相模原市の坂-8
2006年12月14日
淵野辺駅(横浜線)・・・やまねの坂・・・山王日枝神社・・・第六天坂・第六天の祠・・・八王子千人同心旧家・・・皇武神社・・・おおざか・・・縁切榎(淵辺義博の伝承)・・・龍像寺・・・龍像寺坂・・・境橋(境川)・・・かわじま坂・・・鹿嶋神社・・・大日堂・・・しも坂・・・うとう坂・・・古淵駅(横浜線)
やまねの坂、第六天坂は今はゆるやかで、「山のふもと」という感じはしません。縁切榎は中山道板橋宿のが有名ですが、ここの縁切榎には淵辺義博の伝承があります。義博は足利直義の命で護良親王を殺害し、その後討死します。実は護良親王を殺さずに奥州石巻まで送ったというものです。義経が大陸に渡ってチンギス汗になったり、真田幸村が落ち延びて薩摩へ行ったり、西郷隆盛もロシアに生き延びたといった日本人の判官びいきのなせる技なのでしょうか。
龍像寺にも淵辺義博の龍退治によって建てられた寺という伝承があります。かわじま坂は坂全体が舗装工事で重機の作業中。このあたりが島のような地形だったのだろうかとゆっくり見たり、考える余裕もありませんでした。大日堂は井出の沢の合戦(建武2年・1335年)(この合戦中に淵辺義博は護良親王を殺害した)の古戦場だったと伝えられ、うとう坂ともゆかりのあるお堂です。
【地図】写真をクリックすると拡大します。
やまねの坂 淵野辺本町2丁目の山王公園の南側に沿って西に上る。《地図》
「山の根=麓(ふもと)の坂」という意味だったのでしょうか。第六天坂からやまねの坂までつづく道を「久保沢道」といい、第六天坂から分かれて上溝方面につづく道を溝(芝)街道といいます。別名の山王坂はこのあたりの字「山王平」からで、これは坂上近くの山王日枝神社に由来します。『さがみはらの地名』
山王日枝神社(境川の宮前橋の近く)
やまね坂の別名の山王坂の由来となった神社だが、坂上からはかなり離れている。
安置されているというより片付けられて一緒にまとめられているといった様子。
第六天坂 淵野辺本町3-34と3-35の間を北西に上る。《地図》
坂の途中に淵辺義博の屋敷の北端にあったという「第六天社」がある。『さがみはらの地名』
右から庚申供養塔(宝暦8年(1758))・道祖神(文政?年)・道祖神・秋葉大権現(文化5年(1808))・不明(天保6年(1835))
八王子千人同心は上級農民で結成され、甲州口や日光東照宮の警備にあたった。『千人同心日光道』もある。
皇武神社(淵野辺本町4-20)
おおざか 東淵野辺1丁目の東小入口交差点から北東に下り、東方向に入り中里橋の方へ下る。《地図》
古くから当麻山へ向う主要な大きな坂だった。
正面の細い道
何代目かの榎なのか。
淵辺義博は淵野辺村の地頭だった。建武2年(1335)足利直義(足利尊氏の弟)の命で護良親王(後醍醐天皇の皇子)を殺害したという。その後、駿河国手越河原の戦いで討死した。
*参考:『相模原の歴史シリーズ』
淵辺義博は護良親王を殺さず、龍像寺の裏山の穴に隠し、この榎の下で妻子に縁を切り、別れ橋(中里橋)の上で別れを告げ、親王と奥州石巻へ落ち延びた。
龍像寺(東淵野辺3丁目)
淵辺義博が境川の「龍池」という淵に住んで人々を苦しめていた龍を退治した。龍の体はバラバラとなり四方へ飛び散った。頭が落ちたところに龍頭寺、胴体が落ちたところに龍胴寺、尾が落ちたところに龍尾寺を建て、龍の供養とした。このうち現存しているのが龍像寺(龍胴寺)といわれている。『さがみはらの地名』
ゆるやかに上り龍像寺坂へ
龍像寺坂 東淵野辺3丁目と町田市の境の境橋から南西から南方向に上る。《地図》
右の道が龍像寺へ
磯部街道は「大山道」「同者道」「木曾道」とも呼ばれた。
龍像寺坂の坂下
かわじま坂 古淵1-29と1-32の間を南東に上る。《地図》
このあたりは昔、島のような地形だった。【坂標】
全面道路工事中でこの上は工事車両で塞がれていた。
鹿嶋神社(古淵1-34)
新田義貞が鎌倉攻めの時に建立したという言い伝えがある。南北朝時代に当地の地頭だった渡辺義博の子義喬が創建したともいう。
もとは南側の崖下(うとう坂(お堂坂)の坂下)にあった。
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正面に坂標
しも坂(坂上方向) 古淵1丁目と町田市の境近くの境橋西交差点から曲がりながら南方向に上る。《地図》
坂の周辺を「しも」という。『さがみはらの地名』
うとう坂(坂下から) しも坂の坂下近くから南西方向に上る。《地図》
もとは「お堂坂」で、大日堂が江戸時代までは坂のすぐ下にあったからという。ところが元禄5年(1692)の検地帳には「うとう坂」の名が見え、「うとう坂」の名も浸透していたことが認められる。坂の両側が切り立ち、その上に樹木が覆いかぶさり、空洞状になっている。このような状態を「うつろ」「うろ」などといい、これが転訛したものだと考えられています。『さがみはらの地名』
この説明は、「うとう」は烏頭であって、「善知烏(うとう)」のくちばしに似たような地形、坂下に川や橋があり(またはかつて坂下に川があった)、その坂が岡の終わりで、平地へ突き出ているところをいう。『江戸の坂 東京の坂』(横関英一著)には全く触れていない。今も坂下近くに境川が流れ、境橋も架かっているのだが。昔はしも坂を横切り境川近くまで下っていたのでは?
*「うとう坂」については、「白河市の坂」の善知鳥坂を参照。
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