金沢市の坂-2
2007年10月4日
金沢駅・・・昭和大通り(県道146号)・・・御影大橋・・・犀川神社・・・新橋・・・室生犀星記念館・・・瑞泉寺・・・雨宝院・・・神明宮・弁慶坂跡・・・瓶割坂・・・にし茶屋街・・・瓶割坂・・・蛤坂新道への坂・蛤坂・山錦楼・妙慶寺・・・寺町・妙立寺(忍者寺)・・・つば甚・甚兵衛坂・・・犀川・・・桜橋・・・新桜坂・W坂(石伐坂)・桜坂・・・野田往還(県道45号)・・・長良坂(上の写真)・・・新長良坂(仮称)・・・野田往還・祇陀(ぎだ)寺・・・不老坂・・・八幡坂(仮称)・・・不動坂(仮称)・・・野田往還・・・御参詣坂・・・新御参詣坂(仮称)・・・日吉神社・・・桃雲寺・・・覚尊寺・山側環状(県道22号)・・・野田山墓地・・・大乗寺・新大乗寺坂(仮称)・・・平和町バス停→出羽町バス停・・・石川護国神社・・・県庁舎石引分室・能楽堂・・・県立美術館・美術の小径・・・中村記念美術館・旧中村邸・・・金沢中署・・・瞽女(ごぜ)坂・・・天狗坂・・・(本多通り)・・・鈴木大拙生誕地・・・大乗寺坂・・・本多通り・・・県立図書館・・・21美術館裏・西外惣構堀宮内橋跡・・・香林坊・・・鞍月用水・・・金沢駅
今日は犀川左岸を、御影大橋から上流に前田家の墓がある野田山墓地まで坂道散歩をした後、バスで兼六園の南の出羽町バス停に出て近辺の坂を歩く。
新橋で犀川を渡り左岸へ。瓶割坂、弁慶坂は各地にある義経・弁慶伝説の一つ。ここ北国街道の瓶割坂は今はただの車道で面白味はないが、東京新宿区の靖国通りの瓶割坂よりはましだ。
何度も折れ曲がる石段の甚兵衛坂は下り口も上り口も細い路地を入ったところなので分かりにくい。こんな所にも隠れ坂があるのかと嬉しくなるような坂だ。
桜橋から新桜坂・W坂・桜坂が上っている。新桜坂は車用、W坂は歩行者専用、桜坂は車も通るが主に歩行者用の坂だ。もちろん歩行者は目的地によって通る坂を使い分けるだろうが。W坂は石伐坂を旧四高生がこう呼んだのが始まりという。小説などにも登場する坂で、坂の途中に井上靖の「北の海」の一節が文学碑で立っている。東京文京区のS坂(新坂)も一高生がつけた名で、森鴎外の「青年」に出てくる。共通点が多く面白い。
長良坂、不老坂、御参詣坂は野田往還から犀川の方へ下る急坂で、片方に歩行者用の低い石段がついた綺麗な坂だ。長良坂の途中には地蔵さんが祀られていて脇に湧水が流れている。ここを通る中年以上?の女性は皆、地蔵の前で足を止め手を合わせて行った。幸せな地蔵さんだ。加賀の殿様たちが船で犀川を上り、法島あたりの船着場から御参詣坂を上って野田往来へ出て、先祖の墓のある野田山へと参ったという。今日は御参詣坂を下り、広い車道で途中からの眺めのいい新御参詣坂を上り野田山墓地へ向った。
墓地内を横切り大乗寺へ向う途中には、「クマ」注意の看板がかかっている。墓の供え物などを目当てに熊が野田山から降りて来るのか。大乗寺はどっしりと風格のある寺で総門、山門、仏殿、墓地などが並ぶ広い境内だ。もとはこの寺は本多町にあった。元禄年間に寺はここに移り、大乗寺坂は本多町に残った。総門は大乗寺坂にあった門を移築したという。
今日の予定の犀川左岸の坂道散歩はここまでだが、まだ日暮れは遠い。バスで兼六園の南の出羽町に出て、県立美術館脇から急な石段の美術の小径を下る、脇を滝のような流れが落ちている。石段が終わるあたりで滝の流れも忽然と姿を消してしまう。ゆるやかに下ると中村記念美術館の裏手へ出た。今は遊歩道のようなこの道は本田家の上屋敷と下屋敷を結ぶ古くからの道筋だったという。
瞽女(ごぜ)坂、天狗坂は裏通りの細く、ゆるやかな坂で昔の面影はない。道筋もはっきりしないようだ。本多通りから大乗寺坂へ向う。県立工業高校の前あたりから薄暗い上り口が見える。大乗寺は坂下にあったという。石段の坂は木立の間を直線的に曲がりながら行く遊歩道という感じで、坂の途中にはベンチもおいてある。坂を上り下りして本多通りの県立図書館に寄り、香林坊から鞍月用水を通り金沢駅に向った。
*坂名の後に(仮称)とある坂は、坂名がついていない坂(坂名があるかもしれないが不明)なので、私が仮につけた坂名。通称されている坂名ではない。
【地図】
写真をクリックすると拡大します。
浅野川を泉鏡花が女川と表現したことから男川と呼ばれる。河畔の「犀星のみち」に「室生犀星の文学碑」が立つ。
犀川神社(中央通町16)
室生犀星記念館(千日町3-22)
室生犀星が幼少を過ごした寺。
坂上は瓶割坂。左端は子安地蔵尊で唇を赤く塗られた跡があり、女性的な地蔵で女性の信仰を集めるという。
瓶割坂(坂上方向) 犀川大橋から南西に上る北国街道(国道157号)。《地図》 別名を神明坂。
源義経の一行が北陸道を経て奥州へ下るとき、この坂で北の方が産気づいた。慌てて衣類を瓶の中から取り出そうとして瓶を割ってしまったのが坂名の由来という。東京の新宿区の靖国通りにも瓶割坂がある。瓶とは腹の意で瓶割はお産のこと。弁慶が子どもを取上げたという各地に残る義経、弁慶伝説の一つがこの辺にあったのだろう。近くに弁慶橋もあった。『新宿区町名誌』 (「新宿区の坂-5」に記載) また、越後米山の北陸道沿いにも瓶割坂があり、義経の北の方がそこでお産をしたという。ここ(金沢)の瓶割坂の由来も器(うつわ)の瓶を割ったのではなく、北の方がお産をしたというのが本来の筋だったのでは。
金沢旧五社の一つ。中原中也は子どもの頃、境内で軽業見た思い出を題材に、詩「サーカス」を作ったといわれる。空中ブランコが揺れる「ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん」が何とも言えない表現だねえ。 室生犀星も境内ここで遊んだのだろう。
弁慶坂跡 神明宮の裏横から下る石段。 《地図》
瓶割坂の弁慶・義経伝説からの坂名だろう。
雑草に覆われ通られていないようだ。
にし茶屋街(野町)
江戸時代に遊郭がつくられ、「にしの新地」と呼ばれた。明治以降も歓楽街として賑わった。
右は山錦楼の裏側・左が蛤坂新道・犀川
山錦楼(明治28年創業の料理屋)もカーブして作られている。
蛤(はまぐり)坂 犀川大橋から南東から南西に上る。《地図》
【坂標】の説明文:「加賀藩前期に妙慶寺坂といったが、享保十八年の火災後、蛤が口を開いたようになったのでこの名がついた。」
火災で坂が拡張され、蛤の口が「火で開く」と連想してついた洒落た坂名。火元は雨宝院だそうだ。左側に山錦楼、右に妙慶寺。
右は山錦楼の表側
蛤坂は以前は妙慶寺坂といった。
右奥が妙立寺
妙立(みょうりゅう)寺(忍者寺)(野町1-2)
隠し部屋や階段、ドンデン返しなど複雑な仕掛けがあり、忍者寺と呼ばれる。
つば甚(寺町5-1)
創業宝暦2年(1752)の料亭。前田家のお抱え鍔師だった鍔屋三代目甚兵衛が営んだ「つば屋」が始まりとされる。
甚兵衛坂 寺町5-1のつば甚の南側から北東に曲がりながら下る階段坂。《地図》
鍔屋甚兵衛にちなむ坂名。『サカロジー 金沢の坂』では、この坂を「つばや坂」と呼ぶ。
正面は犀川
桜橋から
新桜坂(坂上方向) 桜橋南詰から北西に上る本多通り。《地図》
W坂(石伐坂) 新桜坂の坂下からジグザグに南西に上る石段坂。《地図》
WというよりΣか。旧四高生がつけた坂名という。
正面は桜坂
「W坂」が出てくる。『金沢W坂の殺人』(吉村達也)というのもある。この坂で同時刻にWの一辺ごとに四重殺が行われたという、荒唐無稽?なもの。トリックもいまいち。
正面は新桜坂
下の橋は桜橋(犀川)
説明文:石伐坂 「藩政時代から坂の上に石工の職人町があった。清立寺坂、吹屋坂、くの字坂とも呼ばれ、現在はW坂という。 桜坂 「慶応元年に作られ、明治二十五年改修された。城からの眺めをよくするため、加賀藩時代、坂の上に桜が多く植えられたのでこの名で呼ばれた。」 以前は坂上を桜畠町といった。
桜坂(坂上方向) W坂の坂下から南東に上る。《地図》
左はW坂(石伐坂)の階段・正面から左方向へ新桜坂が上る。
長良坂 下菊橋南詰から南西に上る。《地図》
【坂標】の説明文:「旧長良町へ上がる坂なのでこの名がついた。犀川のがけふちにあり、川風が吹き上げてくるので、吹上ともよばれていた。」
右は金茶寮(料理旅館)(寺町1-8)
新長良坂(仮称)(坂上方向)《地図》
下菊橋から寺町1丁目交差点へ曲がりながら上る坂。坂上は不老坂の坂上近く。
不老坂 上菊橋から南西に上る。《地図》
【坂標】の説明文:「細く急な坂道であったが、明治の中ごろ上菊橋とつながり、のち拡張整備され縁起の良いこの名がつけられたという。近くに風呂場があり、不老長寿によいというので、この名で呼ばれたともいう。」 『サカロジー 金沢の坂』によると、坂上は市電の寺町の終点で、「終点坂」とも呼んでいた。(坂標の説明文の)風呂屋は坂下にあった法島湯で旅館を併設していた。 「終点」と「不老」の取り合わせがおかしい。
不動坂(仮称) (坂上方向)《地図》
法島不動尊(正面右側の小祠)の前を通り共同墓地まで上る坂。
法島不動尊(十一屋町4)《地図》
正面左側の不動尊の脇から十一屋町八幡神社へ上る石段が八幡坂。
八幡坂(仮称) 《地図》
石段上が十一屋町八幡神社の裏側。
正面下の法島不動尊の前を右方向に上るのが不動坂。
御参詣坂 野田往還(県道144号・別所野田線)の平和町3丁目の交差点から北東に入り下る。 《地図》
【坂標】の説明文:「藩政時代、法島村から祇陀寺の向うへ至る坂と、今一つ崖の下から桃雲寺手前の野田往来へ至るこの坂をこう呼んだ。野田山墓地に参詣することからこの名がついた。」 説明文には二つの道筋がある。「野田往来へ至る坂」はこの坂だが、「祇陀(ぎだ)寺の向うへ至る坂」というのはどの道か? 祇陀寺は不老坂の坂上の寺町1丁目の交差点のところにある。①昔は不老坂のことを御参詣坂と呼んだのか。②共同墓地の方へ出て、不動坂から八幡坂を上って祇陀寺の前へ出る道筋のことか。祇陀寺の「向う」というのもどこへ向うのか分からない。
新御参詣坂(仮称)(坂上方向)《地図》 野田往還の野田町交差点から北東方向に大桑橋に下る野田上野町線。
桃雲寺(野田町)
野田山(標高約180m)の北斜面にある墓地。真っ直ぐ行くと前田家の墓がある。
野田山墓地(右)と大乗寺(左)の間の坂(坂下方向)《地図》
大乗寺(長坂町)説明板
はじめは本多町の「大乗寺坂」にあった。
新大乗寺坂(仮称)(坂下方向) 長坂台小東交差点の南から大乗寺へ南西に上る。《地図》
かつて本多町に大乗寺はあった。寺はここへ移転し、大乗寺坂は本多町に残った。
平和町バス停→出羽町バス停県庁舎石引分室(石引4-18)
旧陸軍金沢偕行社で、2007年から石川県立歴史博物館の分室となった。
美術の小径(坂上方向) 中村記念美術館の裏から県立美術館へ上る。上部は石段。《地図》
右に辰巳用水の分水が流れ落ちる。
滝のように流れ落ちるがこの先で流れは消える。
瞽女(ごぜ)坂(坂上から) 茨城町15と23の間を北東に上る。《地図》
加賀藩家老本田家の下屋敷に近く、御前坂から来ているという。『金沢九十九坂』 だとすれば、「瞽女」の字を当てるのはなぜなのか。
天狗坂(坂下から) ごぜ坂の一本南側の坂。《地図》
武家屋敷の邸内の木立が暗く、恐ろしい感じがあったからつけられたという。『金沢九十九坂』 暗くて天狗でも出そうなところだったのか。
坂上は本多通りの本多町交差点のそば。
大乗寺坂 県立工業高校の北側から本多2丁目と3丁目の間を曲がりながら北東に上る石段坂。《地図》
【坂標】の説明文:「慶長から元禄年間に曹洞宗の古寺、大乗寺が坂下にあったのでこの名で呼ばれている。同寺はのち長坂へ移転した。」
明治になって歩兵連隊の練兵場が建設され、大乗寺坂は場内に取り込まれ姿を消した。戦後、練兵場が民間に払い下げられた時、金沢市が大乗寺坂を復活させた。『サカロジー 金沢の坂』
何が書いてあるか分からず。
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