長崎市の坂-2
2008年1月10日
長崎駅・・・長久橋(中島川)・俵物役所跡・・・ピンコロ坂(江戸町商店街)・・・県庁(けんちょん)坂・・・五足の靴碑・・・大音寺坂(ミゼリ・コルディア本部跡・大音寺跡)・坂上天満宮・・・中央公園・・・巌流坂(萩藩蔵屋敷跡・新町活版所跡)・・・安豊稲荷・・・豊後坂・・・囁き(ささやき)坂・喫茶店「囁き坂」・報時所跡(長崎市役所)・・・東新橋(中島川)・・・興福寺・・・龍馬通りの坂下・深崇寺・禅林寺・・・ゆうれい坂・・・光源寺(赤子塚碑)・・・伊良林地蔵堂・・・とりい坂・・・若宮稲荷神社・・・良林亭跡・・・亀山社中跡・・・龍馬通りの坂・・・亀山焼窯跡・・・風頭公園・風頭山(152m)・・・大光寺・・・崇福寺・・・大音寺・皓台寺・幣振坂②・楠本イネ(シーボルトの娘)墓・・・幣振坂③・・・延命寺・長照寺・・・思案橋・・・見返り柳・思切り橋跡・・・忍び坂・船大工町大師堂・・・勅使坂(上の写真)・楠稲荷神社・梅ケ崎天満宮・・・丸山公園・丸山交番・丸山遊郭二重門跡・・・大崎神社・金剛院の坂・・・山崎屋の坂・料亭青柳・・・丸山オランダ坂・・・一文字地蔵・・・高島秋帆旧宅跡・・・福屋跡・・・中の茶屋・・・玉泉(ぎょくせん)稲荷・・・梅園身代り天満宮・・・長崎検番・・・料亭花月・・・思案橋駅(長崎電気軌道)
朝の出勤時間で県庁坂を職員が上ってくる。あたりのビルにも勤め人が急いでいる。平日にのんびり坂道散歩なんかしていて申し訳ない・・・。とは全然思わないが。
大音寺坂には仇討ちの話があり、けんか坂とも呼ばれている。囁き坂の途中の喫茶店「囁き坂」に入ろうかと思ったがまだ早過ぎて準備中。
中島川を渡り寺町の興福寺へ向う。境内に「長崎の坂動きだす三日かな」の句碑がある。ゆうれい坂は各地に残る「飴屋の幽霊」伝説の坂だが、坂自体は面白味がなく、通称されている坂名ではないようだ。とりい坂、龍馬通りの坂、幣振坂は、いずれも風頭公園に続く長い坂で、今日は3往復くらいした勘定になる。若宮稲荷神社へ上るとりい坂の途中では、石段を上っていく地元のおっさんとちょっとした口論となった。今日はここが「けんか坂」のようだ。
幣振坂③を下りて今日の予定は終わったが、まだ時間も早く明日は雨らしいので、思案橋で少し思案して丸山花街散策をすることにした。昨日の夜、あてもなく適当にこのあたりをぶらついたので案外スムーズに歩けた。忍び坂、山崎屋の坂は小さな石段坂。勅使坂では猫の街らしく、猫が勅使のように悠然と坂を横断していた(上の写真)。 丸山オランダ坂には、「ほんとうのオランダ坂」の看板が掲げてあるが、由来はともかく坂自体に魅力はいまいちだ。料亭や街並みにかつての華街風情が残る丸山界隈を歩いているうちにだいぶ日が傾いてきた。
【地図】
写真をクリックすると拡大します。
ピンコロ坂(坂上方向) 江戸町と築町の間を県庁前交差点から南東に下る江戸町商店街通り。坂下に長久橋(中島川)
昔はかまぼこ型の石敷の坂だった。立方体の石を建築用語でピンコロ石といい、そこからついたのではないか。別名を長久坂・長久橋の坂 『長崎坂づくし』
坂上は県庁坂
県庁(けんちょん)坂(坂上方向) 江戸町の長崎県庁の前を南東に上り、下る県庁坂通り。《地図》
中央橋交差点から県庁の方へ上る坂。
正面奥が長崎県庁。県庁の所は森崎という岬の突端で、慶長5年(1600)から慶長19年(1614)までイエズス会本部が置かれ、寛永10年(1633)からは長崎奉行所があった。後に役所内に海軍伝習所、医学伝習所が開講した。『長崎坂づくし』
坂下の文明堂カステラ店(江戸町1-1)
五足の靴碑
家庭裁判所(万才町6)のあたりにあった旅館上野屋の泊まった文人5人の碑。
大音寺坂(けんか坂・天満坂)(坂上から) 万才町の長崎地方検察庁と長崎地方法務局の間を南東に下る石段。
大石内蔵助も家来を派遣し、赤穂浪士討入りの手本にもなったという、長崎版忠臣蔵の長崎(深堀)喧嘩騒動、深堀義士伝由来の坂。赤穂浪士討入り(元禄14年)の1年前の事件。深堀氏は、本姓は三浦で上総国深堀(千葉県大原町)に本領があり、牧の管理をしていた。承久の乱の勲功により、建長7年(1255)深堀能仲がこの地に来た。 「長崎喧嘩騒動」の顛末は由来書で。
些細なことで武士の面目で仕返し、討入り、切腹だと命のやりとりをする。これが武士道とはお粗末な話ではあるが。
1584年に建設されたミゼリ・コルディア本部の教会は、キリシタン弾圧で1619年に破壊され跡地が大音寺になった。大音寺は寛永15年(1638)に現在地(幣振坂②の坂下)に移り、坂上天満宮が建った。天満宮も原爆で焼失し法務局となり、坂の下に「坂の上天満宮」が再建された。『長崎坂づくし』
大音寺坂の別名は天満(宮)坂。
巌流坂(坂下から) 栄町1と2の間を北東に上る。《地図》
坂を挟んで長州萩藩と豊前小倉藩の蔵屋敷があった。この坂を両藩の間の関門海峡の巌流島に見立ててこう呼んだ。
左側に「詩儒吉村迂斉遺跡」標柱と「新町活版印刷所」碑。
豊後坂(坂上から) 市役所通りの桜町交差点から北西に桜町通りへ下る。《地図》
旧町名の豊後町による坂名。
向い側は小川町の坂
囁き坂の途中。まだ早すぎて「準備中」だった。
囁き坂(坂上方向 ) 長崎市役所の西側を南東に上る。《地図》
自動車の先が喫茶「囁き坂」
興福寺山門(寺町)
元和6年(1620)創建の日本で最初の唐寺。『興福寺の文化財』
叩いて飯時を知らせる木魚。何百年も叩かれお腹の所が凹んでいる。
興福寺境内
ゆうれい坂(坂上方向) 八幡町から伊良林1丁目の光源寺へ上る。 《地図》
民話「飴屋の幽霊(産女(ウグメ)の幽霊)」の舞台、光源寺へ上る坂。
「飴屋の幽霊」、「飴買い幽霊」の話は各地にある。石川県金沢市にも、「飴買い幽霊」の話とあめや(飴屋)坂がある。「金沢市の坂⑥」
東京港区の中原街道沿いの光福寺には「ゆうれい地蔵」がある。
落語『幽霊飴』
光源寺に残る「産女のゆうれい」の木彫り像。(「長崎坂づくし」所載) この像は毎年8月16日に開帳される。「産女の幽霊井戸」が一覧橋から興福寺に向う途中(麹屋町の泉屋第二ビルそば)にあるというが見当たらず。
左側が光源寺
光源寺(伊良林1-4)
長崎四国八十八霊場第41番霊場
とりい坂(坂下から) 伊良林2丁目の若宮稲荷神社に上る石段坂。《地図》
秋祭りの「竹ん芸」が有名。
日本人が開いた初めての西洋料理店
亀山社中跡 《地図》
坂本龍馬が設立した日本初の商社、海援隊の前身。
龍馬通りの坂(坂下方向) 寺町の禅林寺と深崇寺の間を風頭公園の方へ上る。《地図》
龍馬の絵が掛かっている。
右が深崇寺・左が禅林寺
正保元年(1644)に禅僧の石峯租芳が創建。
龍馬通りの坂上近く。(左の石段)・右は亀山焼窯跡、若宮稲荷への坂。
ここも龍馬通り
風頭公園の岩場
ここから諏訪神社の一の鳥居の石材を切り出し、「幣振坂」を下ったのか?
晴れているがかすんでいる。
風頭山(152m)から下る石段坂(坂下方向) 《地図》
坂下は大光寺
「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎の墓があるという。
尾道市の浄土寺のそばには四郎の銅像が立っている。「尾道市の坂-2」。
崇福寺三門(鍛冶屋町7)
大音寺(鍛冶屋町)
もとは大音寺坂にあった。本堂裏の墓地に大イチョウ。本蓮寺、皓台寺と並ぶ長崎三大寺の一つ。
大音寺(右)・皓台寺(左)の間を風頭山方向へ上る坂。
坂の途中にシーボルトの娘で、日本初の女性の西洋医学の産科医、楠本イネの墓がある。
幣振坂③ 長照寺と延命寺の間を風頭公園方向に上る坂。《地図》
坂の途中に延命院が設置した『往来伝承』。同じ由来が書いてある。
左・延命寺、右・長照寺
幣振坂①②と同じような内容。
長崎奉行所立山役所の門を移築。(現在は門扉のみ) 長崎四国八十八ケ所霊場巡りのスタート地点。
最初は1592年に架けられた土橋。石橋から鉄橋になったが、現在は暗渠となり橋はない。川口橋と名づけられたが、丸山の花街の入り口で、「行こうか、もどろうか」思案したのでこう呼ばれるようになったという。♪『思案橋ブルース』♪がヒットした。
丸山ぶらぶら散策地図(「ナガジン」発見!長崎の歩き方)から
カステラの福砂屋(船大工町3-1)
創業寛永元年(1624)
柳の下で遊女への未練から振り返るというわけ。
この橋で遊女への未練な思いを断ち切るということ。
忍び坂 船大工町3と9の間を南に上り、曲がって南西に上る石段。坂上は勅使坂の途中。《地図》
丸山遊郭で遊んだ帰りに大門を通るのが気が引けて、この裏道の石段坂を通ったことから名づけられた坂名。正面の石段上に船大工町大師堂。
場所柄のせいか、坂の雰囲気が金沢市の主計町茶屋街の暗がり坂に似ている。『金沢市の坂③』
坂上は勅使坂
勅使坂(坂下方向) 丸山公園の北側から大徳寺公園の北側へ南西に上る。
天皇の勅使が梅ケ崎招魂社(大徳寺公園内にあった)へ参詣するために整備され、以来こう呼ばれるようになった。
招魂社は台湾の役、西南の役の戦没者の遺骨が粗末に扱われているのに憤慨した谷干城が天皇に直訴して建てられた。『長崎坂づくし』
右上に梅ケ枝焼餅の店がある。
船大工町の鎮守。商売繁盛のご利益があるそうだ。
樹齢約800年の県下一の巨木。大徳寺は明治元年に廃寺。「長崎七不思議」の一つ、「寺もないのに大徳寺」
交番前に丸山二重門(大門)があった。
籠町の氏神。
右隣の互助会館?の所に明治12年3月の丸山大火で焼けた金剛院があった。
金剛院の坂(坂下方向 ) 思案橋通りから本石灰町6の料亭松亭の脇を南方向に上る。《地図》
坂上に金剛院があった。
右は明治28年創業の「料亭松亭」
山崎屋の坂 料亭青柳前の石段 《地図》
左上の料亭青柳は、山崎屋という茶屋の跡。ここには江戸時代、丸山遊郭の裏門があり門番が置かれていた。『長崎坂づくし』
石段下の左側
(丸山)オランダ坂(坂下方向) 思案橋通りから丸山町7と8の間を南西に上り、左に曲がり、さらに右に曲がって上る。坂上は山崎の坂上そば。
坂名の由来は説明板にある二つ。
①丸山遊郭の遊女がこの坂を下り、船で出島のオランダ屋敷に向った。②西洋料理店福屋に行く外国人が丸山花街の中を通らずこの坂を通った。
「ほんとう」も「うそ」もないだろうに。「丸山オランダ坂」でよかばってん。長崎史談会さん。
坂下に「丸山オランダ坂」の坂標が立つ。
一文字地蔵 《地図》
わが国最初の西洋砲術家。雨声楼と呼ばれたここに4年半住んだ。
福屋跡へ上る坂 《地図》
外国人は丸山遊郭を通らずオランダ坂からこの坂を上って西洋料理店の福屋へ行ったという。
遊郭、中の筑後屋の敷地内のお茶屋。
中の茶屋から玉泉稲荷への迷路のような細い道。《地図》
元禄13年(1700)の創建。「身代わり」の由来話が説明板に書かれている。
今でも梅干の種が入っている。
天満宮から長崎検番へ下る坂 《地図》
左が長崎検番
検番は芸者の手配、統括をする所で、町の中の検番は「町検」、ここは「山検」と呼ばれていた。
左上に丸山オランダ坂、左下隅に忍び坂。
料亭花月(丸山町2-1)
丸山随一の妓楼引田屋の庭園にあった亭の名。
右側が向井去来の句碑「いなづまや どの傾城と かり枕」
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コメント
あちこちと歩いていますが、中でも長崎は昔の面影の残る異国情緒豊かな、歩きがいのある坂の街で気に入っています。写真を見ていたらまた行きたくなりました。
投稿: 義明様へ(坂道散歩から) | 2009年7月 8日 (水) 16:31
懐かしいと言うかレトロと言うか
心にジンとくる画像ありがとうございます。
投稿: 義明 | 2009年7月 8日 (水) 11:52