国分寺市の坂-2
2006年4月24日
国分寺駅(中央線)・・・池の坂・・・お鷹の道・真姿の池・・・国分寺・国分寺跡・・・堂の坂・仁王門・薬師堂・八幡神社・・・府中街道・・・東八道路・・・武蔵府中熊野神社古墳(上円下方墳)・・・多摩蘭坂下・しらみ坂②・・築山橋(JR中央線)・・・しらみ坂③(捨場坂)・・・国立駅(中央線)→西国分寺駅・・・阿弥陀坂・阿弥陀堂跡(阿弥陀堂霊園)・・・東福寺・・・西国分寺駅
国分寺駅南口から南に進み、野川に架かる不動橋へ池の坂を下り、西に行くとお鷹の道の遊歩道に出ます。真姿の池を過ぎると国分寺の楼門と現在の国分寺があります。西側の仁王門の西側を堂の坂が上ります。仁王門の上が薬師堂で、この辺は国分寺北方建物跡です。堂の坂の坂上に八幡神社、楼門を南に行くと、国分寺の金堂跡などの遺跡です。
府中街道から東八道路へ出て南に行き、府中市の西府町の甲州街道沿いにある武蔵府中熊野神社古墳へ寄りました。全国で3例目、最大最古(7世紀中頃)の上円下方墳で国指定遺跡です。期待していましたが整備されてなく、回りをフェンスで囲まれ、墳丘はシートで覆われていました。せっかくの貴重の遺跡をこんな状態で放ったらかしにしておくなんて情けない。このままでは、いずれ墳丘の形も崩れ、高松塚古墳のように取り返しがつかなくなってしまうのでは。早急に整備して上円下方墳の姿を大勢の人に見せて欲しいものです。
北に進み多摩蘭坂の坂下に出ました。ここから北方向に国分寺市内藤1丁目と2丁目の間を上る坂が、『わが町国立』で「しらみ坂」と呼んでいる坂のようです。(しらみ坂②とします。) 築山橋?で中央線の線路を越え進むと、日吉町2丁目と光町1丁目の境の坂上に出ます。『今昔東京の坂』では、この坂がしらみ坂です。(しらみ坂③とします。) この坂は南西に国立駅方向へ下ります。
阿弥陀坂は『江戸名所図会』に記載のある坂で、恋ヶ窪の阿弥陀堂跡の阿弥陀堂霊園に沿う、鎌倉街道上の道の坂です。恋ヶ窪・姿見の池・傾城の墓・阿弥陀堂などは畠山重忠と遊女の夙妻(あさづま)の悲恋物語に由来します。(この坂については、『鎌倉街道(上の道⑤』に記載)
写真をクリックすると拡大します。
池の坂 南町3-1と2-14の間を北東に上る。野川の不動橋の北から上る。《地図》
玉川上水開削以前の上水工事の計画の中にあった貯水池に因むものであろうか。別名のかなしい坂は工事が失敗したことによる。市史編纂室の話では、池の坂、かなしい坂の名は聞いたことがないという。『今昔東京の坂』
北側に石橋供養塔、庚申塔、不動明王碑があるようだ。
市内の村は尾張藩の御鷹場に指定され、野川に注ぐ清流沿いの道はいつしか「お鷹の道」と呼ばれるようになった。
真姿の池 《地図》
不治の病にかかった玉造小町がこの池の水で身を清めたところ全快し、元の美しい姿に戻ったという由来の池。
東久留米市の米津寺の楼門を明治27年に移築。
奈良時代に建立された武蔵国国分寺の後継寺院。
堂の坂(坂上方向) 西元1-13と2-14の間を北西に上る。仁王門の南側から上る坂。《地図》
『今昔東京の坂』に記載のある坂
宝暦年間(1751~1763)の建立
木造薬師如来坐像(平安末~鎌倉初期の作)は国の重要文化財。
江戸期には国分寺村の鎮守社だったという。武蔵府中熊野神社古墳(府中市西府町3丁目) 《地図》
国指定遺跡。全国で3例目の最大で最古の上円下方墳、7世紀中頃の築造。
しらみ坂③(坂上方向) 日吉町2丁目と光町1丁目の間を北東に上る。 《地図》
正平7年(1352)府中人見ケ原(府中市若松町の浅間神社付近一帯)の戦で足利尊氏軍に勝った新田義興・義宗軍が上野国(群馬)へ引上げる途中、この坂で東の空が白み始めた。土地の人は、捨場坂と呼んでいる。この急坂に行き倒れた牛馬が、捨てられたという。『今昔東京の坂』
*この坂の位置については、しらみ(白明)坂①(府中市の坂-1)に記載。しらみ坂②(多摩蘭坂下あたりから国分寺市内藤1丁目と2丁目の境を北東に上る坂で、《地図》 今日歩いた道筋の坂だが写真を撮るのを忘れた)がある。 ただし、しらみ坂①は元弘3年(1333)の戦の伝承の坂なので別の坂か? いずれも伝承の坂なので道筋の特定は困難だが③の坂より②の坂の方が坂の形状、雰囲気などからそれらしい気がする。
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