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2007年2月25日 (日)

横須賀市の坂-13

2007年2月25日

衣笠駅(JR横須賀線)・・・長五郎坂・・・妙伝寺坂・妙伝寺・・・あめや坂・・・駿河坂・・・平作神社・・・おんじ坂・・・新兵衛坂・福昌寺・・・大蔵(だいぞう)寺・瘡守(かさもり)稲荷・・・おかん塚の坂・・・伝馬場(てんまば)坂・・・衣笠駅

 風が冷たく寒い日でした。平作七坂と呼ばれる坂と浦賀道のおかん塚の坂を歩きました。長五郎坂は二つの道筋があり坂上で合流して衣笠病院の方へ通じています。坂下から西に行き妙伝寺坂を上り、さらに西へ行きあめや坂を下って、明登山橋から南に駿河坂を上りました。坂上から大楠山への山道を少し歩いて見ました。もどって、あめや坂の坂上から平作神社に出ました。神社近くの急坂がおんじ坂でしょうか。坂下を北東に進むと福昌寺の墓地裏を新兵衛坂が下っています。坂沿いに「カスヤの森現代美術館」があります。

 平作神社までもどり神社の北側の道を南西に上って下ると明登山大蔵寺で境内に瘡守稲荷神社があります。北に行き池上小学校に沿って西にゆるやかに上り、広い通りへ出て安島医院の脇からおかん塚の坂を上りました。この道は浦賀道で御国幼稚園まで上っています。浦賀道は葉山町の高祖坂の方へ続いています。おかん塚の坂を引き返し、池上小学校から東に入って上り、これも浦賀道の伝馬場坂を下って衣笠駅に出ました。

 【地図

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc04405 長五郎坂(坂上の分岐点から) ①平作2-6と2-12の間を東に上る。(右) ②平作2-7と2-12の間を北東に上る。(左) 《地図》(①の方、②は南側)

坂上の旧家、三堀さん宅の先祖に長五郎さんがいて、何代も続いた。坂周辺一帯は三堀家の土地、坂道も敷地内だった。昔は②の坂を長五郎坂と呼んでいた。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc04406 ①の坂

坂下は城北小学校

Dsc04407_1 ①の坂下近くから

Dsc04409 ②の坂(坂上から)

Dsc04411 ②の坂(坂上方向)

Dsc04414 妙伝寺坂 平作6-25と6-16の間を北西に上る。 《地図

Dsc04417_2橋本山妙伝寺(左)

昔は妙伝寺の前は入海で長い橋が架かっていたので、字名を橋本、山号もこれによる。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc04419 坂下方向(妙伝寺境内から)

Dsc04423 あめや坂(坂上から) 平作6-10と6-9の間を北方向に上る。 《地図

明治の中頃まで、坂上近くの家であめをつくっていた。村人は「あめや」といって親しんでいた。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc04425_1 坂下方向

Dsc04426_1 坂上方向

Dsc04428 駿河坂(坂下方向) 平作3-5と3-7の間を南西から西に上る。《地図

①鎌倉時代に三浦駿河守義村がここを通った。②駿河坂吉衛門という人が住んでいた。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc04447 井戸跡?

ニシと呼ばれる家の井戸で、寺山砲台の軍隊の飲用水でもあった。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc04444 坂上方向

Dsc04440_1 駿河坂の坂上から大楠山方面へ

Dsc04433_1気分のいい道だ。

Dsc04456_1 平作神社(平作6-7)

Dsc04458 おんじ坂 平作7-18を北西に上る。《地図

明治の初め頃、坂の中ほどに石屋をしていた老人が住んでいた。村人はこの老人を方言で「おんじ」と呼び、坂名になったという。おんじとは「お爺さん」の意味だという。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc04459 坂下から

Dsc04463 新兵衛坂(坂上から) 平作7-12と7-14の間を南西に上る。右は福昌寺の墓地。《地図

江戸時代の宝暦(1751~64)のころ粕谷家に新兵衛さんがいて、その名が代々受け継がれた。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc04467 カスヤの森現代美術館

「カスヤ」は粕谷家のことだろう。

Dsc04471 今の坂は昔は福昌寺の境内で、坂は北側のこの竹林の中を通っていた。この竹林が「カスヤの森」で置かれている石像はおそらく「カスヤの森現代美術館」の作品なのだろう。

Dsc04464 坂途中

Dsc04465_1 坂下から

Dsc04473_1 明登山大蔵寺(平作5-13)

天文21年(1521)創建という日蓮宗の寺。

Dsc04472「大蔵寺・瘡守稲荷」説明板

Dsc04474 瘡守稲荷(大蔵寺境内)

江戸時代の郷土力士岩男浪ゆかりの稲荷。

Dsc04480_1 おかん塚の坂 阿倍倉と池上4丁目の間を北西に上る。坂上は御国幼稚園。《地図

浦賀と江戸の間を代官や武士たちが往来した浦賀道で、御代官坂といったのが詰まって、御官坂となりそれが訛って「おかんつか」と言われるようになったそうである。「古老の話」『坂道風土記 三浦半島』 このいわれでは「塚」の説明がよく分からない。やはり何か塚のようなものがあったのでは?

Dsc04483_1 坂下方向

Dsc04486 坂上方向

Dsc04512 伝馬場坂 平作7-1と7-6の間を西から南西に上る。《地図

坂の途中に馬の継ぎ立て場だった屋号が「伝馬場」だった三堀家がある。ここで馬を乗り換えたり、かごの人足が交代した。『坂道風土記 三浦半島』

Dsc04511 庚申塔(坂上近く)

右の板碑型は寛文11年(1671)、中央は元禄8年(1695)

Dsc04516坂上方向

左側の石積みあたりが「伝馬場」の跡か? ペリー来航を江戸に伝える早馬の使者もここで馬を乗り継いだという。

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コメント

戦時中の軍事施設についての知識はなく、寺山砲台が衣笠高角砲台のことかは分かりません。
 駿河坂を歩く時に参考にした『坂道風土記 三浦半島』(神奈川新聞横須賀版の記事)には、「寺山付近まで車が通れる広い道路になっているのは、戦時中に寺山に砲台ができたからです。”軍道”というのでしょうか」、「坂の途中左手、コンクリート製の枠がある。ニシと呼ばれる家の井戸だった。寺山砲台の軍隊の飲用水でもあった」、「戦時中、寺山に砲台があり、私の畑の中に兵舎がありました。ふろ場や、便所のコンクリートのわくが、このとおり残っています」などの記載がありますが、寺山砲台についての詳しい記事はありません。
 以上、お役に立ちそうにはありませんが。

 坂道散歩

投稿: | 2011年5月 3日 (火) 06:51

寺山砲台というのは、横須賀 海軍警備隊 横須賀地区高射隊 第四高角砲大隊 衣笠高角砲台のことでしょうか?

投稿: | 2011年5月 1日 (日) 02:21

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