板橋区の坂-5
2006年3月11日
小竹向原駅(地下鉄有楽町線)・・・だらだら坂・・・地蔵坂・・・西光寺・・・氷川神社・・・海老山坂・豊敬稲荷・下頭六蔵祠・下頭橋(石神井川)・・・暗闇坂・・・天祖神社・・・城山の坂・熊野神社・志村城址・・・平次坂・・・清水坂・・・魚藍坂・・・小豆沢神社・女坂の名残の石標・・・龍福寺・・・寺坂・・・北赤羽駅(埼京線)
小竹向原駅から南東に上るだらだら坂を往復しました。文字通りの坂です。北に向い、大谷口2丁目の西光寺まで地蔵坂を上りました。境内に坂の由来となった代かき地蔵が移され祀られています。坂下近くの氷川神社に寄り、北東に進み川越街道に出ました。弥生町の2と4の間を通る道が旧川越街道でゆるやかに下ります。これが海老山坂らしいです。坂下辺りに豊敬稲荷、石神井川に架かる下頭橋のたもとに下頭六蔵祠があります。
環7通りを渡り、ゆるやかな暗闇坂を上り天祖神社に向かいました。この坂は途中で行き止まりになり直接天祖神社には通じていません。天祖境内の狛犬の台座の窪みは昭和20年6月の空襲の爆弾の跡だそうです。ときわ台駅の北口から中央通り、富士見街道、前野中央通り、前野本通りと進み、志村小学校の下から城山の坂を上りました。坂上の熊野神社の所が志村城址です。本殿の西側に城の空濠の跡が残っています。城山通りへ出、北に平次坂を下りました。カーブして下る急坂で木が覆い被さっている所もあるけっこうな坂です。 坂下を少し行くと清水坂の坂下に出ます。
清水坂を上り中山道を志村坂上で渡り、小豆沢通りを行くと小豆沢公園の東側から魚藍坂が環8通りまで北西下っています。坂の途中から北に上る坂に入り、小豆沢神社に出ました。正面の石段の脇に「女坂の名残」と読める石標が立っています。ただ、正面の石段(男坂?)も8段くらいしかなく、女坂も数メートルでしょう。昔は違っていたのでしょうか? 小豆沢神社の隣に龍福寺があります。境内のしだれ梅が見事でした。寺の東側を北から東にカーブして下るのが寺坂です。この坂も緑のあるいい坂です。坂下から環8通りを渡り、北赤羽駅へ向かいました。
写真をクリックすると拡大します。
だらだら坂 向原2-34の向原小学校と2-24の間を南東にだらだらと上る。《地図》
台橋道の一部 『いたばしの地名』
地蔵坂 大谷口上町90と大谷口2-67を南東に上る。《地図》
付近に地蔵堂があったので名付けられた。地蔵は西光寺にて移され「しろかき地蔵」として祀られている。 『いたばしの地名』
大谷口の代かき地蔵:「明日は村中あげて一斉に田植えというのに、日頃から仏様を深く信仰している心やさしいお百姓さんは一生懸命働いたが、まだ代掻き(しろかき)が半分も終わっていない。するとこれを見かねてお地蔵さんが一夜のうちに代をかいてくれた。それからというもの大谷口村の人々はこのお地蔵さんを「代かき地蔵尊」として厚くお祭りしたというお話。『いたばしの昔ばなし』より
上板橋、下宿あたりは、江戸時代より海老山といい、飢饉に備えた稗蔵があった。ヒエが訛ってエビになった。川越に向う時の宿場の入口で、下りの坂道でしたので海老山坂と呼ばれていました。 『いたばしの地名』・『郷土 板橋の坂道』 ヒエがエビに転訛するだろうか? 尻取りなら分かるが。
海老山坂の坂下近く
下頭六蔵祠 下頭橋(石神井川)たもと
下頭の六蔵と呼ばれていた乞食が、橋のたもとで受けた喜捨の金をもとにして、この橋を架け替えたとも伝わっている。
暗闇坂 南常盤台1-24と1-20の間を北西に上る。《地図》
下頭橋から始まる前野道は、天祖神社に向って上り坂となります。この坂を暗闇坂と呼びました。『いたばしの地名』
崖の上から覆い被さる樹木で昼なお暗かったというが、今は明るい、崖も傾斜もほとんどない道。
城山の坂 志村2-15と志村小学校の間を東に上る。《地図》
志村坂上の中山道から別れ、ここを通り、中台の南坂を登りやがて下練馬宿に至る大山道の一部。崖上一帯に志村城があった。
熊野神社(志村城址の二の丸)
志村城の空濠跡
平次坂 志村2-5と2-11の間を南に上る。《地図》
いつの頃か平次という人が開いたと言います。台地の上と下を結ぶ坂道で清水坂を回らなくとも近道なので、農家の人々が利用しました。急勾配に加え崖から清水が道いっぱいに流れてくるので歩くのに大変でした。この様なところなので蛇が多く平次が転訛して「へび坂」と呼ばれていました。 『いたばしの地名』
清水坂 志村2-4と2-7の間を曲がりながら東南に志村坂上まで上る旧中山道。《地図》
坂の中程を左に入った所に大善寺があり、徳川吉宗が鷹狩の折りに休憩して崖より落ちる清水を賞して、寺の本尊の薬師如来を清水薬師と命名したことから清水坂と呼ばれる。隠岐殿坂は大善寺の僧と勧進してこの坂を開いた隠岐守某にちなむ。地蔵坂は坂の中程にあった石の地蔵尊(元禄4年(1691)造立)による。勧進の由来の石碑と地蔵尊は坂上の総泉寺に移されている。 『郷土 板橋の坂道』 途中で大きく曲がる所が旧中山道で唯一右手に富士山が望め、「右富士」という名所だった。
魚藍坂 小豆沢3-1の小豆沢公園と4-6の間を北西に環8通りまで下る。《地図》
新河岸沿いで漁業をしていた人々が、農業を始めた時、今まで使っていた多くの魚藍(びく)を一ヶ所に埋め塚を作った。その塚を「八百魚藍塚」と呼び、そこから始まる坂の名称にもなった。 『いたばしの地名』
『郷土 板橋の坂道』では、「村人が農業に転じた時、勝手に漁を行わないように魚藍(びく)を埋めた。」とするが、今まで使っていたびくに感謝して塚を築いて埋めたのではないだろうか。
寺坂(坂上から) 小豆沢4-15と4-16の間を南西から曲がって南に上る。《地図》
龍福寺の裏を降りる坂の名前です。 『いたばしの地名』
この先は荒川(現新河岸川)に行き着き、江戸時代から舟運で栄えた小豆沢河岸(大根河岸)や、浮間の渡し場があった。『郷土 板橋の坂道』
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