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2007年1月27日 (土)

横須賀市の坂-5

2007年1月27日

追浜駅(京浜急行線)・・・国道16号・・・(浦郷トンネル)・・・がらめき(浦賀道)・・・(京急田浦駅)・・・板取公園の坂・板取公園・・・池の谷戸公園・赤坂・・・盛福寺・・・(水道みち・京急線)・・・国道16号・(横須賀線)・静円寺・・・御嶽稲荷神社・・・梅林の坂・大六天社・田浦梅林・展望台・・・(京急線)・・・長善寺・・・田(おった)坂・浦賀道道標(坂上)・・・のの字橋の坂・・・田浦駅(横須賀線)

 浦郷トンネルの手前から細い急な石段坂を汗をかきながら上りました。ちょうどトンネルの上あたりが浦賀道の「がらめき」と呼ばれたところです。切通しの手前の鷹取方面への水道管が通っている道を途中まで行ってみました。切通しを過ぎて真っ直ぐ進むと道は途切れてしまうようです。切通しまで戻り、どうしたものか、誰か通行する人はいないものかと思っていたら、道に矢印で田浦の方向を示してあるのに気がつきました。切通しを抜けすぐ右に細い石段が国道16号まで下っていました。

 国道16号の京急田浦駅を過ぎたあたりで京急線をくぐり、板取公園の坂を上り、公園を過ぎると池の谷戸公園に出ました。ここからの海の眺めがいいというので期待していましたが、ちょっと期待はずれ。このあたりは新興住宅街に造成されたようで、公園沿いの赤坂にも昔の面影は全くありません。赤坂の坂上近くから盛福寺へ墓地を下りました。門前から右へ行くとトンネル、左へ行って京急線をくぐり、国道16号に出て、横須賀線のガードを抜けた所に静円寺があります。すぐ先の田浦小学校方面への道へ入り、御嶽稲荷神社を過ぎ、京急線のガードをくぐり、すぐ南に田浦梅林への坂へ入りました。旧道の大六天社のあたりが梅林発祥の地です。梅の見ごろは2月中頃とか、人もまばらで静かでした。それでも少し花を開いているのを2、3本見つけました。梅林上の展望台からの海の眺めは素晴らしいです。展望台からさらに畠山や大楠山方面へハイキングコースが続いています。なんだかいい雰囲気の道なのでこのまま歩いて行きたいような気分になりました。

 梅林まで下って、今度は梅林の東側の入口の方へ下り、京急線をくぐり長善寺へ寄りました。寺の南側から太田坂が上っています。途中からつづら折の急な石段坂になります。途中の道六神の下の崖から湧水が出ていて道路補修中の作業員のやかんが水が流れ出る竹の筒先にぶら下げてありました。この坂は浦賀道で坂上に案内の道標が立っています。坂上を右へ行くと浦賀道最大の難所だった十三峠へ上り、三浦按針の墓のある塚山公園へと続きます。左へ下って、のの字橋の坂をぐるっと回って下り、北へ横須賀線の田浦駅へ出ました。駅手前の国道16号には「新田浦トンネル」「新吾妻トンネル」「田浦トンネル」「吾妻トンネル?」と4つものトンネルが口を開けていました。さすが「トンネルの横須賀市」というところでしょうか。

 *「田浦梅林」ほか田浦町については、「田浦を歩く」に詳しいです。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc03205 浦郷トンネル(追浜町側から) 追浜町から船越町へ抜ける国道16号のトンネル。

浦賀道の「がらめき」には左の細い階段を上る。

Dsc03209 がらめき(浦郷トンネル上)から追浜町方面《地図

「がらめき」は「「からめき」とも。からからと鳴り響く意味とか。落石か、ほとばしる水の流れか。標高60mで横須賀市内の浦賀道で最初の難所だったに違いない。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc03210 鷹取方面への水道管が埋め込んである道らしい。

Dsc03214_1 「がらめき」の切通し

船越町の方から

ここを直進(写真の手前の方へ)しても道は途切れてしまう。

Dsc03216 切通しからすぐ右へ細い坂が国道16号の船越町方向へ下っている。

Dsc03220 板取公園の坂 船越町2-14と2-70の間を南西から南東に板取公園に上る。《地図

Dsc03223 坂上から

右側が板取公園。戦時中、海軍の倉庫があった。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc03231_1 赤坂(坂下方向) 港が丘1丁目の北の谷戸公園に沿って南東から北東方向に下る。《地図

Dsc03230 坂上方向

正面右が池の谷戸公園。このあたりは造成が進み住宅ができて、かつての赤坂の面影はない。平成5年の『坂道風土記 三浦半島』の写真では、赤坂は雑木林の中の尾根道だったようだ。

Dsc03225_1 池の谷戸公園から

もう少し梅の眺望がよいと思っていたがちょっと期待はずれ。

Dsc03232 盛福寺(田浦町5丁目、赤坂の南西側)

延宝元年(1676)の開基という臨済宗の寺。

Dsc03237 静円寺(田浦町3-8)

天文年間(1532~55)に代々、名主を世襲した石川家の石川清右衛門の開基という日蓮宗の寺。

Dsc03238_1 御嶽稲荷神社(田浦3丁目の田浦小学校の北側あたり)

もとは静円寺の鎮守で境内にあった。明治の初めの神仏分離令でここに移った。

Dsc03239 庚申塔(御嶽稲荷神社のそば)

一番左の「三猿庚申塔」は延宝4年(1676)の建立で一番古い。もとは田浦泉町と田浦小学校のそばにあったものをここに移した。

Dsc03241 梅林の坂 田浦大作町17あたりから南に田浦梅林に上る。《地図

Dsc03243 坂上方向

Dsc03281_1大六天社(旧道上)

およそ800年前、村人たちが海の幸、山の幸を願って大山祇命(おおやまつみのみこと)、萱の姫、山神、水神の四神を合祀したのが始まりと伝えられている。またこの森は魚見台として船の位置を知る森としても大切にされたという。

このあたりに天皇の生誕を記念して、昭和9年に700本の梅を植樹したのが田浦梅林の始まり。

Dsc03279 「田浦梅林発祥の地」説明板

Dsc03254_1 梅林

見頃は2月中旬か。梅の実は「横須賀うめワイン」等の原料になるという。

Dsc03273 少し咲いているのが何本かある。

Dsc03275_1 展望台(田倉梅林の上の田浦緑地入口)

Dsc03270_2 展望台から

Dsc03277_1 畠山(205m・葉山町)方向

Dsc03286_1 長善寺(田浦町2-41?)

永禄元年(1558)に開山という本尊が阿弥陀如来像の浄土宗の寺。戦国時代、三浦半島を支配した三浦道寸義同(三浦大介義明の子孫)ゆかりの不動明王立像がある。

Dsc03288_1 太田(おった)坂 長善寺の南側から北東に上る浦賀道。《地図

途中からつづら折の石段になる。「太田」はこのあたりの地名なのか?

Dsc03294_1 道六神(天保12年(1841))

Dsc03299 坂上方向

坂上に鎌倉幕府の家臣、秋田城之介景盛、義景親子の屋敷があった。このあたりを「城の台」地元では「しろんだ」と呼ぶ。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc03303 坂上から

「浦賀道」の標柱(左)。坂上を右に行けば浦賀道の最大の難所だった十三峠へ上って行く。左に行けば「のの字橋の坂」を下って、田浦駅方向へ。

Dsc03312_1 「のの字橋の坂」 田浦町1丁目。太田坂の坂上を左に下った所。「の」の字を描いて道路が上って行く。《地図

Dsc03315上の道路が「のの字橋」と呼ばれている。

「のの字橋」をくぐって田浦駅方向へ下っている。

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2007年1月20日 (土)

横須賀市の坂-4

2007年1月20日

追浜(おっぱま)駅(京浜急行線)・・・正光寺・・・浦郷小学校・・・平六トンネルの坂・・・深浦トンネル・・・大国社・・・追浜トンネル・官修墓地の坂・・・正禅寺・・・貝山緑地公園・貝山緑地の坂・予科練誕生の地・・・夏島貝塚・明治憲法起草地記念碑・・・追浜トンネル・・・榎戸トンネル・・・梅田の坂・梅田トンネル・・・京急田浦駅

 小雨のぱらつく寒い日でした。横須賀市はトンネルが多く、82(鉄道用含む)もあり全国一だそうです(現在は変わっているかも) 追浜駅から国道16号を南に浦郷小学校への平六トンネルを目指しましたが、曲がる所を間違えたらしく正光寺の方へ出てしまい、さらに上って海が見える高台まで行ってしまいました。回り込むように細い道を下ると急な石段の下に浦郷小学校が見えてきました。小学校の前に通学路となっている平六トンネルが口を開けています。全長90m、幅3m、高さ2.5mで車の通行は無理のようで、どちらの入口にもトンネルの名前は標示されていません。小学生たちはこのトンネルの名前を知っているのでしょうか?

 浦郷小学校の脇の坂を下り北東方向に進み、浦郷町へ深浦トンネルを抜け深浦のバス停近くにあるという官修墓地を探しました。道端の「急傾斜地崩壊危険地域」の案内地図に官修墓地が載っていましたが、どうも位置がはっきりせず近くの家から出てきた老婦人に聞いてやっと分かりました。追浜トンネルの手前から官修墓地へ石段が上っています。この坂は追浜トンネルを迂回して上って、下る歩道で今はあまり使われていない道のようです。官修墓地からトンネルの北側に下ると正禅寺へ出ます。交差点に突当たり東へ海の方へ行き貝山緑地に出ました。ここは海軍航空隊の構内だった所で「予科練」誕生の地です。「予科練」は霞ヶ浦だと思っていましたが、予科練の歴史の半分以上はこの地だったそうです。緑地内には誰もいなく静かで、小雨に煙った展望台からの港の眺めもいいものです。

 夏島貝塚通りを夏島貝塚まで足を伸ばしました。夏島貝塚は一本の木柱と消えかかった説明板があるだけで中にも入れずちょっと期待はずれ、隣の明治憲法起草地跡の記念碑の方が立派でした。来た道を戻り、追浜トンネル、榎戸トンネルを抜け南西方向に入ると梅田の坂が梅田トンネルまで上っています。このトンネルは地域が協力して完成した、軍用以外では市内で最初のトンネルだそうです。トンネルを抜けて下り京急田浦駅へ向いました。

 今日はトンネルを5つ、7回(平六トンネルと追浜トンネルは2回)くぐりました。傘をさしたままトンネルを歩くのは危ないことに気づきました。「坂道散歩」というより「トンネル散歩」の半日でした。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc03127_1 正光寺の上の高台から

正面に海が見える。

Dsc03136_2 浦郷小学校へ下る坂

Dsc03128_1 平六トンネル(浦郷小学校側から)

浦郷小学校の通学路として地元の努力で昭和14年に完成した。戦時中は軍の倉庫にされ、入口に戸をつけて通れなくされてしまった。浦郷小学校は今年で創立133年になる。

Dsc03132_1 平六トンネルの坂(坂上のトンネル近く)

追浜町2-24と2-28の間を上り、平六トンネルをくぐり、浦郷少学校に出る坂。《地図

このあたりは、かつては「平六が谷戸」と呼ばれていた。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc03137_1 深浦トンネル(追浜東町2丁目から浦郷町三丁目へ抜けるトンネル)

Dsc03140_1 大国社(浦郷町2-41)

Dsc03143_3 庚申塔(深浦バス停近く)

右・三猿青面金剛像 明治15年建立。左・二鳥三猿庚申塔) 寛文年間(1661~1673)の建立。角が欠けているのは廃仏毀釈によるという。庚申塔は仏でもないのに。神道以外は何でも排斥したようだ。

Dsc03142_1 庚申塔説明板

Dsc03146_1 官修墓地の坂 深浦3丁目の追浜トンネルの南側の入口の所から官修墓地へ上る。《地図》(上り口の道筋の記載はない)

Dsc03148_1 坂上方向

Dsc03152_1 坂上方向(左が官修墓地へ)

Dsc03155_2官修墓地

明治10年、西南の役から海路帰還中の出征者がコレラによって死亡した。はじめ黒崎の浜に埋葬したが、大正2年ここに移葬された。埋葬されている48柱の遺族はほとんど不明という。

Dsc03154_1 官修墓地説明板

Dsc03161_1 正禅寺(追浜トンネルの北側)

Dsc03162_1 二鳥三猿庚申塔(正禅寺境内)

Dsc03165_1 貝山緑地の坂(浦郷町5丁目の貝山緑地内)《地図

旧海軍航空隊構内。この地に昭和5年横須賀海軍航空隊予科練習部が創設され、やがて「予科練」と呼ばれるようになり、その後、昭和14年に霞ヶ浦湖畔に移り、翌年独立して土浦海軍航空隊となった。

Dsc03180_1 坂下方向

右側に予科練誕生の地記念碑

Dsc03172_2

貝山緑地内

Dsc03178_1 貝山緑地展望台から

小雨の中

Dsc03168_1 「予科練誕生の地」記念碑(貝山緑地内)

Dsc03170_3「生存者一同」の文

Dsc03167_1 記念碑説明板

Dsc03186_1 夏島貝塚(左)・明治憲法起草地記念碑(右)(夏島町の夏島貝塚通り)

Dsc03185_1 夏島貝塚説明板

縄文時代早期(約9500年前)のわが国で最も古い貝塚の一つ。

Dsc03181_1 明治憲法起草地記念碑説明板

伊藤博文らが明治憲法を起草した夏島の別荘跡地に大正15年に建てられた。昭和50年に現在地に移転した。
金沢八景駅近くにも「憲法草創之処」碑が立っている。『鎌倉街道(下の道③)

Dsc03188_2 梅田の坂 浦郷町2丁目の榎戸バス停の南から南西に梅田トンネルへ上る。《地図

かつての浦郷村大字梅田から日向(ひなた)へは、山越えのほかはなく、一気に急坂を上り下りしたという。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc03189_2 トンネル記念碑(梅田側(浦郷町)の坂下近く)

Dsc03194_2 坂下方向

Dsc03195_2梅田トンネルへ

周辺地域の協力で明治20年に完成した市内の82のトンネル(鉄道と一般道道を合わせた数字)の中で軍用を除くと市内最初のトンネル。

Dsc03203_2 反対側(浜見台側)から

Dsc03202_3 トンネルを抜けて下りとなる。

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2007年1月14日 (日)

横須賀市の坂-3

2007年1月14日

横須賀中央駅(京浜急行線)・・・龍本寺・・・深田の裏坂・・・(これっきり坂)・・横須賀中央公園・・・文化会館・・・浦賀道・・・聖徳寺坂・赤門・聖徳寺・・・長官邸の坂・海上自衛隊田戸台分庁舎(横須賀鎮守府司令長官邸跡)・・・どうめき坂・・・(県立大学駅)・・・(浦賀道)・・・公卿トンネル前・モチン・・・山神稲荷大明神・山崎ふれあいトンネル・・・(堀ノ内駅)・・・浦賀道・・・砂坂・砂坂地蔵尊・・・堀ノ内駅(京浜急行線)

 諏訪神社の前を通り、長い石段を上ると龍本寺の裏山で、所々から少し海が望めます。龍本寺の正面の石段を下り少し行き、左に入ると深田の裏坂が下っています。途中の石垣に整地寄付者名の石板が埋め込んであります。坂下近くに神明社、坂下は横須賀共済病院です。上り返して中央公園まで上りました。探していた山口百恵の「横須賀スト-リ-」に出てくる坂にふさわしい坂です。猿島が浮かび房総半島まで一望できます。背後に富士山の見える日もあるそうです。

 中央公園から下って、文化会館の前を通って下って行くと三崎街道の手前で浦賀道とぶつかります。浦賀道から分岐している直線的な坂を上り下りすると浦賀道に合流します。そのあたりが聖徳寺坂の坂上で聖徳寺、京浜急行線の方へ下っています。車道に平行する旧道を下り、ガードをくぐると崖下に赤門が見えます。赤門前に円柱形の背の高い道標が立っています。

 聖徳寺に寄り寺の西側に沿って長官邸の坂を上りました。途中に検察庁、裁判所があり、坂上の海上自衛隊の分庁舎の所に横須賀鎮守府司令長官邸がありました。「鎮守府」なんて古代を思わせる名で、戦争に勝てるはずがなかろうに。今も広大な敷地で中には散策路もあるようです。自衛隊の分庁舎なんかにしておくのはもったいない気がします。
 

 長官邸跡を迂回して南方向に進むと田戸台と富士見町の境の旧道らしき道に出ました。道の片側の崖上に庚申塔などの石造物が一列に並べられていました。祀られているというより、そこに集められて置かれているという感じで。旧道を進むと新道と合流したあたりからどうめき坂の下りとなり、県立大学駅のガードをくぐります。前は安浦駅だったのですが何でこんなつまらない駅名に変えてしまったのでしょう。

 県立大学駅から南東方向に浦賀道を行き三春町1丁目と2丁目の境の通りを右(南西方向)に曲がり、京急線のガードをくぐると公卿トンネルが見えてきます。トンネルの手前で右(南西)に上るのがモチン坂のようです。この坂は庚申塔などの石造物が一列に並ぶあたりから南東方向に下って公卿トンネルの南側に合流します。
 公卿トンネルの東側に沿って、歩行者と自転車用の山崎ふれあいトンネルが一直線に山崎小学校の所まで通じています。けっこう長いトンネルで風が冷たく、夏は涼しくて気持ちがいいのでは。トンネルを出て右に行き京急線のガードをくぐって進むと堀ノ内駅へ出ました。駅近くの交番の所を左折して、少し進むと浦賀道で道標が立っています。浦賀道を南東に行き、三春町4丁目と大津町1丁目の境あたりから緩やかな下りとなります。これが砂坂で坂下近くには砂坂地蔵尊の小堂が立っています。

 写真をクリックすると拡大します。

Dsc02994_2 龍本寺へ上る石段坂

Dsc03000 龍本寺(深田台10)

「米ケ濱のお祖師さま」と呼ばれる日蓮宗の寺。アワビと角なしのサザエが寺宝。

Dsc03001 龍本寺由来

Dsc03007 深田の裏坂  米が浜通1丁目の社会保険事務所交差点から南に入り、横須賀共済病院の脇を通ってカーブして南西に深田台に上る。《地図

Dsc03015_1 道路敷地費寄付者の石板

大正8年(1919年)の整地の際の寄付者名。磨り減っていて判読困難だが左端は、「一金壱百円也」と読めるか。

Dsc03012_1 坂下近くから坂上方向

左側は神明社

Dsc03028_1横須賀中央公園(深田台19)に上る坂の途中から

山口百恵の「横須賀ストーリー」の歌詞を思い出させる。 「♪・・・急な坂道駆け上ったら、今も海が見えるでしょうか・・・♪」 「これっきり坂」と呼ぶとも。

Dsc03026_1 中央公園から

旧日本軍の演習砲台跡

Dsc03021_1 猿島(正面左)

Dsc03027 平和のモニュメント

Dsc03031_2 文化会館下から南東に上る坂(左)・右は浦賀道

Dsc03034 上って下り浦賀道と合流する。

Dsc03035_2 坂下から

左が浦賀道で聖徳寺坂へ続く

Dsc03037_1 聖徳寺坂(坂上から) 田戸台の聖徳寺の北側を西方向に上る。《地図

Dsc03050 右側の旧道(坂下近くで京浜急行線のガードをくぐる)

Dsc03039_1 地蔵さん(ガードをくぐった所)

Dsc03049 坂下近くから(左が旧道)

Dsc03046 赤門(聖徳寺坂の坂下のガードをくぐった左下)

江戸時代の名主、永嶋家の赤塗りの長屋門。前に円柱形の道標。永嶋家は三浦一族の子孫という。

Dsc03045 赤門・道標説明板

Dsc03047 道標

文久2年(1862)に立てられた。

「右 大津 浦賀道」・「左 横須賀 金沢道」

Dsc03053_1 聖徳寺(田戸台1)

浄土宗の寺

Dsc03056_1 長官邸の坂 聖徳寺の西側に沿って、南東方向に上る。途中に検察庁、裁判所。《地図

坂上の海上自衛隊田戸台分庁舎が大正2年から終戦まで横須賀鎮守府司令長官の官邸だった。

Dsc03064_1 坂上の長官邸跡(正面)

Dsc03066_1 長官邸跡の敷地を迂回して上る坂。

Dsc03068 富士見町の方へ下る坂

Dsc03074 三猿庚申塔・青面金剛塔などの石造物(列の右側の方) 左端の鼻の高い像は享保の年号がある。

田戸台と富士見町2丁目の間の旧道沿い。

Dsc03075 どうめき坂(坂上から) 京浜急行の県立大学駅のガードをくぐり、田戸台と富士見町1丁目の間を南西に上る。《地図

昔は馬力や牛車が通る急坂だった。「どうめき」(道目木・泥目木)とは、川や滝の音にちなむ地名だという。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc03077_1 坂下方向

正面は県立大学駅

Dsc03079 坂下方向(ガード下から)

Dsc03086_2 公卿トンネル・モチン坂(右)

Dsc03089_1 モチン坂(坂上方向)  三春町6丁目の公卿トンネルの手前(北側)から南西に上り、南方向に下る。《地図

坂名の由来不明。

Dsc03092_1 坂上の石造物

青面金剛塔(左端・文化4年)・帝釈天塔(左から3番目)・庚申供養塔など。

Dsc03096 坂下方向

石造物(右端)のあるあたりから下り坂となる。

Dsc03100_1 坂下方向

下って公卿トンネルの反対側(南側)に合流する。

Dsc03102_1 公卿トンネル(反対側から)

Dsc03103 山神稲荷大明神(山崎ふれあいトンネルの入口そば)

Dsc03105山崎ふれあいトンネル

公卿トンネルの東側に沿う歩行者、自転車専用トンネル。

Dsc03110_1 砂坂 三春町4-24あたりから大津町1-3あたりへ東方向へ下る浦賀道。《地図

昔は近くに白須川が流れていて大正時代までは満潮時には潮がこの先まで遡上した。坂に川が運んできた川砂や砂利が被っていたので砂坂と呼ぶようになったのだろう。下近くに砂坂地蔵尊がある。

Dsc03117_1 砂坂地蔵尊(左)・しらすがわ地蔵尊(右)

像の回りの玉砂利(小石)は白須川が運んできたものだろうか。

Dsc03115 砂坂地蔵由来

Dsc03113_1 坂下から

右側が砂坂地蔵尊

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2007年1月12日 (金)

横須賀市の坂-2

2007年1月12日

汐入駅(京浜急行線)・・・ドブ板通り・・・延命地蔵尊・・・諏訪公園の坂・諏訪大神社・・・(浦賀道)谷町坂・・・小屋の台・・・うぐいす坂・・・中里トンネル・・・はまゆう公園・はまゆう公園の坂・・・ちこく坂・・・長源寺・長源寺坂・・・中里通り・・・平坂・・・横須賀中央駅(京浜急行線)

 主に『坂道風土記 三浦半島』(石井昭 平成3年から6年にかけて神奈川新聞横須賀版に連載)と三浦半島の『坂道散歩』(閉鎖か移動したようだ)のHPを参考に三浦半島の坂を歩きます。

 ドブ板通りの延命地蔵尊の少し先から諏訪公園の坂を上って、緑ヶ丘女子校の脇から浦賀道の谷町坂へ出ようとしましたが、金網のフェンスが張ってあり行き止まりでした。このあたりは八幡山といわれた所です。
 諏訪大神社へ下り、神社脇の坂を上ると谷町坂の坂上に出ます。ここに浦賀道の標柱が立っています。浦賀道はさらに小屋の台へ上ります。右下に長源寺坂が見えるあたりが一番高いようで大勝利山と呼ばれていた所です。ここから下る浦賀道がうぐいす坂で、途中に坂の案内板が立っています。坂下を行くと平坂の坂上近くの道路元標が立っている所へ出ます。

 平坂の坂上から中里通りへ入り、西に行き信号(長源寺坂の坂上あたり)を南西方向に入ると中里トンネルが見えてきます。トンネルの手前で西に石段を上り細い道をはまゆう公園に向いました。この公園は陸軍病院のあった所で、正面に女坂、西側の方に男坂があったようです。
 はまゆう公園から西方向に細い道を行き、石段を下るとちこく坂の途中に出ます。この坂は両側の崖に挟まれた谷間を通っている坂で、左右に細い石段坂が何本も上っています。
 ちこく坂は南西に上り、坂上から坂本1丁目のバス停そばに下っています。ちこく坂を北方向に下って突当たると、そこは長源寺坂の途中で、長源寺もすぐそばです。坂は東方向から北東に上り大きく南方向にカーブして中里通りへから平坂の坂上へ続いています。平坂を下って横須賀中央駅に出ました。

 写真をクリックすると拡大します。

Dsc02901_1 延命地蔵尊(本町3丁目のドブ板通り)

もとは汐入小学校の近くの浦賀道にあり、「洞ノ口地蔵尊」と呼ばれていた。

Dsc02897延命地蔵尊由来

Dsc02905諏訪公園の坂 本町3丁目の横須賀幼稚園から諏訪公園、緑ヶ丘女子校の方へ上る。《地図

公園内には、「海軍工廠殉職者招魂碑」「江頭正五郎頌徳碑」(第二代横須賀町長)「動物愛護の碑」「明治天皇御駐蹕碑」など碑が多い。

Dsc02914_1 この先で行き止まり

このあたりを八幡山という。江戸末期から明治時代にかけて海軍工廠の守り神の八幡神社があった。

Dsc02911 諏訪大神社(緑ヶ丘34)

Dsc02912 諏訪大神社由来

Dsc02915 諏訪大神社と聖ヨゼフ病院(左側)の間から浦賀道に上る坂。

Dsc02917 坂上の「浦賀道」の道標

Dsc02919 谷町坂(坂上の道標の所から坂下方向) 汐入2丁目の汐入小学校の南側を北東に上る浦賀道。《地図

このあたりは昭和24年まで「谷町」だった。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc02921 「谷町」の名が残るマンション

Dsc02923 坂下方向

正面奥は汐入小学校

Dsc02924 坂上方向

Dsc02927 小屋の台へ(谷町坂の坂上から南東方向に上る) 《地図

Dsc02931 小屋の台へ

「昔時、一小芽屋(ぼうおく)あり、茶菓をひさぎて行人を待つ。故にこの称あり」(横須賀案内記) 日露戦争の戦没者の忠魂を祀る堂があり、山号を大勝利山といった。-以上『坂道風土記 三浦半島』

Dsc02932 小屋の台から

中央の通りは長源寺坂

Dsc02938 うぐいす坂案内板

Dsc02934うぐいす坂(坂上から) 汐入町2丁目から上町1-29と1-36の間を南東に下る浦賀道。《地図

「戦後も長い間、木々が生い茂り、昼なお暗い坂道でした。昔は、うぐいすの鳴き声が絶えなかったそうです」(古老の話) 坂上は咸臨丸の副艦長格の浜口英幹が住んでいて「花屋敷」と呼ばれていた。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc02939 明治30年の「花屋敷」の写真

Dsc02935_1 坂下方向

Dsc02941 坂上方向

Dsc02944 道路元標(うぐいす坂の坂下を進んだ平坂の坂上近く)

裏面には「神奈川県」とある。大正8年の旧道路法により設置。この地点が国道31号の終点、県道横須賀三浦線の起点だった。昭和27年新道路法により国道31号は国道16号となり、元標の意義は消滅した。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc02955 はまゆう公園(右側)に沿う坂 上町4丁目と不入斗(いりやまず)4丁目の境。

Dsc02954_1 「軍用地」の石柱(坂の途中)

明治24年から昭和20年まではまゆう公園のあたりは陸軍病院だった。

Dsc02957 はまゆう公園の坂(女坂) 《地図

陸軍病院の正面の坂

Dsc02961_1 「一誠神社」の碑(右側)・左は「一誠園」の碑か?

公園内の北側の崖下に庭園の「一誠園」と祠の「一誠神社」を設け、患者の憩いの場と精神修養の場とした。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc02963 男坂の跡か

「一誠神社」の碑の後ろ側

Dsc02969_1 ちこく坂の途中へ下る石段坂(汐入町3丁目)

Dsc02979 ちこく坂(坂上方向) 汐入町2丁目の長源寺前の交差点から南から南西に上る。 《地図

不入斗中学校の所にあった陸軍の重砲兵連隊への坂で、連隊へ遅刻しないように兵隊が駆け上った坂。戦後、地域の発展をねがって千石坂と書かれるようになった。『坂道風土記 三浦半島』 

千代田区にも学校、官公庁などに遅れないように上る「遅刻坂」がある。文京区の「三百坂」も似たような由来の坂。東京23区の坂』・長崎市には3つもある。『他道府県の坂』の長崎市

Dsc02977 坂下方向

崖の崩壊止めの柵がしてある。

Dsc02982_1 坂下から

Dsc02984_2 長源寺(汐入町2-8)

もとは長源院といい江戸の芝の愛宕下にあった。旧横須賀村楠ケ浦へ移り、天正年間(1573~91)に現在地に移ったという。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc02988_1 長源寺坂(坂上方向) 長源寺の前を南東から北東、南東に上る。坂上を行くと中里通り。《地図

Dsc02990 坂下方向

坂下にあった尾鷲宅(汐入町3-1、交番裏の小公園のあたりか)芥川龍之介が大正6年から7年にかけて下宿していた。『坂道風土記 三浦半島』
東京の両国には生育地跡(『竪川を歩く』)、北区の上の坂沿いには旧宅跡がある。(『北区の坂④』

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2007年1月10日 (水)

横須賀市の坂-1

2007年1月10日

横須賀中央駅(京浜急行線)・・・平坂(ひらさか)・・・緒明山公園・・・中央図書館・・・中里神社・・・諏訪神社・・・徳寿院・・・横須賀中央駅

 横須賀市、三浦半島の坂を調べに横須賀中央図書館に行き、近くの坂を歩きました。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc02845_1 平坂(坂下の駅前の歩道橋から坂上方向) 横須賀中央駅から南に上る三崎街道。《地図

「ヒラ」は、坂、傾斜地、崖のこと。平坂は坂の坂、非常にけわしい坂という意味。古事記の黄泉比良(よもつひらさか)がある。昔は砂利道でほこりがひどく、大雨では坂が川になった。急坂のためか馬が骨折したことも。坂下には荷車のあと押しをする”立ちん棒”がたむろしていた。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc02849 坂上方向

Dsc02850 坂下方向

Dsc02856 上町1丁目の中里通りから中央図書館・緒明山公園に上る坂。

「緒明山」はわが国近代造船業の発展に尽くした伊豆戸田村出身の緒明菊三郎の所有地だった。

Dsc02861_3 中里神社(上町1-9)

昔は稲荷ケ谷神社と呼ばれていた。

Dsc02869 諏訪神社(平坂の坂下東側。若松町3-17)

天正元年(1573)の創建。

Dsc02871 徳寿院への石段上から 《地図》(石段の標示はない)

駅前の商店街の裏の怪しげな路地風のところ(私有地につき無断立入り禁止の看板が2.3枚掲げてあるので一度引き返したが、やっぱりから上ってみたくて)から100段以上?ある急な石段。

Dsc02876 徳寿院(若松町2丁目)

「豊川稲荷横須賀別院」というらしい。ここからさらに緑ヶ丘の方へ上っている。

Dsc02873 不動像(徳寿院境内)

元は平坂の途中にあり、明治31年にここに寄進された。『坂道風土記 三浦半島』

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2007年1月 7日 (日)

町田市の坂-6

2007年1月7日

町田駅(横浜線) バス→山ノ端・・・下小山田苗圃・・・代官坂・・・大泉寺(だいせんじ)(小山田城址)・観音堂・秋葉神社・上根(かさね)神社・・・鳥居坂跡?・・・尾根緑道(戦車道路)・・・常盤不動尊・日枝神社・・・尾根緑道・・・南多摩斎場・・・首斬坂跡?・・・小山馬場谷戸公園・冥土坂・牢場跡?・・・中村不動・・・中村地蔵尊・・・米軍相模総合補給廠・・・相模原駅(横浜線)

 昨日の雨があがり晴れましたが冷たい強風の吹く中を、戦車、冥土、首斬り、牢場なんて正月早々ぶっそうな、縁起でもないところを歩きました。小山田行きのバスが図師大橋から町田平山八王子線に入り、上って大泉寺を過ぎると山ノ端のバス停です。名前の通り山合いの村の感じが残っているところです。下小山田苗圃から左に入って民家が途切れるあたりから古道の代官坂になりますが、この道は車は通れず、今はあまり通られていない道のようで落葉で埋まっています。この坂が代官坂かは自信はありません。

 大泉寺から南に広い道(鳥居坂はこのあたりを通っていた坂だったのか?)を小山田桜台へ上ると小山田トンネルの上をかつて戦車道路と呼ばれた尾根緑道が西へ延びています。鶴川緑地の尾根道も東西に通る遊歩道でしたが、ここの緑道は舗装されて、車道もついています。強風の中をジョギングしている人が目立ちました。尾根緑道を途中、日枝神社、常盤不動尊へ寄りながら南多摩斎場(八王子市)まで歩きました。このあたりに処刑場や牢場があったもといい、首斬坂、冥土坂、字牢場、観音塚などがある(あった)ようですが、今は区画整理で造成され、公園などもでき明るく、大きく変わってしまって昔の寂しい、暗い雰囲気の所ではなくなってしまっています。冥土坂、首斬坂も昔のままの姿では残っていないようです。

 冥土坂の坂下から町田街道を西に進み、中村不動、中村地蔵尊に寄り米軍の相模補給廠を大きく迂回して相模原駅に向いました。風が午前中より強くなってきました。ついには帰りの電車が強風で止まってしまい、えらい目に会いました。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc02761 地蔵さんと道祖神(下小山田町のバス停山ノ端から下小山田苗園に向う道の入口近く)

Dsc02762_1 代官坂への道

下小山田苗圃から左(北西)に入る。

Dsc02770 代官坂(坂下方向) 《地図

この道は八王子から鎌倉方面へ向う古道。坂名の由来は不明。最近、八王子にあった大久保長安の代官所と関連づける説があるが地元にはそうした伝承は残されていない。『町田の民話と伝承 第二集』

Dsc02769 小祠(坂下近くの崖の上の平坦な所)

Dsc02767 坂上方向

Dsc02773 八石地蔵尊(大泉寺の門前近く)

八石の由来不明

Dsc02780 大泉寺山門(下小山田町332)

曹洞宗の寺。境内は小山田別当有重が承安元年(1171)に居舘を築いた小山田城址

Dsc02785_2 観音堂(大泉寺参道右手)

武相三十三番の十一番札所。「馬駆け観音」といい、毎年1月17日の御開扉の日には善男善女だけでなく近在の農家の馬も集まり、参詣をすませた馬は大泉寺の参道を駆けた。また「見合い観音」ともいあわれた。「馬駆け」を見るため参道の両側に向かい合い、その時に「お見合い」が行われた。明治生まれの夫婦の多くは、「見合い観音」で結ばれたという。『町田の民話と伝承 第一集』

Dsc02786_1 秋葉神社(観音堂の右上)

火伏の神で、11月16日の夜に「口火祭り」が行われる。この神事は大泉寺の住職と世話人が執り行う「神仏混淆」の神事。

Dsc02792 鳥居坂跡?(坂上近くから) 《地図

小山田緑地の南側から小山田桜台へ南西方向に上る坂。坂上に尾根緑道が横たわる。

大泉寺の東側を「関」と呼び、南方の尾根緑道の八幡平には関守がいた。小山田の関と八幡平を結ぶ道が古道の「鳥居坂」(鳥居峠)で、坂の中腹には「牢場」という地名が残っている。区画整理事業で鳥居坂はなくなったが、坂の由来を書いた「鳥居坂碑」がある。『町田の民話と伝承 第一集』「鳥居坂碑」を探すのを忘れた。この坂の途中にあるのか?
*Steadie様から「鳥居坂碑」の写真を送っていただきました。(下記のコメント)

Dsc02790 坂上方向

Dsc02791 坂上近く

Dsc02794 小山田トンネルと尾根緑道(上)

鳥居坂跡の坂上を進んだところ。

Dsc02795_1 尾根緑道

以前は戦車道路と呼ばれていた。相模陸軍造兵廠で製造された戦車のテスト走行をした道路。全長約8km。

Dsc02797_1 尾根緑道の由来

Dsc02801_1 尾根緑道から常盤不動尊・日枝神社へ下る坂。(常磐町3230あたりから下る)《地図

Dsc02810_1 日枝神社(左)・常盤不動尊(右)

Dsc02805_1 観世音菩薩像

由来碑には文化15年(1818)建立とある。

Dsc02804 観音像由来碑

Dsc02816_1 尾根緑道から大山、丹沢の山並み

Dsc02819_1 首斬坂跡 南多摩斎場の南側から南東に下る尾根緑道。冥土坂①の坂上から北西に上る。《地図

このあたりが牢場や処刑場があった所か。

Dsc02822_1 小山馬場谷戸公園(小山ケ丘1-1)

Dsc02834 冥土坂① 町田街道の馬場交差点から小山馬場谷戸公園の東側を通り尾根緑道まで上る。《地図》(小山馬場谷戸公園の標示はない)

坂上の尾根の西側は牢場という字名があり、付近に首斬坂、観音塚と呼ばれる場所もある。『町田の民話と伝承 第二集』 小山馬谷戸公園かその上の尾根緑道のあたりに「牢場」や処刑場があったのだろう。

Dsc02823 冥土坂② 小山馬場谷戸公園の西側に沿う坂。冥土坂①の一本西側の坂。《地図

この坂の方が昔の面影がわずかだが残っている。西側は草が生え、墓地もある。そのあたりが「牢場」だったのかも。ただ、この坂は町田街道から直接の上っておらず、坂上も尾根緑道まで上っていない。

Dsc02828 坂下方向

Dsc02836 中村不動へ上る坂

坂上近く左側の屋根が中村不動。小山町の町田街道に「中村不動」交差点があるが、今は寂れた小さな社という感じ。

Dsc02841 中村地蔵尊(小山町の町田街道、小山局交差点の南西側)

宝暦6年(1756)から明和、安永、天明と建立され、た13体の地蔵さんが並ぶ。新らしそうな地蔵さんもある。造り替えたのだろうか?

Dsc02842 道祖神、庚申塔など(中村地蔵尊の横)

Dsc02843 米軍相模原補給廠

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2007年1月 4日 (木)

町田市の坂-5

2007年1月4日

鶴川駅(小田急線)・・・鶴川街道・・・真光寺川・・・能ケ谷神社・・・平和台坂上・・・亀井坂・・・五十坂・・・広袴公園・・・栗木坂・神明社・・・鶴川尾根緑地・真光寺緑地・・・真光寺公園・・・鶴川駅

 能ケ谷神社から真光寺川へ下りようとしたらバス停の平和台坂上近くに出てしまいました。けっこう長い坂で平和台坂と呼んでいるのでしょうか。真光寺川は真光寺町を水源として、鶴川街道沿いに流れ鶴川駅近くで鶴見川に注ぐ全長2.3kmくらいの短い川です。平和台坂下あたりから川の北側の旧道へ入り能ケ谷町から広袴町の方へ行くと、傾いて上が一部欠けた道標の立っている所があります。ここから北西に上る未舗装の道が亀井坂でしょうか。今はあまり通られていない廃道のような感じの坂で曲がりながら上って行くと一般道につながります。この道は広袴町と川崎市麻生区の境を通って神明社の裏から栗木坂上、鶴川尾根緑地へと続きます。

 亀井坂の坂下から旧道を行くと五十坂の上りとなります。昔は荷物を積んだ車の後押しをして、50文をねだる者たちがいたといいます。今はなだらかな坂で、後押しをしても一文ももらえるような坂ではありません。神明橋から栗木坂を上ると坂の途中の神明社の入口に道標庚申塔が立っています。神明社への道は昔は一般道だったのか、道標庚申塔は他所からここに移されたのか。後者のような気がしますが。栗木坂は麻生区栗木の境まで上っています。坂上から北西に栗木との境の尾根伝いを鶴川尾根緑地、真光寺尾根緑地が真光寺公園まで2km近く続きます。北の栗木側からの風が冷たく感じました。地名や公園の名となっている真光寺は見当たりません。廃寺になったのか調べても分かりません。公園から尾根緑地を引き返し鶴川駅まで戻りました。

 四郎兵衛坂(広袴町? 元禄年間に組頭をしていた次郎兵衛がつくった坂で、いつしか四郎兵衛坂となってしまった。)の位置は分かりませんでした。また今日歩いた3つの坂の位置についても自信はありません。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc02653_1 能ケ谷神社へ上る坂

Dsc02652 坂下の旧家

Dsc02657 能ケ谷神社(能ケ谷町839)

正保年間(1644~1647)の創建の徳川家康を祀る神社。元は東照宮といった。

Dsc02661 平和台坂上から

能ケ谷町の鶴川二小のそば。

Dsc02665 亀井坂下の道標

坂方向の面には「・・黒川ヘテ府中二至」

西方向の旧道の面には「廣袴真光寺黒川開戸」とある。

Dsc02666_1 亀井坂(坂下から) 能ケ谷町1470あたりから北東に上る。坂下に道標、途中に能ケ谷緑地がある。《地図》(道筋の標示は途切れている。)

広袴から能ケ谷、岡上、奈良、長津田、二俣川にいたる道を鎌倉街道の「早の道」という。新田義貞が鎌倉攻めのときに、一手を広袴経由にした。この軍勢が一足早く鎌倉へ着いたので、「早の道」と呼ばれるようになった。この道を栗木、平尾に向う坂道があり、これを亀井坂という。むかし、源義経の有力な家来の亀井六郎が通ったので、この名がついたといわれている。『町田の民話と伝承 第二集』 川崎市麻生区上麻生の横浜上麻生線にバス停「亀井」がある。亀井城はそのあたりにあったのか。

Dsc02669 坂上方向

Dsc02677_2 舗装道路に出てから坂下方向

この道を上ると川崎市麻生区の境を進み、神明社の裏を通り、栗木坂の坂上から鶴川尾根緑地、真光寺緑地へと続く。

Dsc02680_1 五十坂(坂上方向) 能ケ谷町1468あたりから広袴町の方へ上る。《地図

それほど急ではないが長いので、むかし積み荷をした車が一苦労した。このあたりにはいつも物乞いをする浮浪者がいて、五十文の賃金をねだっては車の後押しをしてくれたという。それで五十坂と呼ぶようになった。『町田の民話と伝承 第二集』

Dsc02681_1 坂上方向

Dsc02682 旧道沿いの旧家

Dsc02685 広袴公園(広袴3-4)の調節池

Dsc02752 栗木坂(坂下から) 広袴町の神明橋あたりから北方向に上る。坂途中に神明社の入口。坂上は川崎市麻生区栗木との境。《地図

広袴の旧道を真光寺町に向い権見下橋を渡り、山王社前を通って、右の栗木坂を登って天台に行く道がある。『町田の民話と伝承 第二集』 権見下橋、山王社も分からず、栗木坂は違う所にある坂かも。

Dsc02741 坂下方向

Dsc02736 坂上から

Dsc02698 神明社入口(栗木坂の途中)

Dsc02699_1 道標庚申供養塔

安永6年(1777)の建立。右神奈川道(神明社への未舗装の上り坂)・左江戸道(栗木坂の坂上方向)とある。もとからここに立っていたのか、他所から移されてきたのか?

Dsc02701 神明社

Dsc02710 鶴川尾根緑地から(町田市側)

Dsc02711_1 尾根緑地《地図

Dsc02714 尾根の右が川崎市麻生区・左が町田市広袴町

Dsc02717_1 真光寺緑地

Dsc02721_1 真光寺公園近く

Dsc02720_2 真光寺公園(真光寺2-2)

Dsc02726 麻生区側(尾根緑地から)

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2007年1月 3日 (水)

町田市の坂-4

2007年1月3日

高尾駅(中央線)・・・町田街道・・・恋路(地)の坂・・・蔵王社・・・町田街道・旧道・・・大戸観音堂・・・大戸交差点・・・江柄神社・・・八雲神社・・・大六天社・・・正八幡宮・・・円林寺・・・御嶽神社・・・神明神社・・・行昌寺・・・相原八幡宮(相模原市)・・・正泉寺・・・長福寺・・・諏訪神社・・・相原駅(横浜線)

 町田街道の恋路の坂を八王子市側から上り、町田市へ下って恋路の坂の伝承のゆかりの所を訪ね、街道沿いの神社、寺に初詣をしながら相原駅まで歩きました。恋路の坂は今は面白味のない自動車道ですが、途中に残る旧道を入るとまだ昔の面影があります。

 「恋路の坂」の伝承・・・横山道の恋地の坂は別に「恋路の坂」ともいうが、鎌倉時代は山ノ手の鎌倉街道といって、往古は大木戸街道とも呼ばれたという。さらに古くは、都(飛鳥時代)への街道、防人街道の異名もあったという。
 八王子千人頭原半左衛門の先祖は、第四回の川中島の最も有名な戦いで、当時信玄側の家来であった原大隈守胤歳である。胤歳は、あわや謙信が駿馬を飛ばして信玄の陣内に突入、信玄に切りつけようとする瞬間、槍の柄で謙信の乗馬の尻を猛打して、乗馬を荒れ狂わせてあやうく信玄を救ったという伝えがある。ところがこの原半左衛門の娘が禁断の制を破って奉公人の下男と不義の恋仲となった。一徹な原氏は、二人をこの地まで連れ出して首をはねた。亡きがらを坂道の東側の山合いに葬ったといわれている。その後あわれに思った里人たちはここを恋地の坂と呼ぶようになった。葬った場所を千人塚と称して二人の霊をなぐさめ、六地蔵も建てられたが、のちに大戸観音に村人が移したと伝えられている。その時首を打った刀は、不浄の刀であるとして蔵王権現社に納めたというが、いつの間にか消えて行方知れずになったという。戦前ある人の手によって台湾に売られたとのうわさもある。『多摩の古道と伝説』(羽根田正明著)

*恋路の坂は、2006年5月3日に八王子市側を歩き、坂道一覧では「八王子市の坂」に入れてあります。

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc02559_1 恋路の坂 八王子市館町から町田市の境まで上る町田街道。

Dsc02563 恋路の坂 坂上の市境(清掃工場入口交差点)から町田市へ下る町田街道。《地図

Dsc02580_2 蔵王社への道

坂下近くから西方向へ入る。

Dsc02566 六面道祖神?(右)と万霊供養地蔵尊(左)

蔵王社の手前

Dsc02575 蔵王社男坂

急で石段の幅が狭く、両手にカメラと地図を持って上ったらバランスを崩し怖い思いをした。

Dsc02567_2 蔵王社

「恋路の坂」の伝承で、二人の首を打った刀を納めたという「蔵王権現社」 享保9年(1725)建立で安閑天皇を祀るという。『多摩の古道と伝説』

Dsc02583 大戸観音への町田街道の旧道 《地図

Dsc02585 大戸観音堂

鐘楼は八王子八景の一つ「大戸の晩鐘」で「夕霞たつや大戸の鐘の音に 妻木(つまき)を負ふて帰る里人」と歌われている。八景はこの他に、「八王子城秋月」「桑都青嵐」「山田落雁」「高尾翠靄」「水崎夜話」「浅川帰釣」「十々里暮雪」 観音堂の本尊は天明年間(1781~1788)に佐藤安八郎という者が、ここの東谷戸の水田から発見された尊像(薬師像?)を安置したものだと伝承されている。『町田の民話と伝承 第一集』

Dsc02589 六地蔵(大戸観音堂の境内)

「恋路の坂」の伝承で、二人を葬った千人塚(坂の東側の山合い)に建てられた地蔵で、後に村人によりここへ移されたという。

Dsc02590_2 地蔵庚申塔(左)・馬頭観音(右)

六地蔵の隣。

Dsc02588_2 鎌倉街道案内図

「大戸を通る道は鎌倉街道山ノ道」

横山之庄の相州口としてこの地に口留番所が置かれ、傍らにあったと伝える了心庵は番所の詰所であったと考えられる。この大木戸番所を称していつしか大戸と呼ばれるようになった。『町田の民話と伝承 第二集』

Dsc02596_2 江柄神社(大戸交差点から東へ進んだ、「八木重吉記念館」の後ろあたり) 八木重吉はここの出身の詩人。元禄14年(1701)建立。ここも安閑天皇が祭神という。『多摩の古道と伝説』

Dsc02605_1 八雲神社(公会堂の北側)

Dsc02611_1 大六天社(バス停水の口の北側)

Dsc02613 正八幡宮(円林寺の北西)

Dsc02616_1円林寺(円林寺交差点の所)

Dsc02619 御嶽神社(円林寺の北東)

正徳4年(1714)の建立。ここも祭神は安閑天皇という。『多摩の古道と伝説』 参道が芝生だ。

Dsc02620 神明神社(バス停堺橋の北側)

Dsc02623 地蔵山行昌寺(家政学院交差点の北側)

Dsc02624_1 山門前の古い六地蔵のなぜか首が欠けている。

Dsc02627 相原八幡宮(相原十字路の南側)

神殿前で御神酒をいただく。正面の輪は無病息災を願ってくぐる「芽(ち)の輪くぐり」の輪だろう。くぐるのを忘れた。

Dsc02633 龍源山正泉禅寺(相原八幡宮の南側)

曹洞宗の寺。関東百八地蔵尊霊場の第九十一番札所)

Dsc02637 地蔵尊霊場の名のとおり、ずらりと並んだ小さな地蔵さん。

Dsc02645 長福寺(バス停開戸近く)

背後の高台にある墓地からの眺めがいい。

Dsc02648 諏訪神社(神社入口交差点から北に入った所)

今日寄った神社、寺の中で一番がお参りに来ている人が多かった。それでも2.3組。

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