取手市の坂-4
2007年5月16日
取手駅(常磐線)バス→戸田井・・・戸田井橋(小貝川)・・・動坂・・・城の内坂・・・観音堂・西光院・白山神社・・・城の内天神社跡・・・城之内共同墓地・・・東京芸大バス停(県道)・・・四郎右衛門坂・・・地蔵堂・・・宗四郎坂・首切り地蔵・・・丸山稲荷・・・四郎右衛門坂・・・小文間小学校・・・(県道)・・・大日堂・百庚申・大日坂(上の写真)・春日神社・・・勘右衛門坂・福永寺・・・中妻バス停 バス→取手駅
【地図】
「取手の坂道愛好会」の資料を参考に、小文間(おもんま)の坂を東から歩きました。県道(動坂)が出来る前は幹線道路だったという城の内坂は今は昔の面影を残すひっそりとした裏道です。坂上で県道の天神前バス停近くに出ます。道路沿いの竹薮の中あたりが小文間城主一色宮内氏の城の内天神社あったところのようです。天神前バス停近くから県道の南側に入り坂を下って、日鉱団地の奥にあるという中田坂を探して松陽高校の南の方まで行ってみましたが道は途切れ、それらしい坂は見つかりませんでした。
県道に戻り東京芸大のバス停から南側に入りました。小文間小学校の近くで県道を挟んで南側に四郎右衛門、宗四郎、直右衛門(未訪)、北側に勘右衛門など似たような名前のついた坂が並んでいてちょっとややこしいです。北側の坂下には田んぼが広がり、南側の坂は利根川の河川敷へ続きます。
写真をクリックすると拡大します。
昔は「戸田井の渡し」と「南の渡し(神出の渡し)」があったそうだ。
正面の上り坂が動坂。
動坂(坂上方向) 小文間の取手松陽高校の北側を北西に上る県道11号。 《地図》
東京文京区の動坂のように、坂の近くに不動尊を祀るお堂があったのだろうか?
観音堂(右・新四国相馬霊場札所第16番)
西光院(第64番)
城の内坂(坂上方向) 不動坂の坂下近くから西に入り、白山神社の北側を北東に上り県道に出る。《地図》
小文間城主一色宮内政良が信仰していた城の内天神社があった。このあたり一帯に舘があり、城の内と呼ばれるようになったのだろう。(一色宮内政良と政義は同一人物だろう。資料によって両方の表記がされている。)
左の崖上の竹薮の中に城の内天神社があったようだ。(県道の天神前バス停そば) 天神社はどこへ移ったのだろうか? 確か白山神社前あたりに天満宮の小祠があったような気がするが、そこだろうか?
トンネルに入っていくような感じ。
四郎右衛門坂(坂下方向) 小文間5355あたりから南東にから南方向に下る。《地図》
坂下に倉持四郎右衛門の屋敷があった。今も倉持家はある。
蛍光灯がついている。
隣りの食堂の人の話では子育て地蔵。「首切り地蔵」は昔はここにあったようだ。
顔が描かれていてなんだか返って薄気味悪い。
宗四郎坂 小文間郵便局の南側から南に下る。《地図》
斉藤家の祖先は戦国時代の美濃国の斉藤道三の孫の龍興で、初代の斉藤宗四郎は、幕府から小文間一帯の荒地を貰い、開拓、帰農して小文間村の草分けとして名主になった。斉藤家は代々宗四郎を名乗り、小文間はもとより近郷切っての地主であると同時に、幕府の代官伊奈氏代々の治水、土地開拓に協力し、自らは永大名主として村の実権を握っていた。『取手町郷土史資料集 第1集』より
杏庵は天保6年(1835)の生まれで、近郷の子弟を集め人材を養成すべく宗四郎坂の近くに「如春塾」を開いた。杏庵の死後、斉藤家は衰退した。『取手町郷土史資料集 第1集』より
利根川の河川敷へと続く。かつては「神出の渡し」に通じていた。
首切り地蔵(宗四郎坂の坂上近くを東に入った「アルスの森サクラ公園の隣り)
永禄4年(1561)8月、小文間城主一色宮内政義は取手の大鹿太郎左衛門を破った留守を攻められ、雁金山相野谷で亡んだ。一色家一族は東谷寺の東に葬られ、その入口には地蔵が建てられた。しかし、一族の霊は鎮まらず、亡霊が夜な夜な現れ村人をなやませた。これを聞いた小文間の名主斉藤秀政は、人をつかわして地蔵を見に行かせると地蔵の首は見事に切り落とされていた。斉藤家では盛大な供養をして、自宅の鬼門に当たる場所へ小祠を作りこれを祀った。亡霊は現れなくなったが、村人はこの地蔵を恐れ、大雨の日には地蔵前に血の雨が降ると伝えられていた。また、旧暦8月15日には地蔵尊の祭礼が行われ、ここをお参りすると頭の病や、おこりによく効くといわれている。『取手市史 民俗編(2)』
斉藤秀政は初代斉藤宗四郎で、徳川二代将軍の秀忠の頃の人物だから、村人は何十年もの間、一色家の亡霊になやまされていたことになる。小文間小学校付近を「地蔵前」と呼ぶ。昔は「子育て地蔵堂」がある辻の所にこの「首切り地蔵」は立っていたのだろう。
首切り地蔵の後ろのアルスの森サクラ公園の前を進んだ林の道の中で薄暗い。
ここから四郎右衛門坂の坂下に出た。
大日坂の坂上 小文間の大日堂の東側を北東に下る。《地図》
正面左が大日堂(第72番札所)
勘右衛門坂(坂下から) 福永寺の西側を北東に下る。《地図》
坂の途中に林勘右衛門氏の家がある。
右の家が林家。
正面は福永寺
海中から湧いたという毘沙門天が本尊。
新四国相馬霊場第63番札所
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コメント
取手市は自然が残っていて良いところですね。常磐線取手駅周辺はベットタウンの雰囲気がありますが、東京芸大は大利根川の自然が残っていて、自然と芸術のコントラストが目を惹きます。
小文間城は足利公方配下の一色少輔政良の城ですが、彼は幸手市の一色と手を結んで、大鹿城、荒木城を挟み撃ちしました。しかし平氏系の守谷城の相馬治胤や髙井氏の逆襲で滅びました。
ところで小文間にはもう一つの城の内城という城があって、この城は14世紀の相馬五郎胤家にまで遡ると思われます。
小文間は昔は川原代と同じ相馬郡に属す村だったと言われています。
投稿: 武蔵七党 | 2009年7月29日 (水) 22:46