2度曲がる細く短い緩やかな坂です。中根坂と安藤坂は南北に向き合う坂ですが安藤坂の坂上にある坂標は、こちらも中根坂としてあります。このあたりは大日本印刷の敷地内らしく写真を撮っていたら守衛に会社の建物が入るから写真を撮るのはやめるように注意されました。ケチなことをいう会社です。 

 鼠坂から芥坂へ行く途中に浄瑠璃坂の仇討の碑がありました。長延寺坂は片側が工事中でした。市谷八幡(正式には、市谷亀岡八幡宮)の男坂の石段は急です。天気予報は晴れなのに小雨が降ってきました。外堀通りの高力坂は、先月20日の東京国際女子マラソンで高橋尚子がスパートをかけた坂です。広い道なのでさほど傾斜は感じませんが、35kmも走ってこの坂の上りはきついでしょう。

 高力坂の坂上付近から本村町と本塩町の間を北に、靖国通りの防衛庁前に下る坂を比丘尼坂と思っていましたが、この坂の途中から西に入り下る小さな坂が比丘尼坂のようで坂標もありました。坂町坂は細い少し曲がりながら上る長い坂です。坂上の方が傾斜があります。津ノ守坂も工事中でした。雨はいつの間にかやんでいました。

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DSC03545 浄瑠璃坂  外堀通りから市谷砂土原町1丁目と2丁目の間を北西に上る。《地図

①昔、この辺であやつり浄瑠璃の小屋興行があった。②近くに光円寺があり本尊の薬師如来は浄瑠璃世界の救主であるから。【坂標】 ③水野土佐守の長屋が六段になっていたので浄瑠璃になぞられてこの坂を浄瑠璃坂と呼んだ。「江戸鹿子」 ④坂そのものが六段になっていた。『続江戸の坂東京の坂』

DSC03552 歌坂  市谷砂土原町3丁目と市谷田町2丁目の間を北東に上る。《地図

善知鳥(うとう)の口嘴に似ている地形で「ウトウ坂」が転じて「ウタ坂」になった。【坂標】 『うとう坂表

DSC03554 鰻坂  砂土原3丁目と払方町の間を曲がりながら北東に上る。《地図

曲がりくねった形状からの坂名。

DSC03560 中根坂  市谷左内町と納戸町の間を北に上る。《地図》(地図の中根坂の所は安藤坂)

坂の西側に旗本中根家の屋敷があった。【坂標】

DSC03564 安藤坂  市谷左内町と市谷加賀町の間を南に上る。中根坂と向き合う坂。《地図》(中根坂と標示されている)

坂の北側に安藤杢之助の屋敷があった。『江戸の坂東京の坂』

DSC03571 鼠坂  鷹匠町と納戸町の間を曲がりながら北東に上る。《地図

狭くて鼠の通るような坂 【坂標】

Dsc03573浄瑠璃坂の仇討

鍵屋の辻の仇討、赤穂浪士の討入りと並ぶ江戸時代の三大仇討の一つ。

DSC03574 芥坂  砂土原町1丁目と鷹匠町の間を北東に上る石段。《地図

樹木が繁っていたので闇坂と呼んでいたが、芥が捨てられるので芥坂を呼ばれるようになった。『今昔東京の坂』

DSC03579 長延寺坂  田町1丁目から長延寺町の間を北西に上る。《地図

かつて坂上に文禄3年創建の長延寺があった。『今昔東京の坂』

DSC03586 左内坂  市ヶ谷駅の北側の外堀通りから西北に上る。《地図

江戸時代初期、この辺を開発した名主島田左内の名に因む。『今昔東京の坂』

DSC03588 市谷八幡男坂 《地図

DSC03593 市谷八幡女坂

Dsc03589 市谷亀岡八幡宮

市谷八幡宮

DSC03596 高力坂  市谷本村町から本塩町に南西に上る外堀通り。《地図

高力邸にあった高力松に因む。【坂標】 

DSC03694 比丘尼坂  本塩町14と20の間を西に下る。《地図

①この坂の近くの尾張家の屋敷に剃髪した老女がいた。【坂標】 ②尾張家があり、紀伊国坂に対し尾国坂といっていたのが転訛した。「新撰東京名所図会」

DSC03611 坂町坂  坂町7と8の間を南に上る。《地図

DSC03614 津の守坂  靖国通りの合羽坂下交差点から荒木町と三栄町の間を南西に上る津の守坂通り。《地図

松平摂津守の屋敷があり略して津ノ守坂と呼んだ。もとは、この坂を開いた小栗主計の名に因み小栗坂と呼んでいた。『今昔東京の坂』

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2005年12月 1日 (木)

新宿区の坂-1

2005年12月1日(木)

四谷駅(JR中央線)・・・観音坂・・・東福院坂(須賀坂)・・・円通寺坂・・・女夫(めおと)坂・・・於岩稲荷(陽運寺)・お岩稲荷(田宮神社)・・・須賀神社・男坂・女坂・・・戒行寺坂・・・闇(くらやみ)坂・・・鉄砲・・・鮫河橋坂(さめがはしざか)・・・南元町公園・・・薬罐坂・・・朝日橋・・・鉄砲坂・・・出羽坂・・・新助・・・安鎮坂(港区)・・・千日坂・・・信濃町駅(JR総武線)

 観音坂は真成院の塩踏観音、東福院坂は東福院、円通寺坂は円通寺といづれも寺院に由来する坂名です。女夫坂は向かい合う坂を夫婦に譬えた坂でしょうが、さほど傾斜は感じません。闇坂は細い急坂で坂の途中に墓地があり、両側から木々が覆い被さっている所があります。昔は坂名のとおりもっと暗い坂だったのでしょう。 

 鉄砲坂を上り、学習院初等科としゃれたミユキホテルの間から鮫河橋坂に出ました。坂下近くの南元町公園の北側の薬罐坂を上り、朝日橋で中央線の線路を越えました。方向を間違えたのかまた鉄砲坂に出てしまいました。出羽坂から新助坂への途中で南方向に下る無名の急坂があります。新助坂と平行する坂ですが、この坂の方が傾斜がきついようです。途中から金属製の手すりがついています。 

 安鎮坂まで足を伸ばし、千日坂を上り信濃町駅に出ました。千日坂の坂標には、かっこ書で(新千日坂)とありました。旧坂は新道造成のため消滅し、現在の千日坂はそれと前後して造られた、新千日坂だそうです。

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DSC03455 観音坂  若葉2-7と2-9の間を北東に上る。西念寺と真成院の間。《地図

真成院の塩踏(汐干)観音の因む。

Dsc00654 汐干観音(真成院)

向かい側の西念寺には服部半蔵の墓がある。

DSC03461 東福院坂  若葉2-2の東福院と、2-8愛染院の間を北東に新宿通りへ上る。《地図

別名を須賀坂、天王坂。須賀神社は明治以前牛頭天王社と称し、この辺は天王横町と呼ばれていた。【坂標】

DSC03463 円通寺坂  若葉2丁目から北西から北に若葉1丁目と須賀町の間を新宿通りへ上る。《地図

坂の西側に円通寺

DSC03468 女夫坂  須賀町と左門町の間を北に下り、北に新宿通りへ上る。《地図

向かい合う坂で夫婦に譬えた。

 

Dsc00655 於岩稲荷(陽運寺

昭和になって建てられた寺。

Dsc00656 田宮稲荷神社(お岩稲荷)

Dsc00657 田宮稲荷神社お岩稲荷

陽運寺(於岩稲荷)の向い側にある。どっちが本家のお岩稲荷か? 東京都は焼ける前の田宮稲荷神社をお岩稲荷神社の旧地としている。当然だろう。

DSC03471 須賀神社男坂 

正面の石段坂

DSC03473 須賀神社女坂

妙行寺脇から上る石段

Dsc00658 須賀神社

DSC03477 戒行寺坂  須賀町9と10の間を西に上る。《地図

別名 油揚坂・油坂 坂の途中にうまい油揚げを作る店があった。

DSC03487 闇坂  須賀町11と12の間を北に上る。《地図

別名 乞食坂・茶ノ木坂 松厳寺の俗称が茶ノ木寺。

DSC03491 鉄砲坂  若葉2丁目と3丁目の間を東に上る。《地図

鉄砲組屋敷があり、訓練場や鍛冶場があった。それ以前はこの地に鈴振稲荷があり稲荷坂と呼ばれていた。

Dsc00659 ミユキホテル

DSC03498 鮫河橋坂  元赤坂、迎賓館の西側を南西に下る。《地図

鮫河にかかる橋を鮫河橋、この辺りを鮫河橋と呼んでいた。

DSC03503 薬罐坂  鮫河橋坂の途中、みなみもと公園の北側を西に上る。《地図

『今昔東京の坂』では、①雨後には野草洗い落一面の赤土朝日に映し銅薬罐の色に類し候。 ②薬罐職人が居た。(以上御府内備考) ③風紀のよくない場所で、遊女・・・人を騙す野干(狐)・・・が薬罐に転訛した。 

DSC03507 出羽坂  南元町8のJR中央線の線路沿いを西に上る。《地図

①明治になり元松江藩主松平出羽守の松平氏がこの地に移ってきた。土地の人は出羽様の屋敷と呼び、そこに新しくできた坂を切通しといっていたのを出羽坂と呼ぶようになった。『続江戸の坂東京の坂』

DSC03516 新助坂  南元町5のソニースタジオと、南元町6の間を南に下る。《地図

昔、この辺りに新助という人が住んでいた。【坂標】

DSC03537 安鎮坂  港区元赤坂2丁目の東宮御所と南元町2の間を南西に上る。鮫河橋坂から続く坂。 《地図》 

近くに安鎮大権現の小社があった。別名を信濃坂、権田原坂

DSC03539 千日坂  南元町、一行院の西南側から信濃町駅に北西方向に上る。《地図

坂下は一行院千日寺にちなみ千日谷と呼ばれていた。別名を久能坂といい久能丹波守の屋敷があった。

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