流山市(千葉県)の坂-1
2007年4月11日
南流山駅(武蔵野線)・・・雷(いかづち)神社・・・東福寺・・・死人坂・・・東福寺千仏堂・・・鰭ヶ崎三本松古墳・・・熊野神社へ上る坂・・熊野神社・・・耳だれ地蔵・・・本覚寺・・・愛染堂(長福寺跡)・・・熊野坂・・・長流寺・・・寺田稲荷・・・一茶双樹記念館・・・光明院・・・赤城神社・・・流山(りゅうさん)寺・・・庚申様(キッコーマン流山工場)・・・近藤勇陣屋跡・・・閻魔堂・・・常与寺・・・浅間神社・・・(流山駅・流山電鉄)・・・飛血山・飛血坂?・・大坂・・・流山市立博物館・・・六部尊・・・流山駅
【地図】
埼玉県三郷市と江戸川を挟んで接する流山市は平坦で坂はないと思っていましたが、けっこう起伏のあるところで昔ながらの静かな雰囲気のある坂にも出会えました。死人坂、飛血山(本当は飛地山)などぶっそうな名ですが、もちろんなんてことはない坂と会社の所有地です。
死人坂ではマンション建設反対運動中で、坂沿いにマンション建設反対のチラシや看板が掲げられいます。「住宅環境が悪くなると死人が出る」と、建設反対の住民たちが名付けた坂名と思っていたら、ちゃんと昔から由来のある坂名でした(後述)。弔い坂(世田谷区)、墓場道の坂・墓場山の坂(小金井市)、お墓の坂(流山市)はありますが、「死人」という直接的な名前の坂は初めてです。川崎市麻生区に「死人」が訛った「しぶと坂」があり、幽霊坂は東京23区に10数坂ありますが。
三本松古墳から熊野神社、耳だれ地蔵にかけてはつくばエクスプレスが通ってはいますが、まだ昔の面影の残るところ。長流寺から先は江戸川の堤近くの旧道で史跡や寺社が多く残っています。このあたりはみりんや醤油で栄えたところで、今もキッコーマン流山工場やメルシャンワインの工場が操業中です。
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雷(いかづち)神社(鰭ヶ崎1767、鰭ヶ崎駅近く)
東福寺(鰭ヶ崎1303)
弘法大師が弘仁5年(814)に開基したという真言宗の寺。天慶の乱に際し、藤原秀郷が戦勝を祈願。(『将門散歩』)「鰭ヶ崎」の地名の由来となった伝承がある。
民話④ 「目つぶしの鴨」
死人坂 鰭ヶ崎2009と2044の間を北東から曲がって北西に上る。坂上は東福寺千仏堂 《地図》
昔は急な坂道を人間が仏様を担いで墓地(東福寺千仏堂墓地)まで運んでいました。もちろん火葬ではなく土葬の時代ですから雨の後は舗装もない道はツルツルで滑りやすく、転んで仏様を放り出してしまうことがありました。それがこの坂の名前の由来だと聞きました。この地方では昭和40年代まで土葬が行われていたと聞きますから、これもそれほど大昔の話ではないようです。土葬がなくなった今も地元の人たちには親しみのある名称のようです。「鰭ヶ崎の住宅環境を守る会」のHPより。坂名の由来はともかく、昭和40年代まで土葬だったというのは本当だろうか?信じられない。(自分で調査、確認したわけではないが)
右側の覆いのところがマンション建設予定地
曲がる交差点の下を「つくばエクスプレス」が通っている。昔の人たちがそれを知ったら、驚いて仏様を放り出してしまうのも無理ないでしょう。
三本松古墳(鰭ヶ崎1263)
6C後半の全長25mの前方後円墳
古墳上の稲荷と石碑
鰭ヶ崎1268あたり
右上に熊野神社
熊野神社(思井305)
創立年代不詳。天和元年(1681)社殿を再建という。『流山の道』によれば、神社の後ろ側から下る急な「屁っぷり坂」があったという。今もあるのか後日、確認に再度訪れたい。
『流山の民話』の③「八木の椎の木」つくばエクスプレス(熊野神社の西側・写真上がつくば方向)
2005年8月開業元禄3年(1690)建立の延命地蔵。耳の病いにご利益があるという。
忠犬小金丸伝説の犬塚(いのっつか)がある(あった)とういうのはここだろうか?
建武元年(1334)創建の日蓮宗の寺。
新四国江戸川霊場第61番(愛染堂の近く)
正面はつくばエクスプレス
延徳年間(1489~91)創建の旧長福寺のお堂。
飯田藤村子歌碑(愛染堂境内)
熊野坂 中交差点から西へ平和台駅の方へ下る。西平井と平和台4丁目の間の坂。《地図》
熊野神社に向う坂の意だろうか。坂上からちょっと離れてはいるが。昔は追剥が出たという。
流山七福神の恵比寿
一茶双樹記念館(流山6-670)
八重紅枝垂と多羅葉
光明院から赤城神社へ上る石段のところ
光明院から赤城神社へ上る石段のところ
流山の地名の発祥伝説の神社。建長年間(1249~56)に、上州(群馬県)の赤木山の一角が崩れ、ここへ流れついたという。
流山七福神の大黒天
右は文化15年(1818)の建立。
近藤勇陣屋(流山2-108)
天保六花撰の一人、義賊の金子市之丞と遊女三千歳の墓(右)
『流山の民話』の⑥「ビン小僧の金市」 閻魔堂には迫力ある閻魔大王が座っている。正しくは「飛地山」。加村の台地が江戸川に向って突き出た一帯を「坂の台」あるいは「飛地山」と呼ぶ。「飛地山」の名は江戸時代に駿河国田中(静岡県藤枝市)に城を持っていた本多氏が、この地一帯にあった飛地領の役所をここに置いたためといわれている。『流山のむかし』 昔ここに処刑場があったとの噂話も。何時か誰かが「飛地」を「飛血」にして面白くしたのだろう。因みに近藤勇が処刑されたのは板橋で、板橋駅(JR埼京線)そばには墓がある。『川越街道』の最後に記載。
「飛血山」は、「ソフトウエア興業株式会社」の社有内。建物等の施設はなく空き地らしい。以前は電々公社流山社宅があったようだ。
大坂 流山駅北側の流山1交差点から東に上る。 《地図》
左側が旧道
旧道(諏訪道)から坂上方向
市立博物館(加1-1225)
明和4年(1767)創建の小祠。
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コメント
興味深い記事を書いていただきありがとうございます。
記事内にあった以下の内容について、
> 昭和40年代まで土葬だったというのは本当だろうか?信じられない。
1965年の火葬率は71.8%だそうです(https://souken.info/himonya21/)。
残りの28%はおそらくほぼ全て土葬だと思われます。気になったので少し調べてみました。
ご参考まで。
投稿: | 2022年7月 4日 (月) 10:24
飛地山に電々公社流山社宅?
電々公社の社宅は今セントラルパークマンションが建っているとこに電々公社の社宅があったんだよ。
後飛地山には役所はなく東葛県庁があったとこに田中藩の陣屋があったんだよ。勿論牢屋も市役所隣の法務局出張所辺りにあった。
投稿: | 2020年5月20日 (水) 06:43