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2006年2月 4日 (土)

文京区の坂-4

2006年2月4日(土)

千石駅(都営地下鉄三田線)・・・一行院坂・一行院・・・暗闇坂・・・逸見坂・・・蓮華寺坂・蓮華寺・・・御殿坂・・・伊賀坂・・・薬師坂・妙清寺・白山神社・・・円乗寺・浄心寺坂・・・・・・胸突坂(白山)・・・曙坂・・・新坂(西片)・・・石坂・・・新坂(本郷)・・・胸突坂(本郷)・・・菊坂・・・鐙坂・・・梨木坂・・・炭団坂・・・本妙寺坂・・・見送り坂・見返り坂・・・旧東富坂・・・富坂・・・春日駅(都営地下鉄三田線)

 千石駅から白山通りを南に行き、一行院の前の一行院坂、京華女子高校裏手の暗闇坂、逸見坂と進みました。いづれも傾斜はさほどでない坂です。蓮華寺坂を上ると小石川植物園の塀に沿って、御殿坂が下っています。白山通りに戻り指ケ谷小学校前を曲がりながら伊賀坂を上りました。

 白山通りを渡り薬師坂を上ると、坂上に白山神社、坂名の由来となった薬師堂があった妙清寺があります。坂下から浄心寺坂が上っています。坂下の円乗寺には八百屋お七の墓があります。坂上の浄心寺の場所は分かりませんでした。(日蓮宗浄心寺は坂上の白山1-36のライオンズマンションの所にあった寺です。(2008年4月23日追記)) 中坂は浄心寺坂と胸突坂の間の坂で短い急坂です。坂上辺りで膨らんだような形になっています。胸突坂を過ぎ誠之小学校の崖下の細い、曲がりくねった道を行くと曙坂の石段があります。崖下の道を更に進み新坂の坂下に出ました。曲がって南方向に上る坂で、坂下あたりは工事中でした。

 石坂を南に下り、本郷5丁目と6丁目の境の急な新坂を上り下りし、菊坂下に出ました。坂下近くから胸突坂が上っています。昔はこの坂が菊坂と呼ばれていたそうです。菊坂を渡り、もう一本の細い道を下るといい姿の鐙坂のに出ます。坂下付近の細い路地を入った所に樋口一葉が一時住んでいて、一葉ゆかりの井戸も残っています。

 梨木坂、炭団坂は菊坂を挟んだ形です。石段の炭団坂の坂上には坪内逍遥、正岡子規らが住んでいました。春日通りへ出て少し進み、本妙寺坂を下り菊坂の坂上あたりに出ました。本郷3丁目の交差点から本郷通りを北に下り、上るのが見送り坂と見返り坂です。傾斜はほとんどありません。「本郷もかねやすまでは江戸のうち」の川柳の「かねやす」は交差点角に今でもあります。

 春日通りを西に行き、そのまま直進して白山通りへ下るのが旧東富坂、北西方向に下る春日通りが現在の東富坂です。坂下で富坂と向き合います。今日は寒い日でしたが、南方向に歩きそれほど寒さは感ぜず24坂を歩きました。地下鉄春日駅から帰途につきました。

  写真をクリックすると拡大します。

DSC05178 一行院坂  千石1-14の一行院と白山4-37の間を北東に白山通りへ下る。《地図

坂上に一行院がある。

Dsc05176一行院

諸国を巡錫した徳本上人の墓がある。

DSC05182 暗闇坂  白山5-9と5-12の間を北東に上る。《地図

昔は、細く、屈折し、暗い坂だった。『ぶんきょうの坂道』

DSC05186 逸見坂  白山4-32と4-34の間を南西に上る。《地図

旧幕士逸見氏の屋敷があった。坂の西側の本念寺には「大田南畝(蜀山人)の墓」がある。『ぶんきょうの坂道』

落語『蜀山人

DSC05200 蓮華寺坂  白山2丁目と4丁目の間を白山下から西に上る。坂上は御殿坂上。《地図

坂下に蓮華寺、別名を小石川御殿(白山御殿)の裏門に通じる坂なので御殿裏門坂

Dsc05191 蓮華寺

DSC05199 御殿坂  白山2丁目と3丁目の小石川植物園の間を北東に上る。《地図

将軍綱吉の白山御殿(現小石川植物園)があった。別名を富士見坂、大坂、御殿表門坂。

DSC05292 伊賀坂  白山2-28と2-29の間を西方向に上る。《地図

①伊賀同心衆居住説と②真田伊賀守の屋敷説がある。『ぶんきょうの坂道』は真田伊賀守は上州沼田城主で、両国橋修理の材木の件でとがめを受けて天和元年(1681)に断絶(改易)したために①がよいかもしれないとする。

Dsc05204 白山神

DSC05208 薬師坂  白山1丁目と5丁目の間を白山下から北東に上る。《地図

坂上の妙清寺の薬師堂に因む。別名を白山坂、浄雲寺坂(坂下にあった寺)『ぶんきょうの坂道』

Dsc05207 妙清寺

DSC05211 浄心寺坂  白山1-32と1-33の間を東に上る。《地図

坂上に浄心寺、坂下の円乗寺には八百屋お七の墓があり、別名をお七坂。『ぶんきょうの坂道』 坂名の由来の日蓮宗浄心寺は坂上のライオンズマンション(白山1-36)の所にあった寺です。

Dsc05209八百屋お七の墓(円浄寺境内)

落語『お七①』・『お七②

DSC05219 中坂  白山1-24と1-27の間を北東に上る。《地図

浄心坂と胸突坂の間の坂

DSC05215 胸突坂  西片2-15と白山1-24の間を北東に上る。《地図

別名を峰月坂、新道坂

DSC05224 曙坂  西片2-7と2-14の間を北東に上る。《地図

旧曙町からとった名。このあたりは古河藩主土井家の下屋敷で、南に鶏声ケ窪があり、「鶏声暁に時を告げる」ことから、暁=曙をとり町名にした。別名を徳永坂

白山」・落語『三味線栗毛』・『お盆

Dsc05223 曙坂石柱

上部が欠けている。

DSC05230 新坂  西片1-20と2-6の間を曲がりながら南方向に上る。《地図

福山藩主の阿部屋敷へ新しく開かれた坂。別名を福山坂。『ぶんきょうの坂道』

DSC05232 石坂  西片1-3と1-14の間を北方向に上る。《地図

坂名の由来不明

DSC05240 新坂  本郷5-33と6-11の間を東から北東に上る。《地図

坂上の蓋平館別荘(現太栄館)に石川啄木が下宿していた。

DSC05244 胸突坂  本郷5-9と5-33の間を北東に上る。《地図

昔はこの坂を菊坂と呼んでいた。

DSC05248 菊坂  本郷4丁目と5丁目の間を南東に本郷通りまで上る。《地図

菊畑があり菊花を作る者が多く住んでいた。『ぶんきょうの坂道』

DSC05256 鐙坂  本郷4-31と4-20の間を北に上る。《地図

①鐙の製作者の子孫が住んでいた。②坂の形が鐙に似ている。 の両説あり。『ぶんきょうの坂道』

Dsc05257 樋口一葉旧宅辺りと井戸

DSC05262 梨木坂  本郷5-6と5-7の間を北に上る。《地図

①大きな梨の木があった。②戸田茂睡(江戸時代前期の歌学者)の庵の前に大きな山梨の木があった。③菊なし坂と呼ばれていたのが転じた。などの説がある。『ぶんきょうの坂道』  

DSC05265 炭団坂  本郷4-32と4-35の間を南に上る。《地図

①たどんなどを商う者が多くいた。②急坂で転ぶと炭団のようになった。の両説あり。『ぶんきょうの坂道』

DSC05271 本妙寺坂  本郷4-8と4-36の間を南に上る。《地図

振袖火事(明暦3年(1657)1月の大火)の火元の本妙寺があった。明治になり豊島区巣鴨へ移転。すぐ近くの赤心館に石川啄木が下宿していた。『ぶんきょうの坂道』  (本妙寺は火元であることを否定している)

DSC05276 見返り坂・見送り坂(見送り坂上から見返り坂方向)  本郷4-37から北と南に上る中山道(本郷通り)。《地図

江戸を追放された人が振り返りながら去った坂。見送った坂 『ぶんきょうの坂道』

Dsc05274 かねやす

「本郷もかねやすまでは江戸の内」

DSC05278 旧東富坂  本郷1-34と1-35の間を白山通りから東に上る。《地図

別名を鳶坂、飛坂。鳶が多かったので鳶坂、それが転じて富坂。春日町交差点の所は昔、二ケ谷と呼ばれた。谷を飛び越えて両方向い合っている坂で飛び坂といわれた。『ぶんきょうの坂道』

DSC05285 東富坂  本郷1-35と4-14の間を南東に上る。《地図

小石川の富坂の東にある坂。鳶坂が旧名。真砂町へ上る坂なので真砂坂の別名がある。坂の北側は江戸時代松平右京亮の中屋敷があり、「右京山(右京ケ原)」と呼ばれ、小説『姿三四郎』の舞台となった。『ぶんきょうの坂道』

 

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コメント

浄心寺坂について。私も最近まで気付かなかったのですが、坂名の浄心寺は、江戸名所図会などに、丸山浄心寺の通称で紹介されている日蓮宗の寺で、向丘の浄土宗の寺とは、全く別なようです。どちらの寺も江戸期から存在していました。丸山浄心寺は、坂上の左手にあるライオンズマンションの辺りに最近まであったようで
昭和が終わる頃に買った私の地図では、まだ健在です。恐らくバブル時代を乗り切れなかった
ものと思われます。もったいないことです。

投稿: ツツミ | 2008年4月22日 (火) 00:21

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