流山市の坂-2
2007年4月17日
南柏駅(JR常磐線)・・・旧水戸街道・・・香取神社①・一里塚碑・・・大木戸坂・・・常磐線陸橋・・・国道6号(水戸街道)・・・香取神社②・香取神社から下る坂・・宝蔵院・・・前ヶ崎城跡・・・七左衛門坂・・・清龍院・・・新四国江戸川霊場第53番札所・・・広寿寺(右の写真は山門前へ上る坂)・・・香取神社③・・・お宮の坂・・・猿子坂・・・松ケ丘ふるさと公園・・・野馬除土手・・・南柏駅
【地図】
今にも雨が落ちてきそうな空の下を、南柏駅から右回りに流山市の南東部の向小金、前ヶ崎、名都借、松ケ丘と歩きました。南柏駅南口から旧水戸街道に出て、南西に行くと道沿いに香取神社①があります。ここが旧水戸街道の一里塚があったところで、新しい「一里塚の碑」が立っています。
香取神社前の道に入り進むと、細い下り坂となって常磐線の線路にぶつかります。この坂が大木戸坂です。昔は水戸街道に通ずる木戸があったのでしょうか。来た道を途中まで戻り、北に常磐線を越え国道6号(水戸街道)を渡り、香取神社②に寄りました。このあたりはまだ田園風景の残るところです。神社裏手からいい感じの坂を下り、坂下から北西方向に進んで、キャンプ場あたりで段丘上の古道の雰囲気のある道に入りました。左側は崖で下には田んぼが広がっています。宝蔵院を過ぎると下りとなって右側が高くなり樹木のかぶさる道になって前ヶ崎城跡に出ます。
前ヶ崎城跡から南西方向に進み七左衛門坂を上りました。途中、坂上右方向の小高い所が名都借城のあったところです。坂上の北側に清龍院、南側にモダンな本堂の広寿寺があります。清龍院の東側の香取神社③の脇のお宮の坂を下って突当たると柏市豊四季との市境です。北方向に猿子坂が名都借バス停の通りまで上っています。坂下だけが流山市ですが、『流山の道』に載っていた坂なので流山市の坂としました。
猿子坂下に戻り、東から南東に回りこむように進むと松ケ丘ふるさと公園で、公園の中を東に抜けて進むと突当たりが柏市との境になっている野馬除土手で土手の間は堀になっています。土手沿いに南に行くと国道6号にぶつかり南柏の北口は間近です。
*参考にした『流山の道』(流山市立博物館)では、古老たち(明治から昭和の初めの生まれ)は「~(の)坂」を「~(の)さが」言っています。坂という言葉の起こりが「嶮(さが)しき」からきたとする説があります。古老たちの発音はこの説を裏づけるのではと思いました。
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水戸街道の日本橋から7番目の塚。一茶の句「下陰を さがしてよぶや 親の馬」が刻まれている。
享保6年(1721)の銘
大木戸坂 前ヶ崎685と686の間を南東に上る。坂下はJR常磐線 《地図》
水戸街道に通ずる道で検問の木戸があったのか?
元禄16年(1703)の銘
坂下は松戸市東平賀との境近くで低地で田んぼ。
戦国時代、松戸市の小金を中心に、流山・柏・我孫子・沼南・松戸などに勢力を伸ばした小金城主高城氏の支城の一つ。
七左衛門坂 前ヶ崎城跡公園の北側から南東に上る。 《地図》
坂近くに「七左衛門」という屋号の家があった。『流山の道』 坂付近の雰囲気では今でもあるかも知れない。
正面の小高い森に名都借城(小金城主高城氏の支城の一つ)があった。
左の森は前ヶ崎城跡
流山七福神の寿老人
新四国江戸川霊場第35番札所?
お宮の坂 名都借の香取神社脇から北西に上る。 《地図》
お宮は香取神社のこと。
猿子坂 名都借から柏市豊四季371と375の間を北に上る。《地図》
猿が走り回るような、急な狭い道で、両側に生えている笹にでも掴まらなければ上れないような坂だった。『流山の道』 今は住宅街の広い道でさほど急でもない。
地元では、「ぬまどて」とか「ぬまぼり」という。この地方の牧(牧場)では、幕府が馬を放し飼いにしたので、農民たちは野馬から家や畑を守ったり、野馬が自分たちの田んぼなどでけがをしないように、柵ではなく土手を築いて生活する環境を分けた。『流山のむかし』
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