文京区の坂-2
2006年1月30日(月)
御茶ノ水駅(JR中央線)・・・樹木谷坂・・・新妻恋坂・・・傘谷坂・・・横見坂・・・清水坂・・・妻恋神社・・・妻恋坂・・・立爪坂(芥坂)・・・三組坂・・・ガイ坂・・・実盛坂・・・中坂・・・湯島天神・・・天神石(男)坂・・・天神女坂・・・天神新坂(夫婦坂)・・・切通坂・・・無縁坂・・・境稲荷・・・榎坂?(台東区)・・・暗闇坂・・・弥生坂・・・根津駅(地下鉄千代田線)
樹木が生い茂っていたという樹木谷坂を下ると蔵前橋通りの新妻恋坂の途中に出ます。傘谷坂は南北に向き合う坂で傾斜はあまりありません。傘を作る職人が多く住んでいたそうです。富士山が西横に見えたという横見坂、清水精機という会社が坂を整備した清水坂は北に上る坂で並んでいます。
清水坂の途中を東に入ると妻恋神社があります。境内に日本武尊(やまとたけるのみこと)と弟橘姫の物語が書いてある説明板があります。妻恋坂の途中から北に上る立爪坂は爪先立つほどの急坂だったそうです。別名は芥(ごみ)坂で、ごみ捨て場があったのでしょうか。
三組坂は東へ下る直線的な坂で、途中から北にガイ坂が下っています。 ガイとは芥(ごみ)のこと、ここにもごみ捨て場があったようです。ガイ坂を下り少し進み左に入ると、絶壁のような石段の実盛坂です。石段上を右に行くと中坂の坂上です。妻恋坂と天神石坂の間の坂です。湯島天神の境内に入り、天神石坂(男坂)、女坂を上り下りして、北側の天神新坂(夫婦坂)の石段を下ると春日通りの切通坂です。
坂上から北に文京総合体育館の脇を通り無縁坂の坂上に出ました。坂を下る右側に続くの旧岩崎邸の石垣の古色さが坂に風情を添えています。『ぶんきょうの坂道』によると坂名は、北側の称仰院が無縁寺と称したこと、講安寺が初め無縁山法界寺といったことに因る坂名で、森鴎外の「雁」にも登場します。今はさだまさしの「無縁坂」の歌詞の方がよく知られているでしょうか。また、大分県宇佐市に「縁無坂(えんないざか)」があり、面白い(哀れな)由来話があります。駅館川を渡る橋の坂で、今は傾斜がほとんどありません。
坂下から不忍通りを北に行き、境稲荷の先の池之端門から東大病院の構内に入りました。 門を入るとすぐに北方向に坂が上っています。今は一般の道路ではありませんが、これが榎坂の名残だと思いました。弥生門を出ると前が暗闇坂です。 坂下の方へ行くと竹久夢二美術館があります。坂上は言問通りの弥生坂とぶつかります。弥生坂を下り根津駅に出ました。
写真をクリックすると拡大します。
樹木谷坂 湯島1-7と1-10の間を南西に上る。《地図》
江戸時代初期も坂下あたりは樹木が生い茂っていた。樹木が転訛して「地獄谷坂」の別名がある。『ぶんきょうの坂道』
新妻恋坂 湯島3-1の南側を西に上る蔵前通り。《地図》
昭和4年に完成した蔵前通りの坂で、津恋坂に平行している東京の坂、昭和の坂。『ぶんきょうの坂道』
傘谷(からかさだに・かさだに)坂 湯島2丁目と本郷3丁目の間を北に下って、上る。《地図》
湯島2-11と2-12の間あたりが窪んでいて、ここを傘谷と呼んだ。その窪みに南北から坂道ができて、その両方の坂を傘谷坂と呼んだ。傘を作る家が多かったとも。『ぶんきょうの坂道』
横見坂(横根坂) 湯島2-1と2-2の間を北に上る。《地図》
西横に富士山がよく見えて、この坂を上る時、富士を横見するから。『ぶんきょうの坂道』
別名の横根坂の「横根」とは、「鼠蹊(そけい)リンパ節が炎症を起こして腫れたもの。梅毒・軟性下疳(げかん)・淋疾・鼠蹊リンパ肉芽腫のほか、外傷や腺ペストにより起こる。」 鼠蹊部は、「下腹部のうち足に接する部分。恥骨部の両側にある三角形状の部分をいう。下方の境はももの付け根である。」以上、三省堂の国語辞典から。川柳に「横根坂さて踏み出しのわるいとこ」(遊び過ぎて悪い病気でももらったのだろう)
清水坂 湯島3-1と2-1の間を北に上る。《地図》
大正時代、この土地の所有者の清水精機が土地を提供し坂道を整備した。『ぶんきょうの坂道』
妻恋坂 湯島3-1と3-2の間を西に上る。《地図》
江戸時代の初めこの坂の南側に霊山寺があり、開山が大超和尚といった。家光の時この地に移転し、大超坂と呼ばれた。明暦の大火後、霊山寺は浅草に移り妻恋神社が坂の北側に移ってきた。『ぶんきょうの坂道』
落語『源九郎狐』日本武尊(やまとたける)と弟橘媛(おとたちばなひめ)の物語。
立爪坂 湯島3-2と3-6の間を妻恋坂の途中から北に上る。《地図》
つま先立て上るほどの急坂だった。別名の芥(ごみ)坂は、ごみ捨て場があったからか。
三組坂 湯島3-12と3-15の間を西に上る。《地図》
以前の町名による。当地は三組の御家人衆の拝領地だった。『ぶんきょうの坂道』
ガイ坂 湯島3-19と3-15の間を南に上る。《地図》
ガイは芥の濁音。ごみ捨場があったと思われる。『ぶんきょうの坂道』
実盛坂 湯島3-19と3-21の間を西に上る石段。《地図》
坂下南側に実盛塚、首洗い井戸、産湯の井戸があったという伝説めいた話がある。武将としての意気に感じた住民が、井戸や首塚を造ったのではなかろうか。『ぶんきょうの坂道』 実盛とは、斉藤実盛のことで、生まれたのも、死んだのもこの地ではない。
中坂 湯島3-24と3-25の間を西に上る。《地図》
妻恋坂と天神石坂の間の坂
天神石坂(男坂) 湯島天神境内に東から上る38段の石段。《地図》
「湯島天神」
天神新(夫婦)坂 春日通りの切通坂から湯島天神へ上る石段。《地図》
切通坂 湯島3-30と4-6の間を南西に上る春日通り。《地図》
湯島の台地を切り開いてできた坂。『ぶんきょうの坂道』
無縁坂 湯島4-12と元岩崎邸の間を西に上る。《地図》
坂の北側の称仰院が無縁寺と称した。また講安寺は初め無縁山法界寺といった。『ぶんきょうの坂道』
森鴎外の『雁』に「岡田の日々の散歩は大抵道筋が極まってゐた。寂しい無縁坂を降りて、藍染川の・・・」。
さだまさしの歌『無縁坂』にも登場する坂。
縁無(えんない)坂 大分県宇佐市の駅館川に架かる瀬社橋の宇佐寄り。写真では橋の左側の方。
今は、勾配がなく坂とは呼べない。(2005年5月15日撮影)「有縁坂之碑」も見つからず。もっと瀬社橋から離れた所なのか?→今でも勾配があり、「有縁坂之碑」もあるそうです。下記に八幡氏子様からコメントを頂きました。
「有縁坂之碑」の写真
「ここらから」と聞いたのに、誰もが「小倉から」と聞き違え、結局宇佐八幡にたどりつけなかった哀れな老婆のお話。
榎坂 池之端1丁目の東大病院の池之端門?を入り北方向に上る。《地図》
暗闇坂 本郷7丁目と弥生2-3の間を北西に上る。《地図》
江戸時代は、加賀屋敷の北裏側と片側寺町の間の坂で、樹木の生い茂った薄暗い寂しい坂であったと考えられる。
弥生坂 弥生1丁目と2丁目の間を南西に上る言問通り。坂下は善光寺坂下。《地図》
明治の新坂で旧町名の向岡弥生町をとって名づけられた。坂下に幕末、鉄砲組の射撃場があり鉄砲坂とも呼んだ。また、付近は弥生式土器が発掘されたところでもあり、「弥生時代」の名もここから生まれた。
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コメント
ありがとうございます。記事に追記し、訂正しました。
坂道散歩
投稿: 坂道散歩(八幡氏子様へ) | 2016年8月14日 (日) 20:36
大分県宇佐市の縁無坂についてですが、「今は勾配はない」なんてことないですよ。国道10号線の瀬社橋から宇佐神宮方向に登る長い坂がそれです。現在だとケーズデンキから始まり東から北へカーブして、途中右側に喫茶店「ぱるる」を見ながら登り続け、左側の天理教協会をすぎてもう少し登り、小さなヤマザキデイリーストアあたりまで。ちなみに有縁坂の碑は坂の下の方、道が東向きから北向きにカーブするあたりの道路脇の茂みの中に、確かあったと思います。
投稿: 八幡氏子 | 2016年8月14日 (日) 15:33