千代田区の坂-3
2005年12月25日(日)
市ヶ谷駅(JR中央線)・・・一口坂(いもあらいざか)・・・富士見坂・・・幽霊坂①②③・・・二合半坂・・・ 冬青木坂(もちのきざか)・・・中坂・・・九段坂・・・田安門・・・北の丸公園・・・紀伊国坂 ・・・北桔橋門(きたはねばしもん)・・・皇居東御苑・・・梅林坂・・・汐見坂・白鳥濠・・・天守閣跡・・・大手門・・・大手町駅(地下鉄千代田線)
坂標の説明文によれば、一口坂の坂名の由来となった疱瘡を洗う(治す)霊験あらたかな社がどの辺にあったのかは不明だそうです。富士見坂は法政大学の前を真直ぐに北東方向に上る坂です。勾配はさほどありません。もちろん富士は見えません。
幽霊坂は富士見1丁目と2丁目の境付近に3本あります。今でも都心にしては寂しい感じの所でしょうか。二合半坂の坂名の由来については諸説あり、どれもこじつけのようで感じで面白いです(後述)。中坂と冬青木坂は直線的な急坂で、中坂は冬青木坂と九段坂の間の坂です。
九段坂を上り下りし田安門から北の丸公園に入りました。武道館の前は何とかバンドのコンサートを待つ若い女性が長い列を作っていました。紀尾井坂に出ると今日もランナーの姿が目立ちました。北桔橋門から皇居東御苑に入りました。桔橋を拮橋と書いている本もあります。梅林坂から汐見坂、天守閣跡、石室、富士見櫓、松の廊下跡などを回り、大手門へ出ました。御苑内は外人の見学者が目立ちました。
写真をクリックすると拡大します。
一口(いもあらい)坂 九段北3-2と4-1の間を南東に上る。《地図》
「いもあらい」とは、疱瘡(ほうそう・天然痘)のことを「いもがさ」とか「へも」と呼び、「疱瘡を洗う(治す)」という意味からきている。疱瘡に霊験あらたかな神社(太田姫稲荷神社が有名だが)が坂付近にあったのだろうか。
富士見坂 九段北3-1と富士見2-15の法政大学の間を東に上る。《地図》
《地図》
幽霊坂③ 富士見2-14と2-13の間を南東に上る。坂上は②の幽霊坂と同じ。
二合半坂 富士見1-1と1-2の間を南に上る。《地図》
別名を日光半坂・日光坂・こなから坂 ①日光山が半分見えるから。(日光山を五合とした。) ②富士山が四分の一見えるから。 ③日光山が半分見えるから日光半坂 ④急坂で酒を二合半飲んでも五合の効き目がある。⑤水や酒の二合半を「こなから」という。など様々。
紀州街道の岸和田城そばにも「こなから坂」がある。
冬青木(もちのき)坂 九段北1丁目と飯田橋1丁目の間を西に上る。《地図》
古い「もちの木」があった。「もちの木」ではなく常盤木の古木だったとも。別名の万年坂の由来は?
中坂 九段北1-12と1-13の間を西に上る。冬青木坂の南側。
九段坂と冬青木坂の間の坂。江戸時代には九段坂より広く大きな坂だったようだ。
中坂・九段坂『江戸名所図会』
九段坂 九段北1丁目と九段南1丁目の間を西に上る。中坂の南側。
①急坂で石で段を造り九層の坂にしていた。②江戸城吹上庭園の役人の長屋が9棟並んでいた。③ ②の長屋が9段に立っていて九段長屋と呼んでいた。
紀伊国坂 北の丸公園の国立近代美術館前を南西に上る。《地図》
尾張紀州家の屋敷があった。振袖火事(明暦3年(1657)正月の大火)で焼失し赤坂に移った。
梅林坂・汐見坂の記載あり。
太田道灌が天神社をまつり、数百株の梅を植えた。【坂標】
汐見坂 皇居東御苑内の白鳥濠の北側の坂 《地図》
昔は、皇居前広場近くまで日比谷入江が入り込み、この坂からこの坂から海を眺めることができた。【坂標】
明暦の大火(振袖火事)で焼失、その後は再建されず。
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