海老名市の坂-4
2006年11月14日
海老名駅 バス→城山・・・釜坂橋・・・上の坂・・・お塔坂・豊受神社・・・内宮坂・・・山王坂(恩馬さんの坂)・・・七エム坂・・・地蔵坂・椿地蔵・・・千躰寺墓地・・・赤坂・・・とうやぎの坂・・・なんじゃもんじゃ(有馬のハルニレ)・驢庵(ろあん)屋敷跡・・・驢庵坂・・・阿妻山本覚寺・・・吾妻坂(泣き分かれ坂)・貴日土(きびつ)神社・・・吉祥寺・・・えいぞうの坂・・・稲荷坂・稲荷の小祠・へっぴり坂跡・・・本郷神社・(大山街道柏尾道)・・延命寺子育地蔵・・・居合坂・・・大堀の坂・・・門沢橋駅(相模線)
地蔵坂は椿地蔵と椿の哀れな伝承のある坂で、驢庵坂の由来となった医者の半井驢庵や千躰寺墓地ともゆかりのある話です。とうやぎの坂は綾瀬市との境の吉岡海老名線の長い坂で、歩道がついてなく大型車の通行が多く爆風にあおられて疲れました。坂下を南に行くと「なんじゃもんじゃ」の大木があります。ここが半井驢庵の屋敷があった所です。驢庵坂は細く傾斜はゆるい未舗装の坂で今はあまり通られていないようです。坂下の小川の先を掘り返していました。いずれこの道もなくなってしまうのでは。
えいぞうの坂の途中には可愛い双体道祖神が立っています。女神は恥ずかしげに少し身体を傾けているようです。稲荷坂は坂上から途中までは普通の道ですが、その先は民家の裏の雑草の生えた場所になってしまっています。そこに小さな稲荷の祠が祀られているというより、置いてあるだけといった感じです。稲荷の祠の脇を東へ上る「へっぴり坂」は、雑木や倒木などで完全に覆われてしまっています。民家の裏沿いに私有地みたいな稲荷坂を下ると車道に出ます。ここに三面大黒碑と庚申塔が草むらの陰に隠れるように立っていました。
本郷神社を過ぎ、寒川町との境の大堀の坂へ向いましたが、なぜか居合坂への道を進んでしまいました。坂標に居合坂とあるのに、頭の中ではここが大堀の坂と考えていたようでした。(坂の途中にあるはずの子育地蔵がなく、おかしいとは思いましたが疲れてきて頭の回転が鈍くなっていたようです。まあ普段から回転はよくないが) そして地図を見ながら大堀の坂から次の居合坂に行くつもりで随分迷って大回りをして歩いていたら、どこか見たような所へ出てしまいました。気がついたらまた居合坂の坂下に戻っていました。この間、30~40分のロスタイムでがっかりしましたが、気を取り直し日もかなり西に傾く中を大堀の坂へ向いました。大堀の坂にはちゃんと子育地蔵が立っていました。
【地図】写真をクリックすると拡大します。
上(かみ)の坂 杉久保の釜坂橋の南から南東に上る。坂上は豊受神社近く。《地図》
比較的人家の密集している小字宮前・天王町・中土谷などの北方(上)に位置することによる。『海老名の坂』
お塔坂 豊受神社の北側に沿って南東に上る。右が豊受神社。《地図》
坂の北側の梅林の所がかつて遠馬山上宮寺で、三重の塔がそびえていたという。『海老名の坂』
右側は梅林
豊受神社(杉久保1488)
通称は外宮様、食物・産業の守護神。
えびなむかしばなし『豊受神社のショウガ市』
内宮坂 豊受神社の南側に沿って東に上る。《地図》
伊勢神宮にちなみ内宮がこの坂寄りに別社として祭られているところから。『海老名の坂』
山王坂の由来の社
山王坂の別名の「恩馬さんの坂」の屋敷。
山王坂 豊受神社の正面の恩馬家の前を西南に下る。《地図》
かつて坂上の左側に山王社があった。(現在は豊受神社の境内に移転) 山王町、山王山とも呼んでいた。別名の「恩馬さんの坂」は坂上に外宮豊受神社の神官の恩馬家の屋敷があることによる。『海老名の坂』
七エム坂 山王坂の坂下の杉久保座間線を南に進み南東に上る。《地図》
坂下に小宮七右衛門という人の家があり、それがいつしか転訛した。『海老名の坂』
地蔵坂(坂下方向) 杉久保の椿地蔵バス停あたりから南西に下る。《地図》
坂上に椿地蔵がある。
元禄の始め、母と娘の旅の親子が将軍家の御殿医で、本郷のなんじゃもんじゃの地に下屋敷を構えていた半井驢庵(なからいろあん)を訪ねる道すがら、この坂上近くの千体寺の門前にさしかかった時、急に娘が苦しみ出し、介護の甲斐もなく死んでしまった。亡がらは千躰寺に運ばれ手厚く葬られた。村の人々は、元禄5年(1692)2月、供養のため高さ79cmほどの石の地蔵を建てた。そして、手向けた椿の一枝が根付いたが、その椿もあえなく死んだ乙女を悼んでか、毎年つぼみを持つが、ほのかに紅のくちびるをほころばせるとぽろりと落ちてしまうのだった。それで誰言うとなく椿地蔵とよぶようになった。『海老名の坂』
右に小さな地蔵は何か?
つばきはつぼみのまま落ちてしまうので「玉椿」と呼ばれている。市の天然記念物。
寺は廃寺となって墓石は数少ない。
赤坂 藤沢厚木線の杉久保2702の交差点から北東に上る。《地図》
関東ローム層を切通した赤土の坂道。
とうやぎの坂 杉久保のキャノン工場のあたりから北に上る吉岡海老名線。《地図》
「とお」は地名学上、「峠」と解されるが「やぎ」の意味が不明な難解な坂名。『海老名の坂』
「なんじゃもんじゃ」(有馬のハルニレ) とうやぎの坂下近く。
樹種が分からず「なんじゃもんじゃ」と呼んで親しまれてきた。
驢庵(ろあん)坂 「なんじゃもんじゃ」から西へ杉久保と本郷の間を西に下る。《地図》
幕府お抱えの医者、半井驢庵が寛永元年(1624)徳川家光から、ここ本郷村に1千石を賜り、この地に下屋敷を設けた。この屋敷沿いの坂だったことによる坂名。
えびなむかしばなし『名医に診察してもらった狐』
かつては東は中原街道、西は社家の渡しに通ずる大山道であった。『海老名の坂』
吾妻坂 本郷の有馬小学校と貴日土神社の間を北東に上る。《地図》
この坂から阿妻山本覚寺の本尊の大日如来像が掘り出されたという。別名の「泣き別れ坂」は、江戸時代、東方の代官屋敷の仮牢に入れられる罪人が家族と、また貧困のため奉公に出される幼い子と母親が、泣きの涙でこの坂で別れを惜しんだことによる。『海老名の坂』
えびなむかしばなし「わかれ坂の地蔵」
貴日土(きびつ)神社(吾妻坂の西側)
えいぞうの坂 吉祥寺から南に行き南東に上る。中河内と本郷の境。《地図》
根村家の三代前の栄蔵という人の名から。『海老名の坂』
ほんわかムードが漂っている。
稲荷坂(坂下方向) えいぞうの坂下から南へ300m位の所から北東に上る。
坂の途中に稲荷社の祠がある。《地図》(道筋の標示はない)
廃道に近い
ここから北に上るのが「へっぴり坂」だったが痕跡すらない。
「へっぴり」は農作業の荷を背負ってこの坂にさしかかると、その重みでよく放屁をしたためだろう。身体をかがめて後ろに尻をつき出した腰つきで上ったからだともいう。『海老名の坂』
子を抱いている。
居合坂 本郷の公民館の前あたりから北西に下る柏尾通り大山道。坂下は居合橋。《地図》
小名の居合による坂名。居合は、「入会地」の転訛したもの。居は井と同じで、泉・用水・井堰を表し、水流や川の合流点を示すとする説などがある。『海老名の坂』 坂下の居合橋の所は原川と幹線用水路の合流点なので後者の説の方が適当か。
大堀の坂 本郷と寒川町の境を幹線用水路から北東に上る。《地図》
かつて豪雨のときは上方からの雨水が川となって押し流れ、坂は一変して排水路になってしまったという。これが大堀の坂と呼ばれる由縁らしい。『海老名の坂』
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