所沢市の坂-3
2008年1月5日
所沢駅(西武池袋線)・・・県道4号(東京所沢線)・・・(西武池袋線)・・・十人坂・・・永源寺・・・西所沢駅→秋津駅・・・新秋津駅(JR武蔵野線)→東所沢駅・・・県道179号(所沢青梅線)・・・七曲坂・・城山神社・・滝の城跡・滝の城址公園・・・東坂・(関越自動車道)・県道179号・・城下橋(東川)・・・東光寺・・・藤森稲荷神社・・・鎌倉坂・天神社・・・川越街道(国道254号)・・・旧川越街道・・・大和田の坂(新座市)・・・鬼鹿毛の馬頭観音・・・新座駅(JR武蔵野線)
十人の武士の切腹伝説のある十人坂には十体の小さな石仏が並んでいる。初めて降りた東所沢駅から東へ、県道所沢青梅線の城の公民館から右へ入ると滝の城跡に沿って急カーブが続く七曲坂が下っている。滝の城跡の北東側に城の名前の由来となった滝跡が残っている。
城村の東端にある東坂は2つの道筋が考えられが、関越自動車道ができて道筋が変わってしまったかもしれない。坂之下には、稲荷坂、赤坂、根岸坂、鎌倉坂が『新編武蔵風土記稿』に載っているが、鎌倉坂以外は位置が特定できなかった。川越街道(国道254号)から旧川越街道へ入り、大和田の坂を上り新座駅に出た。
【地図】(東所沢駅→新座駅)
*鎌倉坂・大和田の坂は、「新座市の坂-6・所沢市の坂-1」に記載。
写真をクリックすると拡大します。
十人坂(坂下方向) 久米の所沢高校と所沢中央自動車教習所の間を南西に、「じゅうにん坂」交差点へ下る。《地図》
坂名の由来は、①この坂で十人の武士が切腹した。②昔、十人の落武者がここで割腹した。③伊勢参宮の者が帰途、十人がここで病気をした。『埼玉県伝説集成 上』
かなり風化している。全部同時期に建てられたのではないようだ。
坂下は「じゅうにん坂」交差点。
坂下は「じゅうにん坂」交差点。
右の小堂は延命・子育地蔵尊
安永2年(1773)の建立
永源寺の開基で、武蔵・伊豆の守護代。滝の城を築城したのは大石氏。羽村市の遠江坂 の大石遠江守は大石信重のことか?
七曲坂(坂上から) 城の滝の城址公園の西側に沿って曲がりながら北方向に上る。
『新編武蔵風土記稿』に、「城跡の西に沿いて屈曲せる坂なり。その曲折七段あり。故にかく呼べり。」とある。今は7つは曲がっていない。左は城山神社の石柱。この坂は、『埼玉の伝説集成』では、「七廻り坂」とし、馬塚という親石、子石が二つ並んで建っている下の坂で、この馬塚を拝まないで坂で転ぶと、片袖を馬塚に上げなければならなかったという。馬塚らしき物は見つからず、七曲坂とは別の坂のことを言っているのだろうか?
右の小さな石柱は豊臣秀吉の家来の浅野長政が滝の城を攻めた時の伝説の「血の出る松の跡」
正面右は稲荷社
右下の現在地の右側の曲がりくねった道が七曲坂。
滝の城本丸跡
戦国時代に武蔵国の多摩・入間・高麗郡を支配した大石氏が築城。その後、北条氏照の滝山城の支城となった。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城した。平山城式で、別名を本郷城という。
本丸跡の向い側、滝の城の櫓台跡の上に建つ。
滝の城址公園、柳瀬川とJR武蔵野線
滝の城の由来となった滝だろう。本丸の北東側あたり。今でも少し水がある。
東坂①(坂上方向) 城の関越自動車道の南西側に沿って北西に上る坂。《地図》
東坂②(坂上方向) 城の東川の南側の坂。《地図》
左下は東川、正面は埼玉コープセンターで右に迂回して下っている。
『新編武蔵風土記稿』には、「(城)村の東にあるわずかな坂」とある。このあたりは関越自動車道の開通で昔とはかなり道筋なども変わってしまっているだろうから、東坂①②とも違っているかもしれない。
城下橋から東川
東光寺(坂之下388)
北条氏照が滝の城の北東に鬼門除けとして建てた。廃城後の慶長5年(1600)ここに移された。
稲荷坂?(坂上方向) 藤森神社前を南西に上る。左手前が稲荷神社の石柱。《地図》
『新編武蔵風土記稿』の稲荷坂は、「(坂之下村)の西の方なり。北より南に下る坂」で、ここの坂は坂之下の中央あたりで、北には上っていない。記稿の「稲荷坂」ではないだろう。
赤坂?根岸坂?(坂下から) 坂之下413と416の間をカーブして北方向に上る。《地図》 坂上は国道463号
両方とも『新編武蔵風土記稿』の「坂下村」ある坂。根岸坂は(村の東の方、北より南に下る」とある。この坂は今でも細く曲がった薄暗い坂で、昔は赤土の急坂ではなかっただろうか。とすれば赤坂かも。
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