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2007年11月29日 (木)

金沢市の坂-6

2007年11月29日

金沢駅・・・武蔵ケ辻・・・小橋(浅野川)・・・俵屋(飴屋)・・・あめや(飴屋)坂・光覚寺・・・小坂神社・汐見坂・・・汐見坂緑地・うぐいす台・卯辰山工芸工房・卯辰窯・・・望湖台・・・一本松坂・宇多須神社奥社・・・松尾神社・・・宇多須神社・菅原神社・ひがし茶屋街・・・子来(こらい・こぎ)坂宝泉寺・東山蓮如堂・・・山野草園・・・子来坂・・・寿経寺・・・観音坂・・・観音院・・・観音女坂・・・山野草園・・・帰厚坂・・・花菖蒲園・・・千杵坂・三年坂・二年坂(開基坂)・一年坂・卯辰山三社・・・常盤町緑地・・・常盤坂・・・常盤不動尊・・・常盤橋(浅野川)・・・常盤橋バス停(金沢フラットバス)→武蔵ケ辻

 紅葉、黄葉、落葉の卯辰山と浅野川右岸の坂道散歩です。浅野川の小橋を渡り、あめや坂に向う途中で老舗の飴屋の俵屋があるのに気づく。店の若い女性の店員さん?に光覚寺の「あめかい地蔵」の聞いてみる。地蔵のことは知らないようだが、「飴買い幽霊」伝説のことは知っていた。導入寺にも同じような伝説があるのを教わり、さすがと思いちょっと嬉しくなる。あめや坂は国道に分断され坂とは呼べない有様だが、伝わる話は面白い(後述)。子供を虐待する今の母親(父親も)に聞かせたい話だ。

 小坂神社前から卯辰山公園への汐見坂の長い上りとなる。東京の汐見坂とは違い今でもちゃんと海が見える坂だ。坂上近くの紅葉が見事で望湖台まで上る。卯辰山工芸工房の前から下って宇多須神社奥社へ寄り、一本松坂を下る。ひがし茶屋街に来る観光客も急で長い子来坂までは来ない。子来坂は宝泉寺、蓮如堂を過ぎ山野草園の近くまで上っている。観音女坂も坂上近くで帰厚坂と合流し、卯辰山公園の花菖蒲園の前まで上る長い坂だ。ただし、今は観音院へは通じていない。

 帰厚坂を上り返し、花菖蒲園の中の千杵坂から卯辰山三社へ上り、常盤町緑地の方へ下る。この坂の紅葉もきれいだった。坂下の浅野川の常盤橋脇から常盤坂を上る。この坂は常盤不動尊の所で行き止まりとなる。お堂には何ともおかし味のある不動明王像が立っている。常盤橋を渡り、観光客と地元の人も乗っている金沢フラットバス(料金100円)で武蔵ケ辻へ出た。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc04734 俵屋(小橋町2-4)

天保元年(1830)創業のあめ(飴)屋。あめや坂の「飴屋」とは関係なさそうだ。

Dsc04735 あめや(飴屋)坂  森山2丁目の森山小学校の前から城北大通り(国道159号)を横切り光覚寺へ上る坂。【ルート地図】の①

藩政期のころはかなり長い急坂で、子供たちが荷車の後押しをして駄賃を貰っていたという。

「飴買い幽霊」の伝説 「藩政期初期のころ、光覚寺の門前の坂の飴屋に毎夜、飴を買いに来る女がいた。ある夜、「今夜が最後」と言い残し店を出て行った。店の主人が後をつけて行くと女は坂を上って光覚寺の墓地に入り、新しい土饅頭の前で消えた。それは子をはらんだまま急逝した若い母親の土饅頭だった。翌朝、役人や家人と掘り返してみると柩の中で男の子が生まれていた。赤子は元気だったが、一緒に埋めた六文の銭は一文も残っていなかった。母親の霊が坂を下りて、銭が無くなるまで赤子のために飴を買いに行ったのだ。それ以来、光覚寺の門前坂を「あめや坂」と呼ぶようになった。後に、男の子は立派な高僧になったという。『サカロジー 金沢の坂』より
 「あめや坂」は古事記の黄泉比良坂
出雲の坂-4と同じく、この世とあの世、生と死をつなぐ坂だったのだ。「飴買い幽霊」の話は、東京港区の中原街道 沿いの光福寺の「ゆうれい地蔵」、長崎市のゆうれい坂上の光源寺など各地にあり、上方落語にも「幽霊飴」という話がある。

Dsc04736 国道159号を挟んで坂上に光覚寺

飴買い幽霊伝説の寺

Dsc04737 光覚寺説明板

最後に「飴買い幽霊伝説の寺としても知られていると。」とある。

Dsc04739 あめかい地蔵尊(光覚寺裏の墓地)

頭に苔が生え、歳月を感じる温和なやさし味が溢れる地蔵さん。

Dsc04753 小坂神社(山の上町42)

創建年代は不明だが、古くから小坂庄の総社。

Dsc04761 汐見坂(坂下近くから) 小坂神社の前から卯辰山公園に上る坂。【ルート地図】の②

坂上近くから日本海が見える坂。

Dsc04758 小さな地蔵さん(坂下の小坂神社近く)

Dsc04767 汐見坂緑地付近から日本海

Dsc04770 坂上近くの紅葉

Dsc04772 卯辰窯

汐見坂の坂上近く。

Dsc04787 坂上方向

Dsc04781_2望湖台から

正面の高いビルが県庁。その向うに日本海。

Dsc04793 一本松坂 卯辰山の宇多須神社奥社の石柱前から松尾神社の方へ下る坂。石柱の前の坂。《地図

昔、旧社の辺りに「卯辰山一本松」という大きな松の木があった。「袈裟かけの松」とも呼ばれた。源義経が北陸道を経て奥州下りをしたとき、この松の下で休息をとり、袈裟を掛けたという。今は三代目の松が植樹されている。『サカロジー 金沢の坂』で名づけられた坂名で通称されている坂名ではないようだ。

Dsc04800 宇多須神社奥社

正面の松が三代目かの一本松なのか?

Dsc04794 説明板

Dsc04802 一本松坂(坂下方向)

Dsc04806 坂下方向

Dsc04811 松尾神社(子来町)

一本松坂の坂下を進んだ所。

Dsc04809 説明板

Dsc04813 宇多須神社(東山1-30)

Dsc04812 説明板

Dsc04817 ひがし茶屋街(東山1丁目)

Dsc04818 説明板

Dsc04822子来(こぎ)坂 宇多須神社(左)の横から南東に上る。【ルート地図】の③

【坂標】の説明文 「慶応三年卯辰山が開発されたとき、作業に来た住民大勢が子供が来るようににぎやかに登ったのでこの名がついた。今はこらい坂と呼んでいる。」

Dsc04823 坂上方向

Dsc04826 坂下方向

左の石垣は宝泉寺。

Dsc04828 宝泉寺(子来町57)

Dsc04827 説明板

Dsc04840東山蓮如堂の蓮如像(子来坂の坂上近く)

昭和7年の建立の蓮如像。

Dsc04839 説明板

Dsc04852 観音女坂(正面)・観音坂(途中で右に入る。)

左は寿経寺(東山1-31)

Dsc04854 観音坂へ

Dsc04856 観音坂 観音院へ上る参道。 【ルート地図】の④

【坂標】の説明文 「観音院の門前の坂で、加賀藩初期、同院の参道として作られた。明治四十二年北側に新しい坂路ができた。」 「新しい坂路」は観音女坂のこと。

Dsc04857 坂下方向

Dsc04860観音院(東山1-38)

Dsc04855 説明板

Dsc04862 観音女坂 寿経寺の前から南東に上る。坂上近くで帰厚坂と合流し、花菖蒲園の前に出る。《地図

観音院の裏口へ上る坂だった。昭和41年の住宅地造成で観音院へ通ずる部分は切り崩され、今は観音院へは通じていない。女坂といってもかなりの急坂だ。

Dsc04865 坂下方向

Dsc04874 坂上近く

右から帰厚坂が上ってくる。

Dsc04876 坂上の車道(帰厚坂の新道)

子来坂の坂上の方へ上って行く。

Dsc04877 観音女坂(右)・帰厚坂(左)

Dsc04878帰厚坂 観音女坂の坂上近くから南西に下る。坂下を行くと天神橋(浅野川) 【ルート地図】の⑤

【坂標】の説明板 「加賀藩主、前田慶寧が慶応三年卯辰山を開拓したときの坂で、「藩主の厚き徳に帰する」の意味から名づけられた。」

Dsc04879 坂下方向

一旦、平らになりまた急に下る。

Dsc04881 坂下方向

急になり浅野川へと下る。

Dsc04887 花菖蒲園(帰厚坂の坂上前)

Dsc04888卯辰山三社(卯辰神社・愛宕神社・豊国神社)案内図(花菖蒲園内)

千杵坂、三之坂、ニ之坂(開基坂)、一之坂の石段坂を上ると卯辰山三社。《地図

Dsc04890説明板

Dsc04892 千杵坂

Dsc04897 三之坂

Dsc04900 ニ之坂(開基坂)

Dsc04903 一之坂

Dsc04907謡曲「井筒」の業平の井筒

大和の在原寺から移されたというが、在原寺跡にも井筒跡が残る。『上街道・初瀬街道①

Dsc04906 説明板

Dsc04904 卯辰神社(天満宮)

Dsc04910 愛宕神社

Dsc04912 豊国神社

Dsc04916 常盤緑地・浅野川の方へ下る坂。《地図

手前へ下る。

Dsc04925 浅野川・常盤橋

Dsc04928常盤坂(坂下から) 常盤橋の脇から北東方向に常盤不動尊へ上る。《地図

Dsc04932常盤不動尊(東御影町)

Dsc04941常盤不動尊境内から(坂下方向)

Dsc04933_2 不動明王

黒目と歯が上下にズレているユーモラスな顔立ちの不動さんだ。

Dsc04940 行者窟跡

Dsc04926_2 ごり屋(常盤町60の常盤橋そば)

明和4年(1767)創業の金沢名物のごり料理が味わえる料亭。

(2010年8月に閉店したそうです)

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2007年11月28日 (水)

金沢市の坂-5

2007年11月28日

金沢駅・・・武蔵ケ辻・・・賢坂辻・・・永福寺・木曽坂・・・みどり坂・・・(宝円寺)裏門坂・・・木曽坂・・・安藤坂・・・宝円寺・・・献珠寺・高源院・馬坂・馬坂不動尊・・・椿原天満宮・天神坂・・・小立野トンネル・・・鶴間坂・・・旭用水・・・牛坂八幡神社・・・牛坂・・・天徳院・・・小立野バス停→金沢駅

 小立野台地と浅野川左岸の間の坂道散歩です。小立野台地と宝円寺の間の源太郎川が流れるあたりを木曽谷といい、昔は木曽谷に流れ落ちる川の流れが轟いていて、轟来(とどろき)町、明治になり百々女木(どどめき)町といった。今は源太郎川は住宅地の間や下を蛇行しながら流れる細い川になってしまい、かつては渓流で信濃の木曽路に似ているという面影はない。
 木曽谷から上るいくつかの坂を歩き、宝円寺から高源院へ出て馬坂を下る。六曲り坂の別名のとおり曲がりながら下って行き、坂途中からの景観も変化がある気持ちのいい坂だ。

 馬坂の坂下から椿原天満宮の脇の天神坂を上り、小立野トンネルを越え、金沢美大の前から鶴間坂を下る。坂の途中でヘアピンカーブする歩行者専用の長い坂で木々と竹林の間を下って行く。風が竹林を鳴らし、落ち葉が坂に舞っている。坂下の旭用水沿いを進み、旭町のバス通り沿いの牛坂八幡神社から浅野川の下田上橋に進む。
 ここから小立野台地へ上る長い坂が牛坂だ。上るにつれ南東方向の眺望が開けてくる。牛坂の坂上近くから下る歩行者専用の坂がある。暗く細い坂が曲がりながら下って墓地を抜け、旭町のバス通りへと出る坂で、暗がり坂、暗闇坂、幽霊坂とでも呼びたい雰囲気の坂だ。長い牛坂を通らず、坂下と小立野台地を結ぶ生活用の坂のようだが、夜歩くのはちと寂しすぎる坂なのでは。牛坂へ上り返し、天徳院から小立野通りに出てバスで金沢駅に向った。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc04570 木曽坂(坂下から) 東兼六町11と18の間を南東に上る。 【ルート地図】の①

【坂標】の説明文 「木曽の山中のような幽すいな所なのでこの名がついた。その一部は宝円寺の裏門の坂なので裏門坂ともいわれていた。」 木曽坂=裏門坂としている。

参考:『金沢九十九坂』の「木曽坂近辺の坂と地図

Dsc04571 坂下方向

Dsc04573 坂上近く

左手前方向にみどり坂、裏門坂へと続く。

Dsc04574 木曽坂上・正面方向に上るのが「みどり坂」で裏門坂へ続く。

木曽坂の坂標がカーブした所に立っている。金沢市では、みどり坂から(宝円寺)裏門坂に続く坂を木曽坂としている。しかし、『サカロジー 金沢の坂』は、裏門坂は寛文9年(1669)頃までは宝円寺谷坂と呼ばれていた木曽坂とは別の坂とする。『金沢九十九坂』も別坂としている。

Dsc04551 みどり坂 木曽坂の坂上近くから北東に上る。

新しくつけられた坂名だろう。

Dsc04552 石垣に埋め込まれた「みどり坂」の坂標

左上隅に「みどり坂」と彫られているらしいが判読困難。

Dsc04553 坂下方向

Dsc04554 坂上方向

坂上から裏門坂の下りとなる。

Dsc04559 裏門坂 みどり坂の坂上から北東に下る。 【ルート地図】の②

かつて宝円寺の裏門に面していた。それ以前は宝円寺谷坂と呼ばれていた。

Dsc04563 坂上方向

Dsc04567 坂下から

Dsc04580 木曽坂上から宝円寺の方へ上る坂(宝円寺横の坂)

Dsc04582 坂上方向

Dsc04584 坂上から

Dsc04588 安藤坂 木曽坂の坂上近くから南東に上る。《地図

木曽坂上から上る坂。旧町名による名。それ以前は百々女木(どどめき)町、その前は轟来(とどろき)町といった。木曽谷に流れ込む川の流れが急で、高い音を轟かせていたからだという。

Dsc04593 坂下方向

Dsc04595 安藤坂の坂下から宝円寺の方へ上る坂。(木曽坂横の坂)

Dsc04597 坂下方向

Dsc04599 宝円寺(宝町6-14)

曹洞宗の寺。前田家菩提寺の一つ。

Dsc04601 説明板

Dsc04604 高源院(宝町7-16)

馬坂の坂上。

Dsc04603 説明板

Dsc04605 地蔵尊と観音像(右)?

地蔵は文政期頃に安置されたと伝える。

Dsc04602 馬坂(坂上から) 高源院の前から曲がりながら北方向に下る。【ルート地図】の③

【坂標】の説明文 「昔、田井村の農民が小立野へ草刈に行くため、馬を引いて登ったのでこの名がついた。六曲り坂ともいわれていた。」 右が高源寺

Dsc04606 坂上方向

Dsc04608坂下方向

Dsc04616_2 正面が馬坂不動尊

Dsc04613 不動明王

Dsc04611 石仏

Dsc04618 坂の途中から卯辰山方向

Dsc04624_2 カーブしながら上る。

Dsc04628 椿原天満宮(天神町1-1)

社地は椿原砦の跡、一向一揆の本営・金沢御坊の出城だった。

Dsc04630 説明板

Dsc04631 本堂

Dsc04632 天神坂(坂下から) 椿原天満宮の前から南東方向に上る。《地図

【坂標】の説明文 「椿原神社の旧社名、田井天神の横にあるのでこの名で呼ばれている。昔、坂の上部は三つに分かれていた。」 

Dsc04635 坂上方向

Dsc04648 坂上近くから(坂下方向) 

Dsc04642 小立野トンネル(右)・天神坂の坂上近くから下る歩道の階段(左)

Dsc04641小立野トンネルから下る新しい車道の坂。

この道ができて、天神坂の交通量が減ったようだ。

Dsc04651 鶴間坂(坂上から) 旭町3丁目と小立野5丁目の間を北西に上り、大きくカーブして南方向に上る。【ルート地図】の④

【坂標】の説明文 「坂の上からの眺望がよく、加賀藩時代から詩歌を好む人が訪れ、ここを鶴舞谷と称していたのでこの名がついた。」

Dsc04657 大きくカーブする所

Dsc04670 坂下方向

風で落葉が舞い、竹林が音をたてている。

Dsc04677 坂下から

右に旭用水が流れる。浅野川左岸から取水する唯一の用水。

Dsc04676 旭用水石柱

このあたり一帯は牛坂村で、別名を牛坂用水ともいった。『サカロジー 金沢の坂』は、この坂を牛坂としている。

Dsc04679 牛坂八幡神社(旭町1-17)

牛坂の坂下近く

Dsc04685 牛坂(坂上方向) 小立野1丁目の下田上橋(浅野川)から北西に上る県道209号。 【ルート地図】の⑤

緩やかに上る広く長い坂。坂上は細くなる。昔は曲がりながら牛のよだれのようにだらだら上った坂で、牛坂と呼んだのか? 坂下近くに牛坂八幡神社があり、このあたりも牛坂村だったのだろう。

Dsc04687 坂下方向

Dsc04706 坂上近くから

Dsc04708 牛坂の坂上から下る歩行者用の坂。《地図》(道筋の標示はない。)

Dsc04710 坂下方向

昼でも暗い中を下る。坂下は墓地で、「暗がり坂③」・「暗闇坂」・「幽霊坂」というところか。

Dsc04720 坂下の墓地

Dsc04728天徳院山門説明板

Dsc04729 山門

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2007年11月26日 (月)

鎌倉市の坂-4

2007年11月26日

鎌倉駅(横須賀線)・・・御成通り・・・由比ケ浜大通り・・・六地蔵・・・(和田塚駅・江ノ電)・・・和田塚・・・由比ケ浜大通り・・・庚申塚・・・甘縄神明宮・・・三橋(長谷観音交差点)・・・御霊神社(鎌倉権五郎神社)・・・星月夜の井(鎌倉十井)・虚空蔵堂・・・極楽寺坂切通し・日限六地蔵尊・成就院・・・極楽寺・・・針磨(はりすり)橋(鎌倉十橋・極楽寺川)・・・砂子坂・・・稲村ガ崎古戦場跡・・・稲村ケ崎駅(江ノ島電鉄)→江ノ島駅・・・湘南江の島駅(湘南モノレール)→大船駅

 鎌倉駅から江ノ電沿いに歩く。極楽寺坂切通しは往時の面影は薄いが、坂沿いの成就院からの眺めはいい。極楽寺を過ぎるあたりから歩いている人もぐっと減る。針磨橋近くから入る砂子坂は傾斜はわずかで、この道が砂子坂なのかちょっと不安になる。砂子坂を上って下ると稲村ガ崎に出る。古戦場前の海はいい波が立ちサーファーが波乗りを楽しんでいる。
 初めて乗った湘南モノレールの下の起伏の多い高台には住宅が立ち並んでいる。新しい坂も多いようだが名前はついているのだろうか。調べて、いつか歩いて見ようか。そんなことを考えているうちに大船駅に着いた。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Dsc04441 六地蔵(由比ケ浜大通りと今大路との交差点) 【ルート地図】の①

昔、この辺り一帯は飢渇(けかち)畑と称され鎌倉時代は刑場があったと伝えられる。その供養のため建てられたという。

Dsc04443六地蔵由来碑

Dsc04449 和田塚(和田塚駅南の由比ガ浜2丁目) 【ルート地図】の②

「和田一族之碑」(右)・「和田一族戦没地」の碑(中央の新しい碑)・「和田義盛一族墓」の碑(左の塔婆が立っている碑)

和田一族の墓ではなく、采女塚といわれる円墳の一部らしい。荒れている様子で保存状態はよくない。

Dsc04452 鎌倉彫の寸松堂(笹目町5の由比ケ浜大通り沿い)

昭和11年建築。鎌倉市重要景観建築物。国の登録有形文化財。

Dsc04458 庚申塚と盛久頸座(長谷1-7の由比ケ浜大通り沿い)(中央部分に庚申塔が並ぶ。左右は盛久頸座の碑など。)

主馬盛久は京都清水寺の観世音信仰の功徳で首を斬られる寸前に源頼朝から赦免された平家の武者。

Dsc04454 盛久頸座

Dsc04457 謡曲「盛久」説明板

Dsc04461_2 甘縄神明宮(長谷1丁目)

八幡太郎義家を祀る、鎌倉幕府創設以前からの古社。

Dsc04463 御霊小路(大仏通りの白日堂と収玄寺の間から御霊神社に向う道。)

左に鎌倉権五郎神社の石柱。

Dsc04469 御霊神社(鎌倉権五郎神社)

もとは鎌倉党の坂東平氏五家の祖を祀り、五霊神社といわれた。後に、武勇で名高い鎌倉権五郎景政を祀る御霊神社となる。

Dsc04470 御霊神社由緒

鎌倉権五郎の勇猛な武者ぶりの逸話の記載がある。司馬遼太郎も『街道をゆく』の「三浦半島記」で権五郎のことを書いている。

Dsc04474 力餅家(坂ノ下18)

権五郎力餅を売る店。「五霊社鎌倉権五郎景政」の石柱が立つ。

Dsc04479 極楽寺坂切通し(坂下あたり) 【ルート地図】の③

右に「星月夜の井」(星の井)、石段上に虚空蔵堂。

Dsc04476星月夜の井

鎌倉十井のひとつ。昼でも井戸に星の影が映っていたという。ある時、女が誤って包丁を井の中に落としてからは星の影は見えなくなった。包丁で星影を切ってしまったからとか。

Dsc04477 説明板

Dsc04478_2 星月井の碑

Dsc04480虚空蔵堂(明鏡山星井寺

堂の左下に舟守地蔵

Dsc04482_2舟守地蔵

船舶関係者の信心が厚いという。

Dsc04487 日限六地蔵尊(極楽寺坂切通しの途中。)

いたずらや破壊よけのシャッターが取り付けられている。

Dsc04486 説明板

Dsc04490 極楽寺坂切通し(坂上方向)

忍性が開いたという。元弘3年(1333)のこの新田義貞の鎌倉攻めの時、この辺りで壮絶な戦いがあったという。かつては成就院側(写真左)のもっと高い所を通っていたらしい。

Dsc04494 坂下方向

Dsc04497 成就院から

Dsc04491_2 極楽寺坂切通しの碑

Dsc04500 成就院から(坂下方向)

Dsc04506成就院

Dsc04504略縁起

Dsc04505 成就院から

由比ガ浜・材木座・鎌倉市街方向。

Dsc04512導地蔵堂(極楽寺の前)

子育てに霊験あらたか。

Dsc04514 極楽寺山門(江ノ電極楽寺駅そば)

境内は写真撮影・写生も禁止。

Dsc04513 説明板

Dsc04518針磨(はりすり)橋の碑

Dsc04519 針磨橋(極楽寺3-11あたり)

昔、針を作る職人が住んでいたという。針は裁縫の針だろうか、釣針か?鎌倉十橋 の一つにしては見る影もない。見逃して一度通り過ぎてしまった。

Dsc04522 江ノ電

針磨橋から少し稲村ケ崎方向へ上ったところから。3~4両編成の車両にはかなりの乗客だ。

Dsc04523 砂子坂(坂下から)(稲村ガ崎1-7と1-8の間を南西に上って下る。) 【ルート地図】の④

傾斜はゆるい。坂名の由来不明。

Dsc04526 坂上方向

上って下りとなり稲村ケ崎(正面)へ。 

Dsc04545 稲村ケ崎 【ルート地図】の⑤

小学唱歌♪「鎌倉」♪に「七里が浜の磯伝い 稲村崎 名将の 剣投ぜし古戦場」と歌われたところ。名将、新田義貞が鎌倉攻めの時、ここから海へ刀剣を投げ入れ祈願したところ、波が引き、海沿いの崖下を伝わり、新田軍は鎌倉に攻め込むことができたという伝承の地。

Dsc04535 江の島方向

鎌倉海浜公園には♪「七里ケ浜の哀歌」♪で、「真白き富士の根 緑の江の島・・・」と歌われた、逗子開成中学生のボート遭難慰霊像、近くに、十一人塚などもある。今日は風はさほどではないが波はけっこう高い。ボートではなく、サーファーたちが波乗りを楽しんでいた。

Dsc04546 湘南モノレールの湘南江の島駅

大船まで300円はちと高い。

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2007年11月24日 (土)

菖蒲町の坂(埼玉県)

2007年11月24日

桶川駅(JR高崎線)バス→仲橋(見沼代用水・星川)・・・中島用水路・・・菖蒲町図書館・・・菖蒲神社・・・県道12号(川越栗橋線)・・・菖蒲城跡・・・小林橋(野通川)・・・小林神社・・・神明神社・・・天王山塚古墳・・・正法院・・・諏訪神社・・・幸福寺・太鼓阪舊跡碑・太鼓坂?・・・大御堂橋(元荒川)・・・(上越新幹線)・・・県道12号・・・加納バス停→桶川駅

 見沼代用水と元荒川に挟まれ、その間を野通川が流れる菖蒲町2010年に久喜市と合併)へ、伝説(後述)の太鼓坂を探しに行く。
 起伏のある地形ではなく、菖蒲城跡は沼地の平城だ。神明社、天王山塚古墳、幸福寺の所は少し高くなっている程度か。幸福寺の前に「太鼓阪舊跡」の碑が立っているが、道に傾斜はほとんどない。幸福寺が太鼓坂の伝説にゆかりの寺なので、ここに碑が立っているだけで坂は別の所にあったのだろうか? 伝説では村の切通しの坂となっているがそんな場所があるようには思われない。所詮、伝説上の話なのであまり気にせず幸福寺前の道を太鼓坂としておく。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Dsc04354見沼代用水 【ル-ト地図】の①

中島用水路(右)との分岐。桜堤の碑が立つ。

Dsc04350 案内地図

見沼管理所のところ。

Dsc04361 中島用水路

Dsc04357アミーゴ(菖蒲町生涯学習文化センター) (菖蒲85)

一階が図書館

Dsc04363 菖蒲神社(菖蒲552) 

Dsc04367 説明板

Dsc04365菖蒲のフジ説明板

Dsc04371 菖蒲城跡(菖蒲町新堀の現在は「あやめ園」で遺構は残らず) 【ル-ト地図】の②

室町時代中期の康生2年(1456)、古河公方足利成氏の家臣の金田式部則綱が、自然の沼地を利用して城を築き、これが完成したのが、菖蒲の生い繁る5月5日であったので、菖蒲城と号した。『郷土』  これが「菖蒲」町の地名の由来の一つ。もう一つは、奈良時代に行基が下野巡錫の道すがら、この地に着いた時には日がとっぷり暮れ、宿を探したが人家もなく、南の方角に沼が白く光っていて、その辺り一面に菖蒲や柳が密集していたことによるというもの。『菖蒲町歴史ガイド』

Dsc04373 旗本内藤氏屋敷門(あやめ園内)

江戸時代、この地域一帯を治めていた旗本内藤家の栢間(かやま)陣屋の裏門を移築。陣屋は栢間小学校あたりにあった。

Dsc04372 説明板

Dsc04375 馬頭観音

野通川から小林神社への道沿い。

Dsc04381 小林神社(菖蒲町小林)

Dsc04382 庚申塔(右)・南無妙法蓮華経塔(中)?・妙義大神(左)

小林神社近くの辻。

Dsc04383 神明神社の森(正面)

Dsc04384 神明神社(上栢間3366) 【ル-ト地図】の③

Dsc04387 説明板

Dsc04386 参道

550mあり、大宮の氷川神社に匹敵する長さ。

Dsc04395 「神明神社の社叢」説明板

Dsc04398 天王山塚古墳(前方部への登り道) (上栢間3284) 【ル-ト地図】の④

栢間古墳群の中心の全長約107mの前方後円墳。古墳時代後期の6世紀中頃の築造。さきたま古墳群の鉄砲山古墳(108m)につぐ前方後円墳だが墳丘はかなり崩れている。

Dsc04397 説明板

Dsc04400 前方部から後円部方向

円部には薬師堂?が立ち、堂の前はブランコがあって親子連れが遊んでいた。

Dsc04401 前方部方向

Dsc04402 後円部

薬師堂の後ろ横方向の高くなっている所は江戸時代に作られた富士塚らしい。

Dsc04406 正法院(上栢間2767)

関東八十八カ所霊場第八十一番札所。

Dsc04422 幸福寺山門(下栢間)

Dsc04413 太鼓坂か?(幸福寺前の道) 【ル-ト地図】の⑤

道の右側に「太鼓阪舊跡」の碑が立つ。左側は幸福寺。

Dsc04427_2 太鼓阪舊跡 と縦書き

太鼓坂の伝説① 「昔、弁慶が陣太鼓を埋めたところだそうで、今でもその上を歩くと太鼓の音が聞こえる。」

伝説② 昔、幸福寺の門前で鳴りのよい太鼓を持っていた旅僧が殺された。殺した男は太鼓が手がかりになって捕らえられるを恐れて、或る夜、こっそり村の切通しの坂に埋めた。間もなく役人がこの坂を通った。すると、どこからともなく太鼓の音が聞こえ出した。このことから旅僧を殺した男の所在を知らせるものがあって、男は捕らえられ処刑された。太鼓は埋められたままで、それ以来、坂の中腹を通ると、幽かな音をたて、そこを通る人達の心をそそった。そのさびしい太鼓の音は、その後、太鼓のありかを探し出し掘り返す者が出てから、音が悪くなったという。」

伝説③ 幸福寺のあたりに大御堂の鐘楼守護の主の一頭の龍が棲んでいた。ある日、龍が近くの沼に行っている間に、堂の鐘が何者かに奪われてしまった。龍は血眼で探したが見つからず、怒った龍は幸福寺の和尚の所へ行き、自分の鐘が出るまで、この太鼓を預って行くといい、太鼓を持ち去りどこかへ隠してしまった。今、太鼓坂の太鼓の音は、この時龍が奪って地底に隠したその太鼓の響きだという。鐘(原文では太鼓となっているが)を盗んだのは筑波の龍で、ここの大御堂と共に刃物一つで左甚五郎が造ったといわれる筑波山の大御堂へ持って行ってしまった。だから、筑波の鐘は、「栢間恋いし、ポーン」と鳴るという。---(以上、『埼玉の伝説集成 上』 「太鼓坂」より。

Dsc04437 大御堂橋から元荒川

正面は上越新幹線。大御堂は幸福寺のこと。

Dsc04438 今にも崩れそうな旧家

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2007年11月21日 (水)

鎌倉市の坂-3(鎌倉街道下の道②)

2007年11月21日

金沢八景駅(京浜急行線)・・・国道16号・・・県道23号・・・上行寺・・・鼻欠地蔵・・・朝比奈(朝夷奈)切通し・・・熊野神社・・・朝比奈切通し・・・三郎の滝・・・泉橋(太刀洗川と滑川の合流点)・・・切通し庚申塔・・・十二所(じゅうにそ)神社・・・もりと橋(滑川)・・・光触(こうそく)寺(塩嘗地蔵)・・・足利公方邸跡・・・浄妙寺・・・杉本寺(ここまで鎌倉街道下の道)・・・犬懸橋(滑川)・・・田楽辻子(ずし)みち・・・釈迦堂切通し・唐糸やぐら・・・逆川・・・ハイランド・名越切通し分岐・・・・・・名越切通し・・・まんだら堂跡・・・大空洞(おおほうとう)・・・逗子駅(JR横須賀線)

 金沢八景駅から県道23号(金沢街道)に出て西へ、この道は六浦から塩を運んだ道で、六浦道(路)、塩の道とも呼ばれた。また鎌倉街道の「下の道」の道筋でもある。 

 大道中学校バス停そばに磨崖仏の鼻欠地蔵があるが風化していて、説明板がなければ通り過ぎてしまうだろう。朝比奈バス停の先で、「朝夷奈切通」の道路標識を左に曲がると切通しに向う道になる。古道の面影がよく残る切通しの途中から左に入り、鎌倉の艮(鬼門)の守護神だった熊野神社へ寄る。切通しへ戻り進むと下りとなり、道が湿って、ぬかるんで歩きにくくなる。この水の流れが太刀洗川となっていく。下って切通しの鎌倉側の入口に小さな三郎の滝が落ちている。このあたりに梶原太刀洗の名水があるはずだが見当たらず、太刀洗川が滑川に合流する泉橋へ出る。

 滑川沿いに進むと金沢街道に出る手前の崖上に切通し庚申塔が立っているがこれも見つけにくい。光触寺の塩嘗地蔵の伝説は、ここを塩が通った「塩の道」であったことを物語る。杉本寺の裏山の杉本城跡に行こうと思っていたが、私有地になっていて通行不能とのこと。
 鎌倉街道から分かれ、杉本寺の前の犬懸橋を渡り、釈迦堂前に田楽師が住んでいたという「田楽辻子のみち」から釈迦堂ケ谷の釈迦堂切通しへ向う。釈迦堂がどこにあったかは不明らしい。釈迦堂切通しは鎌倉七切通し(七口)には入らないが、切通しというよりは大きな岩場をくり抜いた洞門だ。(上の写真) その景観は迫力があり見ごたえがある。落石、崩壊の恐れで通行止めで、いくつも標識が立っているが、皆?平気で通っている。「赤信号、みんなで渡れば何とやら」か。

 釈迦堂切通しを抜け、南に行き逆川を東に進むと川と離れるあたりから人家が少なくなり、畑の間を過ぎ、山道の上りとなる。途中、何箇所も倒木が道を塞いでいて歩きにくい道だ。あまり通られていない道のようだ。かまわず上ると、しっかりと踏み固められた道に出た。逗子ハイランドと名越の切通しを結ぶハイキングコースだ。ここまで来れば後は「逗子市の坂-4」で歩いた近くなので土地勘もある。その時は名越切通しからお猿畠の大切岸を経て法性寺へと下った。今日は切通しからまんだら堂跡、おおほうとう(大空洞)を抜けた。大空洞も釈迦堂切通しを見た後ではなんてことはない岩の間の細い道だ。逗子市小坪の長い坂を下って、披露山入口の前を通り逗子駅に向った。

 【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Dsc04259 鼻欠地蔵(金沢街道(環状4号)の大道中学校バス停そば) 【ルート地図】の①

左下に地蔵の磨崖仏が彫られている。

Dsc04261 説明板

Dsc04262_2「江戸名所図会」の地蔵の絵。

Dsc04263 朝比奈切通しへ

朝比奈バス停の少し先で、「←朝夷奈切通」の道路標識から左へ入る。

Dsc04268 朝比奈切通しの入口

説明板、庚申塔などが並ぶ。

Dsc04269 説明板

Dsc04272 横浜横須賀道路をくぐる。

Dsc04276_2朝比奈切通し 【ルート地図】の②

鎌倉と六浦を結ぶ古道。北条泰時が改修したというから、それ以前からこの道筋は存在したのだろう。和田義盛の三男で巴御前を母に持つ、朝比奈三郎義秀が太刀で一日一夜にして切り開いたという伝説がある。

Dsc04280 反対側から

Dsc04281 熊野神社への道

Dsc04284説明板

Dsc04286 熊野神社

鎌倉の鬼門の北東にあたり、鎌倉守護神として祀られた。

Dsc04292 道に水が流れ始める。

これが太刀洗川となる。

Dsc04293_3道端の石仏

Dsc04296朝夷奈切通しの碑(三郎の滝の横)

Dsc04297 三郎の滝(朝比奈切通しの鎌倉側からの入口のところ。)

朝比奈切通しを開いたという、朝比奈三郎にちなむ滝。ここから右に分岐して十二所果樹園の方へ上るのが「七曲り(坂)」。

Dsc04299 切通し庚申塔(金沢街道の十二所バス停そばの崖上)

一番右は馬頭観音。崖上には上れない。下からよく見ないと分からない。

Dsc04300_3 地蔵さん

十二所神社近くの金沢街道沿い。

Dsc04301十二所(じゅうにそ)神社(十二所285)

弘安元年(1278)の創建という。

Dsc04302 滑川沿いの歩道

Dsc04304_2塩嘗地蔵(光触寺) (十二所782)

もとは金沢街道(塩の道)にあった地蔵で、朝比奈峠を越えて鎌倉に塩を売りに行った塩売りが、塩を供えるとなめてしまったという伝説がある地蔵さん。

Dsc04307_2 足利公方邸旧蹟碑(浄明寺4-2)

Dsc04308 浄妙寺(浄明寺3-8)

鎌倉五山の一つ。

Dsc04309 説明板

Dsc04311 杉本寺(二階堂903)

天平6年(734)に行基の創建という鎌倉最古の寺。裏山に三浦氏の衣笠城の枝城の一つ、杉本城跡があるが拝観券売場の人の話では私有地のため通行不能という。

Dsc04310 説明板

鎌倉街道の「下の道」は西へ進み鶴岡八幡宮へ向かうが、分かれて釈迦堂口切通しへ向う。

Dsc04312_2田楽辻子(でんがくずし)みち由来

杉本寺の前から犬懸橋(滑川)を渡り、釈迦堂ケ谷へ行く途中の辻。 【ルート地図】の③

Dsc04313 説明文

Dsc04314 釈迦堂口切通しへ

Dsc04315 釈迦堂ケ谷説明板

北条泰時が釈迦堂を建てたことに由来する名。釈迦堂がどこにあったのかは不明。本尊の釈迦如来像は目黒の行人坂 の大円寺に安置されている。

Dsc04319 釈迦堂切通し 【ルート地図】の④

浄明寺の屋敷町から大町・名越の商業地区への近道としてつくられたもの。鎌倉と外の地域を結ぶ切通しではないため、「鎌倉七口(七切通し)」には含まれない。

Dsc04321_2迫力満点だ。   

Dsc04323_2切通しの中から

Dsc04324 「唐糸やぐら」か「日月やぐら」?

切通しの中の崖上。「やぐら」は中世の横穴墳墓。

Dsc04334_2 大切岸の上から逗子湾方向

Dsc04337 名越切通し説明板

Dsc00083 名越切通し 【ルート地図】の⑤

Dsc04338 まんだら堂跡へ

Dsc04340 行き止まり

調査、整備してやぐら群を中心とした史跡として公開するというが何時になることやら。

Dsc04339 扉に貼られた説明文

Dsc04344_2おおほうとう(大空洞)

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2007年11月19日 (月)

鎌倉市の坂-2

2007年11月19日

大船駅(東海道線)・・・戸部橋(柏尾川)・・・玉縄首塚・・・龍宝寺トンネル・龍宝寺・旧石井家住宅・玉縄民俗資料館・・・諏訪神社・・・七曲り・玉縄城址辺り・・・陣屋坂・・・ふわん坂・・・久成寺・・・ふわん坂・・・七曲り・・・戸部橋・・・塩釜神社・・・大船駅

 大船観音はやさしい顔だが何となく不気味だ。玉縄民俗資料館はただ雑然と古民具などが置かれているだけ、重要文化財の旧石井家も保存状態が悪い。同じ鎌倉でもなんでこんなに違うのか、観光客が集まる所だけ金かけて、世界遺産にしようとする。情けない。

 玉縄城へ入る道だった七曲りは今でも未舗装で、何度も曲がりながら上っていく。坂下も坂上も新しい住宅街になっているがこの坂だけは昔の面影を残しているようだ。坂上の北条早雲の築城という玉縄城の本丸跡は警戒厳重な清泉女学院の敷地内で入れない。(事前に学校の許可があれば入れるらしい。) ここは城廻という名の残るところだが、まさに城の廻りをウロウロしただけ、難攻不落なことだけは昔も今も変わらないということか。

 七曲りの坂上から少し下ると陣屋坂の坂上に出る。坂上の一角に玉縄城址の碑、陣屋坂バス停、坂の途中に陣屋坂もず公園、坂下近くに陣屋坂公園、相模陣東公園などが並んでいるが、坂の説明板はない。玉縄城の見張り陣屋があったという。

 ふわん坂も玉縄城の本丸へ通じていた坂で、途中から急な切通しとなり、両側から木が覆って暗くなる坂で、七曲りと同様、往時の玉縄城の要害ぶりを感じさせるある坂だ。坂名の「ふわん」とは何か。昼でも暗いこの坂を、夜は一人で歩いたらさぞ、「不安」だろう。「ふあん」→「ふわん」に。まさか、こんな由来ではないだろう。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc04257 大船観音(岡本1-5)

大船駅近くの新富岡橋(柏尾川)あたりから。

Dsc04174 玉縄首塚(中央右)(岡本2-2)

六地蔵、庚申塔、馬頭観音なども並ぶ。

Dsc04176 玉縄首塚(岡本2-2) 【ルート地図】の①

Dsc04175 玉縄首塚由来碑

碑には、「大永六年(1526)・・・中略・・・南総の武将里見義弘鎌倉を攻略せんと・・・」とあるが、義弘の生年は享禄3年(1530)(大永5年(1525)の説もある。)で、ちょっとおかしい。鎌倉を攻めたのは、里見義豊か実堯では?

Dsc04182 龍宝寺山門(植木128)

元禄年間の建立。

Dsc04187 旧石井家住宅

17世紀後半の建築。関谷から移築。

Dsc04184 説明板

Dsc04192 七曲り坂の坂下へ

正面の小山あたりがが玉縄城址。

Dsc04196 七曲り(坂下あたりから坂上方向) 植木70の植木子ども会館の前から何度も曲がりながら西方向に上る。【ルート地図】の②

Dsc04198 坂下方向

Dsc04205坂上から

Dsc04207 玉縄城址へは清泉女学院の校内のため行き止まり。まさに難攻不落の城だ。

Dsc04208 陣屋坂 植木337?と433の間を曲がりながら南東に下る。坂下は県道302号(小袋谷藤沢線)。【ルート地図】の④

玉縄城の見張り陣屋があったという。坂上の左側の石段に玉縄城址の碑、庚申塔などが立つ。

Dsc04246 玉縄城址の碑

永正9年(1512)北条早雲が築くとある。

Dsc04247 庚申塔(左の3つ)と新しい道祖神(右)

Dsc04222 坂上方向

Dsc04226 ふわん坂(坂上から) 県道302号の久成寺の東側の植木484と479の間から入り曲がりながら北東方向に上る。 【ルート地図】の⑤

坂名の由来不明。

Dsc04236 坂下方向

Dsc04237 坂上方向

Dsc04240 坂下(右の道がふわん坂へ)の帝釈天塔(右)・左は「従是・・・・」で道標のようだ。

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2007年11月14日 (水)

横須賀市の坂-16

2007年11月14日

  YRP野比駅(京浜急行線)・・・光の丘トンネル・・・横須賀リサーチパーク(YRP)・・・八暮坂・NTT横須賀研究開発センタ・・・砲台山(206m)・・・武山(200m)・武山不動・・・茶畑橋(竹川)・・・一騎塚・一騎塚バス停→YRP野比駅

 野比駅はYRP野比駅と名前が変わり、八暮坂あたりはYRPのビルや公園が造られ昔の暗さも、源平合戦の伝説が残る雰囲気はみじんもない。天気の良いせいもあってか明るい所で、むじな塚もどこへやらだ。
 通信研究所南門バス停のそばから砲台山への道に入る。なだらかな山道が曲がりながら続く。三浦富士への道を左に分け、、見晴台から武山との分岐を過ぎ上ると、山頂近くの道脇に砲台の関連施設だろうか、巨大な石柱が2基並んでいる。山頂は今は海上保安庁の中継所で、戦時中の砲台跡が残っている。見晴らしはない。

 砲台山を下って武山へ向う。最後の上りだけが少し急だが坂道散歩の感じで展望台、武山不動のある山頂に着く。快晴で暑いくらいの陽気だが、風がないせいか遠くの景色はぼやけている。武山不動から舗装された急坂の道を下って三崎街道に出て一騎塚へ。一昨日歩いた川越市の一騎坂は鎌倉時代滅亡期の伝承のある坂、ここの一騎塚は鎌倉時代初期の伝承のある塚だ。塚上や塚の周りには聖徳太子塔、不動明王や庚申塔などが並び、この塚が時代を経て信仰されていたことを物語っている。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc04078 YRP(Yokosuka Research Park)から八暮坂への坂(坂上方向)

YRP(横須賀リサーチパーク)は、京浜急行が主体となって資金を投下した、電波情報通信技術の研究開発拠点。以前からこの地にあったNTT横須賀研究開発センタに隣接する形で整備されている。正面奥がNTT横須賀研究開発センタ(通研)

Dsc04084 上って下り八暮坂の途中に出る。

正面は武山

Dsc04085 坂の途中から砲台山

Dsc04087 八暮(やつぐれ)坂(坂下方向・通研前の交差点の所から) 光の丘1-1のNTT横須賀研究開発センタの南側を北西に上る通研通り。【ルート地図】の②

源平の合戦の伝説「むじな塚と八暮坂」のある坂。 昔は木々が坂を覆い、八ツ時(午後2時)ごろには俄かに真っ暗になってしまう坂だったのだろう。今は砲台山側(写真右側)に木が残り、少し暗さを感じる程度。左方向はYRPの施設で開けて明るい。

Dsc04093 坂上方向

右奥はNTT横須賀研究開発センタ。

Dsc04112 見晴し台から金田湾

Dsc04119 山頂近くのコンクリートの石柱

砲台の関連施設か?

Dsc04116 山頂(206m)の砲台跡 【ルート地図】の③

戦時中、ここから高射砲が発射されたことはあるのだろうか?

Dsc04117_2砲台跡から海上保安庁の武山中継所。

Dsc04122 砲台山と武山の分岐点近く。

これも砲台関連物?

Dsc04126 武山ハイキング地図(武山山頂)

NTT通信研究所から今日歩いたルートが載っている。

Dsc04128 武山山頂(200m)から 【ルート地図】の④

日本武尊(ヤマトタケル)が、東征の折、走水に向う途中でこの山に立ち寄ったことからついた山名だとか。

Dsc04134武山不動

Dsc04133 説明板

Dsc04148 富士山展望台から

この方向に富士が見えるはずだが。

Dsc04172 一騎塚 【ルート地図】の⑤

Dsc04163 説明板

Dsc04165_2 不動明王への木製の細い階段

Dsc04166不動明王

Dsc04167 庚申塔

Dsc04169 塚のてっぺんの聖徳太子塔(右端)・庚申塔など

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2007年11月12日 (月)

川越市の坂-1

2007年11月12日

新河岸駅(東上線)・・・地蔵院・・・旧川越街道・・・春日神社・・・河岸街道・道標道祖神・・・旧川越街道・・・一騎坂・・・烏頭(うとう)坂(旧川越街道)・熊野神社・・・国道16号・・・浅間神社古墳・・・愛宕神社古墳・・・仙波河岸史跡公園・・・仙波氷川神社・・・旧川越街道・・・妙善寺・・・菅原神社・・・川越八幡神社・相撲稲荷・・・三変稲荷神社古墳・・・喜多院・慈眼堂古墳・・・出世稲荷・・・大手門跡(川越市役所前)・・・川越城富士見櫓跡・・・本丸御殿・・・大手門跡・・・札の辻・・・時の鐘・・・法善寺・・・連馨(れんけい)寺・・・熊野神社・銭洗い弁天・・・川越駅(東上線)

 快晴の気持ちいい天気の中、川越駅の一つ前の新河岸駅で降り、旧川越街道沿いにあちこち寄りながら終着点の大手門跡まで歩く。と言うものの坂は2つだけ。古墳の方が多い坂道散歩だった。

 新田義貞が駆け下りたという急坂の一騎坂は今はさほどの傾斜もない、車の往来の絶えない普通の坂になっている。旧川越街道の、道興准后の歌にも詠まれ、明治時代までは荷車の後押しが駄賃をもらっていたという烏頭坂も長いがなだらかな坂で、坂上の現川越街道との交差点は車が数珠つなぎだ。とにかく車が多い。旧川越街道も、蔵造りの家並みが残る一番街通り、中央通りも車が渋滞していて散策には目障りだ。

 旧川越街道の終着点の大手門跡から右へ入り、川越城富士見櫓から本丸御殿跡へ回り、大手門跡の戻り、高札場があった札の辻から南へ、時の鐘などがある川越のメインルートを歩く。和様のレトロの建物が並んでいていい景観を残しているが、平日でもかなりの人出で、車も通りに連なっていて歩くのに疲れる。やっぱり観光客が来ない静かな坂道散歩の方がいい。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Dsc03959 春日神社(砂新田137)

慶安年間(1648~52)の建立と伝える。古墳の上に建てられているともいわれる。

Dsc03962 道標道祖神(旧川越街道と現川越街道の間の河岸街道沿い。御代橋の一本手前(南側)の通り。)

右側面に、「新河岸街道」 左側面に「扇河岸道」とあり、嘉永3年の建立という。

Dsc03965 御代橋から不老川(上流方向)

Dsc03967 旧家(旧川越街道沿い)

Dsc03972 一騎坂(坂上方向) 岸町2-25と3-1の間を北西に上る。坂上に城南中学校。《地図

鎌倉幕府打倒の兵をあげた新田義貞が上野国新田から鎌倉へ向う途中、ここまで来ると道が狭いうえ、急坂なため、先頭の馬が止まって動かなくなった。馬上の武士もあまりの急坂と、眼下に広がる広漠たる草原や森林に、思わず馬を進めるのをためらった。すると、新田義貞が先頭に出るや、馬に鞭をあて、疾風のごとく駆け降り、見本を示したという。家来も続々と坂を駆け降り、鎌倉を目指したという。『小江戸川越歴史散歩』より。今は急でもなく、眼下に広がるのは草原、森林でもなく絶え間なく続く車の波だ。この写真を撮るまでに、10分以上?待った。

Dsc03974 坂上から

Dsc03981 烏頭坂 岸町2-4と2-22の間を北西に上る旧川越街道。《地図

川越街道最後の坂。「うとう」は海鳥の「善知鳥」、うとうの嘴のように突き出している地形上の坂なのでこう呼ばれる。このあたりは江戸初期には宇戸沢村といっていたらしい。「うとう坂」は各地にある。

Dsc03980 説明板

廻国雑記」の道興准后は、餅井坂(横浜市南区)・八幡坂(新座市)の野寺でも歌を残している。

Dsc03978 坂下方向

Dsc03983 熊野神社(烏頭坂の途中の西側)

Dsc03988 烏頭坂上の歩道橋から東京方面

下に東上線が通る。

Dsc03992 浅間神社古墳(母塚) (富士見町33-1)

仙波古墳群の一つ。円墳で高さ約5m、直径42m、6世紀中頃の築造。

Dsc03990 説明板

周囲42mは直径42mの誤りのようだ。

Dsc03994 愛宕神社古墳(父塚) (富士見町21)

6世紀中頃の、2段築成の円墳。仙波古墳群の一つ。

Dsc03993 説明板

Dsc03997仙波河岸史跡公園の「仙波の滝」(仙波町4-21)

舟運(しゅううん)で賑わった仙波河岸は、明治になって開かれた。新河岸川で一番上流で、一番新しい河岸。

Dsc03998 滝の後ろの水神宮(左の小祠)と倶利伽羅竜王

Dsc03996 明治34年頃の滝の回りで憩う人たち。

茶店が出ている。

Dsc04001 仙波河岸場跡(史跡公園内)

新河岸川へ続いていた。

Dsc04003 仙波氷川神社(仙波町4-19)

仙波氏が延久3年(1071)に創建したと伝える。右の塚も小円墳の名残か。

Dsc04006_2さつまいも地蔵(妙善寺境内・菅原町9)

Dsc04005 説明板

Dsc04012 相撲稲荷(川越八幡宮境内・南通町19)

打ち身、捻挫にご利益あり。

Dsc04011 民部稲荷(相撲稲荷)由来書。

Dsc04016 三変稲荷神社古墳(小仙波町4-9)《地図

Dsc04018 4世紀後半の一辺約20mの方墳というが形は崩れている。入間郡最古の古墳の一つ。

Dsc04015 稲荷神社の後ろから

Dsc04020旧家

Dsc04026 慈眼堂(喜多院内)

古墳の上に建つ。

Dsc04025 説明板

Dsc04027_2慈眼堂古墳

6世紀の全長80mの前方後円墳

Dsc04032 どろぼう橋(喜多院境内)

Dsc04036 由来書

Dsc04041 出世稲荷(いちょう稲荷)・(松江町1-7)

いちょうは樹齢600年余り。

Dsc04039 説明板

Dsc04044 旧家(旧川越街道沿い)

Dsc04046 瘡守稲荷(久保町4)

Dsc04047川越キリスト教会(松江町2-4)

Dsc04052旧家

Dsc04054旧家

Dsc04055土蔵

Dsc04056 大手門跡碑・太田道灌像・川越市役所

戦国の武将らしく、引き締まった顔立ちでスリムな体型だ。ここは『川越・児玉往還』の起点でもある。

Dsc04058川越城富士見櫓跡(郭町2-15)

Dsc04057 説明板

Dsc04060 富士見櫓の頂上

今は晴れていても富士は見えない。

Dsc04061 櫓跡に立つ浅間神社と御岳神社

Dsc04059 川越城説明板

Dsc04064川越城図

Dsc04062 本丸御殿(郭町2-13)

Dsc04066_2時の鐘(幸町15-2)

Dsc04070埼玉りそな銀行川越支店(幸町4-1)

大正7年建築のルネサンス風の建物。国の登録有形文化財。

Dsc04072_3 田中屋(仲町6-4)

一階が喫茶店?、二階は美術館。

Dsc04073

Dsc04074 「まめ屋」(仲町5-13)

Dsc04076銭洗弁天(連雀町8の熊野神社境内の厳島神社の通称。)

Dsc04075 由緒書

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2007年11月 9日 (金)

志木市(埼玉県)の坂-1

2007年11月9日

Dsc03841_2 志木駅・・・ユリノ木通り・・・昭和新道・浪人坂(右の写真・坂下方向)・浪人窪・・・江戸道・・・県道36号・市場坂・西川家潜(くぐ)り門・・・栄橋(柳瀬川)・いろは橋(新河岸川)・・・いろは樋大枡・・・引又新河岸あたり・引又観音堂・・・富士見下橋(新河岸川)・・・いろは親水公園・かに(蟹)坂・・・敷島神社・田子山富士塚・・・東明寺(庚申供養地蔵)・・・宝憧寺・・・城山貝塚・・・柏の城大堀跡?・・・館の氷川神社・・・不動尊・・・(東上線)・・・大塚地蔵・・・鎌倉街道跡・・・大六天神社・・・塚の山古墳・・・(東上線)・・・千手院・・・神明社・・・柳瀬川駅

 志木も白子や新座と同様に新羅の転訛だろう。浪人坂の位置がはっきりしなかったが市場坂上交差点に移築、一部復元された武州一揆の刀傷が残る西川家潜り門の前で、郷土史研究家の牛山さんに声をかけられ、いろいろ教えていただき道筋もはっきりした。

 市場坂沿いは六斎市が開かれ賑わった所で、今でも古い造りの店が残っていて往時をしのばせる。蟹坂は敷島神社の裏から「いろは親水公園」の池に下りる遊歩道となっている。昔のままの道ではなく、蟹の代わりに池にはあひるや鴨が遊んでいるが、この遊歩道を蟹坂としてもいいだろう。市場坂上交差点近くには、いろは樋(野火止用水を引又から新河岸川対岸の宗岡村に引くための筧(かけひ))の大枡が残り、交差点の空き地はいろは樋の模型付きの詳しい説明と実物大?の小枡、大枡、受け樋が設置され、水も流れていてなかなか見ごたえがある。

 市場坂上交差点から県道113号を上り、蟇俣(引又=志木)の文字が光背に刻まれている東明寺の庚申供養地蔵を見て、宝憧寺に寄り、柏3丁目の志木中学校脇の坂を下ると城山貝塚だ。縄文時代前期の気候の温暖化で極地の氷が解け、海がこのあたりまでせまっていたらしい。最近の地球温暖化で、また海が押し寄せて来る日もそんない遠くないかも。坂上近くの柏の城大濠跡には福祉施設が建てられるようで建設工事中。大濠跡は残るのだろうか? 

 館の氷川神社に寄り、寂れた感じの不動尊前を右折し東上線を渡り、大塚交差点のなんとも愛嬌のある顔の大塚地蔵さんの前から坂を下り、細い道を入ると大六天神社の小祠がひっそりと立つ。坂を上り返すと鎌倉街道跡の説明板が道脇の空き地にポツンと立っている。鎌倉街道の上道と中道を結ぶバイパスがここを通っていたという。すぐ近くに塚の山古墳が頭に小祠を乗せてて残っている。直径6~7mくらいの小円墳で、近くの消滅した数基の古墳と大塚古墳群呼ばれていたという。大塚地蔵の前の道を北方向に進み馬頭観音を過ぎ、東上線の踏み切りを渡ると、右手に千手院がある。線路沿いの坂を柳瀬川駅方向に下る途中の神明社に寄り、柳瀬川駅に向った。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc03843 浪人坂(坂上方向) 本町3-15と4-6の間を北西に上る昭和新道。【ルート地図】の①

江戸時代の事であろうが、定かではないがこの坂で浪人同士が斬り合ったことから浪人坂と呼ばれ、その時斬り殺された者の死体は村人がこの窪地に埋めたのでここを浪人窪と呼んだといわれている。『志木市史 民俗編』 左の木の茂っているあたりが浪人窪。

Dsc03849 市場坂(坂上から) 本町1丁目と2丁目の間を北東に下る県道36号。【ルート地図】の②

寛文の頃に開設された引又の六斎市(月6回開かれる市)で賑わった通り。

Dsc03846 坂沿いの旧家①

亀屋商店(燃料・園芸土)

Dsc03848

旧家②

薬屋

Dsc03850 旧家③

Dsc03857旧家④

Dsc03852_2 旧西川家潜り門説明板

Dsc03855 西川家潜り門

本町2丁目の西川家の中庭にあった門をここに解体、復元。慶応2年(1866)頃の建築。

Dsc03853 門柱に残る武州一揆の刀傷

Dsc03863 村山快哉堂説明板

Dsc03862村山快哉堂(中宗岡5丁目)

明治10年に建築された、「中風根切薬」などを製造、販売する二階建て土蔵造りの薬店。本町3丁目からいろは親水公園内(栄橋そば)の移築・復元。

Dsc03901 市場坂(坂下近くから坂上方向)

傾斜はゆるい。

Dsc03860 栄橋から柳瀬川

正面左側から新河岸川が合流する。

Dsc03864 いろは橋から新河岸川

正面右側から柳瀬川が合流する。

Dsc03868 いろは樋の大枡

水を大枡に溜め、正面右の管(下り竜)から勢いをつけ樋に送り出した。

Dsc03866 説明板

Dsc03903 いろは樋の仕組み

Dsc03907 いろは樋の復元模型

手前の小枡から中央の大枡に野火止用水を流し込み水を溜め、その先の受樋に流し、対岸に掛け樋で対岸に渡す。

Dsc03902 新河岸川を渡るいろは樋

Dsc03875舟運で賑わった引又河岸あたりの新河岸川。

左から柳瀬川が流れ込んで合流したあたり。

Dsc03869 説明板

Dsc03899_2 引又観音堂(本町2丁目の新河岸川沿い)

屋根の右上向うに飛行船が飛んでいる。

Dsc03871説明板

Dsc03872 堂内の聖観音(中央・元禄10年?)と馬頭観音(左右・左は明和6年?)

Dsc03881 蟹坂下のいろは親水公園の池

Dsc03888 蟹坂(坂上方向) 本町2丁目のいろは親水公園の池の脇から敷島神社の方へ上る階段坂。【ルート地図】の③

崖上からの急な小道があり、途中に清水が湧き、流れに沿ってサワガニが生息していた。町内の子どもたちはここに来てカニを捕って遊んだという。『志木市史 民俗編』から

Dsc03892 坂下方向

Dsc03894 敷島神社(本町2-9)

蟹坂の上の田子山にある。

Dsc03897 田子山富士塚(敷島神社境内)

もとは古墳だったらしい。

Dsc03896 説明板

Dsc03911 東明寺庚申供養地蔵(寛文7年(1667)・本町1-4)

Dsc03909 説明板

Dsc03912 光背の右側に「蟇俣」とある。

Dsc03916 宝憧寺(柏町1-10)

市内で一番大きい、高さ2.04mの馬頭観音文字塔がある。

Dsc03915 説明板

Dsc03919 城山貝塚(柏町3-3) 【ルート地図】の④

Dsc03920 説明板

Dsc03924柏の城大堀跡?(志木小学校前の柏町3-9?あたり)

Dsc03923 説明板

薄くなって消えかかっている。いずれ撤去されてしまうのか?

Dsc03928 館の氷川神社(柏町3丁目)

左の狛犬の左側の石柱は嘉永6年(1853)の修復記念碑。

Dsc03926 説明板

Dsc03932 大塚地蔵(幸町2-10)

大塚交差点の所。大塚はすぐ近くの塚の山古墳による名か。

Dsc03933_2 大塚延命地蔵

正徳5年(1715)の建立。愛嬌のあるユーモラスな顔立ちの地蔵さんだ。

Dsc03948  由来碑

Dsc03946 大六天神社(幸町2-11)

安政6年(1859)の建立。

Dsc03944 由来碑

Dsc03947 鎌倉街道跡

右側の空き地に説明板が立つ。

Dsc03936 説明板

鎌倉街道の上道と中道のバイパスのような道で、大宮→与野→羽根倉の渡し→宗岡(志木)→大和田(新座・普明寺の前を通る道だろう。)→下宿(清瀬)→本郷(所沢)で上道に合流したらしい。

Dsc03941 塚の山古墳(幸町2-10) 【ルート地図】の⑤

7世紀後半の径6~7m、高さ約3mの円墳。

Dsc03939 説明板

Dsc03949 馬頭観音(幸町2-10あたり)

Dsc03951千手院(柏町5丁目)

Dsc03953 神明神社(柏町5丁目の東上線沿い)

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2007年11月 1日 (木)

金沢市の坂-4

2007年11月1日

Dsc03739   金沢駅・・・六枚交差点・・・鞍月用水・・・香林坊・・・竪町商店街・・・犀川大通り・・・思案橋(勘太郎川)・・・二十人坂・・・旧欠原町の坂(①真行寺と慶恩寺の間の坂・②勘太郎橋から上る坂・③菅原神社横から下る坂)・・・新坂・・・小立野通り・・・波着寺・・・下馬(げば)地蔵尊・・・新)白山(しらやま)坂(仮称)・・・猿丸神社・・・(新)白山坂・・・亀(がめ)坂・・・線香坂・・・笠舞石堂地蔵・・・笠舞のくらがり坂・くらがり坂の清水(しょうず)・・・犀川大通り・・・鶯坂・・・善光寺坂・善光寺坂地蔵尊・・・大瀧坂(上の写真)・辰巳用水遊歩道・・波坂・・えんしょう(煙硝)坂・・・土清水(つちしょうず)バス停→出羽町・・・県立歴史博物館・・・美術の小径・・・金沢ふるさと偉人館前の坂・・・香林坊・・・蔵月用水・・・六枚交差点・・・金沢駅

 金沢駅から二十人坂への道筋を地図で調べていたら、二十人坂の坂下近くの犀川大通り沿いに思案橋があるのに気づいて、そこを通るルートにした。「思案橋ブルース」でおなじみの、丸山遊郭に「行こうか、戻ろうか」思案した長崎の思案橋は跡に碑が残るだけ、金沢の思案橋はバス停、交差点の名前にもついているので期待したが、勘太郎川に今もちゃんと架かってはいるが、小さな橋でちょっとガッカリ。犀川を渡って西茶屋街に「行こうか、戻ろうか」思案したのか? 東か西の茶屋街どっちにしようかと迷ったのか?それとも、全く別の由来があるのか。雨の中、しばし橋上で思案にくれた。(後日、『金沢の橋』に由来が書かれているのを見つけた)

 思案橋交差点の少し先から二十人坂が上っている。隣りの新白山坂に比べると細く一方通行の坂だが、けっこう車が上って行く。坂上あたりの旧欠原町は、小立野の野原が欠けて崖のような地形の所で、入り組んで曲がりくねった坂が何本も下っていて、坂沿いには住宅が密集して建っている。

 いくつかの坂を歩いているうちに新坂の坂下の唯念寺の前へ出た。新坂を上り、二十人坂の坂上を通り、旧白山町の由来の波着寺に寄り、広い新白山坂(仮称)を下る。坂下近くの犀川大通り沿いに猿丸神社がある。百人一首の猿丸太夫の旧跡だという。新白山坂を上り返し、坂上近くから斜めに県道208号に入ると、すぐ右へ亀坂が分岐し下りとなる。亀坂下から線香坂の坂下は近い。線香坂を曲がりながら上ると亀坂の坂上近くに出る。坂上からの下り口は分かりにくい。

 亀坂下を行き、笠舞の石堂地蔵の前を通り、犀川大通りの笠舞2丁目の交差点から笠舞のくらがり坂へ向う。坂上には刑場があったともいう。今は住宅が立ち並び、静かだがかつての暗さはまったくない平凡な坂だ。坂下に復活、再生された「くらがり坂の清水(しょうず)」があるがあまりきれいな感じではない。

 犀川大通りに戻り、笠舞本町1丁目交差点から左に入り鶯坂の急な石段を上ると亀坂の坂上から続く県道208号に出る。右へ行くと善光寺坂の坂上だ。この坂も犀川大通りまで下っている。坂上から左に分岐する道を行くと錦町交差点の所で小立野通りに出る。ここから辰巳用水遊歩道が始まり、大瀧坂の石段が下っている。

 辰巳用水遊歩道を行くと涌波トンネルの手前で、涌波坂が斜めに遊歩道を越えて上下している。涌波トンネルの上を越えたあたりから雨足が強まって傘をさしていても濡れる有様だ。幸いなことに遊歩道の上を木々が覆い始めてきて、かなり雨を防ぐようになり大助かり。しばらく行くとえんしょう坂の坂下にたどり着く。雨が降り続く中、これで今日の予定の坂を歩けたと満足した気分で坂を上がると、土清水のバス停のそばだった。バスで出羽町に出て、歴史博物館を見学し、歩き慣れたコースを金沢駅まで歩いた。

 新坂は前日に、美術の小径は「金沢市の坂-2」に記載。

  【ルート地図】(土清水バス停から先は省略)

  写真をクリックすると拡大します。

Dsc03645 思案橋から勘太郎川

辰巳用水の分流で、かつて石引町内に勘太郎という人物が住んでいたことからこの名がついたといわれるが定かでない。旧百姓町などでは、製紙、製粉などの水車をまわしていた。(標柱の説明文)

Dsc03649 二十人坂(坂下から) 小立野通りの石引2丁目交差点から南西に犀川大通りまで下る。《地図》(旧欠原町の坂①②③・新白山坂も掲載)

坂下は犀川大通り

Dsc03656 坂上方向

「旧二十人町」:町標の説明文 「藩政のころ、鉄砲足軽二十人をこの地に住まわせたことから、小立野二十人町、小立野足軽町二十人町などと呼ばれた。明治四年、付近の町を加えて二十人町となった。」

Dsc03658 坂上方向

坂上は小立野通り

Dsc03652金沢ふらっとバス」の「二十人坂」バス停

Dsc03786 旧欠原町の坂①(真行寺(右)と慶恩寺(左)の間の坂)

仮称:「真行寺坂」

Dsc03785 真行寺(石引2-4)

Dsc03784 説明板

Dsc03787 坂下から

旧欠原町 町標の説明文:「崖縁の通りであるため、藩政時代は笠舞がけ原、がけ片原町などと呼ばれていたが、のち、略してこの名がついた。」

Dsc03800 旧欠原町の坂②(勘太郎橋から上る坂)(坂上方向)

仮称:「勘太郎橋坂」 勘太郎川の水源は善光寺坂下にある大清水(おおしょうず)という。

Dsc03798 橋を渡った所から

正面のガード上は二十人坂

Dsc03795 坂下方向

Dsc03788 坂上は真行寺と慶恩寺(正面)の間の坂の坂下の通りへ出る。

Dsc03802 菅原神社(石引2-25)

Dsc03804 旧欠原町の坂③(菅原神社脇から下る坂)

仮称:「宮坂」

Dsc03808 坂下近く

Dsc03809 坂上方向

Dsc03666 波着寺(石引2-18)

旧白山町の町名の由来の寺。

Dsc03664 説明板

Dsc03668 下馬(げば)地蔵尊(新白山坂の坂上の石引2-10)

文禄元年(1592)、金沢城築城の巨石を戸室山から引き出す工事の平安を祈って建立されたと伝える。

Dsc03669 堂内の地蔵さん

Dsc03671 新白山(しらやま)坂(坂上近くから坂下方向) 小立野通りの石引1丁目交差点から西方向に犀川大通りまで下る。

旧町名の白山(しらやま)町による。藩政時代は波着寺門前と呼ばれていたが、波着寺の山号が白山であることから、明治4年、この名に改めれられた。そして昭和39年に石引2丁目に改められた。

*この坂を白山坂と思っていたが、この道は新しい道で、白山坂は白山坂交差点を横切り、猿丸神社へと下る坂だった。(コメント(下記)をいただきました)

Dsc03665 白山町名の由来(波着寺の前)

Dsc03673 坂上方向

Dsc03675 白山坂の標識

ここで白山坂と新白山坂が交差する。

Dsc03648 坂下の犀川大通りから

Dsc03647 猿丸神社(笠舞3-23 白山坂の坂下近くの犀川大通り沿い)

百人一首の猿丸太夫の居跡で、猿の霊を祀ったとも伝えれれている。猿丸太夫は平安時代初期の歌人で三十六歌仙の一人。生没年不詳の謎の人物で各地に伝承が残る。

Dsc03646 説明板

Dsc03677亀坂 石引2-11と小立野3-2の間を曲がりながら西方向に下る。 《地図》(線香坂・笠舞のくらがり坂・鶯坂・善光寺坂も掲載。)

【坂標】の説明文 「加賀藩初期、この付近は深い谷であったが、戸室石をはこぶため埋めて次第に坂の勾配をゆるくした。がめ坂の名の由来は明らかでない。」

坂標は亀坂地下道上の県道208号に立っているが県道が亀坂ではない。

正面の右へ曲がる所の左から亀坂地下道が県道下を抜けている。

Dsc03680_2 亀坂地下道

Dsc03681 坂下方向

Dsc03688線香坂(坂下から) 石引2-11の間を曲がりながら西方向に下る。亀坂の北側の坂。

左へカーブしながら上る。下の通りは亀坂下に通じる。(正面方向)

坂下に線香工場があったという。地元では、「あらま坂」と呼ぶという。

Dsc03691 坂上方向

Dsc03694 坂の途中から坂下方向

Dsc03696 坂上から

坂上への入口は白山坂の坂上と亀坂の坂上の中間あたりの県道208号。

Dsc03701 笠舞石堂地蔵(傘舞2-21)

『かなざわ・まち博百科』には、「天保八年(1837)に加賀が飢饉に襲われた際、僧侶真誉が飢餓者供養のため浄財を集めてつくったと伝える。」とある。下の写真の由来書とは違っている。どちらが正しいのか?

Dsc03700 由来書

Dsc03705 笠舞のくらがり坂(坂下方向) 犀川大通りの笠舞2丁目交差点から城南2丁目と笠舞本町2丁目の間を曲がりながら西方向に下る。小立野段丘の一段下の笠舞段丘の坂。

かつては、街灯もなく、夜は真っ暗で、手探りでしか歩けないような怖い坂だった。また、藩政時代には坂上に刑場があったという。

Dsc03708 坂上方向

Dsc03713 坂下から

坂下左側が「くらがり坂のショウズ(清水)」

Dsc03712 くらがり坂の清水

昔は野菜洗いなどに利用した湧水。市が復活再生したが水量もさほどでなく、清水と呼べるほどきれいでもないようだ。

Dsc03710 説明板

Dsc03714 鶯坂(坂下から) 小立野3-20の前から南西方向に下る石段。

正面の石段を上り、右に曲がり、さらに左に曲がって上る。

『サカロジー金沢の坂』によれば、この坂は新しい坂で、かっては小川が流れていたという。坂名の由来も不明。

Dsc03716 右に曲がった所、奥で突き当たって左に急な石段を上る。

Dsc03718坂上方向

Dsc03720 坂上から

絶壁のように見える。ここに小川が流れていたとしたら、それは滝のような流れだったのでは? 大瀧坂より急だ。

Dsc03722 坂上の車道から

左は建具店、右は駐車場

Dsc03724善光寺坂 小立野3-6と3-7の間を南東に下る。

【坂標】の説明文 「昔この付近に善光寺という寺があったのでこの名で呼ばれている。」

坂標の道路向いに善光寺坂地蔵尊がある。

Dsc03731 堂内の地蔵さんは帽子を被っているようだ。

地蔵の壁面に天正10年(1582)の銘があるという。

Dsc03727 坂上方向

雨滴がレンズについた。

Dsc03726 坂下方向

坂沿い(坂下近く?)に勘太郎川の水源の大清水(おおしょうず)があるというが見落とした。

Dsc03734 旧家(善光寺坂上近く)

Dsc03738大瀧坂 塩硝街道(小立野通りの延長の県道10号金沢湯涌福光線)の錦町交差点から曲がりながら南西方向に下る石段。《地図》(涌波坂・えんしょう坂も掲載)

【坂標】の説明文 「かってこの坂の脇には、辰巳用水から台地下の田畑を潤す流れが、大きな滝のように流れ落ちていたことから、この名がついた。」

Dsc03741 坂下方向

Dsc03742 坂上方向

Dsc03747 辰巳用水遊歩道

錦町から土清水を経て涌波までの2キロの遊歩道。

大瀧坂の坂上の所

Dsc03749 遊歩道案内板

涌波坂、えんしょう坂が記載されている。

Dsc03752 涌波坂(坂の途中の辰巳用水遊歩道から)

涌波トンネル(山側環状)の北側を南東に小原土清水線(県道114号)へ上る。

Dsc03753 坂上方向

正面右へ下るのは辰巳用水遊歩道

Dsc03754 辰巳用水遊歩道

ここあたりから雨足が強まるが、木が上を覆い始めてありがたい雨よけになる。

Dsc03774 えんしょう坂の由来板

えんしょう(煙硝)は火薬の原料。五箇山から塩硝の道を通って運ばれ、この坂を下り煙硝蔵に保管された。詳しくは、『塩硝の道を訪ねて

Dsc03773 坂下から

今は歩きやすい階段坂だが、以前は木立の間を縫う細い土砂利の坂道だった。

Dsc03777 坂下方向

Dsc03781 坂上から

Dsc03827金沢ふるさと偉人館(下本多町6-18)前から下る坂(坂上方向)

偉人館は正面奥。

Dsc03828 知事公邸(坂沿いの坂下近く)

 

 

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