菖蒲町の坂(埼玉県)
2007年11月24日
桶川駅(JR高崎線)バス→仲橋(見沼代用水・星川)・・・中島用水路・・・菖蒲町図書館・・・菖蒲神社・・・県道12号(川越栗橋線)・・・菖蒲城跡・・・小林橋(野通川)・・・小林神社・・・神明神社・・・天王山塚古墳・・・正法院・・・諏訪神社・・・幸福寺・太鼓阪舊跡碑・太鼓坂?・・・大御堂橋(元荒川)・・・(上越新幹線)・・・県道12号・・・加納バス停→桶川駅
見沼代用水と元荒川に挟まれ、その間を野通川が流れる菖蒲町(2010年に久喜市と合併)へ、伝説(後述)の太鼓坂を探しに行く。
起伏のある地形ではなく、菖蒲城跡は沼地の平城だ。神明社、天王山塚古墳、幸福寺の所は少し高くなっている程度か。幸福寺の前に「太鼓阪舊跡」の碑が立っているが、道に傾斜はほとんどない。幸福寺が太鼓坂の伝説にゆかりの寺なので、ここに碑が立っているだけで坂は別の所にあったのだろうか? 伝説では村の切通しの坂となっているがそんな場所があるようには思われない。所詮、伝説上の話なのであまり気にせず幸福寺前の道を太鼓坂としておく。
【地図】
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中島用水路(右)との分岐。桜堤の碑が立つ。
見沼管理所のところ。
一階が図書館
菖蒲のフジ説明板
室町時代中期の康生2年(1456)、古河公方足利成氏の家臣の金田式部則綱が、自然の沼地を利用して城を築き、これが完成したのが、菖蒲の生い繁る5月5日であったので、菖蒲城と号した。『郷土』 これが「菖蒲」町の地名の由来の一つ。もう一つは、奈良時代に行基が下野巡錫の道すがら、この地に着いた時には日がとっぷり暮れ、宿を探したが人家もなく、南の方角に沼が白く光っていて、その辺り一面に菖蒲や柳が密集していたことによるというもの。『菖蒲町歴史ガイド』
旗本内藤氏屋敷門(あやめ園内)
江戸時代、この地域一帯を治めていた旗本内藤家の栢間(かやま)陣屋の裏門を移築。陣屋は栢間小学校あたりにあった。
野通川から小林神社への道沿い。
小林神社近くの辻。
550mあり、大宮の氷川神社に匹敵する長さ。
天王山塚古墳(前方部への登り道) (上栢間3284)
栢間古墳群の中心の全長約107mの前方後円墳。古墳時代後期の6世紀中頃の築造。さきたま古墳群の鉄砲山古墳(108m)につぐ前方後円墳だが墳丘はかなり崩れている。
後円部には薬師堂?が立ち、堂の前はブランコがあって親子連れが遊んでいた。
薬師堂の後ろ横方向の高くなっている所は江戸時代に作られた富士塚らしい。
関東八十八カ所霊場第八十一番札所。
道の右側に「太鼓阪舊跡」の碑が立つ。左側は幸福寺。
太鼓坂の伝説① 「昔、弁慶が陣太鼓を埋めたところだそうで、今でもその上を歩くと太鼓の音が聞こえる。」
伝説② 昔、幸福寺の門前で鳴りのよい太鼓を持っていた旅僧が殺された。殺した男は太鼓が手がかりになって捕らえられるを恐れて、或る夜、こっそり村の切通しの坂に埋めた。間もなく役人がこの坂を通った。すると、どこからともなく太鼓の音が聞こえ出した。このことから旅僧を殺した男の所在を知らせるものがあって、男は捕らえられ処刑された。太鼓は埋められたままで、それ以来、坂の中腹を通ると、幽かな音をたて、そこを通る人達の心をそそった。そのさびしい太鼓の音は、その後、太鼓のありかを探し出し掘り返す者が出てから、音が悪くなったという。」
伝説③ 幸福寺のあたりに大御堂の鐘楼守護の主の一頭の龍が棲んでいた。ある日、龍が近くの沼に行っている間に、堂の鐘が何者かに奪われてしまった。龍は血眼で探したが見つからず、怒った龍は幸福寺の和尚の所へ行き、自分の鐘が出るまで、この太鼓を預って行くといい、太鼓を持ち去りどこかへ隠してしまった。今、太鼓坂の太鼓の音は、この時龍が奪って地底に隠したその太鼓の響きだという。鐘(原文では太鼓となっているが)を盗んだのは筑波の龍で、ここの大御堂と共に刃物一つで左甚五郎が造ったといわれる筑波山の大御堂へ持って行ってしまった。だから、筑波の鐘は、「栢間恋いし、ポーン」と鳴るという。---(以上、『埼玉の伝説集成 上』 「太鼓坂」より。
大御堂橋から元荒川
正面は上越新幹線。大御堂は幸福寺のこと。
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