谷中界隈の坂
2007年12月24日
田端駅・・・不動坂・・・与楽寺坂・与楽寺・・・幽霊坂・・・田端台公園・・・道灌山坂・・・向陵稲荷坂・向陵稲荷神社・・・ひぐらし坂・・・(西日暮里駅)・間の坂・・・西日暮里公園・・・諏方神社・・・地蔵坂・・・浄光寺・・・富士見坂・・・修性院(花見寺)・・・夕やけだんだん・谷中銀座・・・七面坂・・・延命院・・・経王寺・・・本行寺(月見寺)・・・御殿坂・・・七面坂・・・宗林寺(萩寺)・・・岡倉天心旧宅跡・・・蛍坂・・・三崎坂・全生庵・・・谷中霊園・五重塔跡・・・天王寺・・・芋坂・芋坂跨線橋・羽二重団子・善性寺・隼人稲荷・・・御隠殿跡(根岸薬師)・・・御隠殿坂・・・芋坂・・・紅葉坂・・・日暮里駅
久しぶりに23区内の坂道散歩だが、新しい坂は北区と荒川区の境の道灌山坂の一つだけ。風が少し強かったが晴れていて休日のこともあり谷中界隈はけっこう人が出ている。いつもと違って若いカップルが目立つような気がする。クリスマスイブのせいなのか。
今日歩いた坂は、北区、荒川区、台東区にまたがっているが、何度か歩いているのと、坂と坂の間の距離が短いので、短時間で終わってしまってちょっと物足りない感じだった。3つの区には、三区十様?の坂標が設置してある。説明文のある北区の与楽寺坂に設置のものと、荒川区(地蔵坂や富士見坂)のものが読みやすく分かりやすい。
*坂の詳細は『東京23区の坂』(坂道散歩)で。
写真をクリックすると拡大します。
正面下はJR田端駅
坂上の壊れかけた家。人は住んでいないようだが「幽霊屋敷」といったら怒られるかも。
道灌山坂 北区田端1-29と荒川区西日暮里4-7の間を南東から北東方向に上る。 《地図》
この辺り一帯を道灌山と呼ぶことからついた坂名。
右方向に曲がる。
曲がってさらに下る。
右の赤い上りが向陵稲荷神社。
上って左に曲がる。右の通りの正面は西日暮里駅。
向陵稲荷神社も佐竹屋敷の敷地内にあった。渡辺町は、赤字坂の「渡辺治右衛門」に由来する町名。
正面は西日暮里駅
道灌山といわれ、「虫聴き」の名所だった。太田道灌の出城があったという伝承がある。
遠く見える山は筑波山(左が男体山、右が女体山)だろう。ここには道灌船繋松があって船からの目印になった。
「道灌山」
坂上は諏方神社の境内。左はJRの線路。石段下からJRのガードをくぐると反対側(東側)に通ずる。
以前は通りづらかったが、今は明るくきれいになっている。
富士見坂(坂上から富士山方向) 正面のビルの左奥方向が富士山
薄い雲がかかっていたせいか、目が悪いのか、カメラのせいか、今日も富士は見えず。この日は朝と夕に(昼も?)見えたそうで、「富士見坂通信」(日暮里富士見坂を守る会)に写真が載っている。今度、「ダイヤモンド富士」が見えるのは2008年1月29日から31日までらしい。
妙隆寺(花見寺)と合併した寺。富士見坂の別名は妙隆寺坂、花見坂。
坂下は谷中銀座
右の墓地の塀に台東区の説明板が、左側に荒川区の坂標が立つ。
坂名の由来の七面堂は左側の堂か?
御殿坂沿いの北側。
このあたりは、蛍の名所で「蛍沢」と呼ばれ「蛍坂」の由来となった。また境内に萩が多く、「萩寺」と呼ばれていた。門前に石柱「「ほたる沢 はぎ寺」が立つ。
車は通れない。
坂下から団子坂の上りとなる。
境内には金ぴかの観音像も立っている。
寛政3年(1791)に再建され、関東大震災、戦災にも耐えたが、昭和32年7月9日に放火で焼失。最初の五重塔も明和9年(1772)の目黒行人坂の大火で焼けた。
高さ32mで関東で一番高い塔だった。幸田露伴の小説「五重塔」のモデルとなった。
天王寺
正面はJRの芋坂跨線橋
門前の橋跡が将軍橋(音無川)か
王子街道道標(右角)・団子の由来の看板(道標の左)・「いも坂みち」説明板(道標の後ろの店の壁)などが並ぶ。
「右 いも坂みち」・「左 根ぎしみち」
寛永寺住職輪王寺宮の別邸。敷地3千坪以上。
図に番号が書いてあり、右上に(1)感応寺(天王寺)、その左に五重塔、右下に(5)将軍橋、その上に(4)羽二重団子? (3)芋坂、中央下あたりに(10)御隠殿橋、左へ上る(23)御隠殿坂などが描かれている。
御隠殿坂(左のJRの線路の方へ下る。正面はJRの跨線橋で御隠殿跡に続いている。)
輪王寺宮が寛永寺から御隠殿に行くために設けられた坂。
正面は天王寺
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