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2006年10月30日 (月)

座間市(神奈川県)の坂-1

2006年10月30日

座間駅(小田急線)・・・梨の木坂・横穴墓場1号・2号・諏訪神社・・・根下坂・・・神井戸・神井戸(かめいど)上の坂・・・神井戸下の坂・・・桜田坂・稲荷社・・・根付坂・・・作り道坂・・・下掃(しもはけ)坂・・・おしな坂(石名坂)・・・榎戸橋跡・・・海老名駅

 神井戸上の坂から下掃坂までは座間市教育委員会で仮につけた坂名で、小字名から名づけられています。坂下の根下道から東方向の鎌倉街道、府中街道の方へ上る坂ですが、未舗装で今はあまり使われていない道のようで昔の名残をとどめています。神井戸の坂下には今も湧水の神井戸があり、神井戸下の坂は玉石垣の積んである南国風情のある坂で坂上の小高い塚の上に稲荷社があります。稲荷社に沿って南に下る坂が桜田坂です。稲荷坂でもよいのでは。

 このあたりの崖には横穴墓が多いそうで、根付坂の途中にもそれらしき穴があります。作り道坂はもう廃道のような感じの坂です。おしな坂には、若い娘の人柱伝説があります。大田区の「ぬめり坂」の話とよく似ています。この坂は府中街道で海老名市との境で、海老名市では石名坂と呼んでいます。人も車も通らない静かで緑の多いきれいな坂です。

 おしな坂を下って、榎戸橋跡の所でカメラを道に落としたらそっれきり電源が入らなくなってしまいました。海老名市の坂もいくつか歩く予定でしたが、しかたなく相模鉄道沿いに海老名駅に直行しました。

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Dsc06706 梨の木坂 入谷の諏訪神社の南側を南東に座間駅南側あたりに上る。《地図

「梨の木諏訪坂」が元の名だったようだ。

Dsc06694 【坂標】の説明文 「江戸時代の明和年間(1764~72)に書かれた「座間古説」の中に「梨の木諏訪坂」という名称が出ており古くからあった坂と思われます」

Dsc06705 坂下近くから

この坂に、夜ごとに「オマチャレ婆」が出没して通行人を誘惑したという伝説もある。『座間の道坂橋』

Dsc06702 諏訪神社へ上る石段

Dsc06697 諏訪神社(梨の木坂の坂下近く)

「梨の木諏訪坂」の由来となった神社だろう。境内に梨の木があったのか。神社の裏手は鎌倉街道。

Dsc06708 根下坂 梨の木坂の途中から南に入谷小学校の方へ下る。《地図

小字名による坂名。清水坂(小字名)ともいわれた。

Dsc06709 坂下近くから

Dsc06717 神井戸(根下坂の坂下を南に進んだ座間養護学校の前)

正面の水際に小祠が祀ってある。

Dsc06716「神井戸」説明板

Dsc06712 神井戸上の坂

神井戸の北側の石段坂。《地図

Dsc06713 坂上から

Dsc06720 神井戸下の坂 神井戸の南側。《地図

Dsc06721 坂途中から

Dsc06723 坂上から

Dsc06732 坂上の稲荷社の立つ塚

土がえぐられたようになって根が出ているが、なおも立っている木。

Dsc06734 稲荷社

Dsc06735 稲荷社から桜田坂の坂下方向を望む。

Dsc06736 桜田坂(坂上から) 杉久保座間線の皆原バス停近くから西に入り、稲荷社の所で南に曲がって下る。坂下は座間高校。《地図

小字名による坂名。

Dsc06741 坂下から

Dsc06742 坂下の石仏たち

Dsc06745 根付坂 桜田坂の南から東に上る。《地図

小字名による坂名。

Dsc06744 横穴墓だろうか?

Dsc06746 坂上近くから

Dsc06748坂上近く

Dsc06752 作り道坂 根付坂の南側から東に上る。《地図

「作り道根付」からの坂名。今は通る人はいないような道。

Dsc06755 坂上方向

Dsc06759 坂下から

Dsc06760 下掃坂 作り道坂の坂下南の桜田住宅あたりから南東に上る。坂上の府中街道を南に行くと「おしな坂」の坂上。《地図

小字名の「下モ掃」からの坂名。『座間の道坂橋』

Dsc06763 坂途中から

Dsc06765坂上から(左側)

Dsc06768 おしな坂(石名坂)(坂上近くから坂下方向) 入谷2丁目と海老名市上今泉3丁目の間を北東に上る府中街道。《地図

座間市では、相模川の堤防を築くときお品という娘が人柱になったので、「おしな坂」と呼び【坂標】、海老名市では、坂下の崖から何万年も経過した河原石の層が見つかったので、「石名坂」と呼ぶ。「名」は地名学上、土地の意を表す場合が多く、よく接尾語として用いられる。『海老名の坂』

Dsc06767 【坂標】の説明文 「この坂は「石名坂」とも呼ばれています。「おしな坂」はこれが変化したものと思われますが、地域では相模川の氾濫から村を救った娘「おしな」の伝説とともに、この坂名が伝えられています。この道は府中街道です」

Dsc06773 坂途中から坂下方向

Dsc06774 坂下近くから坂上方向

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2006年10月26日 (木)

川越街道の坂

2006年10月26日

成増駅(東上線)・・・新田坂(板橋区)下る・・・八坂神社・新田宿・・・白子橋(童謡『靴が鳴る』歌詞・白子川)・白子宿下宿・・・滝坂(和光市)上る・・・白子坂(県道新座和光線)下る・・・熊野神社・清龍寺不動院・不動の滝・・・白子宿中宿・大坂(和光市)上る・白子宿上宿・・・(笹目通り)・・・くらやみ坂(和光市)下る・・・かせぎ(稼)坂(朝霞市)下る・膝折不動尊・・・一乗院・・・膝折中宿脇本陣「村田屋」・・・膝折宿町内会館交差点・・・大橋(黒目川)・・・たびやの坂(朝霞市・新座市境)上る・・・横町の六地蔵・野火止下交差点・・・氷川神社・・・こもれび通り・・・平林寺・・・こもれび通り・・・野火止用水・・・新座駅(武蔵野線)

 成増駅の北側で現在の川越街道(国道254)の北側に沿うのが旧川越街道で、新田坂で下ります。このあたりは新田宿の集落があった所で、白子川を渡ると白子宿の下宿です。白子は新羅からの渡来の人たちが開いた所です。川越街道は左へ曲がりますが直進して滝坂を上り、県道の白子坂の途中から下って坂名の由来となった不動の滝に寄りました。今は一筋の流れです。滝坂と不動の滝のある台地はマンション建設か何かで工事中です。いずれこの一筋の滝も枯れてしまうでしょう。

 白子坂の坂下(大坂の坂下でもある)が白子宿中宿で、旧川越街道は県道と国道254の間を間を上ります。これが大坂で、この坂は木々が被さる間をきれいにカーブして上るいつ来てもいい感じの坂です。笹目通りを越えるとくらやみ坂が下っています。今は暗い雰囲気は全くありません。坂下の代官屋敷と呼ばれた家は建て替えられ、門も新しくなっています。すぐ先に立派な馬頭観音が立ち、そばに伯楽製鋲所があります。馬とのゆかりの深さが伺えます。しばらく行くと県道と合流し交通量が増えてきます。

 単調な道を進み朝霞市に入ります。幸町3丁目の交差点の先で県道は左にカーブしますが直進すると、かせぎ稼坂の下りとなります。今は坂下近くが急なだけな平凡な坂ですが、かっては車押しがいて押し賃を「稼いだ」急坂だったようです。坂下近くに膝折不動尊が祀られ、坂下で県道と合流します。このあたりが膝折宿で脇本陣の村田屋があります。この家には「高麗」の表札がかかっています。新座市は新羅からの人々によって開かれた所だということが分かります。

 膝折宿町内会館交差点を左に曲がり、黒目川の大橋を渡り進むと庚申塔の所で県道(この坂をゴウドウ(合道)の坂という。)と分岐してたびや坂を左に上ります。「足袋屋」があったのでしょう。今はそんな雰囲気は感じられない坂の周辺ですが。この坂は朝霞市と新座市の境でしばらく行くと県道と合流して、野火止下交差点に出ます。交差点の手前の一角に「横町の六地蔵」が祀られています。交差点で川越街道から離れ左に曲がり氷川神社に寄って、現川越街道を渡り、市役所交差点を右折して「こもれび通り」に入りました。

 新座市役所の先が広大な境内林の平林寺です。拝観料を300円とられましたが、小さなしおりをくれただけ。案内図がなければ広い境内は歩きづらいです。境内は武蔵野の面影が残っています。紅葉はまだですが、野火止用水の支流の平林寺堀や野火止塚など見るべき物が多数あります。植物、動物の楽園だったのでしょう、寺に沿うこもれび通りには「たぬき注意」の道路標識が立っています。こもれび通りが平林寺を過ぎたあたりに野火止用水の本流が流れています。思ったより水量も豊富で水もきれいなようで鷺の姿もありました。

 新田坂、白子坂、滝坂、大坂は、『板橋区-2・和光市の坂』にも記載。『川越街道』にも記事あり。

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Dsc06543 新田坂の途中から坂下方向《地図

坂下は新田宿

Dsc06541 新田宿・八坂神社説明板

Dsc06542 八坂神社の所から坂上方向

Dsc06544 八坂神社

元は少し南側にあった。現川越街道工事の際に移された。

Dsc06551 旧家(成増2-37)

Dsc06552 白子橋

靴が鳴る」の歌詞 童謡の作詞家清水かつらは関東大震災後和光市白子に住んだ。「叱られて」「雀の学校」など。

Dsc06553 白子橋から白子川

Dsc06555 白子宿下宿本陣

左側の木の繁っている家

Dsc06558 滝坂(坂上近くから)《地図

Dsc06560 熊野神社(和光市白子2丁目)

Dsc06561 熊野神社説明板

Dsc06566 清龍寺不動院(熊野神社隣)

寺なのに狛犬

Dsc06562 不動の滝

滝上に不動明王の像が二体?と文章が書いてある石碑。

Dsc06568 白子宿中宿本陣のあった所(白子2-15のとみさわ薬局)

大坂下(白子坂下)

Dsc06571 大坂下の旧家(冨澤家)

Dsc06570 大坂(坂下近くから)《地図

Dsc06575 坂途中から坂下方向

Dsc06577 坂上近くから

Dsc06582 くらやみ坂(坂上から)  和光市中央2丁目。大坂の坂上の笹目通りから北西に下る。《地図

Dsc06579 「くらやみ坂」【坂標】

Dsc06585 坂下近くから

Dsc06587 「代官屋敷」と呼ばれた柳下家の長屋門(新しく建替えられている) くらやみ坂の坂下近く。

Dsc06589 旧家(くらやみ坂下、中央2丁目)

代官屋敷の隣。これも柳下家。

Dsc03111 馬頭観音堂

Dsc03107 馬頭観音

文化15年建立。市内では唯一の後背型坐像形の精巧なもの。

Dsc03112 馬頭観音説明板

Dsc03105 伯楽製鋲所(中央1-2・馬頭観音の近くの川越街道沿い)

昔は馬の蹄鉄などを商っていたのだろう。(伯楽とは馬の良否をよく見分ける人。)

Dsc06593 かせぎ(稼)坂へ(右)

左は県道新座和光線

Dsc06596_1かせぎ(稼)坂(坂上から) 朝霞市幸町2-7と2-8の間を南東に上る。 《地図》 

昔は急坂で車の後押しをする人夫がいて稼いだ。別名を「ピーピー坂」、阿部さんの工場があることから、「アベサンの坂」ともいう。『朝霞市史 民俗編』 ピーピー坂の由来は何なのか?

Dsc03149 右側に膝折不動尊(坂下近く) 

Dsc03148_3不動明王                               

Dsc06603一乗院(膝折町1-16)

渡来人高麗家の開基という。

*墓地の脇の急坂が「卵塔(蘭塔)坂」というのを後日知る。2007年10月17日再訪し、「和光市坂-4・朝霞市の坂-3」に記載。

Dsc03163 一乗院略縁起

Dsc06607 膝折宿中宿脇本陣「村田屋」(膝折1-14)

これも高麗家

Dsc06609 黒目川(大橋から)

Dsc06610 旧家

大橋を渡った先

Dsc06612 たびやの坂(左)

分岐点に庚申塔

Dsc06611 庚申塔

顔も体も風化している。

Dsc06613 たびやの坂(坂下から) 朝霞市膝折3-2と新座市畑中3-4の間を北西に上る。《地図

『朝霞市史 民俗編』には、「旧川越街道にあり、字地倍にある坂なので地倍の坂という。別名を足袋屋の坂、榎木坂ともいう。」とある。

Dsc06617 坂上から

Dsc06625 横町の六地蔵(野火止下交差点の手前)

六地蔵は享保17年(1732)の建立。

Dsc06618 説明板

Dsc06624 地蔵さん

正徳4年(1714)の建立。300年近く経っているのにいい顔をしている。

Dsc06622 庚申塔

宝暦6年(1756)の銘。

Dsc06627氷川神社(野火止8-4)

川越藩主松平信綱の創建という。

Dsc06639 平林寺総門(野火止3丁目)    

平林寺は臨済宗の寺で、埼玉県岩槻市に永和元年(1375)創建された。川越城主の松平信綱の子の輝綱寛文3年(1663)がこの地に移した。

Dsc06643 山門

Dsc06645 仏殿

Dsc06647 説明板

Dsc06652 仏殿内

中央に釈迦

Dsc06669 総門・山門・仏殿・本堂が一直線に並ぶ禅宗様式の寺。

Dsc06662 平林寺堀(平林寺境内)

野火止用水支流、水は流れていない。

Dsc06657 島原の乱供養塔

乱を鎮圧したのが、後に川越城主となった松平信綱。

Dsc06656 供養塔説明板

Dsc06671 境内林

Dsc06668 野火止塚

野火の見張台

Dsc06667 「野火止塚」説明板

Dsc06676 こもれび通り

左側は平林寺。「たぬき注意」の道路標識が立っている。

Dsc06678 野火止用水本流(こもれび通りのやました橋から・野火止3-6あたり)

鷺の姿

Dsc06635 野火止用水説明板

承応4年(1655)川越城主の松平信綱により開削された農業、生活用水。玉川上水より引き入れた。

Dsc06687 野火止用水

Dsc06634 かつての野火止用水の風景

Dsc06690 野火止緑道(やました橋から)

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2006年10月20日 (金)

清瀬市の坂-1

2006年10月20日

新秋津駅(JR武蔵野線)・・・薬師橋(空堀川)・・・薬師堂・円福寺・・・梅坂橋(空堀川)・・・梅坂・・・氷川神社・・・東光院・・・一文坂・・・中里富士塚・富士神社・・・下田稲荷・・・上宮稲荷神社・・・観音坂・・・円通寺・天満宮・・下宿八幡神社・・・武蔵野線に沿う坂(こわしみずの伝説地)・・・新座駅(武蔵野線)

 清瀬市の西の東村山市の新秋津駅から東の新座市の新座駅まで、清瀬市の北部を横断しました。今は住宅街になっていますが所々に昔の面影が残っています。今日の坂は坂名の由来はともかく、今は短い傾斜のゆるい坂で、坂自体に面白味はありません。むしろ柳瀬川通りから柳瀬川の方へ下る坂や、切通しの坂、武蔵野線に沿って新座市に上る坂の方が坂らしい風情がありました。また、「琵琶かけの松」と「こわしみず」のこっけいな、おかし味のある伝説にも出会いました。

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Dsc06432円福寺前(野塩3-47)

Dsc06437 薬師堂(円福寺境内)

十二神将は清瀬市文化財

Dsc06440 「琵琶かけの松」石碑

「薬師如来にお願いして目が開いた琵琶法師が嬉しさのあまり琵琶をここにあった松にかけたまま旅立ってしまった」というドジなお話。目が開いたので商売変えしようと、わざと置いていったのかも。今は松はないようだ。

Dsc06433 「びわかけの松」伝説説明板

Dsc06444 梅坂橋から空堀川

Dsc06445 梅坂(坂下から) 野塩3丁目と中里2丁目の間を梅坂橋から東に上る。《地図

薬師堂付近一帯に梅林が多かった。江戸の頃、婚礼を控えた花嫁が梅坂橋から身を投げた。その後、この地区の人達は婚礼、縁談の話の時にはこの橋を通らなくなった。『東京の坂風情』

Dsc06447 坂上近くから

Dsc06448 地蔵尊(中里1丁目・梅坂上から氷川神社への途中)

宝暦8年(1758)の建立

Dsc06451氷川神社(中里2-1369)

旧中里村の鎮守

Dsc06454 地蔵さん(東光院境内) (中里2-1377)

Dsc06460 一文坂(坂上から) 中里4-1152の間を北西に下る。《地図

坂の途中に「三島第六天」が祀られていた。この神仏混淆の神は大変な腹立神で、坂の途中で転んだりすると怒って神罰を下したそうな。人々は一文銭をあげて許して貰ったそうである。この神様のまわりでこれらの硬貨を見つけた子供たちは大喜びで飴玉を買いに走ったらしい。『東京の坂風情』

Dsc06457 一文坂の【坂標】

坂名も説明書の文字も消えている。保存・管理状態悪し。

Dsc06461 坂下から

Dsc06462 三島第六天の小祠?

坂の東側の民家内。隣に石柱もある。

Dsc06470 中里富士塚・富士神社(中里3-973)

享保18年(1733)に富士講が成立し、文政8年(1825)に再築された。

Dsc06466 説明板

Dsc06467 「火の花祭り」の写真

Dsc06468 東京都の説明板

Dsc06469 清瀬市の説明板

Dsc06475 富士塚に立つ地蔵尊(正徳2年(1712)建立)と庚申塔(享保10年(1725)建立)

両方とも富士塚より古い。他所にあったものがここに運ばれたのだろう。

Dsc06484 下田稲荷(中里6丁目の柳瀬川通りの下戸バス停そば)

Dsc06490 下田稲荷の東側の坂

坂下は柳瀬川

Dsc06495 切り通しの坂(下宿6-54の柳瀬川通りから北に下る)

Dsc06496上宮稲荷神社(下宿2-391)

Dsc06497 観音坂(坂上から) 下宿1-124と2-406の間を北東に下る。《地図

坂下の円通寺の観音菩薩立像による坂名。

Dsc06498 「塞ぎ(ふせぎ)」の藁の大蛇(観音坂の坂下)

村に悪い虫や病が入るのを「ふせぐ」ための全長20mほどのわらで作った大蛇。毎年5月3日に円通寺の長屋門の下で作り替えられる。東京都指定無形民俗文化財。樫と杉の木の間にぶらさがっている。

Dsc06526 庚申塔(観音坂の坂下)

宝暦11年(1761)の建立

Dsc06525 坂下から

Dsc06504円通寺

南北朝時代の暦応3年(1340)の創建と伝う。この寺の観音像は新田義助(義貞の弟)が鎌倉から移したものといい、馬に乗ったままここを通ろうとすると必ず落馬したことから「駒止観音」と呼ばれた。

Dsc06512 説明板

Dsc06508 不動明王

安政4年(1857)の建立

Dsc06502 道祖神(左)・元は上宮稲荷の前の道にあった。

地蔵さん(右)・寛政5年(1793)の建立。

Dsc06515 円通寺長屋門

Dsc06514 長屋門説明板

Dsc06517 天満宮(円通寺隣)

Dsc06529下宿八幡神社(天満宮隣)

旧下宿村の鎮守新田義助の創建という。

Dsc06531 武蔵野線(左)に沿う坂

坂上は新座市。坂下あたりに「こわしみず」があった。

Dsc06532 「こわしみず」の伝説

「恐い清水」かと思ったが、親が飲むと酒で、子が飲むとただの水なので、「子は清水」という落語の小噺のような伝説。この清水は昭和48年に武蔵野線ができるまで実在したそうだ。

Dsc06536 坂上から

右側の武蔵野線に貨物列車が通る。

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2006年10月18日 (水)

羽村市の坂-3

2006年10月18日

小作駅(青梅線)・・・加美緑地(小作緑地)・・・青梅坂下(小作坂下)・・・車坂跡・・とうふや坂跡・小作の渡し(友田の渡し)跡・・多摩川橋・・・水道橋・・・陣屋坂跡辺り・旧家(地蔵尊)・・・松本神社・西坂・お宮坂(おぼすな坂)・・・新・旧青梅坂(奥多摩街道・旧青梅街道)・・・加美緑地・・・小作駅

 小作駅から南西に進むと小作台小学校の先で加美緑地に突当たります。ここが小作崖線で、下ると青梅坂と小作坂の坂下で馬頭観音が祀られています。多摩川橋の近くの(にあった)車坂と、とうふや坂の位置関係がはっきりしません。現在、鱒のつり堀(養殖場)がある方へ下る坂を車坂、小作の渡し跡に下る坂をとうふや坂としましたが逆か、今は消滅した違った道筋かも知れません。多摩川橋の下に小作の渡し(友田の渡し)があり、対岸の友田(青梅市)と結んでいました。

 陣屋坂は多摩川の河原から上った坂で坂上に通称「椎の木」の屋号の家があったそうです。今の水道橋の近くに地蔵尊を祀った旧家(下田家・羽西3丁目)があります。この家が「椎の木」の家だったのでしょうか。地蔵尊の前を北に宮前通りを行くと松本神社があり、鳥居の前から右に宮坂、左に西坂が分かれて上り、両方の坂とも奥多摩街道の青梅坂の坂上近くに出ます。奥多摩街道の北側に旧青梅街道が一部残っています。これが旧青梅坂です。途中舗装されていない雑草に覆われた崖沿いの旧道を通り、来た時と同じ加美緑地の下に出ました。

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Dsc06324 加美緑地から下る坂(小作台4丁目)

Dsc06329 小作中馬頭観音

加美緑地下の青梅坂の坂下(奥多摩街道)

Dsc06330 青梅坂(左・奥多摩街道)と、旧青梅坂(右・旧青梅街道)の坂下から

Dsc06336 車坂跡 吉野街道(福生青梅線)から多摩川橋南の養鱒場(羽西2丁目)に下る坂。《地図

「車」とよぶ水車のあった家の西側にあり、現在の小作十字路に結ぶ坂。急こうばい。『羽村郷土研究』 この坂も坂上を行けば小作十字路に出る。

Dsc06337 坂下の養鱒場

その先は多摩川で行き止まり。

Dsc06339 坂上方向

右側に鳥居がある。

Dsc06350 とうふや坂跡?(坂上から) 多摩川橋の南から多摩川の河原へ下る坂。坂下に大正9年まで小作の渡しがあった。《地図》(道の標示はない)

現在の多摩川橋にあった急坂、対岸友田を結ぶ。車をひいてひとりでは登れまい。車を背負って登ったという力持ちの話もある。『羽村郷土研究』

坂上に豆腐屋があったのだろうか?

Dsc06341 小作の渡し説明板

大正9年に吊り橋となる。

Dsc06349小作の渡し跡

とうふや坂の坂下

Dsc06353 小作の渡し(友田の渡し)のレリーフ

 多摩川橋の友田側(青梅市)

Dsc06347 とうふや坂下から

とうふや坂、車坂はともに、対岸友田部落の「船場の坂」、西の方の車坂との連関を持ったもので「渡し」「橋」によって結ばれ台地農耕地へ往来する人、車の重要なルートであった。『羽村郷土史研究』 これによると、とうふや坂は「渡し」、車坂は「橋」とつながりそうにそうに読める。「渡し」は「吊橋」ができた後も(大正9年以降)運行していたのだろうか

Dsc06363 水道橋から多摩川

正面は圏央道

Dsc06365 旧家(下田家) 羽西3丁目

旧下田家住宅(羽西1丁目)は国指定重要有形民俗文化財で郷土博物館に移築、復元されている。

このあたりへ多摩川河原から上る坂が陣屋坂だったのか。『羽村郷土研究』には、「吊り橋のたもとへ河原から上る坂で、登りきって西に向う。この吊り橋の西側崖上に小作部落で最も古い通称「椎の木」の屋敷があり、裏宿七兵衛の快足ぶりの伝説もある」 吊り橋は今の多摩川橋のこと。「椎の木」の屋敷が下田家ではないだろうか。なお、義賊の裏宿七兵衛 は安藤坂(『羽村市の坂②』)の由来となった首切り役人の安藤紋右衛門に首をはねられたともいう。裏宿七兵衛ゆかりの地は、『青梅街道⑤』に記載。

Dsc06364地蔵尊

下田家の塀の一角

Dsc06368 松本神社

右が宮坂 左が西坂

Dsc06369 松本神社(羽西3-10)

建久年間(1190~1199)の創建という。このあたりは尾張藩の御鷹場だった。

Dsc06374 御鷹場の境石杭(復元)

松本神社境内

Dsc06370 松本神社説明板

Dsc06378 西坂(坂下から) 松本神社の鳥居前から左(北西)に上る。《地図》(道の標示はないが道はある)

青梅、河辺方面に通ずる坂。

Dsc06380 坂途中から

坂上近くで傾斜がきつくなる。

Dsc06383 坂上から(右)

左は青梅坂(坂上近く)

Dsc06390 お宮坂(坂下から) 松本神社から右(北東)に上る宮前通り。《地図

別名の「おぼすな坂)の由来不明。

Dsc06393 坂上方向

かつては非常な急坂で、昭和の初期、キャタピラの軍用牽引車でも登れなかった。小作駅に通ずる友田からの近道。砂利運搬の馬車が空車でブレーキをきしませながら何台も通ったこともある。『羽村郷土研究』

Dsc06396 坂上から(左)

右は青梅坂(坂上方向)

Dsc06384 青梅坂(坂上近く)《地図

羽西3丁目と小作台4丁目の間を北西に上る奥多摩街道。

Dsc06414 坂途中から坂上方向

Dsc06416 坂下方向

Dsc06412 旧青梅坂(坂途中から坂下方向)《地図

Dsc06418 坂上方向

右・旧青梅坂

左・新青梅坂

Dsc06417 坂下近く

Dsc06421 旧青梅坂からの眺め

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2006年10月16日 (月)

羽村市の坂-2

2006年10月16日

羽村駅(青梅線)・・・一中通り・・・青梅街道井戸跡(旧青梅街道)・・・(新奥多摩街道)・・・護国神社・・・根岸坂・・・根岸地蔵・・・(奥多摩街道)・・・旧奥多摩街道(水上公園通り)・・・禅福寺・・・雨乞坂(安藤坂・田んぼ坂)・雨乞街道・・・間坂(沢の坂)・・・奥多摩街道・・・玉川神社・・・間坂・・・一峰院・・・吉祥寺跡・・・阿蘇神社・・・宮地街道・・・根搦坂・・・小作坂(鳩胸坂)・・・小作駅(青梅線)

 快晴で歩くとちょっと汗ばむほどの気持ちのいい日。雨乞坂・安藤坂・田んぼ坂は同じ坂で、どの名にもちゃんとした由来があります。どれがメインの名なのでしょうか。間坂と沢の坂も両方の名で呼んでいるようです。坂下あたりはまだのどかな田園風景が残り、散策にはぴったりの所です。根搦(ねがらみ)坂は木が覆い、木漏れ日が坂道に当たって美しい感じの坂です。

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Dsc06211 青梅街道の井戸跡

羽東1の交差点(一中通りと旧青梅街道の交差する所)

Dsc06210 青梅井戸説明板

Dsc06212 護国神社・羽村一中へ下る坂

新奥多摩街道から下る一中通り

Dsc06213 護国神社

Dsc06218 根岸坂(坂上から) 護国神社の前から羽東2-3と羽中3-7の間を南東からカーブして南西に下る根岸街道。坂下を進むと新奥多摩街道。《地図

古くからの地名による坂名か。

Dsc06219_1 坂途中から坂上方向

Dsc06226 根岸地蔵堂

根岸坂下の新奥多摩街道近く。

Dsc06223 説明板

Dsc06224 根岸地蔵

Dsc06225 万旲(ばんれい)塔(地蔵堂の隣)

すべての霊の供養塔。安永8年(1779)の建立

Dsc06229_1 旧奥多摩街道(左の道)と禅福寺

Dsc06231_1 禅福寺説明板

Dsc06232_1 禅福寺

臨済宗の寺。応安5年(1372)足利義満から寺領を与えられ創建されたという。山門が見つからず

Dsc06234_1 雨乞街道(禅福寺の西で旧奥多摩街道(水上公園通)が田んぼの方へ下る所)

「雨乞坂」 むかしひでりの時、この地区の人達は松の木で作った龍頭をかついで、この街道(坂)を裸で駆け下り丸山下の渕に沈めて雨乞いをした。夕方になって雨が降り出し、おかげで田んぼの稲は枯れずにすんだ。『はむらむかしむかし』より

Dsc06238_1 「田甫(たんぼ)坂」と読める?

雨乞街道の表示板の下の道脇。(田んぼ坂の坂上)《地図

Dsc06236_1 雨乞坂・田んぼ坂・安藤坂(坂上から)

「安藤坂」は、安藤紋右衛門という首切り役人の屋敷が坂のそばにあった。屋敷跡は代々たたりがあるというので今は藪になっている。『羽村郷土史研究j会ニュース』(1968.9.25 №5) 屋敷跡は今の玉川苑か?
義賊の裏宿七兵衛 安藤紋右衛門に首をはねられたともいう。裏宿七兵衛ゆかりの地は、『青梅街道⑤』に記載。

Dsc06244坂下に広がる田んぼ

「田んぼ坂」の由来。

Dsc06241_1 坂下から

Dsc06257 坂下から

右側が玉川苑

Dsc06240_1「雨乞坂」の標示

Dsc06251間坂・沢の坂(坂上から)

羽中4丁目と羽加美4丁目の間を奥多摩街道の間坂交差点から南方向に下る。《地図

Dsc06252 説明板

中世の豪族三田氏と小宮氏の領地の境で、「あいのさか」と呼び、後に「まざか」と呼び間坂集落の地名となった。坂下は白木、宮ノ下などの羽村でも古い集落。坂上の段丘は「天竺」と呼ばれる。「沢の坂」とも呼び、坂の石垣からはいつも清水が湧き、カニやイモリ、どじょうもいた。

Dsc06255 坂下から

Dsc06263 間坂下の白木の集落前

Dsc06246 玉川神社(羽中4-13の奥多摩街道沿い)

寿永年間(1182~1185年)の畠山重忠一族が信州諏訪神社から勧請したという。もとは諏訪大明神と称した。

Dsc06248 玉川神社説明板

Dsc06264 白木の民家

Dsc06272一峰(いっぽう)院(羽加美4-12)

応永31年(1424)三田雅楽之助の開基という臨済宗の寺。

Dsc06269 説明板

Dsc06276 一峰院鐘楼門

文政2年(1819)頃の建立。

Dsc06266 説明板

Dsc06278 吉祥寺跡説明板(羽加美4-6)

一峰院の末寺だった。文政2年(1819)火災で焼失。

Dsc06281 吉祥寺跡から下る坂

Dsc06292 阿蘇神社(羽加美4-6)

推古9年(601)創建で、承平3年(933)平将門が社殿を造営したと伝う。

Dsc06293 由緒

Dsc06285 阿蘇神社本殿

延宝4年(1676)の再建。

Dsc06289 本殿説明板

Dsc06287 本殿から多摩川

枝ぶりが多摩川に広がっているというシイの木を見るのを忘れた。対岸はあきる野市

Dsc06303 根搦(ねがらみ)坂(坂下から) 羽加美2-1の羽加美緑地公園と羽加美3-1の間をカーブして南に下る宮地街道。《地図

Dsc06306 説明板

「根搦」という屋号を持つ名主の山林があるための坂名。

Dsc06312 坂途中から坂下方向

昔は草木が茂り、もっと細く荷車がやっと通れる程度だった。大雨の時は石が出て牛馬が難儀した。原部落の春秋の道普請にはこの坂に大半の労力が費やされた。『羽村郷土研究』(第24・25号 1972年11月20日)

Dsc06305 坂途中から坂上方向

Dsc06317 小作(おざく)坂 羽西1丁目と小作台4丁目の間を奥多摩街道の小作坂下交差点から東に上る吉野街道。《地図

別名の鳩胸坂は、坂上近くが急で鳩の胸に似ているからという。

Dsc06320 坂途中から坂上方向

Dsc06323 坂上近くから

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2006年10月10日 (火)

出雲の坂-5「黄泉の坂」

2006年10月10日

出雲市駅(山陰本線)バス→稲佐浜・・・奉納山公園・・・出雲阿国の墓・・・出雲大社 バス→(猪目峠)(鷺峠)(鷺浦漁港)→鵜峠(うど)・猪目洞窟・黄泉の坂・・・猪目海岸・・・猪目本町・鰐渕小学校猪目分校・恵美須神社・・・鵜峠(うど)漁港・・・大宮神社・仏照寺・・・面坂(おもてざか)・面坂トンネル・・・鵜峠バス→出雲大社バス→出雲市駅

 出雲大社からちょっと離れた稲佐の浜や奉納山公園は人もまばらで静か。出雲大社は相変わらずの人間の多さと神在月の神さまたちで賑やかでした。出雲大社からバスは上り坂を大きくカーブを繰り返し、最徐行で走ります。乗客は地元のおばさん3人とおじさんと私。後から来る車を先にやり、対向車がくれば停車しての走行で運転手とおばさんたちは世間話をしています。鷺峠まで上ると下りとなって鷺浦港へ出ます。しばらくするとまた上りとなって面坂トンネルを抜け急坂を下ると鵜峠の集落に入ります。鵜峠のバス停で降りようとし、洞窟はここでいいのかと聞くと、バスの運転手は洞窟の前で降ろしてくれるとのこと。小さなトンネルを二つ抜けた猪目洞窟(黄泉の坂)の上で降りました。(バス停は猪目本町からの方が近い)

 猪目洞窟の前は小さな漁船や漁具で雑然としています。写真で見て知っているので驚きませんが、神秘的な洞窟の感じを持って来た人にはちょっとガッカリする光景でしょう。もともと漁船の船着場として整備を始め入口の堆積物を取り除いたところ、この洞窟が見つかったそうなので仕方ないでしょう。入るとすぐにしゃがんでも進めない高さになりその先は真っ暗です。入口近くに小祠が祀られています。堆積物の中から縄文・弥生・古墳時代の遺物が出土しました。

 『出雲国風土記』の出雲郡宇賀郷の条に「磯より西の方の窟戸(いわやと)、高さ広さ各六尺ばかり。窟の内に穴在り。人、入ることを得ず。深き浅きを知らず。夢にこの磯の窟の辺に至れば、必ず死ぬ。故、俗人、古より今に至まで、黄泉の坂、黄泉の穴と名づくるなり」とあります。

 『古代出雲を歩く』(前島己基編著)によれば、「猪目洞窟が黄泉の坂(穴)に比定されているのは、約13体の人骨が出土したことによる。その中の男性骨(弥生時代)は6個のゴホウラ貝の腕輪をしていた。ゴホウラ貝は、鹿児島や沖縄の海からとれる貝で、この男性は豊作、大漁を祈る呪者とも考えられ、海を舞台に生活していた人々が、死後も海と結びつくことで、安心を得ていたことを示唆するようにも思われる」とあります。またゴホウラ貝輪は北部九州では首長身分の証として使われていたことから、北部九州との交流も考えられます。

 次のバスまで2時間近くあるので、洞窟を見て猪目海岸からバスの終点の猪目本町まで歩きました。静かで人影はありません。猪目分校の前に来るとやっと生徒の声が聞こえました。引き返してトンネルを2つくぐり鵜峠漁港から面坂(おもてさか)を面坂トンネルまで上りました。

 これで今回の出雲の坂道散歩は終わりです。「黄泉比良坂」と「黄泉の坂」は神話、伝説上の坂なので歩いた坂の数には加えていません。実際にこれらの坂を通るのは、もっと坂道散歩でいろんな坂を歩いた後の最後の坂道散歩の時になるでしょう。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc06056 稲佐浜・弁天島

大国主命と高天原の使者の健御雷神(たけみかづちのかみ)が国譲りの話し合いをしたという浜。

Dsc06060_1 稲佐浜から出雲大社へ向う坂

Dsc06062_1 八大荒神社(奉納山公園内)

奉納山は出雲大社へ奉納する経文を納めた所。

Dsc06067_2 手斧神社(奉納山公園山頂)

大国主命の宮殿(出雲大社)の造営に奉仕した神を祀る。

Dsc06066_2 手斧神社説明板

Dsc06082出雲阿国塔(奉納山公園)

Dsc06077_1 国引き神話の風景

『出雲国風土記』の「国引き神話」で引いてきた杵築の御埼をつなぎ止めた杭の佐比売山(三瓶山)と引いた綱の薗の長浜がうっすら見える。(奉納山山頂から)

Dsc06068_1 「国引きの風景」説明板

Dsc06092 出雲阿国の墓

歌舞伎の創始者。出雲大社の鍛冶職中村三右衛門の娘で出雲大社の巫女だったという。

Dsc06091_1 説明板

Dsc06097 出雲大社拝殿

Dsc06101 出雲大社本殿

Dsc06098

Dsc06104 神楽殿

Dsc06106 一畑バス

出雲大社から「鵜峠」方面行き。

Dsc06203 鷺浦漁港

Dsc06120 道路下が猪目洞窟・「黄泉の坂」

写真はただのトンネル

Dsc06122_1 猪目洞窟・「黄泉の坂」 《地図

入口に説明板、その奥に小祠。

Dsc06110 猪目洞窟内

左が小祠

Dsc06109 説明板(洞窟前)

Dsc06107説明板(洞窟上の道路の脇)

説明文

Dsc06116 洞窟内から

上に道路が通っている。

Dsc06209 出土した男性人骨が着けていたゴホウラの貝輪 『古代出雲を歩く』から

Dsc06119 洞窟内から

洞窟の前は小さな漁船と荷物置場で雑然としている。

Dsc06126猪目海岸

浜は海水浴場

Dsc06131 猪目湾

Dsc06146 猪目の町並み

Dsc06148 鰐淵小学校猪目分校

生徒数3人(平成18年5月現在)。平成25年3月31日閉校した。寂しいねえ。

Dsc06147 恵美須神社?(分校隣)

Dsc06154 鵜峠漁港

Dsc06167 大宮神社

Dsc06171 仏照寺

Dsc06170 鵜峠の町並み

面坂の坂下

Dsc06174 面(おもて)坂

坂途中から

Dsc06177 面坂(坂上方向) 《地図

だんだん傾斜がきつくなる。

Dsc06187 坂上近くから

鵜峠漁港、十六島湾が見える。

Dsc06188

Dsc06180 面坂トンネル

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2006年10月 9日 (月)

出雲の坂-4「黄泉比良坂」

2006年10月9日

松江駅(山陰本線)→揖屋駅・・・揖夜神社・・・東泉寺・・・国道9号・付谷入口バス停・・・追谷坂・・・道祖神・・・黄泉比良坂碑・・・追谷坂・・・東出雲中央公園・・・付谷・・・意東川・・・意東港・・・宗泉寺・・・筑陽神社・・・長池・・・揖夜神社・・・揖屋駅

 「黄泉比良坂(よもつひらさか)」の「比良」は崖のことで、黄泉国と現世との境をなす断崖の意味。 『古事記』には、「イザナミに会いたくて黄泉の国まで追って行ったイザナギが見たのは蛆(うじ)がわいたイザナミの体。驚き逃げ帰るイザナギを黄泉国の醜女、軍勢が追い、現世と黄泉国との境の黄泉比良坂のふもとまで来た時、イザナギがそこに生っていた桃の実を投げつけると黄泉の軍勢は退散した。最後にイザナミ自身が追いかけて来た。そこでイザナギは大きな千引きの岩をその黄泉比良坂に引き据えた。その岩を挟んで夫婦離別のことばを交わした。イザナミは、「私はあなたの国の人々を一日千人絞め殺しましょう」 するとイザナギは「私は一日に千五百の産屋を建てるだろう」と答えた。それでイザナミ命を名づけて黄泉津大神といい、男神(イザナギ)に追いついたので、道敷大神(ちしきのおおがみ)と呼ぶともいう。また黄泉の坂を塞いだ岩は、道反之大神(ちがえしのおおかみ)と名づけ、また黄泉国の入口を塞いでおられる黄泉戸大神(よみどのおおかみ)ともいう。かのいわゆる黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜(いふや)坂という坂である」  『古事記』の「黄泉国」より(講談社学術文庫の次田真幸の訳を参考)

 『東出雲町の比良坂神蹟保存会』の「黄泉比良坂物語」によれば、「イザナミが黄泉の国に隠れた後をつけて(イザナギが)通った谷を、今つけ谷(付谷)といい、山坂道を追っかけ上がった坂は追谷坂(大谷坂)と呼ばれている。その峠には塞の神(道祖神)が祀ってあり、そこを越した所がヨミジ谷であって、ここに神蹟伝説の碑が建っている」

 以上からイザナギの足取りを順に考えてみると(もちろん神話と現実の世界をごちゃ混ぜにしていることは十分承知の上で) 「イザナミを追って、付谷から追谷坂を上り、ヨミジ谷へ下り黄泉比良坂を下り(上りかも知れない)黄泉国へ行った。そして黄泉国の醜女、軍隊、最後にイザナミにも追われ黄泉比良坂を駆け上り、その入口に千人引きの岩(道反之大神・黄泉戸大神)を引き据えた」 ということになるのでは。

 また、古事記は、「黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂」といっている。古事記が選録された和銅5年(712)には出雲国に伊賦夜坂という現実、現世の坂があったのだろう。天平5年(733)に完成した出雲国風土記の意宇郡のところに「伊布夜の社」がある。これは現在の東出雲町の揖夜神社のこと。イザナミ命を祀るこの社は斉明紀にも天皇崩御の予兆に関わる言屋社(いふやしゃ)として登場し、この社と死との関係の深さを表している。今の揖夜神社から地元で黄泉比良坂と呼んでいる所までは直線距離で1km位ある。伊賦夜坂は揖夜神社(伊布夜の社)にもっと近い位置にあった(ある)坂なのだろう。神社周辺に坂はあるがどれが「伊賦夜坂」なのか、「伊賦夜坂」の道筋だったのかは分からない。揖夜神社境内にも小高い所(夜見路庵の所とか稲荷社の上の所)があり、伊賦夜坂は揖夜神社境内にあった坂かも知れない。

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Dsc05924揖夜(いや)神社(東出雲町揖屋)

イザナミ(黄泉津大神)を祀る。『出雲国風土記』の「伊布夜の社」のこと。

Dsc05919 説明板

Dsc05932 夜見路(ヨミジ)庵への坂(揖夜神社境内)

「夜見路」とは「黄泉路」のこと。

Dsc05931 説明板

「国道9号線の約300m南方にある小丘が黄泉比良坂であると伝えられ、この付近には意東へ越える古路があり、その道を夜見路庵越と呼んだり、近くの谷を最近まで夜見路谷と言っていました」とある。

Dsc05934 夜見路庵

Dsc05943 東泉寺(出雲十三仏霊場第九番)

右・大師堂 左・本堂

Dsc05940 不動明王

Dsc05942 足洗大師

Dsc05941「足洗い大師」説明板

Dsc05949 「付谷入口」バス停

国道9号線

Dsc05952 バス停から少し国道9号を北に進み、右へ曲がる。

Dsc05957黄泉比良坂(伊賦夜坂)へ向う追谷坂の上り口。

Dsc05960 追谷(おいたに)坂(坂上方向)《地図

傾斜のゆるい山道の感じ。

Dsc05984 追谷坂(坂途中から坂下方向)

Dsc05975 追谷坂上の道祖神?

追谷坂を上った時は注意していたが見過ごした。坂を下ってヨミジ谷の所で、後から来た土地の女性にしっかりと位置を聞いたのでこれに間違いないはずだが。風化して崩れかけている。

Dsc05980 道祖神の本体の石か?

Dsc05961 追谷坂上からヨミジ谷へ下る坂。

Dsc05963 ヨミジ谷下の池

Dsc05966 黄泉比良坂入口

このあたりか《地図》 自信はないが。

Dsc05969「道反之大神」(ちがえしのおおかみ)・「黄泉戸大神」(よみどのおおかみ)

イザナギが黄泉比良坂を塞いだ千引きの大岩。

Dsc05970 岩の後ろ側

道の跡か見学者の踏み跡か。少し行くと途切れてしまう。

Dsc05967 説明板

「・・・・生の国と死の国の境とせり千引の大岩なり。これより西420mに道祖神あり。追谷坂と呼ぶ急坂を下れば揖屋付谷に通ず。東400mに峠あり、夜見路越えして中意東馬場に通ずる古道なり。ここの神を塞坐黄泉戸大神(さやりますよみどのおおかみ)なり」

Dsc05968 「神蹟伝説の碑」

Dsc05986 追谷坂の坂下から東出雲中央公園へ上る坂

この坂を上って、中央公園から下った所が付谷。

Dsc05999 坂上

右側が中央公園

Dsc05992 中央公園から中海

Dsc06003 中央公園から付谷へ下る坂《地図

Dsc06008付谷あたり

上は山陰道

Dsc06009 意東川

Dsc06015 意東港近くの町並み

Dsc06021 意東港

Dsc06017 意東港から

後ろの山は大山か?

Dsc06035 筑陽(ちくや)神社(東出雲町下意東)

『出雲国風土記』の「調屋の社」

Dsc06033 説明板

Dsc06036 境内の土俵

10月16日の秋祭の時に奉納相撲がある。

Dsc06042 長池

山陰本線と国道9号の間の池。

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2006年10月 8日 (日)

出雲の坂-3

2006年10月8日

出雲路・神在月ウオ-ク「海の道」 30km

松江駅・・・千鳥南公園・・・松江城・・・小泉八雲旧居・・・佐太橋(佐陀川)・・・佐太講武貝塚・・・鹿島マリーナ・・・恵曇漁港(12km)・・・神名火大橋・・・佐太神社(16.8km)・・・許曽志神社・・・古曽志公園・古墳の丘(22.7km)・・・松江ウオ-ターヴィレッジ・・・天倫寺・・・千鳥南公園・・・出世稲荷・・・売布神社・・・松江駅

今日は晴れて陽射しが強く暑いくらいでした。昨日よりピッチを上げて歩いたら写真を何箇所か撮り忘れ、ゴール地点へ早く着きすぎてしまいました。ゆっくり歩けばいいものを。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc05849 松江城

慶長16年(1611)堀尾吉晴の築城。屋根の形から千鳥城の名がある。

今日は「秋の大茶会」の日。

Dsc05850 小泉八雲旧居(城山公園の北側)

Dsc05851 佐太講武貝塚跡

Dsc05852 説明板

Dsc05854 鹿島マリーナ(鹿島町)

Dsc05857 佐陀川(神名火大橋から)

Dsc05856 恵曇(えとも)漁港

『出雲国風土記』の秋鹿郡の恵曇の郷。スサノオ命の子の磐坂日子命が、ここにいらして「ここは国が若々しく美しいところだ。地形はまるで画鞆(えとも)のようだなあ。わたしの宮はここに造ることにしよう」といった。

Dsc05860 佐太神社へ

Dsc05864 佐太神社

『出雲国風土記』の「佐太の御子の社」

Dsc058653つの大社造りの三殿が並ぶ。主祭神は佐太大神。

Dsc05866説明板

Dsc05869許曽志神社

『出雲国風土記』の「許曽志の社」

祭神は猿田毘古命(さるたひこのみこと)と天宇受売命(あめのうずめのみこと)。狛犬の他に、参道に「猿」と「鶏」が配されている。

Dsc05871 説明板

Dsc05879 古曽志古墳公園

復元「古曽志大谷1号墳」前方後円墳

Dsc05874 前方部墳頂から

Dsc05876 古墳公園から宍道湖

Dsc05883古江駅近くの池

Dsc05885 一畑電鉄松江線

Dsc05887 松江ウーターヴィレッジ

ファニー庭園美術館とイングリッシュ庭園だそうだ。

Dsc05888ーターヴィレッジの前

Dsc05893_1洗合城跡

天倫寺あたり一帯

Dsc05894_2天倫寺

臨済宗の寺

Dsc05902 鐘楼

朝鮮鐘で重要文化財。1400年頃高麗から伝来したという。

Dsc05900 不動明王

Dsc05905 千鳥南公園から宍道湖

Dsc05909 宗泉寺の地蔵さん

Dsc05848_1 出世稲荷

Dsc05847 説明板

Dsc05918売布(めふ)神社(和多見町)

『出雲国風土記』の意宇郡の「売布の社」

Dsc05917 売布神社由緒書

「売布」とは、海藻や草木の豊かに生えること。元は古代名の意宇(おう)の海(今の宍道湖)の西部湖岸に鎮座していたと考えられ、潮の流れや地形の変動に伴い遷座され、潟地が広がって白潟の地が形成されて現在地に遷座されたのが13世紀中頃と考えられる。

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2006年10月 7日 (土)

出雲の坂-2

2006年10月7日

 今日(風土記コース「熊野大社の道」 40km)と、明日(神在月コース「海の道」 30km)は「出雲路・神在月ツーデーウオーク」を歩きます。

松江駅・・・松江千鳥南公園・・・大橋川・・・多賀神社・・・矢田の渡し(6.3km地点)大橋川北岸 渡し船 → 南岸・・・出雲国分寺跡・・・天平古道・・・出雲国府跡・六所神社(10.1km地点)・・・意宇川・・・春日大橋・・・東岩坂橋・・・志多備神社(17.5km地点)・・・森脇橋(意宇川)・・・熊野大社(21.3km地点)・・・森脇橋・・・青木橋・・・岩坂陵墓参考地・・・神納峠・・・八雲立つ風土記の丘・・・出雲かんべの里・・・神魂(かもす)神社・男坂・女坂・・・はにわロード・・・八重垣神社(32km)・・・宍道湖畔・・・天神川・・・天神橋・白潟天満宮・・・寺町通り・・・松江駅

 あちこち寄り道をしながらのんびりと写真を撮りながら歩きました。途中で柿をもらったり、大蛇?に出くわしたりしました。写真を撮ろうとしたら草むらに逃げられてしまいました。やはり人間が恐いようです。午後になって雨まじりの強風も吹いたりしましたが、最後尾あたりを地図を頼りに気楽に歩きました。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc05678 千鳥南公園(宍道湖北岸の松江温泉近く。千鳥城(松江城)の南)

スタート地点

Dsc05677 雲行きが怪しい宍道湖

Dsc05681 多賀神社(朝酌町の大橋川北岸)

『出雲国風土記』の島根郡朝酌の郷の「朝酌の下社」

Dsc05680 説明板

Dsc05685 大橋川岸に鳥居がある。

Dsc05689矢田の渡(朝酌町と矢田町の間の大橋川を小さなフェリーが通う)

『出雲国風土記』の「朝酌の促戸(せと)の渡」はここより東側にあった民間の渡り場。「朝酌の渡」は公用の渡り場で、「促戸の渡」のすぐ東側にあったという。

Dsc05690 南岸(矢田町)を望む

Dsc05691 南岸から北岸(朝酌町)

今日はウオ-カー達のためにピストン輸送の特別運行。普段は一日数便。

Dsc05695 井奥地蔵尊(矢田の渡し場近く)

Dsc05698出雲国分寺跡への道

Dsc05705 国分寺跡への下り坂

Dsc05707出雲国分寺跡

Dsc05708 天平古道

国分寺跡から南に伸びる幅6m長さ486mの真直ぐな道。実際の石敷きの道は土の下。

Dsc05714出雲国府跡(大草町)

Dsc05713 説明板

Dsc05716六所神社(国庁跡の隣)

出雲国府の総社だった。

Dsc05724 意宇川(春日大橋から)

「おう・いう・ゆう」と読み方は様々だ。

Dsc05739

Dsc05748

Dsc05750 野仏

Dsc05762志多備神社(八雲村西岩坂)

スダジイの森に覆われている。

Dsc05753 志多備神社

Dsc05756 日本一のスダジイ

Dsc05755 説明板

Dsc05763 地蔵尊の小堂と柿の木(志多備神社前)

この柿を2個もらった。味がついている「味柿」だそうだ。

Dsc05765 地蔵堂

Dsc05770 野仏

Dsc05772

Dsc05773 左の下り坂がコース

Dsc05779 森脇橋(意宇川)から

Dsc05783_2 熊野大社へ

この道に大蛇が寝そべっていた。

Dsc05799 熊野大社

平安時代までの出雲国の一の宮

Dsc05792 熊野大社

Dsc05796 鑽火殿

Dsc05795 説明板

Dsc05808 岩坂陵墓参考地

古事記の比婆山の地で、イザナミ命の陵と伝える。

Dsc05807 説明板

Dsc05810 神納峠

Dsc05636 八雲立つ風土記の丘

岡田山1号墳(正面奥)

全長24mの前方後方墳・「額田部臣」銘入り太刀が出土。 

Dsc05814 神魂神社女坂

Dsc05630 神魂神社男坂

Dsc05633 神魂神社(松江市大庭町)

出雲大社より古いという。本殿は国宝。

Dsc05825 はにわロード

八重垣神社へ

Dsc05827 八重垣神社

スサノオ命が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して、奇稲田姫と新居を構えた「縁結びの神社」

Dsc06206鏡の池

奇稲田姫が鏡がわりに使ったという池。コインを紙に乗せ縁結びを占うとか。

Dsc06205 「鏡の池」説明板

Dsc05832 下り坂

総合運動公園あたりか

Dsc05833 山陰本線の跨線橋

正面は宍道湖

Dsc05835 天神橋から天神川

Dsc05843 白潟天満宮(天神町)

Dsc05840 由緒

Dsc05837 おかげ天神

Dsc05836 由緒

Dsc05844 寺町の通り

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2006年10月 6日 (金)

出雲の坂(島根県)-1

2006年10月6日

松江駅(山陰本線)・・・松江大橋(大橋川)・・・県立博物館・・・県立図書館・・・月照寺橋(四十間堀川)・・・舎人(とねり)坂・・・月照寺・・・千鳥南公園(松江湖畔公園)・・・宍道湖大橋・・・松江駅

 「黄泉比良坂(よもつひらさか)」古事記)と、「黄泉(よみ)の坂」(出雲国風土記)を訪ねるため出雲へ来ました。今日は雨の中、松江市内を歩きました。

 写真をクリックすると拡大します。

Dsc05671 月照寺橋から

四十間堀川を北行するカヌー

Dsc05642 舎人坂(坂途中から) 黒田町の「とねり住宅」の南側を北西に上る。傾斜は緩やか。《地図

法吉郷長の舘のあったところで、これに仕える舎人からきた坂名。なお一説には松江藩の家老大野舎人の下屋敷があったからともいう。『松江の町名・地名』 『出雲国風土記』の島根郡に、「法吉の郷。神魂命の御子、宇武賀比売が法吉鳥(ほほきどり・鶯のこと)になって飛んで来て、ここに鎮座なさった。だから法吉(ほほき)という」とある。現在も黒田町の北に法吉(ほっき)町があり、「うぐいす台団地」「老人ホーム うぐいす苑」もある。

Dsc05644 坂の途中

Dsc05650 白岸池(坂の途中)

Dsc05648 坂上から下り坂になる。

下校途中の小学生の女の子がしゃがみ込んで遊んでいる。

Dsc05670月照寺(松江市外中原町)

歴代の松江藩主の菩提寺・墓所。出雲国神仏霊場第5番札所。

Dsc05668 本堂への道

Dsc05667 書院 高真殿(茶席)

Dsc05654 初代松平直政の墓所の門

徳川家康の孫

Dsc05652 説明板

Dsc05662松江城を望む。

七代不昧公の墓所から

Dsc05665 寿蔵碑(六代墓所内)

小泉八雲の随筆に出てくる「月照寺の大亀」 

頭を撫でると長生きするそうだ。拝観券売場のおばさんに必ず撫でるように勧められた。

Dsc05663 「寿蔵碑」説明板

Dsc05673 四十間堀川から筋違橋(京橋川)を望む。

Dsc05674 千鳥南公園から宍道湖大橋

Dsc05676 地蔵さん(右)・不動明王(左)・?(中)

魚町の南西端(白潟公園の前)

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2006年10月 1日 (日)

羽村市の坂-1

2006年10月1日

羽村駅(青梅線)・・・五ノ神社・まいまいず井戸・・・公民館通り・・・羽村図書館・天王坂・・・公民館通り・・・水木公園・稲荷松坂・・・川崎街道・・・神明社・・・宗禅寺(薬師堂)・・・川崎地下歩道(奥多摩街道)・・・堂坂・堂橋・・・玉川上水・・・川崎の渡し・・・第二水門・・・玉川水神社・羽村陣屋跡・・・寺坂・禅林寺・・・山根坂・稲荷神社・・・中里介山墓・・・禅林寺石段・・・奥多摩街道・・・遠江坂下・・・遠江(とうとうみ)坂・・・牛坂・・・羽村駅

 羽村市には、崖線が6つ(五の神・小作・美原・羽村・川崎・根搦(ねがらみ)走っています。天王坂、稲荷松坂は、青梅線の東側の五の神崖線の坂です。ちなみに、堂坂、寺坂、山根坂、遠江坂は羽村崖線です。牛坂は川崎崖線でしょうか。公民館通りが五の神崖下で水木公園が長く道沿い伸びています。稲荷松坂は川崎街道で、坂下を行くと神明社の境内に坂名の由来となった稲荷社が移されてあります。小さな堂ですが、中にお使いのお狐さんの置物があり、お参りしている老婦人にも聞きましたので間違いないでしょう。

 川崎街道をさらに南下し、青梅線を越えると新奥多摩街道沿いに宗禅寺があり、境内に昔、堂坂にあった薬師堂があります。昨日が薬師さまの大祭で、後片付けの最中でした。川崎街道に戻り、奥多摩街道を川崎地下歩道でくぐると、堂坂に出ます。以前は堂坂と奥多摩街道は直交し、堂坂ももっと急坂だったそうです。玉川上水の堂橋を渡り多摩川の岸辺に出ると、ここは「川崎の渡し」があったところです。多摩川の堤はウオ-カーたちが行き交っていました。上流の第二水門では、多摩川からの水が勢いよく玉川上水に流れ込んでいました。

 奥多摩街道に上がり、玉川水神社・羽村陣屋跡から寺坂への道に入りました。禅林寺あたりからカーブしながら両側の木々の間を上る美しい坂です。坂の途中から細く、風情のある山根坂が北に上っています。

 山根坂の東側、寺坂の坂上近くに稲荷神社があり、このあたりに遠江守大石氏の館があったらしいです。舘の脇を鎌倉街道が通り、南方向に羽村崖線上を通り、遠江坂で崖を下ったと思われます。今は、禅林寺と中里介山の墓のある禅林寺の墓地の間を通る道かと思いますが、この道は羽村東小学校の所で行き止まって途絶えます。昔はここの崖を下り、牛坂からの道と合流して多摩川の方へ向っていたのだと考えました。昭和初期の羽村の地図には、寺坂上から南下する鎌倉街道が牛坂の坂下と合流した地点の南に遠江坂と書かれています。昔は急な崖を下るあたりからを遠江坂と呼んでいたのではないでしょうか。すると、今は遠江坂は坂下の一部だけが残っていることになります。羽村東小学校の隣の住宅に、「この遠江坂を守ろう 区画整理反対」の看板が掲げてありました。今でも地元では、ここから奥多摩街道まで下る坂を遠江坂と呼んでいるようです。今の遠江坂の坂上を進むと、牛坂通りとなり新奥多摩街道を越え羽村駅近くに出ます。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc05315 五ノ神社(羽村駅前の五ノ神1丁目)

元は熊野社といった。推古9年(601)の創建と伝えられる。

Dsc05308_1 説明板

Dsc05313 まいまいず井戸(五ノ神社境内)

「まいまいず」は、かたつむりのこと。元は熊野井戸といった。鎌倉時代に造られたと推定され、昭和35年まで使用されていた。(説明板)

Dsc05318 かたつむり(まいまいず)状に2周ほど下りて行くと下に井戸がある。

Dsc05312 説明板

Dsc05311 古い説明板

「熊野井戸」が出てくる。

Dsc05326 天王坂 緑ヶ丘2-1と2-11の間を公民館通りから北東に上る。《地図

坂下(羽東)の天王台遺跡にちなんで新しくつけられた坂名か。坂下の羽村図書館(写真右)には、羽村出身の大長編小説「大菩薩峠」の著者の中里介山のコーナーがあり、介山に関する著書が豊富だ。

Dsc05324 「天王坂パレス」

天王坂の坂上

Dsc05325 坂上から

Dsc05522 水木公園(神明台2丁目)

五の神崖線沿いの公園

Dsc05520 稲荷松坂(坂下から) 神明台2-1と2-6の間を水木公園交差点から北東に上る。《地図

坂の脇に稲荷社があった。現在は神明社に同居。坂下一帯に松が植栽されていたようだ。『東京の坂風情』

Dsc05523 坂上から

Dsc05519 神明社(神明台1-16)

稲荷松坂の坂下を進んだ川崎街道沿い。

Dsc05517 稲荷松坂にあった稲荷社(神明社境内)

Dsc05530 宗禅寺(川崎2-8)

Dsc05527 薬師堂(宗禅寺境内)

かつて堂坂と奥多摩街道の交差するあたりにあった。昭和28年当地に移される。

Dsc05525 薬師堂説明板

Dsc05526 薬師観音

Dsc05529 昨日が大祭だった。

Dsc05531 旧家

堂坂への途中

Dsc05542 「堂坂」説明板

Dsc05539 堂坂(坂上から) 川崎4丁目の奥多摩街道の堂坂上バス停からカーブして玉川上水、多摩川の方へ下る。以前は奥多摩街道と直交し、もっと急な坂だった。《地図

坂途中の薬師堂は現在、宗禅寺境内に移っている。

Dsc05540 堂橋(玉川上水)から坂下方向

堂坂下を行くと多摩川の「川崎の渡し」があった。

Dsc05543 坂途中から

かつては、坂下に井戸があった。戦時中、東京からの疎開の学童がよく利用していた。昭和17年頃には、今の地下道(川崎地下歩道)の二つの降り口の間あたりに薬師堂があった。『羽村郷土研究 第22号』(1972年4月31日)

Dsc05544 玉川上水(堂橋から)

Dsc05551 川崎の渡し跡

遠江坂を下った鎌倉街道も、堂坂からの道もこの辺りから対岸へ渡った。対岸には今も渡し場の石積み跡と、馬頭観音がある。(渡しの説明板)

Dsc05553 玉川兄弟の像(第二水門近く)

玉川上水の開削の功労者

Dsc05560 玉川上水第二水門

多摩川からの水が勢いよく流れこんでいる。

Dsc05563 玉川水神社(羽東3-8、第一水門そばの奥多摩街道沿い)

承応2年(1653)玉川上水完成後に水神宮として建立された。

Dsc05565 羽村陣屋跡(玉川水神社隣)

玉川上水管理のために置かれた。

Dsc05564羽村陣屋跡説明板

Dsc05576 寺坂(坂下から) 羽東3-16の禅林寺と3-12の間をカーブして東から北東に上る。《地図

Dsc05573 「寺坂下」バス停

最初は「本町」という名称だったが、立川バスに頼んで変えてもらった。『羽村郷土研究第3号』(1972年7月20日)

Dsc05590 坂途中から坂下方向

Dsc05591 坂上近くから

かつては坂上に井戸があった。馬の水飲み場だったともいう。大正の頃、多摩川の砂利を運ぶ荷馬車が20台位、ピストン輸送で馬方が一声高く手綱の端の鞭で叱咤しながら坂を追い上げた。『羽村郷土研究 第23号』

Dsc05575 禅林寺

臨済宗の寺、「豊饒の碑」(天明義挙記念碑・天明の大飢饉の時、富商に対して決起した義民の顕彰碑)がある。

Dsc05605_1 説明板

Dsc05579 山根坂 羽東3-13と3-15の間を北に上る。

坂上一帯(羽東1~2丁目)は縄文中期の住居址の山根坂上遺跡。《地図

Dsc05581 坂途中から

Dsc05580_1 坂上から

Dsc05584 稲荷神社(羽東3-14)

東ケ谷戸(ひがしがいと)の鎮守。元は禅林寺の西南にあった。このあたりに遠江守大石氏の館があったという説あり。

東ケ谷戸には急坂が多いので苦労するから嫁に行くななどと言われたという。『羽村郷土研究 第23号』(1972年7月20日)

Dsc05585 説明板

Dsc05598 中里介山

当地出身の未完の大長編小説『大菩薩峠』の作家。

Dsc05597説明板

Dsc05601 禅林寺と禅林寺墓地の間の鎌倉街道跡?《地図

遠江守大石氏の館(稲荷神社付近という説がある)跡から続き、遠江坂で崖を下って牛坂の道と合流し、多摩川堤に下っていたのか? 今は羽村東小学校(写真奥)の所で行き止まり。

Dsc05613 「遠江坂」の看板(羽東2-18)

遠江守大石氏の館から続く鎌倉街道で、現在禅林寺墓地の先の羽村東小学校あたりから羽村崖線を下る道を遠江坂と呼んでいたのか?そうならばこの看板のあるところは、昔の遠江坂の坂下近くということになる。

Dsc05616遠江坂(今の坂上から) 川崎4-6と羽東2-18の間を南西に下る。《地図》

崖を下ってここに続いていたのだろう。

Dsc05610 坂途中から坂下方向

昔は、曲がらずに真直ぐ南下して多摩川の方へ下っていたのだろう。

Dsc05606_1今の坂下から

Dsc05624 「牛坂」説明板

Dsc05618 牛坂(坂下から) 川崎1-9と羽東1-11の間を北東に上る牛坂通り。《地図

江戸中期の「まいまいず井戸」の改修の際に石などを積んだ牛がこの坂を通ったという。今は傾斜はゆるく、牛(泣)坂でなく牛(笑)坂だろうか。

Dsc05622_1 坂上から

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