« 板橋区の坂-8 | トップページ | 板橋区の坂-10 »

2006年9月 7日 (木)

板橋区の坂-9

2006年9月7日

東武練馬駅・・・不動通り・・・京徳観音堂・・・阿弥陀坂(弥陀堂の坂)・・・円福寺法蔵庵・・・円福寺・・・天祖神社・・・神明坂・・・子安地蔵尊・・・とりげつ坂・・・善長寺・・・新道坂・・・西台不動尊・・・谷津坂・・・東武練馬駅

 不動通りの徳丸1丁目の交差点を過ぎ、東に入ると京徳観音堂があります。この辺りは昔の面影が残っています。観音堂の下の峡田道が阿弥陀坂で円福寺法蔵庵の方へ上っています。天祖神社には、番場稲荷の坂(「板橋区の坂-4」2006年3月9日に歩いた坂)の由来となった稲荷社が合祀されています。神明坂の途中から「とりが谷津山」へ上り、とりげつ坂を下りました。これが古くからの道で、この坂に平行している西台中央通りの新道坂は昭和に開かれた新しい坂です。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc05011京徳観音堂(西台2-53)

昭和51年までは芽葺屋根の堂だった。

Dsc05009 京徳観音堂説明板

Dsc05012 峡(ハケ)の地蔵?

説明板によると万治3年(1660)建立。

Dsc05015 阿弥陀坂(弥陀堂の坂)(坂下から) 西台3-40と3-42の間を南東から北東に上る。坂上は円福寺法蔵庵。《地図

円福寺法蔵庵に由来する坂名。 
『いたばしの昔ばなし』の「枯れ葉の小判」から  むかし、西台村の円福寺の法蔵庵阿弥陀坂の下を通りかかった侍が、お百姓に鶴が池への道を聞いた。お百姓は、「この道を真直ぐ参られれば京徳観音の森がすぐ見えます。その森の近くにある大きな池が鶴が池でございます」と答えると侍はお礼に小判2枚をくれた。侍は立ち去るのを振り返るなといい馬にむちをあてた。お百姓は、うれしくて侍の言葉を忘れて、振り返ってその姿を見送った。お百姓は侍の姿が見えなくなると手に握った小判を見てみると、楢の枯れ葉2枚に変わっていた。 

Dsc05072 坂途中から坂下方向

Dsc05070_1 坂上の円福寺法蔵庵(写真右側)の所から

Dsc05068 門柱脇の庚申塔(正徳6年(1716))

Dsc05066 円福寺脇の坂(右上が円福寺)

円福寺法蔵庵とは離れている。

Dsc05065円福寺山門(西台3-32)

Dsc05064 円福寺境内

曹洞宗の寺。文明11年(1479)太田道灌が川越に創建。慶長13年(1608)にこの地に移され、江戸幕府より朱印地20石が寄進された。

Dsc05019天祖神社(西台2-6)

江戸時代には西台村の鎮守で神明社と呼ばれていた。

Dsc05018 番場稲荷(天祖神社境内)

「番場稲荷の坂」の由来となった稲荷社。

Dsc05020 神明坂(坂上の天祖神社の所から) 天祖神社の東側の坂。《地図

Dsc05022 坂下近くから

Dsc05023 子安地蔵尊(神明坂の坂下)

「聖徳太子身代子安地蔵尊」

Dsc05024 子安地蔵

金網入りガラス張りでぼやけた。

Dsc05042 とりげつ坂(坂途中から坂下方向) 西台2-15と2-16の間を南西に上る。坂下に善長寺。《地図

西台2丁目の台地北端部分が「とりが谷津山」で「とりげつ山」となった。『いたばしの地名』 とりげつ山に沿う坂なのでこの坂名がついたのだろう。

Dsc05026 「とりが谷津山」(西台田端公園)の近くから。

Dsc05031 坂途中から坂上方向

この道は古道で坂上には馬頭観音が祀られ、一里塚(戸田から一里)があったという。

Dsc05036 道標庚申塔

「西 ねりまみち」 「東 ?みち」と側面に彫られている。

Dsc05056 新道坂(坂下近く) 西台2-16と1-50の間を南西に上る西台中央通り。《地図

とりげつ坂に平行して昭和8年頃に新しく開かれた坂。

Dsc05057 坂途中から坂上方向

Dsc05047 西台不動尊(西台1-29)

不動明王は太田道灌の守り本尊で、志村城落城後にここに移されたという。

Dsc05050 谷津坂(坂途中から坂下方向) 西台1-20と1-29の間を北西に上る。坂下に西台公園、坂上は西台中央通り。《地図

(坂上の向い側にある)円福寺の前(東側)の谷を谷津と呼んでいた。『いたばしの地名』

Dsc05051 坂上から

|

« 板橋区の坂-8 | トップページ | 板橋区の坂-10 »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 板橋区の坂-9:

« 板橋区の坂-8 | トップページ | 板橋区の坂-10 »