千代田区の坂-4・文京区の坂ー1
2006年1月28日(土)
水道橋駅(JR総武線)・・・小栗坂・・・皀角(さいかち)坂・・・女坂・・・男坂・・・錦華坂・・・富士見坂・・・文坂・・・胸突坂(吉郎坂)・・甲賀坂・・・太田姫稲荷神社・・・池田坂・・・雁木坂・・・紅梅坂・ニコライ堂・・・観音坂・・・新坂・・・幽霊坂・・・淡路坂・・・相生坂(文京区)・・・湯島聖堂 ・・・昌平坂(文京区)・・・湯島坂(文京区)・・・神田明神・・・明神石坂(千代田区)・・・明神女坂(文京区)・・・末広町駅(地下鉄銀座線)
小栗坂は傾斜がほとんどなく、皀坂にさいかちの木はありません。女坂は途中に踊り場がありますが、急な石段です。坂の途中にマンションや住宅の入口がありますが、雨とか雪の日の上り下りは大変だと思います。男坂は明大付属の中学、高校の間にあります。学生が体育の時間かクラブ活動でしょうか走って上っていました。神社の境内の石段でもないのに、男坂、女坂の名は珍しいのでは。石段なのでこう名付けたのでしょうか。
富士見坂と文坂は駿河台下から北へ明治大学の方へ上る緩やかな坂です。胸突坂は明大の北側を西に上る短い急坂で、明大の総長だった佐々木吉郎氏に因んだ吉郎(きちろう)坂の別名があります。胸突坂の坂下から続く甲賀坂は傾斜が少ない坂です。池田坂の坂下に太田姫稲荷神社があります。以前は、別名が一口(いもあらい)坂の淡路坂の坂上にありました。
華麗なニコライ堂の前の紅梅坂を下りました。本郷通りを渡ると南から観音坂、新坂、幽霊坂が並んでいます。観音坂の坂上に小さな観音堂があります。幽霊坂は、昔は紅梅坂とつながっていたそうです。
淡路坂を上ると、聖橋の上から中央線の線路、神田川、相生坂、湯島聖堂の塀を一望できます。淡路坂と平行しているので相生坂の名があります。聖堂脇の昌平坂を上ると湯島坂の途中に出ます。坂上から神田明神に入りました。明神石坂(男坂)は東側から上る急な石段坂ですが、利用する人は少ないようです。女坂は社殿北側の文京区湯島3丁目の蔵前橋通りから上る、裏参道の石段坂です。女坂と言っても急です。千代田区では女坂を明神石坂の南側の石段坂としていますが、住宅の間の石段で参拝者はほとんど利用しないようで、神田明神境内に直接には通じていません。女坂にはふさわしくないと思うのですが。
*参考:『ぶんきょうの坂道』
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小栗坂 三崎町1丁目と猿楽町2丁目の間を北に上る。《地図》
御鷹匠小栗氏宅があった。
皀角(さいかち)坂 神田駿河台2丁目とJR中央線の間を東方向に上る。《地図》
昔はさいかちの木が多かった。江戸時代には、坂の中程辺りに神田上水の懸樋が架けられていたそうだ。
女坂 猿楽町2-8と2-5の間を北東に上る石段。途中に踊り場がある。段数は男坂より多いが急ではない。《地図》
坂を下った先には、神田女学園がある。
男坂 猿楽町1丁目と2丁目の間を北東に上る石段。《地図》
坂の西側に明治大学付属明治中高等学校(男子校)がある。
錦華坂 猿楽町1丁目と駿河台1丁目の間を北に上る。《地図》
坂下の錦華小学校に因む名か。
富士見坂 神田小川町3-10と3-12の間を北東に上る。《地図》
昔はこんな所からも富士山が眺められたとは想像もできない。
『東京(23区)の富士見坂』文坂 小川町3-8と3-10の間を御茶ノ水駅方向に上る明大通り。《地図》
学校が多い文教地区だからか?
胸突坂 駿河台1-1と1-3の間を北西に上る。《地図》
急峻な坂の意。別名を吉郎坂
明治大学総長の佐々木吉郎氏にちなむ坂名。
甲賀坂 駿河台1-6と1-8の間を北西に上る。《地図》
①甲賀者が多く住んでいた。②この地にあった光感寺の光感が甲賀に転訛した。『新編江戸志』 さらに「一説に、往古、馬場昌宇という御医師の屋舗ありし故、戯れに世俗これを甲賀坂というよし里諺なり」とあるそうだが、意味が分からず。
太田姫稲荷神社(神田駿河台1-2)
以前は淡路坂(一口(いもあらい坂)の坂上にあった。イモガサ(疱瘡)を洗い流す(治す)霊験あらたかな稲荷。太田姫は一口稲荷に祈願して、疱瘡を治した太田道灌の娘ではなく、疱瘡神の「太田姫の命」だそうだ。
池田坂 駿河台1丁目と3丁目の間を北東に上る。《地図》
日大病院の所に池田市之丞の屋敷があり、屋敷に唐犬(闘犬)が行われていたので別名を唐犬坂。
雁木坂 駿河台4丁目と3丁目の間を北西に上る。《地図》
傾斜がきつく滑り止めの桟がつけられていた。
紅梅坂 駿河台4-1と4-3の間を北西に上る。ニコライ堂前の坂。《地図》
昔、坂上あたりに紅梅で知られた光感寺があったことから、紅梅坂または光感寺坂とも呼ばれていた。光感寺は甲賀坂の坂名の由来説②の寺だろう。
観音坂 神田淡路町2丁目と3丁目の間を北西に上る。《地図》
寛永の頃から元禄の頃までホテル竜名館の所に茅浦観音寺があったことからこう呼ばれた。現在は坂上に小さな観音堂がある。
新坂 神田淡路町2-15と2-19の間を北西に上る。《地図》
明治維新前は備後福山藩阿部家の敷地で、明治になってその中央に新しく造られた坂。幽霊坂と観音坂の間の坂。
幽霊坂④ 駿河台4-4と4-6の間を北西に上る。《地図》
昔は坂の両側に木々が繁り、人通りも少ない淋しい坂だった。
「千代田区の幽霊坂」淡路坂 駿河台4丁目とJR中央線の間を北西にお茶の水駅に上る。《地図》
坂の西側に鈴木淡路守の屋敷があった。太田道灌が娘の疱瘡 (ほうそう・イモガサ)の治癒を祈願して、山城国一口(いもあらい)の里の稲荷を勧請して建立し、一口稲荷と呼んだと伝え、別名を一口(いもあらい)坂という。坂上にあった太田姫稲荷神社は移転して、現在神田駿河台1-2にある。(写真は上に掲載) JR線路の北側の相生坂と平行しているので、相生坂ともいう。
相生坂(聖橋から坂下方向) 文京区湯島1-4の聖堂と神田川の間を北西に上る。《地図》
淡路坂と平行する坂の意。この坂も昌平坂と呼ばれる。
昌平坂(坂下方向) 文京区湯島1-4の湯島聖堂と1-1の間を北に上る。聖堂の東隣の坂。《地図》
5代将軍綱吉は聖堂を上野の忍岡からここ湯島に移した。聖堂前の坂(現相生坂)と聖堂脇の坂が昌平坂(旧昌平坂)と名づけられた。「昌平」は聖堂に祀られている儒学の祖、孔子の生まれた中国の魯の国の昌平郷による。その後、元の昌平坂(聖堂脇の旧昌平坂)は11代将軍家斉が聖堂を建て直して敷地を広げた時に取り込まれてなくなった。それを惜しむ人たちが、旧昌平坂に平行しているこの坂(すでに庶民は団子坂と呼んでいた)を昌平坂と呼ぶようになった。(今は昌平坂の別名になってしまった団子坂は、急なので転ぶと団子のように転がるからという)
「三つの坂を昌平坂と呼んだ」とある。新旧の坂を含めていっているのだろう。
坂下に立っているが、古跡の旧昌平坂は今はない。坂下で交わる相生坂(旧昌平坂の一つ)のことを指しているのか。この石標はもとは坂上にあったらしい。この坂については横関英一が『江戸の坂東京の坂』で詳しく考証している。
「聖堂」『江戸名所図会』
湯島坂 湯島1-4と1-2の間を北西に上る。湯島聖堂と神田明神の間の坂。《地図》
中山道(国道17号)で最初の坂。徳川将軍の日光御成道。
明神石坂(男坂) 神田明神へ外神田2丁目から上る男坂の石段。《地図》
天保の頃、最初に作られたという。
明神女坂 文京区湯島3丁目の蔵前橋通りから神田明神へ上る裏参道の石段。《地図》(地図に標示はない)
『今昔東京の坂』は、「女坂は湯島3丁目に下っていたが、今はない」としている。この裏参道の石段は元の女坂の後に作られた新しい石段の女坂なのだろう。
外神田2-7から上る石段。神田明神の社務所の裏を南に20mほど行って突き当たった所から左の方に下る石段坂。明神男坂から60mほど南に平行しているが、住宅の間の坂で、男坂より急な感じで、参詣者はほとんど利用しないようで、明神女坂にはふさわしくないと思うが。千代田区は男坂、女坂とも「千代田区内の坂」にしたいのだろう。
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