町田市の坂-3
淵野辺駅(横浜線)・・・やまねの坂(相模原市)・・・第六天坂(相模原市)・・・根岸橋(境川)・・・馬駈(まがけ)交差点・・・芝溝街道・・・大橋坂・・・図師大橋(鶴見川)・・・宮川橋(鶴見川)・・・鎌田坂・・・圓福寺・・・並木交差点・・・小野路一里塚・・・大山道(旧道)・向坂・・・向坂(新道)・・・小野神社・・・小野路宿・・・岩子山千手院・・・井の花・・・赤坂・・・鶴川駅(小田急線)
芝溝街道の馬駈交差点あたりから図師大橋にゆるやかに下るのが大橋坂で、旧道が坂下近くに一部残っています。図師の交差点から南に宮川橋を渡ったあたりから上るのが鎌田坂で、坂下には縁切不動と道標(左かまくら右大山)があるはずですが両方とも見当たらず拍子抜けでガッカリ。
図師の交差点へ戻り圓福寺に寄り、並木交差点から北へ長い坂を上りました。1km近くはあるでしょうか。坂上から下り始めて、野津田総合運動場場に向う道に入るとすぐに小野路一里塚が旧大山道(鎌倉街道上の道)沿いに復元されています。
一里塚から旧大山道を北に下るのが向坂で、左側(西)に平行して新道が下って小野神社、小野路宿へ出ます。小野路宿の通りは今日は車が渋滞していて歩道もなく、危なくて歩けるような道ではありません。通りの家並は宿の面影を残しているようですが、ゆっくり散策したり写真を撮ったりする気分にはなりません。
東にどんどん進み、鎌倉街道の井の花交差点あたりから旧道に入り、鶴川団地の方へ上るのが赤坂です。坂下から見上げると先が真っ暗で、両側から木が被さり切通しの赤土の崖から木の根が露出している間を上る気分のいい坂です。坂下の旧道の民家の一画には何対もの石造物が立っています。二十六夜塔、地神塔、巡礼供養塔などらしいのですが磨耗していてどれがどれか判然としません。というより判別する目が肥えていないせいでしょう。
*やまねの坂、第六天坂は「相模原市の坂-8」(2006年12月14日)に記載。
写真をクリックすると拡大します。
大橋坂(坂下方向) 図師町の図師大橋(鶴見川)から南西に上る芝溝街道。《地図》
関東大震災の時、図師大橋の図師よりの片方が橋桁ごと川に落ちた。根岸方面から大八車に家財を積み坂(旧道)を下って来た一家が立往生して途方に暮れていた。それを見て橋の向こう側の「魚徳」の家中の人たちが荷物を背負って川を無事渡らせてくれた。助けられた人は片桐さんといい、その後横浜で貿易商として成功し、ご恩返しにと魚徳さんの次男五郎さんを引取り画学校に通よわせた。五郎さんは看板屋を手はじめに、塗装工芸社を興し成功した。『町田の民話と伝承(第二集』
新道の坂下近くから右に入り図師大橋のところで新道に合流する。
図師大橋から坂上方向
目と口を少し開いたユニークな顔の地蔵さん。
鎌田坂(新道) 図師交差点の南の宮川橋から南東に上る。《地図》
坂名の由来不明。このあたりの字名なのか?
右に入って上る坂。左は新道。坂下にあるという縁切不動も道標も見当たらず。「縁切不動」は、ここを男女が仲睦まじく通りかかると、不動さまの怒りに触れ、仲を引き裂かれたという。『町田の民話と伝承(第二集』 また、『町田の民話と伝承(第一集』には、坂に面した2軒の家の娘と下男が恋仲になり駆け落ちをしたが連れ戻された。娘との仲を引き裂かれた男は不動さまの前で首を吊ってしまった。以来、この地区では縁談や婚礼の時は特に不縁になる、不吉だというので、この坂の往来をさける風習になったと伝えている。
旧道の坂上方向
正面の建物から右に大山道が分岐する。縁切不動と道標は坂下ではなくこの分岐点にある(あった)のか?
宮前様からコメントをいただきました(下欄)。縁切不動は鎌田坂の坂上近くの簗田寺に移されているそうです。(2011年6月24日)
坂上を行くと新道に合流する。
見ればただちに失明するという秘仏の「あかずの不動」があるそうだ。元和年間(1615~1623)の創建という。住職さえ見たことがないという秘仏は本当にあるのか疑わしい。誰にも見せず、見たことがない物なんて存在価値がないに等しいのでは。
「動物注意の標識」
「小野路一里塚」、「旧大山みち」の記載がある。
小野路一里塚(復元) 野津田総合運動場近くの旧大山道(鎌倉街道上の道)沿い。
久能山に埋葬された徳川家康の遺骸を日光に移す際にここを通った。この時に木曾や小野路に一里塚を築いたものと思われる。『町田の歴史をたどる』
向坂(旧大山道) 小野路一里塚から北に下る大山道。《地図》
家康の柩の車の軸がこの坂を下る時に折れ大変難儀した。この時、乞田村(多摩市)の鍛冶屋を呼び、至急に鉄の棒を修理したため一行は無事に府中へ着くことができた。これらの労働にむくいるため、幕府は小野路村、木曾村など、この時に難儀をかけた村々にたいして、東海道や甲州街道からの助郷にたいしては永久に免除するという特命を出した。『町田の歴史をたどる』
坂下左側が小野神社。
小野篁(たかむら)の七代の孫の孝泰が武蔵国の国司として天禄年間(972)頃赴任し、小野路のこの地に篁の霊を祀ったことに由来すると伝える神社。
琵琶湖西沿いの「西近江路」の小野地区に小野篁神社がある。
岩子山千手院(小野路町の岩子山交差点(鎌倉街道)のところ)
関東八十八カ所霊場の第六十四番霊場。
赤坂 鶴川3-1と3-8の間を南方向に下る。《地図》
両側に赤土のむき出した切通しの坂で坂下から見ると途中は真っ暗だ。
二十六夜塔・地神塔・巡礼供養塔・庚申塔・地蔵尊らしい。
左側に稲荷の小社。
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コメント
はじめまして。鎌田坂の坂上近くの簗田寺でしたか。縁切不動の所在が分かり、今もちゃんと祀られていることを知って安心しました。今後もよろしくお願いいたします。
投稿: 宮前様へ(坂道散歩から) | 2011年6月24日 (金) 16:46
はじめまして。
ホームページ「坂道散歩」の「町田市の坂」を見させていただきました。
大変勉強なり、助かっております。
さて、私なりに知りえたことをお伝えします。
「鎌田坂にあった縁切り不動」ですが、このお不動様はその後、町田市忠生2丁目にあります「梁田寺(りょうでんじ)」に移されたとのことです。先日、たまたま梁田寺に参りましたら、「鎌田坂にあった縁切り不動」に出会えた次第です。「梁田寺」の駐車場に移されてありました。
それでは、またご縁がありましたら、よろしくお願い申し上げます。
投稿: 宮前 新一郎 | 2011年6月24日 (金) 07:49