所沢市の坂-2
2007年12月30日
所沢駅(西武池袋線)・・・プロペ通り・・・ファルマン通り・・・銀座通り・・・庚申堂・・・坂稲荷神社・・・飛行機新道・旭橋(東川)・・・曽根の坂・・・薬王寺・深井醤油・寺坂・・・神明社・・・峰の坂(鎌倉街道)・・・旧鎌倉街道・・・新光寺・・・実蔵院・・・天王坂・長久寺(寿和婦貴尊・廻国供養塔)・・・勢揃橋(柳瀬川)・・・八国山緑地・将軍塚・元弘の板碑跡・・・久米川古戦場跡(東京都東村山市)・・・悲田処跡公園・・・鳩峰八幡神社(八坂神社・新田義貞兜掛けの松)・・水天宮・・・仏眼寺・・水天宮下バス停→所沢駅
賑やかなプロペ通りから近代のファルマン通り、飛行機新道から中世の鎌倉街道へ出て峰の坂を下り、旧鎌倉街道ヘタイムスリップして、新光寺、実蔵院、天王坂、長久寺、勢揃橋へと晴れている中を快調に坂道散歩を進めて来たが、八国山緑地(山といっても90m足らずだが)へ登るあたりから雲行きが怪しく、暗くなり風も出てきた。久米川古戦場から先は雨の中の行軍となった。
天気予報では雨は降らないはずで、傘を持って来ず、かなり濡れながら仏眼寺までたどり着く。あとは十人坂を上って所沢駅に向えば今日の予定は終了だが、上着に雨が滲み込んで来て寒くなってきた。水天宮バス停の近くのガレージの下で雨宿りをしながらどうしようか考えたが、今日はここまでであきらめバスで所沢に戻ることにした。帰りの電車の中、空は晴れてきたが天気雨の降っている変な天気の日だった。
【地図】
写真をクリックすると拡大します。
明治44年、所沢飛行場でわが国で初飛行した、「アンリ・ファルマン機」にちなむ通り。
庚申堂(東町22)は柴又、浦安とならび関東地方三大御堂という。
写真の堂は庚申堂厄神社で、同じ境内に別に庚申堂はあり、寛文2年(1662)の青面金剛明王の庚申塔が祀られているそうだ。てっきり厄神社の堂を庚申堂と思ってしまい見落としてしまった。
ファルマン通りから飛行機新道へ出る辻の所に付近の案内図と説明が書かれている。
左・宝永7年(1710)、左から二番目・寛文3年(1663)、右から二番目・元禄11年(1698)、右・六十六部供養塔(天文5年(1740))の建立。
飛行機新道(旭橋(東川)の所、正面は西武新宿線)
明治44年に完成した日本で最初の所沢飛行場(現在の航空記念公園)に、所沢駅から機材等を運ぶために造られた通り。旭橋には金属製の飾りがついていたが、戦時中にはぎとられて弾丸などに使われた。東川はきれいで、メダカなどが泳いでいたという。
坂稲荷神社(御幸町1の銀座通り沿い)
通称「坂の稲荷」。神社前の銀座通りはゆるい傾斜の坂になっている。
曽根の坂 国道463号の曽根の坂交差点から北有楽町1と2の間を北西に上る。
地名か人名による坂名のどちらかと思うが?
新田義貞の子、義宗が開基という曹洞宗の寺。
寺坂(坂下から) 薬王寺(右)と深井醤油(左・有楽町-7)の間を北に上る。
右側が深井醤油の建物。
安政3年(1856)創業
所沢神明社(宮本町1-2)
峰の坂 宮本町2丁目の県道6号の峰の坂交差点から南東に下る鎌倉街道(上の道)。
この坂は昭和7年改修されて緩い傾斜となった。河原宿から見て、北方の高台は峰のように見えたものであろう。『所沢市史 地誌』 河原宿は旧鎌倉街道と東川の交差する峰の坂の坂下の新光寺のあたり一帯。
このあたりは鎌倉時代の宿場の中心。道興准后はここも訪れ、山芋でもてなされ、「野遊びの山の肴(さかな)に芋添えて 掘り求めたる野老沢(ところざわ)かな」 と詠んだ。『廻国雑記』
新光寺には、人の迷惑を考えない話好きの狸の股に、和尚が焼け石を放り込んで追っ払ったという、「あっちっちいの新光寺」の伝説が残っている。
前に「旧鎌倉街道」の標柱が立つ。
左は野老山実蔵院で、江戸時代の商人たちの檀那寺の一つ。
天王坂(坂下方向) 久米の旧鎌倉街道沿いの長久寺の西側を北方向に上る。
現在、鳩峰八幡神社の境内にある八坂神社(スサノヲ命(牛頭天王)が祭神)がこの坂にあった。正面左側は長久寺。
首のない石仏、六地蔵か。「婦貴」とあるから、安産、子育て、婦人の病いにご利益があるのかと思ったが、「しわぶき(咳)」で、首を取ってしまったので、咳に苦しむことはない。庶民の身代わりに「首省ぶき」となり、庶民を守っているという。
勢揃橋(柳瀬川) 正面奥が八国山。
新田義貞が鎌倉街道を攻め下る時に、倒幕軍の軍勢をここで勢揃いさせたという。渋谷区には、八幡太郎義家が軍勢を整えた、「勢揃坂」がある。「渋谷区の坂-3」
駿河、甲斐、伊豆、相模、常陸、下野、上野、信濃の八国が望めたとか。
将軍塚(左奥)・元弘の板碑(青石塔婆)跡(右手前の石碑の所)
新田義貞が一時、ここに陣を張ったという伝承の所。八国どころかせいぜい一国が見えるだけ。青石塔婆は合戦の戦死者を供養する内容が刻まれている。現在、東村山市の徳蔵寺に保存。
元弘3年(1333)、小手指ケ原の戦いで勝利した新田義貞の倒幕軍と鎌倉幕府軍との第二戦がこのあたりの周辺一帯で行われた。鎌倉街道上道の久米川宿があった所。
悲田処跡公園 《地図》
奈良時代に入間郡と多摩群の境に設けられた旅人の救済施設跡。
説明板に、「もと長久寺の西、天王坂にあった。」とある。
新田義貞が鎌倉攻めの時、この松に兜を掛けたという。鎧を置いた跡という、鎧稲荷神社も、境内にあるという。左の石柱の垣の中の松が何代目かの松というのだろうが、細くて兜を掛けたら折れてしまうだろう。
右は「兜掛けの松」碑
鳩峰八幡神社の別当寺だった。
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