文京区の坂-5
2006年2月5日(日)
千石駅(都営地下鉄三田線)・・・猫又坂・・・白鷺坂・・・氷川坂・簸川神社・・・網干坂・・・湯立坂・・・団平坂・・・播磨坂・・・吹上坂・・・三百坂・・・安藤坂・・・北野神社(牛天神)・牛坂・・・富坂・・・こんにゃくえんま(源覚寺)・・・堀坂・・・六角坂・・・善光寺坂・善光寺・澤蔵司稲荷・伝通院・・・新坂・・・新壱岐坂・・・壱岐坂・・・金毘羅神社・金毘羅坂・・・忠弥坂 ・・・お茶の水坂・・・建部坂・・・富士見坂・・・油坂・・・御茶ノ水駅
今日は冷え込んでカメラを持つ手が痛いくらいです。猫又坂と白鷺坂は不忍通りの坂で坂下で向き合っています。氷川神社に上る氷川坂。小石川植物園の北西側の網干坂は緑の多い長い急な坂で、坂下で湯立坂と向き合います。湯立坂はカーブが美しい形のいい坂で、ここも木々の多い歩いていて気持ちのいい坂です。
団平坂は小石川図書館脇の小さな坂、播磨坂は広く長い坂で、春日通りから小石川植物園まで下っています。坂下から吹上坂が分かれ、これも春日通りまで上ります。三百坂は学芸大竹早中学、高校脇の坂で、面白いいわれがあります。春日通りに出て伝通院の前から南に安藤坂を下り、北野神社(牛天神)の石段を上りました。境内で甘酒をごちそうになり、「北野の紅梅」というお饅頭をひとついただきました。神社脇の牛坂を上り春日通りの富坂の坂上に出ました。
坂下あたりから北に入り、堀坂、六角坂、善光寺坂と進みました。善光寺坂には善光寺、澤蔵司稲荷、そして坂上に伝通院があります。善光寺坂を下り、「こんにゃくえんま」の源覚寺に寄り、富坂下から白山通りを南に行き、新壱岐坂の坂下から東に新坂の石段を上りました。
新壱岐坂に出て、坂の途中から東方向に壱岐(旧壱岐坂)を上りました。新壱岐坂を挟んで(旧)壱岐坂は白山通りまで下ります。坂下あたりから南に入ると金毘羅神社があります。神社の北側を東に上る急坂が金毘羅坂です。金毘羅坂の坂上を進むと忠弥坂の坂上に出ます。桜蔭学園の脇を角ばって曲がる面白い形の坂です。坂下から外堀通りのお茶の水坂を上りました。
お茶の水坂の途中から北へ4本の坂が上っています。一番西側の無名の坂(本郷1-1と1-2の間)が一番急で長く、坂の形も美しいです。都心にこんな静かな坂があるとは驚きです。名前のついていないのが不思議です。帰ってから調べると『今昔東京の坂』もこの坂を取上げて「江戸そのままの姿をしのばせる」と書いています。無名の坂の東に建部坂、富士見坂、油坂が続いています。今は傾斜も少ない坂で、むろん外堀通りから南の眺望は開けません。お茶の水坂を上りきり進み、湯島聖堂脇の相生坂の坂上に出、お茶の水駅に着きました。
写真をクリックすると拡大します。
猫又坂 千石2丁目と3丁目の間を北東に上る不忍通り。坂下で白鷺坂と向き合う。《地図》
仙川(谷端川)にかかる猫又橋に因む。木の根っこの股で橋をつくったので根子股橋といわれた。『ぶんきょうの坂道』
白鷺坂 大塚3丁目と4丁目の間を南西に上る。坂上から富士見坂の下りとなる。《地図》
このあたり一帯は宇和島藩伊達家の屋敷で、白鷺が棲んでいた。明治の末に道路が整備され無名の坂が「白鷺坂」と呼ばれるようになった。『ぶんきょうの坂道』
氷川坂 千石2-9と2-10の間を北東に上る。《地図》
坂上の簸川神社による名。
網干坂 白山3丁目と千石2丁目の間を北東に上る。坂下で湯立坂と向き合う。《地図》
坂下一帯の谷は入江で、船の出入りがあったという。漁のための網を干したのだろう。『ぶんきょうの坂道』
湯立坂 小石川5丁目と大塚3丁目の間を南西に上る。《地図》
昔は坂下は入江で氷川明神へ渡れなかったので、坂下から湯花を立てて献じたという。『ぶんきょうの坂道』
団平坂 小石川5-9と5-10の間を南西に上る。《地図》
団平という米つき商が住んでいた。『ぶんきょうの坂道』
播磨坂 小石川4丁目と5丁目の間を南西に上る。《地図》
戦後、ここに新しく坂が出来たとき、播磨屋敷の跡地であったため。『ぶんきょうの坂道』
吹上坂 小石川4-14と4-15の間を南西に上る。《地図》
極楽水と呼ばれた湧き水が吹き上げていたので、一名吹上水ともいわれ、この吹上が地名となり、そこを通る坂名となった。『ぶんきょうの坂道』 現在、大塚5丁目にある吹上稲荷も明治45年までは、ここの善仁寺内(小石川4-13)にあった。
三百坂 小石川3-6と4-2の間を南に上る。《地図》
松平家の家来がこの坂まで衣服を整えて追いつかないと遅滞の過料として銭300文を取られた。『ぶんきょうの坂道』
安藤坂 春日1丁目と2丁目の間を北に春日通り上る。《地図》
坂の西側に安藤飛騨守の屋敷があった。『ぶんきょうの坂道』
牛坂 春日1-6の北野神社の北側を東に上る。《地図》
牛天神(北野神社)に因む。『ぶんきょうの坂道』
北野神社(牛天神)
富坂 春日1丁目と小石川2丁目の間を西から北西に上る春日通り。《地図》
鳶坂から転じた名。西富坂、飛坂とも呼ばれる。『ぶんきょうの坂道』
堀坂 小石川2-3と2-20の間を西に上る。《地図》
宮内坂、源三坂と呼ばれていたのを文政の頃、堀家が坂の修理をして、自ら堀坂というようになった。『ぶんきょうの坂道』
六角坂 小石川2-17と2-18の間を南西から南に上る。《地図》
高家六角氏の屋敷があった。『ぶんきょうの坂道』
善光寺坂 小石川2-17と3-18の間を南西に上る。《地図》
坂の途中にある善光寺による名。
徳川家康の母「於大の方」の故郷は「師崎街道②」に記載。新坂 本郷1-25と1-33の間を東に上る石段。《地図》
江戸時代に開かれた坂『ぶんきょうの坂道』
新壱岐坂 本郷1-22と1-23の間を南東に上る。《地図》(標示は壱岐坂)
壱岐坂(旧) 本郷1-20と1-22の間を白山通りから北東に上り、新壱岐坂を渡り、本郷2-26と2-27の間を北東に上る。《地図》
小笠原壱岐守の下屋敷があった。『ぶんきょうの坂道』
金毘羅坂 本郷1-5の金毘羅宮の北側と1-13の間を東に上る。《地図》
忠弥坂 本郷1-3と1-6の間を東に上る。《地図》
丸橋忠弥の槍の道場があった。『ぶんきょうの坂道』
丸橋忠弥生は慶安4年(1651)油井正雪らと江戸幕府転覆を図った慶安事件を起こす。落語『慶安太平記』 忠弥の墓は宿坂下の金乗院にある。『豊島区の坂②』
お茶の水坂 水道橋の東側からお茶の水駅方向へ上る外堀通り。《地図》
無名の坂(本郷1-1と1-2の間) 《地図》
坂上近くから
坂下近くから
建部坂 本郷2-3と1-1の間を外堀通りから北に上る。《地図》
江戸時代、建部氏の屋敷があった。初音の森の近くなので初音坂の別名がある。『ぶんきょうの坂道』
富士見坂 本郷2-2と2-3の間を外堀通りから北に上る。《地図》
『東京(23区)の富士見坂』油坂 本郷2-1と2-2の間を外堀通りから北に上る。《地図》
別名を揚場坂。神田川の堀端に舟をつけて荷物の揚げおろしする場所があり、そこに通ずる坂を揚場道坂といい、後に揚場坂となった。『ぶんきょうの坂道』 揚場が油に転じたのか。
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