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2007年12月30日 (日)

所沢市の坂-2

2007年12月30日

所沢駅(西武池袋線)・・・プロペ通り・・・ファルマン通り・・・銀座通り・・・庚申堂・・・坂稲荷神社・・・飛行機新道・旭橋(東川)・・・曽根の坂・・・薬王寺・深井醤油・寺坂・・・神明社・・・峰の坂(鎌倉街道)・・・旧鎌倉街道・・・新光寺・・・実蔵院・・・天王坂・長久寺(寿和婦貴尊・廻国供養塔)・・・勢揃橋(柳瀬川)・・・八国山緑地・将軍塚・元弘の板碑跡・・・久米川古戦場跡(東京都東村山市)・・・悲田処跡公園・・・鳩峰八幡神社(八坂神社・新田義貞兜掛けの松)・・水天宮・・・仏眼寺・・水天宮下バス停→所沢駅

 賑やかなプロペ通りから近代のファルマン通り、飛行機新道から中世の鎌倉街道へ出て峰の坂を下り、旧鎌倉街道ヘタイムスリップして、新光寺、実蔵院、天王坂、長久寺、勢揃橋へと晴れている中を快調に坂道散歩を進めて来たが、八国山緑地(山といっても90m足らずだが)へ登るあたりから雲行きが怪しく、暗くなり風も出てきた。久米川古戦場から先は雨の中の行軍となった。
 天気予報では雨は降らないはずで、傘を持って来ず、かなり濡れながら仏眼寺までたどり着く。あとは十人坂を上って所沢駅に向えば今日の予定は終了だが、上着に雨が滲み込んで来て寒くなってきた。水天宮バス停の近くのガレージの下で雨宿りをしながらどうしようか考えたが、今日はここまでであきらめバスで所沢に戻ることにした。帰りの電車の中、空は晴れてきたが天気雨の降っている変な天気の日だった。  

  【ルート地図

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Img_0867 ファルマン通り

明治44年、所沢飛行場でわが国で初飛行した、「アンリ・ファルマン機」にちなむ通り。

Img_0870_2 庚申堂(東町22)は柴又、浦安とならび関東地方三大御堂という。

写真の堂は庚申堂厄神社で、同じ境内に別に庚申堂はあり、寛文2年(1662)の青面金剛明王の庚申塔が祀られているそうだ。てっきり厄神社の堂を庚申堂と思ってしまい見落としてしまった。

Img_0868庚申堂説明板

ファルマン通りから飛行機新道へ出る辻の所に付近の案内図と説明が書かれている。

Img_0871 庚申塔

左・宝永7年(1710)、左から二番目・寛文3年(1663)、右から二番目・元禄11年(1698)、右・六十六部供養塔(天文5年(1740))の建立。

Img_0876 飛行機新道(旭橋の所、正面は西武新宿線)

明治44年に完成した日本で最初の所沢飛行場(現在の航空記念公園)に、所沢駅から機材等を運ぶために造られた通り。旭橋には金属製の飾りがついていたが、戦時中にはぎとられて弾丸などに使われた。東川はきれいで、メダカなどが泳いでいたという。

Img_0865 説明板

Img_0859 坂稲荷神社(御幸町1の銀座通り沿い)

通称「坂の稲荷」。神社前の銀座通りはゆるい傾斜の坂になっている。

Img_0858説明板

Img_0861 曽根の坂 国道463号の曽根の坂交差点から北有楽町1と2の間を北西に上る。【ルート地図】の①

地名か人名による坂名のどちらかと思うが?

Img_0862 坂下方向

Img_0854 薬王寺(有楽町8)

新田義貞の子、義宗が開基という曹洞宗の寺。

Img_0846 寺坂(坂下から) 薬王寺(右)と深井醤油(左・有楽町-7)の間を北に上る。【ルート地図】の②

Img_0851 坂下方向

右側が深井醤油の建物。

Img_0843 深井醤油

安政3年(1856)創業

Img_0879 所沢神明社(宮本町1-2)

Img_0878 説明板

Img_0880 峰の坂 宮本町2丁目の県道6号の峰の坂交差点から南東に下る鎌倉街道(上の道)。【ルート地図】の③

この坂は昭和7年改修されて緩い傾斜となった。河原宿から見て、北方の高台は峰のように見えたものであろう。『所沢市史 地誌』 河原宿は旧鎌倉街道と東川の交差する峰の坂の坂下の新光寺のあたり一帯。

Img_0885 坂下方向

Img_0887 新光寺(宮本町1-7の旧鎌倉街道沿い)

このあたりは鎌倉時代の宿場の中心。道興准后はここも訪れ、山芋でもてなされ、「野遊びの山の肴(さかな)に芋添えて 掘り求めたる野老沢(ところざわ)かな」 と詠んだ。『廻国雑記
新光寺には、人の迷惑を考えない話好きの狸の股に、和尚が焼け石を放り込んで追っ払ったという、「あっちっちいの新光寺」の伝説が残っている。

前に「旧鎌倉街道」の標柱が立つ。

Img_0886 説明板

Img_0895 旧鎌倉街道上道

左は野老山実蔵院で、江戸時代の商人たちの檀那寺の一つ。

Img_0898_2鎌倉街道説明板

Img_0902 天王坂(坂下方向)  久米の旧鎌倉街道沿いの長久寺の西側を北方向に上る。【ルート地図】の④

現在、鳩峰八幡神社の境内にある八坂神社(スサノヲ命(牛頭天王)が祭神)がこの坂にあった。正面左側は長久寺。

Img_0903 坂上方向

Img_0904 説明板(長久寺)

Img_0910 右側に一遍上人の立像。

Img_0906 廻国供養塔

Img_0907 説明板

Img_0908 寿和婦貴(すわぶき)尊

首のない石仏、六地蔵か。「婦貴」とあるから、安産、子育て、婦人の病いにご利益があるのかと思ったが、「しわぶき(咳)」で、首を取ってしまったので、咳に苦しむことはない。庶民の身代わりに「首省ぶき」となり、庶民を守っているという。

Img_0911_2 勢揃橋(柳瀬川) 正面奥が八国山。

新田義貞が鎌倉街道を攻め下る時に、倒幕軍の軍勢をここで勢揃いさせたという。渋谷区には、八幡太郎義家が軍勢を整えた、「勢揃坂」がある。「渋谷区の坂-3

Img_0914 八国山(89m)緑地へ

駿河、甲斐、伊豆、相模、常陸、下野、上野、信濃の八国が望めたとか。

Img_0920 将軍塚(左奥)・元弘の板碑(青石塔婆)跡(右手前の石碑の所)

新田義貞が一時、ここに陣を張ったという伝承の所。八国どころかせいぜい一国が見えるだけ。青石塔婆は合戦の戦死者を供養する内容が刻まれている。現在、東村山市の徳蔵寺に保存。

Img_0916 説明板

Img_0922久米川古戦場跡(東村山市) 【ルート地図】の⑤

元弘3年(1333)、小手指ケ原の戦いで勝利した新田義貞の倒幕軍と鎌倉幕府軍との第二戦がこのあたりの周辺一帯で行われた。鎌倉街道上道の久米川宿があった所。

Img_0921 説明板

Img_0924 悲田処跡公園 《地図

奈良時代に入間郡と多摩群の境に設けられた旅人の救済施設跡。

Img_0930 鳩峰八幡神社

Img_0928 説明板

Img_0931 八坂神社(鳩峰八幡神社境内)

説明板に、「もと長久寺の西、天王坂にあった。」とある。

Img_0933 兜掛けの松

新田義貞が鎌倉攻めの時、この松に兜を掛けたという。鎧を置いた跡という、鎧稲荷神社も、境内にあるという。左の石柱の垣の中の松が何代目かの松というのだろうが、細くて兜を掛けたら折れてしまうだろう。

右は「兜掛けの松」碑

Img_0934 水天宮

Img_0938 仏眼寺(左)

鳩峰八幡神社の別当寺だった。

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2007年12月24日 (月)

谷中界隈の坂

2007年12月24日

田端駅・・・不動坂・・・与楽寺坂・与楽寺・・・幽霊坂・・・田端台公園・・・道灌山坂・・・向陵稲荷坂・向陵稲荷神社・・・ひぐらし坂・・・(西日暮里駅)・間の坂・・・西日暮里公園・・・諏方神社・・・地蔵坂・・・浄光寺・・・富士見坂・・・修性院(花見寺)・・・夕やけだんだん・谷中銀座・・・七面坂・・・延命院・・・経王寺・・・本行寺(月見寺)・・・御殿坂・・・七面坂・・・宗林寺(萩寺)・・・岡倉天心旧宅跡・・・蛍坂・・・三崎坂・全生庵・・・谷中霊園・五重塔跡・・・天王寺・・・芋坂・芋坂跨線橋・羽二重団子・善性寺・隼人稲荷・・・御隠殿跡(根岸薬師)・・・御隠殿坂・・・芋坂・・・紅葉坂・・・日暮里駅

 久しぶりに23区内の坂道散歩だが、新しい坂は北区と荒川区の境の道灌山坂の一つだけ。風が少し強かったが晴れていて休日のこともあり谷中界隈はけっこう人が出ている。いつもと違って若いカップルが目立つような気がする。クリスマスイブのせいなのか。

 今日歩いた坂は、北区、荒川区、台東区にまたがっているが、何度か歩いているのと、坂と坂の間の距離が短いので、短時間で終わってしまってちょっと物足りない感じだった。3つの区には、三区十様?の坂標が設置してある。説明文のある北区の与楽寺坂に設置のものと、荒川区(地蔵坂や富士見坂)のものが読みやすく分かりやすい。

 坂の詳細は『東京23区の坂』(坂道散歩)で。

ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_0660_2不動坂(北区)(坂上から)

正面下はJR田端駅

Img_0664_2 与楽寺坂(坂下方向)

Img_0674 幽霊坂(坂下方向)

Img_0676坂上の壊れかけた家。人は住んでいないようだが「幽霊屋敷」といったら怒られるかも。

Img_0687道灌山坂 北区田端1-29と荒川区西日暮里4-7の間を南東から北東方向に上る。【ルート地図】の③

この辺り一帯を道灌山と呼ぶことからついた坂名。

右方向に曲がる。

Img_0680 坂下方向

曲がってさらに下る。

Img_0685 坂下方向

Img_0688 向陵稲荷坂(坂上から)

右の赤い上りが向陵稲荷神社。

Img_0697 ひぐらし坂(坂下から)

上って左に曲がる。右の通りの正面は西日暮里駅。

Img_0699 佐竹屋敷と渡辺町の説明板

向陵稲荷神社も佐竹屋敷の敷地内にあった。渡辺町は、赤字坂の「渡辺治右衛門」に由来する町名。

Img_0709 間の坂

正面は西日暮里駅

Img_0711 坂上の西日暮里公園

道灌山といわれ、「虫聴き」の名所だった。太田道灌の出城があったという伝承がある。

Img_0713 「道灌山」安藤広重

遠く見える山は筑波山(左が男体山、右が女体山)だろう。ここには道灌船繋松があって船からの目印になった。

Img_0723 地蔵坂(坂上方向)

坂上は諏方神社の境内。左はJRの線路。石段下からJRのガードをくぐると反対側(東側)に通ずる。

以前は通りづらかったが、今は明るくきれいになっている。

Img_0733 富士見坂(坂上から富士山方向) 正面のビルの左奥方向が富士山

薄い雲がかかっていたせいか、目が悪いのか、カメラのせいか、今日も富士は見えず。この日は朝と夕に(昼も?)見えたそうで、「富士見坂通信」(日暮里富士見坂を守る会)に写真が載っている。今度、「ダイヤモンド富士」が見えるのは2008年1月29日から31日までらしい。

Img_0735 修性院(富士見坂の北側)

妙隆寺(花見寺)と合併した寺。富士見坂の別名は妙隆寺坂、花見坂。

Img_0742 夕やけだんだん(坂上から)

坂下は谷中銀座

Img_0763 荒川区の【坂標】

Img_0738七面坂

右の墓地の塀に台東区の説明板が、左側に荒川区の坂標が立つ。

Img_0746 延命院(七面坂の坂上)

坂名の由来の七面堂は左側の堂か?

Img_0745 説明板

Img_0749 経王寺山門

Img_0750 山門に残る上野戦争の鉄砲の弾跡。

Img_0748説明板

Img_0761 御殿坂(坂下方向)

Img_0755 本行寺(月見寺)

御殿坂沿いの北側。

Img_0764 宗林寺(谷中3-10)

このあたりは、蛍の名所で「蛍沢」と呼ばれ「蛍坂」の由来となった。また境内に萩が多く、「萩寺」と呼ばれていた。門前に石柱「「ほたる沢 はぎ寺」が立つ。

Img_0770 蛍坂

車は通れない。

Img_0795 三崎坂

坂下から団子坂の上りとなる。

Img_0789 三遊亭円朝の墓(三崎坂途中の全生庵境内)

境内には金ぴかの観音像も立っている。

Img_0786 説明板

Img_0801 天王寺五重塔跡(谷中霊園内)

寛政3年(1791)に再建され、関東大震災、戦災にも耐えたが、昭和32年7月9日に放火で焼失。最初の五重塔も明和9年(1772)の目黒行人坂の大火で焼けた。

Img_0798 説明板

Img_0799 焼ける前の五重塔(左)・火災で炎上中(右)

高さ32mで関東で一番高い塔だった。幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなった。

Img_0803

天王寺

Img_0802 説明板

Img_0811 芋坂(坂下方向)

正面はJRの芋坂跨線橋

Img_0820 善性寺(芋坂の坂下)

門前の橋跡が将軍橋(音無川)か

Img_0815 「将軍橋と芋坂」説明板

Img_0821 芋坂下の羽二重団子(藤の木茶屋)店の前。

王子街道道標(右角)・団子の由来の看板(道標の左)・「いも坂みち」説明板(道標の後ろの店の壁)などが並ぶ。

Img_0814 いも坂みち

Img_0817_2 王子街道(店の前の道)道標

「右 いも坂みち」・「左 根ぎしみち」

Img_0822 団子の由来

Img_0824 御隠殿跡(根岸薬師)

寛永寺住職輪王寺宮の別邸。敷地3千坪以上。

Img_0825 御隠殿絵図

図に番号が書いてあり、右上に(1)感応寺(天王寺)、その左に五重塔、右下に(5)将軍橋、その上に(4)羽二重団子? (3)芋坂、中央下あたりに(10)御隠殿橋、左へ上る(23)御隠殿坂などが描かれている。

Img_0832御隠殿坂(左のJRの線路の方へ下る。正面はJRの跨線橋で御隠殿跡に続いている。)

輪王寺宮が寛永寺から御隠殿に行くために設けられた坂。

Img_0841紅葉坂(坂下の日暮里駅から)

正面は天王寺

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2007年12月15日 (土)

市川市の坂-2

2007年12月15日

市川大野駅(武蔵野線)・・・万葉植物園・・・八幡神社・・・ワダ(和田)の坂・・・本住寺・・・春日神社①・・・春日神社②・・・安国寺・・・曽谷坂・・・春木川・・・国分橋(国分川)・・・御堂坂・・・経王寺・・・宝珠院・・・下総国分寺・・・天満宮・・・下総国分尼寺跡・・・北台庚申塔・・・石塔坂・仙元宮・・・持国(じこく)坂・・・亀井院(真間の井)・・・手児奈霊堂・・・弘法(ぐほう)寺・弘法山古墳・・・須和田公園・須和田遺跡・・・郭沫若記念館・・・六所神社・・・御堂坂下・・・伊弉諾(イザナギ)神社・・・国分駅(北総開発鉄道)

 万葉植物園は木にちなんだ万葉集の歌が掲げてあって面白いが、少し狭すぎる感じだ。ワダの坂には近くに和田義盛の城があったという言い伝えがあるそうだがどんなものか。
 国分川を渡り、バス通りを越えて御堂坂を上ると下総国分寺で、石塔坂の下りとなり、持国坂を上って下総国府、総社跡へと続く古道だが、住宅地となっていて昔の面影は薄い。

 万葉の歌人にも歌われた真間の手児奈を祀る手児奈霊堂あたりには今も訪れる人が多いようで、今日も団体さんが池辺で説明を聞いていた。弘法寺の境内は広く見るべき物も多いが、弘法山古墳は崩れて半壊(それ以上か)の状態だ。急で一段が高い石段の男坂と女坂で地元の高校の陸上部らしい生徒が何度も上り下りしてトレーニングをしている。かなりハードできつそうでご苦労なこった。かつては下総の総社で国府台スポーツセンターの所にあった須和田の六所神社へ寄り、北へバス通りを進み、伊弉諾神社から国分駅に出た。昼飯も食べずに今日はかなり歩いて疲れた。

  【ルート地図

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Img_0475 三社宮(市川大野駅そば)

迎米集落(現在の大野二丁目)の鎮守。

Img_0476 説明板

Img_0493 万葉植物園(大野町5-1857)

Img_0485説明板

Img_0492_2 しらかし

Img_0491 「しらかし」にちなんだ万葉集の歌が掲示してある。

Img_0513 八幡神社(大野町1-132)

道順が分かりにくく苦労する。

Img_0516_2 ワダ(和田)の坂(坂下から) 下貝塚1-2と1-4の間を西方向に上る。 【ルート地図】の①

流山市と同様、坂はサガと発音する。坂の南側(ゴルフ練習場?)あたりに和田義盛の城があったという言い伝えがある。

Img_0522 春日神社①(下貝塚2丁目)

Img_0524 春日神社②(曽谷2丁目)

近くに曽谷貝塚がある。

Img_0526 安国寺(曽谷1-35)前の坂

Img_0531 曽谷坂(坂下方向) 曽谷3丁目と4丁目の間を曾谷坂上バス停あたりから西に下る。 【ルート地図】の②

Img_0533 坂上方向

Img_0535国分川(曾谷坂の坂下の国分橋から) 

Img_0538 御堂坂(坂上方向)

国分3丁目の下総国分寺の東側、宝珠院の北側から東方向に下る。【ルート地図】の③

国分寺の堂(金堂、講堂それとも今の本堂か?)に由来する坂名か。 別名を「見通し坂」

Img_0542 坂上方向

正面は下総国分寺

Img_0545 宝珠院水子地蔵尊(国分2-24)

Img_0546 下総国分寺伽藍配置図

法隆寺様式の配置。

Img_0551仁王門

Img_0550 本堂

Img_056357 庚申塔の二つの祠(国分5-7)

前後の木のある所。後ろが「北台庚申塔」

Img_0556 国分尼寺説明板

Img_0558 国分尼寺跡(国分4-17)

Img_0557 伽藍配置図

Img_0566 石塔坂(坂下方向) 国分2-17と3-20の間を東から北方向に上る。坂上左側に国分寺。【ルート地図】の④

石塔とは何なのか? 坂途中の仙元宮の小祠のことか、それとも国分寺に関係するものか? 別名を「水汲み坂」、昔、国分寺あたりは水がなく、坂下の湧き水を汲みに通ったことからこの名がついたという。

Img_0575_2 坂上方向

左の鳥居は仙元宮

Img_0580 持国(じこく)坂(坂上方向) 千葉商科大の東側から真間5-21と5-22の間を東方向に下る。【ルート地図】の⑤

近くに国分寺の四天王の持国天をまつる堂舎があったという。別名を「時刻坂」、国府から国分寺にいたる使者がここで時刻(寺鐘の音)を聞いたからという。

Img_0584 右へ上るのが持国坂

少し上った左側に持国坂の道標がある。

Img_0589持国坂道標(坂の途中)

文化5年(1808)の建立。正面:国分寺へ五町、 右側面:総寧寺六所神社、左側面:真間山  (六所神社は下総の総社で国府台スポーツセンターの所にあった。軍用地となり、明治19年に須和田へ移転。) この道標も昔は坂上(千葉商科大の三叉路の所)にあったのだろう。

Img_0602 亀井院(真間4-4)

北原白秋はここで大正5年5月から一と月半暮らした。

Img_0604 真間の井(亀井院境内)

伝説の美女、真間の手児奈が水を汲んだという井戸。

「勝鹿(葛飾)の真間の井見れば立ち平(なら)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」 (高橋虫麻呂)

Img_0605 手児奈霊堂(亀井院の前)

美しさゆえ、多くの男から求婚され、自分のために人が争うのを憂い、真間の入江に身を投げたという手児奈を祀る。

Img_0613 真間の入江の名残りの池。

南には真間川が流れている。

Img_0609手児奈霊堂説明板

山部赤人の歌:「我も見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児奈の奥つき処(どころ)」
「勝鹿の真間の入江にうちなびく 玉藻刈りけむ 手児奈し思ほゆ」

真間の入江・手児奈を詠んだ万葉集の歌:『たのしい万葉集

Img_0642_2 弘法寺(真間4-9)

正面が男坂の石段・左は女坂。

Img_0618 真間の継橋説明板

Img_0620 弘法寺説明板

Img_0623 仁王門

Img_0625 鐘楼

Img_0626 伏姫桜

樹齢400年以上の枝垂れ桜。「南総里見八犬伝」の伏姫にちなんで名づけられた。

Img_0627 国府台砲兵の碑(伏姫桜の後ろ)

国府台一帯は軍用地で、砲兵連隊もあった。

Img_0637 弘法山古墳(弘法寺境内) 《地図

全長43mの前方後円墳。南側は崖で崩壊している。6世紀後半から7世紀前半の築造。古墳説明柱の正面に通行止めの看板を取り付けている。

Img_0633 前方部?後円部?

Img_0639 弘法寺女坂

Img_0645 須和田遺跡説明板(須和田2丁目)

縄文から弥生、平安時代までの複合遺跡。

Img_0646 弥生時代の復元住居があった所。

Img_0648 郭沫若(かくまつじゃく)記念館(真間5-3)

昭和3年から10年まで市川で亡命生活を送った旧宅を移築復元。

Img_0647 説明板

Img_0651 六所神社(須和田1-22)

もとは国府台スポーツセンターの所にあった下総国の総社。軍用地となったため明治19年ここに移転。

Img_0649 由緒碑

Img_0654 伊弉諾(イザナギ)神社近くの坂

正面は北総開発鉄道

Img_0656 伊弉諾神社(堀之内4-21)

かつては権現様と呼ばれ地域の氏神だった。 

                        

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2007年12月14日 (金)

宝篋山②

2007年12月14日

Img_0463 つくば駅 北部シャトルバス(9:50)→大穂庁舎(10:20) 地域循環バス③→小田城跡(10:40)→(常願寺コース)→ザル池→新池→常願寺沢→極楽寺コースと合流→宝篋山(461m)(12:00)→(山口コース①)→北条大池(上の写真は北条大池から宝篋山)→平沢官衙跡→筑波庁舎(14:10) 北部シャトルバス→つくば駅(14:35)

 今日も快晴の中、常願寺コースで上り、山口コース①で下った。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0422_3 小田城跡バス停近くから宝篋山

手前の石柱は庚申塔道標

Img_0424_2 ザル池から

Img_0427_2 新池近くから

Img_0428 新池

Img_0434_2常願寺コースの常願寺沢

Img_0439 筑波山(宝篋山山頂から)

Img_0447山口①コース

暗い樹間を下る

Img_0460 北条大池から筑波山、平沢官衙跡(右手前)

Img_0465 平沢官衙跡説明板

Img_0468平沢官衙正倉の復元

Img_0469 復元建物説明板

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2007年12月12日 (水)

市川市(千葉県)の坂-1

2007年12月12日

  矢切駅(北総開発鉄道)・・・腹切坂下・・・中原寺・・・じゅん菜池・・・国府台天満宮・・・総寧寺・・・里見公園(里見城跡・紫烟草舎・羅漢の井・夜泣き石・亡霊の碑・明戸古墳)・・・法皇塚古墳・・・下総総社跡・国庁跡・・・旅団坂・・・将軍坂・・・切通し坂・・・国府神社・・・真間川(根本橋)・・・江戸川・・・国府台駅(京成電鉄)

 縄文時代の貝塚から、古墳、下総国国府、総社、国分寺、国分尼寺、万葉の手児奈伝説、戦国時代の国府台の戦い、さらに明治から戦時中までの陸軍施設跡など、長い時代のさまざまな遺跡に彩られた市川市の坂道散歩です。

 矢切駅から松戸街道の栗山坂下交差点(腹切坂下)から左に入り、中原寺を過ぎるとじゅん菜池は近い。昔はじゅん菜がとれたといい、今ではきれいに整備された緑地公園となり、陽だまりの中を池辺を散策する人も多い。じゅん菜池から坂を上り松戸街道に出て、国府台天満宮、総寧寺、里見公園へと回る。このあたり一帯は陸軍の施設のあった所、さらに昔は里見城(国府台城)で国府台の戦いがあり、その前は下総の国府、総社があった。また古墳もいくつか残っている。

 里見公園に北原白秋が小岩にいた時に住んでいた家が復元されている。おととい、三浦市で北原白秋ゆかりの「屁っぷり坂」や白秋文学コースを歩いたばかりで、今年9月にも新潟の日本海沿いの「文学の砂山」で北原白秋とは出会っている。次回に訪れる予定の市川真間の亀井院にも白秋が住んでいたことがある。何の因縁か坂道散歩と縁のある御仁だ。このほかにも公園内には明戸古墳の石棺など見どころが多い。

 里見公園を出て松戸街道沿いの東京医科歯科大構内に入ると法皇塚古墳がある。市川市最大の前方後円墳だが、小高い林という感じで墳形ははっきりしない。歯科大と松戸街道を挟んで南側の国府台公園スポーツセンターの所はかつて陸軍国府台病院があり、古代には下総国の国庁と総社の六所神社があったというが、六所神社も移転し軍用地とされ、遺構などは何も残っていないようだ。

 スポーツセンター前のゆるやかに南方向に下る松戸街道が旅団坂で坂下近くの歩道橋脇あたりが旅団司令部があった所。この坂は大勢の囚人達に切り開かせた軍用の坂だ。歩道橋から江戸川の方向に上るのが将軍坂(この坂を旅団坂という人もいる。)で、東に弘法寺の方へ上るのが切通し坂だ。太平洋戦争が終わるまでこのあたり一帯は陸軍の施設で埋めつくされていて、まさに軍事基地だったようだ。
 今は公園、学校、スポーツ施設、病院などに一変して様変わりした。ことに学校が多く、東京医科歯科大、国府台高校、第一中学校、和洋女子大学、千葉商科大学、筑波大附属聾学校、そして幼稚園などが松戸街道沿いに目白押しで、学生が行き交っている。うっかり女学生にカメラを向けたらまずいので苦労する。国府神社へ寄り、真間川を越え、国府台駅近くの江戸川の土手で一休みして帰路についた。

  腹切坂は「松戸市の坂-2」(2006年7月2日)に記載。

 写真をクリックすると拡大します。

Img_0321 じゅん菜池の西側の坂

Img_0323じゅん菜池緑地  《地図

Img_0325 じゅん菜池

昔は国分沼と呼ばれ、じゅん菜がとれたが、戦後、田んぼから泥沼化した。地元の要望により昭和54年にじゅん菜池緑地に整備した。

Img_0333

Img_0335まだ紅葉が残る。

Img_0342 国府台天満宮(正面奥)へ上る坂(坂上方向)

Img_0338「国府台天満宮」・辻切り説明板

Img_0339 国府台天満宮 《地図

文明11年(1479)太田道灌の建立という。明治までは法皇塚古墳の墳頂にあった。毎年1月、境内で辻切りが行われる。

Img_0343 説明板

説明板の夜泣き石は、今は里見公園内にある。

Img_0345 総寧寺(国府台3-10)

山門前の標柱に「曹洞宗里見城跡総寧寺」とある。

Img_0347里見公園

Img_0350 案内図

Img_0348 国府台(こうのだい)城跡の碑

Img_0349国府台城跡説明板

2度に渡る国府台合戦の地。別名を里見城、市川城。(市川城は別の城という説もある。)

Img_0353 紫烟草舎(里見公園内)

北原白秋が小岩に住んでいた時の家の復元。小岩に移る前は市川真間の亀井院に住んでいた。

Img_0351 説明板

Img_0356 江戸川(里見公園から)

Img_0364 明戸(あけど)古墳(里見公園内) 

全長約40mの6世紀後半の前方後円墳 左側の後円部上に箱式石棺が2基。国府台城の土塁とされていたため、墳形ははっきりしない。

Img_0359 箱式石棺

Img_0357 説明板

Img_0369 夜泣き石

国府台合戦にまつわる悲しい伝承のある石。下の平らな石はもとは箱式石棺の蓋だったもの。

Img_0366 夜泣き石伝説

Img_0368 亡霊(群亡)の碑

これも国府台合戦で敗れた里見方の慰霊碑。中央が「里見諸将霊墓」・左が「里見諸士群亡塚」で、文政12年(1829)の建立。右は建立年代不詳の「里見広次公廟」

Img_0367 説明板

Img_0370_2 見返地蔵

里見公園から法皇塚古墳(東京医科歯科大)へ向う道沿い。何を見返すのか、どこを見返すのか?

Img_0376法皇塚古墳(国府台2-8の東京医科歯科大構内) 《地図

全長54.5mの6世紀後半の前方後円墳。これも墳形がはっきりせず。

Img_0375説明板

古墳の前の大学の掲示板に貼ってある。ここでは直径58m、6世紀前半の築造となっている。

Img_0381 下総総社跡あたり 《地図

国府台公園スポーツセンターの野球場と陸上競技場の間。

Img_0380 説明板

Img_0382 国庁跡あたり

スポーツセンターの野球場あたり。

Img_0384 旅団坂(坂上から) 国府台2丁目交差点あたりから南方向に下る松戸街道。 《地図

坂下近くの歩道橋の西側(写真の右奥)に陸軍の野砲連隊第二旅団司令部があった。

Img_0386 坂下方向

歩道橋の所から右へ将軍坂、左へ切通しの坂が上る。将軍坂との間に旅団司令部が置かれていた。

Img_0388 坂上方向

歩道橋の上から

Img_0391 将軍坂(坂上方向) 旅団坂下近くの歩道橋の脇から北西に上る。《地図

坂沿いの東側(写真の右側)に旅団司令部があったのでこのように呼ばれたのか。司令部には少将がいたようだ。この坂が旅団坂かも?

Img_0394 第二旅団司令部跡は公園になっている。

Img_0399 坂下方向

Img_0390 切通し坂(坂上方向) 旅団坂下の歩道橋の脇から東に弘法寺の方へ上る。 《地図

Img_0407 坂上方向

Img_0411 説明板

Img_0412 国府神社 《地図

日本武尊の東征伝説のある神社。

Img_0414 真間川

国府台駅近くの根本橋から

Img_0418 江戸川

海(東京湾)から13.5km地点。陸橋を京成のスカイライナー(成田空港行き)が渡る。すぐ近くに市川関所跡がある。

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2007年12月10日 (月)

三浦市(神奈川県)の坂-1

2007年12月10日

三崎口駅(京浜急行)・・・西瓜(すいか)坂(三崎街道)・・・引橋・・・横須賀三崎線(県道26号)・・・旧道・・・義士塚・・・なもた坂真光院・・・向坂・・・油壺線(県道216号)・・・横須賀三崎線(県道26号)・・・真浄院・・・天神町交差点・・・屁っぷり坂・・・歌舞島公園・・・西浜地蔵堂・・・三崎公園・・・小桜姫坂・本端寺(桜の御所)・・・三崎公園・・・北条湾・・・ばんば坂・・・城ヶ島大橋・・・大椿寺(椿の御所)・・・北条湾への坂・・・天神町バス停→三崎口駅

 三浦氏、源頼朝ゆかりの三浦半島南端の坂道散歩です。今の季節、西瓜坂にはむろん「すいか」を売る店は並んでなく三浦大根が干してある。冬は大根坂というところか。
 鎌倉時代、いざという時に架けている橋を引いて敵の侵入を防いだ引橋があったあたりの引橋交差点から県道26号に入り南下し、途中から旧道へ入る。

 小網代配水塔、小さな円墳のような二つの義士塚を過ぎ、左へ曲がりなもた坂の坂上に出る。樹木に覆われ薄暗く、枯葉、落葉、木漏れ日の、昔の面影をとどめているなかなかいい坂だ。県道ができるまでは小網代から三崎への主要道だったという。坂下から向坂となり、名向小入口交差点まで上る。

 油つぼ入口交差点で県道26号に入り、真浄院の先の天神町交差点を右折して、途中地蔵さんやら庚申塔が並ぶ道を進み、屁っぷり坂の坂上へ向う。赤土の急坂だったという屁っぷり坂の途中には北原白秋文学コースの案内板が立っている。坂下から歌舞島に寄り、三崎港沿いの細い道を抜け、三崎公園から桜の御所の本端寺の前の石段、小桜姫坂を上る。小説に出てくる坂名のようだ。

 小桜姫坂の坂下から北条湾沿いに、桜の御所と北条湾を挟んで反対側の椿の御所のバス停からばんば坂を上り、城ヶ島大橋の中ほどまで行って引き返す。城ヶ島へは小学校の遠足以来行っていないが名前のついている坂もないようだし割愛した。城ヶ島大橋の料金所の脇あたりから細い道がついていて途中から急な石段坂となって北条湾の方へ下っている。椿の御所の大椿寺に寄り、湾沿いに北条バス停近くまで戻り、北条湾への坂を上り、天神町バス停へ出た。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_0184 西瓜坂(坂上方向) 京急三崎口駅前から南東にゆるやかに上る三崎街道(国道134号)。 【ルート地図】の①

夏場は沿道に三浦すいかの直売所が並ぶ。

Img_0186 坂から海方向

Img_0188 三浦大根

司馬遼太郎の『街道をゆく』の「三浦半島記」にも「三浦大根と隼人瓜」という章がある。

Img_0189 坂の途中の地蔵さん

Img_0192 坂上方向

バス停引橋近く。坂上から県道26号に入ったあたりが引橋のあった所というがよく分からず。引橋とは敵の侵入の際に架けてある橋を引いて敵が攻め込んでこれないようにする役割の橋。ここのは外の引橋で、内の引橋は油壺の三浦氏が滅亡した新井城址近くにあった。

Img_0194 旧道へ

Img_0199 義士塚 《地図

正面の二つの小円墳のような塚。三浦義同(よしあつ)家臣の大森、佐保田父子がここで切腹したとも、北条早雲の家臣をここに葬ったともいわれる。円墳説もある。

Img_0200 馬頭観音(左の二つ)・庚申塔(義士塚の少し先の辻)

Img_0204 なもた坂(坂下方向) 真光院の裏側を南東方向に下る。 【ルート地図】の②

坂上の江戸時代に小網代の名主だった高橋家の屋号「なもた」による坂名。県道ができるまでは三崎から小網代に至たる主要道だった。

北条早雲に攻められ新井城の三浦道寸義同は永正15年(1518)自害する。道寸の身重の愛妾は城を逃れ、なもた坂の坂下の小川近くで赤子を産み落としてしまう。愛妾は橋のたもとに赤子を手厚く葬り、自ら命を断ったと言う。以来、この橋を産後三十三日を過ぎない女性が渡ると禍が降りかかるといわれ、塩で清めてから渡った。今は小川も暗渠となり橋もなくこの坂を通る人も少ないが、坂だけは昔の面影を色濃く残している。

Img_0214 【坂標】

Img_0215 坂下方向

Img_0216 坂上方向

Img_0221 聖徳太子塔(右)・馬頭観音(左)

なもた坂の坂下。

Img_0223 真光院(三崎町小網代536)

三浦道寸義同父子が帰依した寺。

Img_0225 説明板

Img_0228 なもた坂の坂下から向坂へ

Img_0230 向坂(坂上方向) なもた坂の坂下から南東から南方向に上る。坂上は県道216号の名向小入口交差点。《地図

名向という字名からの坂名か、それとも何かに向う(例えば真光院)坂という意味か?

Img_0234 坂下方向

Img_0222 向坂新道(坂上方向) 真光院の前を南東に名向小入口交差点に上る県道216号。《地図

Img_0240 坂下方向

真光院は坂下の右側。

Img_0242 真浄院(栄町の県道26号沿い)

Img_0241説明板

Img_0243 石仏(県道26号の天神町交差点から右に曲がり、屁っぷり坂へ向う途中。)

Img_0244 庚申塔(石仏のすぐ先)

Img_0246 屁っぷり坂(坂下方向) 海戸町と天神町の間を南西に下る。【ルート地図】の③

かつては赤土の急坂で、雨の後などは滑らないように這うようにして上り、腹に力が入り思わず放屁してしまう坂だった。正しくは尾上(拝み)坂。源頼朝が歌舞島に遊覧に来た時は、三崎の人々はこの坂の上から拝んだという。

北原白秋は大正2年5月に東京から三崎に移った。大正3年2月に小笠原の父島へ渡るまでのわずかの間だったが、♪「城ヶ島の雨」♪など多くの作品を残した。

Img_0247 坂下方向

Img_0248 (北原)白秋文学コース案内板

「屁っぷり坂」の途中。

Img_0253_2 坂上方向

Img_0254 白秋文学コース案内板にある歌の「・・・一尺の赤き鳥居の光」と「坂の上り口の左側の屋敷稲荷」は階段沿いの小さな鳥居と小祠のことだろう。坂上の天神町の由来となった小さな天満宮は見当たらず。

Img_0257 漁港(ニ町谷近く)

Img_0259 二町谷(白石町)

白秋文学コースの説明板が立つ所。

Img_0258「白秋文学コースニ町谷」説明板

Img_0260 歌舞島(公園) 《地図

源頼朝ら幕府の面々が歌舞や宴楽を催したという。左は魚藍観音。

Img_0262 ♪「歌の町」碑(歌舞島公園内)

小村三千三作詞 「よい子が住んでる よい町は・・・」

西浜地蔵堂への石段(三崎5-16)                                   Img_0272

三浦地蔵尊第十六番札所。

Img_0269 地蔵堂

Img_0273 三崎公園前の店先。

Img_0274 路地(本端寺近くの裏通り)

Img_0276 蔵造りの雑貨屋(本端寺近く)

Img_0277 小桜姫坂 本端寺への石段。【ルート地図】の④

村井玄斎の小説「桜の御所」に登場する悲恋の小桜姫に由来する坂名。

Img_0281 坂上から

正面は城ヶ島大橋。

Img_0282 本端寺(三崎1-19)

源頼朝が設けた、桜、桃、椿の御所の「桜の御所」 桃の御所の見桃寺(白石町)に寄るのを忘れた。

Img_0283 説明板

Img_0288 北条湾

Img_0311 真いわしが入れ食いの状態でよく釣れていた。

Img_0289 ばんば坂(坂下から) 向ケ崎町の椿の御所バス停から南東方向に上り、向ケ崎跨道橋の下をくぐり北東に上る。 【ルート地図】の⑤

かつては道幅が狭く、暗い樹林の間の急坂で、年寄り、中でもお婆さんたちが難渋したという。「ばばあ坂」がいつしか「ばんば坂」になったという。

Img_0290 坂上方向

正面が向ケ崎跨道橋で右へ行くと城ヶ島大橋。跨道橋へばんば坂から上る階段がある。

Img_0291 坂下方向

Img_0299 城ヶ島大橋

車は有料道路だが、歩行者は無料。

Img_0297 城ヶ島(正面奥)

Img_0303 城ヶ島大橋の料金所の先から北条湾、大椿寺の方へ下る急な階段坂の上から。

Img_0305_2 下から

石段を上って左から城ヶ島大橋へ上る細い道がある。

Img_0308大椿寺(だいちんじ)(向ケ崎町11)

源頼朝の「椿の御所」
三浦三十三観音の4番

Img_0314 北条湾への坂 城山町の三崎中学校の東側から南東に北条湾の方へ下る。《地図

坂から北条湾は見えない。『坂道風土記 三浦半島』で名づけられた坂名で通称されてはいない。

Img_0319 坂下方向

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2007年12月 7日 (金)

宝篋山①(つくば市)

2007年12月7日

つくば駅(つくばエクスプレス線)・バス→大穂庁舎 バス→小田城跡バス停・・・八坂神社・・・小田十字路(国道125号)・・・小田休憩所・・・(極楽寺コース)・・・湯地蔵・・・極楽寺跡・・・五輪塔・・・大岩群・・・宝篋(ほうきょう)山(461m)・・・(小田城コース)・・・下浅間・・・硯石・・・七曲り・・・堂平・・・愛宕神社・・・八幡宮・・・国道125号・・・延寿院・・・小田小学校バス停→筑波大学中央バス停→つくば駅

 宝篋山(別名小田山)へ快晴の日、6つのルートの中から極楽寺コースで上り、小田城コースで下った。つくば駅で筑波山口行きの路線バスで小田十字路まで行こうとしたが見当たらず、バスの運転手に聞くと廃線になったという。親切にも運転手は小田十字路への行き方を地図に書いて渡してくれた。
 北部シャトルバスで大穂庁舎まで行き、地域循環バスで小田城跡で降り小田十字路に出る。途中、十字路の手前の八坂神社近くの住宅街で都はるみの歌をガンガン流している所がある。すごい所だと思いながら歩いていると、道沿いの家から怪訝な顔をして主婦が見に来た。荷(魚?)を積んで商売に来ているトラックが騒音源だった。主婦は暮れになるといろんな人が現れるからなんていい、呆れて笑いながら引っ込んでしまった。それにしても迷惑な話だ。

 小田十字路で国道125号を渡り、宝篋山小田休憩所から極楽寺コースへ入る。休憩所には駐車場もあり、車で来てここから上る人が多いようだ。湯地蔵から、あたり一帯が極楽寺の伽藍跡だったところを通り、五輪塔へ寄る。このあたりから山頂まで2.3Kmぐらいだ。山道は所々急な箇所もあるが歩きやすいが、無風の中、背中から陽射しを受け暑い。大岩群を過ぎ、右からの常願寺コースと合流し山頂を目指す。山頂は山名の由来の宝篋印塔と遠くからも目立つ白い電波塔がそびえている。北方向の筑波山の眺めはいいが、南方向の富士山は見えない。晴れていても山頂は少し風があり寒く感じる。

 小田城コースを下山する。地域の人たちが宝篋印塔をまつるために開いたコースという。下浅間、硯石、七曲、堂平、愛宕神社を通り一気に八幡宮まで下る。
 国道125号に出て小田バス停を探すがやっぱりない。バス路線が廃止されたのだ。地域循環バスの小田小学校バス停まで行き、バスの時刻を確認しあたりを少し歩いてみる。静かな所だ。(国道はうるさいが) 小田城跡へは次回にして地域循環バスで筑波大中央に出て、大学の敷地内を少し歩き天久保二丁目からつくば駅までバスに乗った。

 *宝篋山へは平成16年4月に整備された、6つのハイキングコースがある。(ただし、つくば駅から小田十字路、大池公園前までの路線バスは廃止されている。)

  写真をクリックすると拡大します。 

Img_0130_2 宝篋山へ(正面の白い電波塔の立つ山)

地域循環バスの小田城跡バス停近くから

Img_0131 八坂神社 《地図》(小田十字路、小田城跡も載る。)

Img_0138_2 湯地蔵(宝篋山小田休憩所から極楽寺コースへ入った所)

正応2年(1289)建立。安産と授乳の子育て地蔵で湯地蔵と呼ばれる。700年以上前の物とは思えないくらい今も風化、崩れもなくしっかりしている地蔵さんだ。

Img_0137説明板

Img_0139 極楽寺跡あたりから

建長4年(1252)、奈良西大寺の忍性が律宗の布教のため常陸国に入り、ここ三村山極楽寺の子院の清冷院に入り、以後、弘長元年(1262)に布教の拠点を鎌倉に移つすまでここに在住したという。

Img_0140 五輪塔

鎌倉時代末期の建立。これも極楽寺に関係したもの。

Img_0143 山頂へ

Img_0144気分のいい道を上る。

Img_0148 大岩群

岩の上を越えていく。それほどのこともないが。

Img_0150 山頂下から電波塔

つくば市内で二番目に高い所にある。

Img_0152 山頂の宝篋印塔へ

Img_0154 宝篋印塔

内部に「宝篋印陀羅尼」を納めた石造塔婆。極楽寺に関係したものか。県内最古の鎌倉時代中期から後期頃の建立と推定。

Img_0153 説明板

Img_0156 山頂から筑波山

Img_0157山麓方向

Img_0161 小田城コースから下山の途中。

下浅間

Img_0160 下浅間

石柱の上に賽銭が載せられている。

Img_0162 硯石

手前の石

Img_0163 七曲り

Img_0167 堂平

Img_0169 愛宕神社

山頂へは手前から左へ上る。

Img_0170 小田城コースの下から

Img_0171 八幡宮《地図

Img_0173_2国道125号から小田城コースへ入った所から。                        

正面は八幡宮

Img_0174 馬頭観音

国道を渡ったあたり

Img_0177 延寿院《地図

ここに小田村役場があった。

Img_0178説明板

Img_0180_2五輪塔(延寿院の裏あたり)

天文7年(1538)の建立。説明板によると在銘五輪塔の中で県内で三番目に古いもの。極楽寺跡の五輪塔(鎌倉時代末期)には銘が入っていないようだ。消えてしまったのかも。

Img_0179 説明板

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2007年12月 5日 (水)

鎌倉市の坂-5

2007年12月5日

Img_0034_4鎌倉駅(横須賀線)・・・鉄(くろがね)の井(鎌倉十井)・・・鶴岡八幡宮・・・志一稲荷・・・巨福呂(こぶくろ)坂切通し(跡)・青梅聖天社・・・巨福呂坂洞門(右の写真)・・・円応寺・・・第六天・・・長寿寺・・・(建長寺)・・・亀ケ谷切通し・・・薬王寺・・・岩船地蔵堂・・・底脱(そこぬけ)の井(鎌倉十井)・海蔵寺・・・化粧(けわい)坂切通し・・・銭洗弁天・・・佐助稲荷・・・長谷トンネル・・・一向堂公園・・・裏大仏ハイキングコース・・・大仏坂トンネル・・・火の見下バス停・・・大仏切通し・・・裏大仏ハイキングコース・・・大仏坂・・・(鎌倉大仏)・・・油井ケ浜大通り・・・御成通り・・・鎌倉駅

 鉄の井から鶴岡八幡宮沿いに鎌倉街道を巨福呂坂切通しに向うが、道は民家の間に入り途中で途切れてしまう。落石防護施設の巨福呂坂洞門の天井部分が開口されていて(上の写真)、切通しを歩く気分を出すようにしているというが、巨福呂坂切通しは国指定史跡なのに何とかならないものか。
 洞門を抜け、建長寺の先の長寿寺の所から亀ケ谷切通しに入る。上って下り岩船地蔵堂の所を右折し、横須賀線の線路をくぐり海蔵寺へ寄る。途中、色づいた木々にカメラを向けているいる人が多い。それほど大した黄葉、紅葉でもないと思うのだが。(余計なお世話だ)

 海蔵寺から少し戻り右に曲がり、化粧坂切通しへの道へ入る。切通しというより大きくカーブするごつごつした岩場の坂で、湧水で濡れていて歩きにくい。化粧坂切通しの上の源氏山公園から下ると銭洗弁天だ。ここには何回か来て銭を洗ったがいっこうに銭が貯まる気配もないので今日はやめにする。
 銭洗弁天から急坂を下り、右折して佐助稲荷へ向う。佐助稲荷の幟が両側に立つ石段の参道下で外国人観光客が笑って何か大声で喋りながら写真を撮っていた。何が可笑しいのか、嬉しいのか、こんな風景が珍しいのか。石段を上った境内の拝殿、その後ろの本殿を見てガッカリしなければいいがと思ったりした。(これも余計なお世話)

 佐助稲荷の拝殿脇の石段を上ると途中から急な山道の感じとなり、ハイキングコースに出る。裏大仏ハイキングコースに出て下り、大仏切通しへの道に入るつもりだったが、間違えて直接鎌倉大仏の方へ下りるコースに入ってしまう。この道は途中で一般道に合流してしまう。仕方なく長谷トンネルを抜け、一向堂バス停あたりから南に入り、一向堂公園の中から上って裏大仏ハイキングコースへ上がった。少し下ると通行止の標識が立つ道があり、ここが大仏切通しへの道と思ったが、大事をとって?そのまま下って大仏坂トンネルを抜け、火の見下バス停から切通しへ続く道に入った。狭い民家の間の道を抜けると突如、大仏切通しの入口という感じだ。この切通しの道はあまり通られていない様子で、静かな自然のまま、昔のままの道という風で気に入った。

 大仏切通しを抜けると道は二手に分かれ、直進する道にはここにも通行止の看板が立っている。左の道を行けばすぐ常盤住宅で一向堂公園も近くで、さっき歩いた道から裏大仏ハイキングコースへ出られる。かまわず直進すると倒木などがあり少し歩きにくいがすぐ下りとなって、反対側の通行止のところへ出る。なぜ通行止にしているのか分からない。事故でもあって世界遺産に登録する支障となるのを恐れてもいるのか。それなら歩きやすいようにちょっと整備すれば足りるのに。道は使われず、通られず放置されればすぐ崩れていく。そんなことを考えながら大仏坂を下り、大仏さんを入口の門の格子の隙間から拝み、暑くなるほどの陽射しを頭と背に浴びながら由比ヶ浜大通り、御成通りを鎌倉駅まで歩く。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_0013 鉄(くろがね)の井(鎌倉十井) (鎌倉街道と横大路の交差する所。雪ノ下1-8)

この井戸から鉄(くろがね)観音の首が掘り出されたという。

Img_0016 志一稲荷(雪ノ下2-3)

Img_0017 巨福呂(こぶくろ)坂切通し

鎌倉街道中ノ道の基点だった。

Img_0019 巨福呂坂切通し(右)・巨福呂坂送水管トンネル(左) 【ルート地図】の①

Img_0020 巨福呂坂の鉄の標柱。

平成元年に立てられたものだが、消えかかっていて読みづらい。

Img_0021 青梅聖天社への石段(左)

Img_0028 青梅聖天社

本尊の歓喜天は、夫婦円満・男女和合の神といわれているが、もとは巨福呂坂往来の安全のため祀られたとのこと。

Img_0027 説明板

Img_0029 青梅聖天社(大聖歓喜天)から

Img_0023 巨福呂坂の途中の庚申塔、道祖神など

Img_0024 未舗装の道になる。

Img_0025 ここで行き止まり

無理に進めば行けないことはないと思うが、皆ここで引き返すようだ。

Img_4204巨福呂坂はここへ通じていた。少し進んでみる。《地図

Img_4205こちら側も民家で阻まれる。

Img_0031 巨福坂洞門【ルート地図】の②

トンネル状の落石防護施設。天井部分が切開かれ切通しを歩く気分を味わえるというが。

Img_0033_2 洞門の説明柱

Img_0036 (坂下方向)洞門を抜けた所から

右に送水管トンネルが見える。

Img_0042 亀ケ谷坂切通し(坂下近くから) 【ルート地図】の③

山ノ内から鎌倉へは入る最も近い道筋。亀も途中でひっくり返るような急坂だったとか。巨福呂坂と同様、鎌倉街道中ノ道の基点だった。関東管領扇ケ谷定正が住んでから、扇ケ谷というようになった。

Img_0048 説明板

Img_0044 地蔵菩薩の幟が立つが地蔵さんは見当たらず。

Img_0046 下りとなる。

Img_0061 岩船地蔵堂(扇ガ谷3-3)

源頼朝の娘の大姫を供養すると伝える。向い側に鎌倉十井の「扇の井」がある。(個人の家の中)

Img_0060 説明板

Img_0063 底脱(そこぬけ)の井(鎌倉十井)(扇ケ谷4丁目の海蔵寺の前) 海蔵寺には、「十六の井」もある。

Img_0064_2 説明板

Img_0074化粧(けわい)坂切通し(坂上方向) 【ルート地図】の④

平家の武将の首を化粧して首実検をしたとも、この付近に遊女が住んでいた、遊郭があったからともいわれている。

Img_0077 坂上近く

Img_0082 銭洗弁天への参道の洞穴

Img_0081 説明板

Img_0083 銭洗弁天(佐助2-25)

Img_0084 銭を洗う善男善女と思いきや、なぜか女性だけ。

Img_0092 佐助稲荷(佐助2-22)

源頼朝、佐殿(すけどの)を助けたのでこの名があるとか。

Img_0086 佐助稲荷由緒

Img_0089 拝殿

Img_0091 佐助稲荷霊験譚

Img_0093 拝殿横から大仏ハイキングコースへ上る途中。

Img_0094 佐助稲荷から急坂を上る。下の写真の所へ出る。

Img_0096 右へ上ってから裏大仏ハイキングコースを下るのを間違えて、左へ下ってしまう。

Img_0098 この道はしばらく行くと行き止まりで一般道に出てしまう。長谷トンネルを抜け一向堂公園の中から裏大仏ハイキングコースへ上った。

Img_0126_2 裏大仏ハイキングコースから大仏切通しへの道。通行止めになっている。

Img_0099 大仏坂トンネル(左)・裏大仏ハイキングコースへ(右の石段)。石段上の通行止の標識の所が大仏切通しへの道だと思ったが、大仏トンネルを抜け、切通しの反対側の入口のある火の見下バス停へ向う。

Img_0101 大仏切通しへ

火の見バス停の後ろの家と駐車場の間の道を入って突当たり右に曲がる。

Img_0102 板に「大仏坂・・・」とある。

Img_0103 民家沿いに行く。

Img_0104 大仏切通しの入口

Img_0106_2 「大仏切通」標柱

Img_0108 切通しへ 【ルート地図】の⑤

Img_0112大仏切通

Img_0122 真っ直ぐ上る道は通行止め。左へ行けば常盤住宅に出て、一向堂公園の中から裏大仏ハイキングコースの終点の大仏トンネル近くに出られる。

Img_0124 真っ直ぐ行くと上って下り、すぐ反対側の通行止の標識の所へ出る。

Img_0128反対側の通行止めの標識の所(右へ上るのが裏大仏ハイキングコース)

Img_0127 下れば大仏坂トンネルのそば。

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