青葉区・緑区(横浜市)の坂-1
2007年3月22日
市ヶ尾駅(田園都市線)・・・大山街道・・・市ヶ尾竹下地蔵堂・・・猿田坂・・・川間橋(三文橋・鶴見川)・・・田中屋・・・一里榎・・・医薬神社・・・さいかち坂・再勝坂・・・元・寿光院墓地・石塔坂・・・国道246号・恩田川・・・(長津田宿・緑区)・・・片町の石像群・・・岩川・・・六地蔵・・・下長津田神社・・・泣坂・・・餅塚・・・上の原の石仏群・・・いぼとり地蔵・・・(国道246号)・・・片町地蔵堂・・・大山街道・・・下宿常夜燈・・・女坂・大石神社・・・大山街道の旧道・長津田小学校・・・長坂・・・国道246号(ここまで大山街道)・・・林地蔵・・・二十三夜塔・双体道祖神・・・福泉寺・・(国道246号)・・王子神社・・・お七稲荷・・・(国道246号)御前田交差点・・・御前田の石仏群・・・大林(だいりん)寺・・・随流院・・・長津田駅(田園都市線・横浜線)
【ル-ト地図】(大山街道)荏田宿の西の市ヶ尾駅から長津田まで大山街道沿いと長津田宿周辺を歩きました。大山街道は国道246号線(現大山街道)と田園都市線に近づいたり、離れたり、交差したりして西に向っています。石塔坂下の恩田川あたりから片町交差点までは国道を通らねばなりません。片町交差点手前の石像群(群といっても何十、何百もあるわけではない)が見当たらず車の騒音の中、恩田川まで戻ってしまいました。また引き返し、やっと見つけた石像たちは壊滅状態という感じでした。
片町交差点から南に、下長津田神社から横浜線をくぐり、泣坂に出ました。怖い?悲しい?伝承のある坂ですが、もちろん今の坂の周辺には、往時を彷彿とさせるものは何も残っていないただの車道です。泣坂にゆかりがあるのか、ないのか、餅塚にも寄って見ました。
上の原の石仏群などから国道246号を渡り、大山街道に戻りました。長津田駅の南側あたりの街道沿いに長津田宿の下宿の常夜燈などが立ち、大石神社の急な女坂にも上宿の常夜燈があります。神社の西側から長津田小学校の方へ上り、小学校の壁に沿って下る未舗装の細い道が大山街道の旧道です。旧道を下り、さらに細い道を下ると南長津田団地前の大山街道に戻ります。長くゆるやかな長坂が国道246号の長津田交差点まで上っています。
大山街道から離れ、長津田交差点近くのフィールドアスレチックの脇から南に入りました。このあたりの道は細くて起伏が大きく、緑、畑の残っているほっとする所で、道端に林地蔵、二十三夜塔、双体道祖神などがひっそり、目立たず立っています。ずっと昔からこの場所に立っていて、村の人々を見守っていたしょう。東方向に行き、福泉寺から246号を渡ると王子神社、さらに東に246号の裏道を行くとお七稲荷の小さな祠があります。長津田領主岡野家が八百屋お七の処刑に関わったそうです。
246号の御前田交差点を南に渡ると、小さな石仏が足元に一つ。南に御前田の石像群まで足を伸ばし、戻って建替え工事中の大林寺から警備の固い?随流院を外から眺めて長津田駅に出ました。
*『大山街道(長津田駅→愛甲石田駅)』に続く。
*参考:『大山街道見どころマップ-「荏田から長津田まで」・『長津田歴史探訪マップ』
写真をクリックすると拡大します。
市ヶ尾竹下地蔵堂(青葉区市ヶ尾町の地蔵堂下交差点そば。市が尾駅の北側の旧大山街道沿い)
江戸中期頃の建立。地蔵堂前の一番左は道標庚申塔
両足の外側に「大山みち」「江戸みち」と彫ってある。もとは猿田坂にあったものだろう。
猿田坂 地蔵堂下交差点近くから南西方向に下る。《地図》
現在、地蔵堂にある庚申塔などがあったため名づけられた。猿は去るに通じるとして、嫁入り行列はこの坂を避けたとされる。坂下には旅籠綿屋、石橋屋、小石橋屋があった。
川間橋は渡り賃三文を取り、「三門橋」と呼ばれていた。その先は雨が降ると医薬神社の方から土砂崩れが起こり、田畑も土砂に埋もれ「大難の辻」といわれた。
三代将軍徳川家光を治療したと伝えるマムシ治療薬を販売。今も薬屋なのか?
樹齢600年以上、幹の空洞は明治3年の火災による。
医薬神社内
さいかち坂 青葉区もえぎ野のもえぎ野中学校の南側を南西に下って、上る旧大山街道。《地図》
「さいかち」は皀(さいかち)の木のことだろうか?それとも「再勝」でこのあたりに戦の伝承でもあるのか?
石塔坂 青葉区田奈町3と1?の間を南に下る。坂下は国道246号。《地図》
坂上の宝筐印塔、坂下の道祖神による坂名だろう。坂下近くには渡辺崋山の『游相日記』にも登場する恩田茶屋があり、柿や栗を売っていたという。
【ル-ト地図】の15元亀4年(1573)の銘があり、恩田郷に居住した後北条氏ゆかりの武士・糟谷清印が父母の十三回忌供養に建立。(坂上の元・寿光院墓地内)
文化5年(1808の銘)
片町の石像群(緑区いぶき野の国道246号片町交差点の手前(田奈寄り)から細い道を入ったところ)
地蔵(左の木に立てかけてある石のようで頭がない)・地蔵(右の台座?には享保6年(1721)とある) 二十三夜塔もあるというが見当たらず。保存状態悪く、このままでは消滅してしまうのでは。
六地蔵 (いぶき野45、片町交差点から南に入り、岩川を越えたあたり)
昭和44年からの区画整理事業で、八坂、諏訪、金刀比羅、稲荷の4社を合祀した。
泣坂 いぶき野第三公園の南側の泣坂交差点から北東からカーブして南に下る。《地図》
坂上近くに処刑場があり、坂上まで来ると処刑場が見え、罪人が泣き叫んだことからついた坂名だという。
坂下で新泣坂の坂下近くに出る。
新泣坂 泣坂交差点から南東に東名高速の方へ下る。泣坂の南の広い通り。
泣坂の坂上と坂下を直線的に結ぶ坂
【ル-ト地図】の16昔の鎌倉街道が通っていたところで、老婆が餅を売っていたという。このあたりに処刑場があったのか。塚の上は処刑者の供養塔なのか。
「為餅塚関係鎮霊一切菩提也」
【ル-ト地図】の17下宿常夜燈(右)(長津田5-9の旧大山街道沿い) 左は道祖神?
大山講中が文化14年(1817)に建立。長津田十景の「下宿晴嵐」
長津田宿は江戸から9里、荏田宿から2里、鶴間宿へ1里で幕末の頃は約50軒の家数だった。中心は中宿で長津田駅付近にあった。昭和28年の大火で往時の面影はなく、幾つか残る屋号に名残りを留めるのみ。
左側に上宿常夜燈
天保14年(1843)に秋葉講中が建立
大石神社(長津田町2322)
王子神社と共に長津田の鎮守。祭神は在原業平と伝え、御神体の大石は業平の化身ともされ、種々の伝説が伝わる。長津田十景「大石観桜」
【ル-ト地図】の18ここも長坂の一部。長津田十景「長坂夜雨」
長坂(坂下方向) 国道246号の長津田交差点から北東に下る旧大山街道。《地図》
急ではないが長い坂だ。
坂上で国道246号へ出る。
ここまでが大山街道。
林地蔵(国道246号のフィールドアスレチックの東側、長津田町4164あたり)
宝暦10年(1760)の建立
双体道祖神(左下)
本尊の薬師如来を寅年ごとに開帳するので「寅薬師」と呼ばれている。
王子神社(長津田7-5、宮の前交差点の北側)
長津田十景「王子秋月」
長津田の三代領主岡野房勝は、八百屋お七の処刑の時、馬の手綱を引いた。お七の冥福を祈るため稲荷社を建てた。江戸屋敷にもお七稲荷が祀ってあったという。よほど、お七の祟りが怖かったのだろう。落語『お七①』・『お七②』
御前田の石仏群(御前田交差点から南に入った長津田みなみ台1-7?)
庚申塔は文化15年(1818)の銘
大林寺鐘楼(長津田6-6)
長津田十景の一つ「大林晩鐘」
墓地には旗本領主岡野家、初代引田天功の墓などがある。
嘉元元年(1303)?
随流院(長津田駅の南側)
本尊の観世音菩薩は「火伏せ観音」と呼ばれている。
寺の回りは全部鍵が掛かっていて入れず。保育園の安全のためなのか?
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