« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »

2008年1月30日 (水)

所沢市の坂ー4

2008年1月30日

狭山ヶ丘駅(西武池袋線)・・・愛宕神社・・・狭山湖通り・・・能安寺・・・誓詞橋・・・鎌倉街道上道(小手指道)・埋蔵文化財センター・白旗塚・小手指ケ原古墳戦場跡・・・小手指道・・・薬師堂・・・稲荷坂①(県道179号)・・・稲荷坂②(小手指ケ原古戦場通り)・・・稲荷坂③(狭山湖通り)・・・狭山自然公園・狭山湖(山口貯水池)・・・根古屋城跡・小太郎坂跡あたり・・・根古屋坂跡あたり・・・三ケ島八幡神社・・・狭山湖通り・三ケ島稲荷神社・・・大日堂バス停→小手指駅(西武池袋線)

 久しぶりのポカポカ陽気で歩きやすかったが、坂の収穫は少ない坂道散歩だった。
 鎌倉街道上道の支道の小手指道を南下して、鎌倉時代末の元弘の合戦ゆかりの誓詞橋、白旗塚、小手指ケ原古墳戦場跡をたどり県道179号に出る。

 稲荷坂と稲荷社の位置がはっきりしない。3つの道筋が考えられるが特定できなかった。狭山湖は東京の水道源のため周囲が金網フェンスで囲われていて、北岸の根古屋城跡には近づけない。金網の隙間から写真を撮るだけであきらめた。周回道路から離れ、北東方向へ下り三ケ島八幡神社、三ケ島稲荷神社へ寄りバスで小手指駅に出た。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2232 誓詞橋の北側の小手指道(狭山湖通り)

二股の分岐点に「石橋二ヶ所供養塔」が立つ。

Img_2231 石橋二箇所供養塔(安永2年(1773))の建立。

道標も兼ねていて、下の方に字が一部地面に埋もれているが、「右 川越 左 青梅」とあるようだ。石橋とは誓詞橋のことか。

Img_2233 誓詞橋 【ルート地図】の①

鎌倉幕府倒幕に向う新田義貞がここで軍兵から忠誠の誓詞を取ったという伝説がある。

Img_2235 左 誓詞橋の碑

右 西国・坂東・秩父百番供養塔

                          Img_2241

小手指道

鎌倉街道上道の支道。右は埋蔵文化財調査センター(北野2-12)

Img_2248 白旗塚 【ルート地図】の②

合戦に向う新田義貞がこの塚の上に源氏の白旗を立てたという。

Img_2243 白旗塚の上

右が白旗塚碑

Img_2249小手指原古戦場」碑 【ルート地図】の③

元弘3年(1333)新田義貞軍と北条軍の古戦場

Img_2250 説明板

Img_2251 小手指道から白旗塚、小手指古戦場跡

小手指ケ原はこのあたり一帯の入曾(狭山市)、藤沢(入間市)、南方の狭山丘陵を含む広い原野だった。

Img_2255 何の石柱か?

Img_2256 薬師堂(北野1-26)

Img_2258 稲荷坂①(坂上から) 北野2丁目の県道179号の稲荷坂交差点から東に上る。 【ルート地図】の④

坂沿いに稲荷社は見当たらず、南の藤森稲荷神社のことか、西の三ケ島稲荷神社とはかなり離れている。

Img_2262 坂下から

Img_2266稲荷坂② 稲荷坂交差点から北東に上る小手指ケ原通り。 《地図

この坂の近くにも稲荷社はないようだが。

Img_2270 坂下方向

Img_2271 稲荷坂③(坂下方向) 県道179号の狭山湖入口交差点から南に上る。坂上は狭山湖の上の狭山自然公園 《地図

『所沢市史』はこの坂を「いなり坂」としているようだが、稲荷坂交差点からは遠く、稲荷社も見当たらなかった。

Img_2272 坂上方向

左側にかなり大きな「?道記念碑」が立つ。

Img_2273 ○道記念碑

東京市水道局の設置らしい、情けないが最初の字が読めない。

Img_2279 狭山湖(東京都山口貯水池)

都民の水がめで、貯水池の回りは全部金網張りで入れない。

Img_2285 周回道路

左が狭山湖、右は「トトロの森」4号地。地蔵の小祠もある。

Img_2288 小太郎坂跡あたり  根古屋城の東で、北東に上る坂だった。 【ルート地図】の⑤

このあたりが「根古屋城跡」だろう。金網内に道が下っている。金網の隙間からの写真。

「昔、星見(伏見?)小太郎と云人住せし所なるゆえにこの唱へありと」『新編武蔵風土記稿』

小太郎が根古屋城から馬でこの坂を下りて来た所をハサミ打ちで殺されたとの言い伝えもある。「小太郎」とは、根古屋城を築いた山口小太郎高忠のことか。それとも『新編武蔵風土記稿』の小太郎だろうか?

金網の住居標示には「所沢市勝楽寺438」

Img_2291トトロの森4号地

遊歩道の反対側

Img_2305 根古屋坂跡あたりか 《地図

根古屋の西で北に上る坂で、田用水の溜池があったという。

Img_2314周回道路から三ケ島八幡神社の方へ下る坂。

Img_2325 三ケ島八幡神社(三ケ島1丁目)

Img_2331 三ケ島稲荷神社(三ケ島3-88)

Img_2330 説明板

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月12日 (土)

長崎市の坂-4

2008年1月12日

長崎駅・・・桜町通り・・・市役所通り・・・伊勢神社・・・シーボルト通り(旧長崎街道)・・・桜馬場天満宮・・・桜馬場観音堂・・・春徳寺通り・ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑・春徳寺・サントス教会跡・・・長崎村庄屋の跡・桜馬場中学校・遅刻坂①・・伝八稲荷・・・シーボルト邸跡・シーボルト記念館・・・鳴滝高校・遅刻坂②・・・ミルスの坂・・・中川八幡神社・・・旧長崎街道・・・食違い・蛍茶屋電停・・・旧長崎街道・・・中川町地蔵堂・・・トロトロ坂・古橋・・・松森神社・・・日銀長崎支店・・・歴史文化博物館・・・筑後通り・・・玉園町の坂の坂上・・・幣振坂①・・・長崎駅

 今回の長崎の坂道散歩の最後は旧長崎街道の蛍茶屋まで。帰路に寄った歴史文化博物館の奉行所ゾーンのお白洲では、長崎くんちにからむ町民間のもめごとを名奉行?がユーモアたっぷりなお裁きで解決するという寸劇をやっていてこれがなかなか面白い。また奉行の一年をドラマ仕立てにした立体映像なども上映されていてなかなか見ごたえがあった。幣振坂①の石段上の道から長崎港と街並みを見ながら長崎駅の方へ下った。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_2057 伊勢神社(伊勢町)

諏訪神社、松森神社とともに、長崎三社と称された。

Img_2060シーボルト通り(旧長崎街道) (桜馬場1丁目) 【ルート地図】の①

右脇に「長崎街道ここに始まる」の石柱。

Img_2169 説明板

Img_2170 長崎街道ルート

小倉までは57里(約228km)

Img_2063 桜馬場天満宮(桜馬場1-4)

旧長崎街道沿いで、「オランダ人出立の場所」と呼ばれ、オランダ商館長らが江戸へ向けて旅立つときはここに集まり、別れの杯をかわし、江戸へ出発した。

Img_2061 説明板

Img_2081 春徳寺通り(坂上方向)

写真で見るよりけっこう傾斜がある。

Img_2068 ルイス・デ・アルメイダ渡来記念碑の説明板(坂上の突当たり)

Img_2069 左に上って春徳寺

正面の大クスノ木は、住職の話では樹齢500年位。

Img_2073

春徳寺(夫婦川町11)

Img_2072 トードス・オス・サントス教会跡(春徳寺)

Img_2066 たばこ栽培開始地(春徳寺通り)

Img_2102 桜馬場観音堂(桜馬場2-1)

Img_2100 堂内

Img_2103 長崎村庄屋跡の石垣

シーボルト通りの桜馬場中学校の敷地。

Img_2104 説明板

桜馬場中学校の校門を入った左側の遅刻坂①の坂下にある。

Img_3130 遅刻坂①(坂上方向) 桜馬場中学校(遅刻坂が載っている)の校門から正面玄関までの94mの上り坂。《地図

学校の敷地内で一般道ではないが。

Img_2105 伝八稲荷(桜馬場2-1)

伝八さんという慈悲深い人の徳を敬って地元で建てた稲荷。

Img_2110 小堂(観音と地蔵?)

シーボルト記念館への途中

Img_2115 シーボルト邸跡(鳴滝2-7)

Img_2119シーボルト記念館

Img_2120 遅刻坂②(坂上から) 中川2-7と2-2の間を北東に鳴滝高校に上る。 【ルート地図】の②

鳴滝高校は唐通事、さかき仁左右衛門の別荘跡。『長崎坂づくし』

Img_2121 坂上近く

正面が鳴滝高校の門。

Img_2125 坂上方向

交差する坂は旧長崎街道のトロトロ坂

Img_2132 ミルスの坂 鳴滝高校と鳴滝1-3の間を南東に上る。 【ルート地図】の③

戦前二階建ての洋館ミルス邸があた。『長崎坂づくし』 

Img_2138 坂下の新しい洋館風の家

Img_2136坂下方向

Img_2151 旧長崎街道

左の石段は中川八幡神社。街道はこの先に進み突当たりで直角に曲がって蛍茶屋に出る。以前はこれを「食違い」と呼んでいた。

Img_2131 中川八幡神社(中川2-9)

Img_2142_2 説明板

Img_2141 新旧長崎街道が合流する蛍茶屋電停前

昔は蛍が飛び交う名所で、蛍茶屋(別名を甲斐田屋)があり、旅人はここで送別の杯を酌み交わした。

Img_2145 トロトロ坂(中川2丁目の方から) 桜馬場2丁目と中川2丁目の境の古橋を挟んで北西と南東にゆるやかに上る旧長崎街道。右は中川町地蔵堂。 【ルート地図】の④

傾斜がゆるやかな、「トロトロ」な坂という意味だろう。

Img_2152 古橋の方へ下って行く。

Img_2155 古橋を渡った所から

Img_2157 古橋

承応3年(1654)唐通事、林仁兵衛が架けたもので中川(なかご)橋と名づけられた。大正7年に少し下流に新しい中川橋ができ、古橋と呼ばれるようになった。石橋としては、4番目に古い橋。

Img_2162 説明板

Img_2171 松森神社に沿う坂

Img_2174 松森神社(上西山町4)

本殿瑞垣には彫刻「職人尽し」が彫られている。

Img_2175 「職人尽し」説明板

Img_2176富貴楼(松森神社隣、上西山町5)

卓袱(しっぽく)料理の料亭

(平成29年6月10日で休業となった)

Img_2178 日銀長崎支店

Img_2184 缶詰製造の地跡

Img_2189 長崎奉行所立山役所正門(復元)

長崎歴史文化博物館(立山1-1)の一部になている。

Img_2187 正門から奉行所

Img_2188 説明板

Img_2195 幣振坂① 【ルート地図】の⑤

石段上を左に曲がってさらに上った所から長崎港方向。この坂については長崎市の坂ー1」に記載。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月11日 (金)

長崎市の坂-3

2008年1月11日

Img_1736 長崎駅・・・十人町の坂・ピエル・ロッチ寓居地・・C・M・ウイリアムズ宣教師舘跡・オランダ坂②右の写真)・英国聖公会会堂跡・居留地の石段坂(海星学園)・・・オランダ坂③(切通し(ロティ坂)・活水坂)・活水学院・・・オランダ坂通り・オランダ坂②(ジョー・コインの坂)・南山手洋風住宅街・誠孝院・・・石橋電停・・・相生地獄坂・(グラバースカイロード)・・・グラバー園・・・長崎伝統芸能舘・・・コンスイ坂(ゆずりはの坂)杠葉(ゆずりは)病院・・・ドンドン坂・マリア園・・・プール坂・浪平小学校跡・・・(下がり松)オランダ坂④(グラバー通り)・・・大浦天主堂・・・香港銀行跡・・・諏訪神社・新相生通り・・・南山手レストハウス・・・祈念坂・・・諏訪神社・妙行寺・・・国際あいさつ通り・・・石橋電停・・・長崎水辺の森公園・・・出島オランダ商館跡・・・長崎駅

 天気予報どおり朝から雨だ。薄暗い雨の中をオランダ坂へ向う。雨のオランダ坂散歩も情緒があっていいもんだ。とはいかない。道も不慣れで、通学時間帯で海星学園の生徒、活水学院の女学生が十人町の坂を上って行く。雨と車と、女学生を避けながら坂の写真を撮るのは至難の技?だ。やっとシャッターチャンスが来たと思ったら、暗いせいか、カメラがぼろいのかシャッターが下りない。

 それでもなんとかオランダ坂をクリアーしたが雨が強くなってきた。坂下の公民館の軒下でしばし雨宿りしていたが寒いので中へ入ったら公民館ではなく病院だった。かまわずに待合室で小休止して、石橋電停の電車通りを渡り、相生地獄坂の石段を上る。斜行エレベーターのグラバースカイロードが平行して、グラバー園の方へ上っている。斜行エレベーターの次ぎは少し離れて垂直エレベーターが上っているが、意地でも乗らずに地獄坂を行く。

 雨がどしゃ降り、滝のように降ってきて前が見えずに上って行ったら、民家の玄関前に出てしまって行き止まりで引き返す有様だ。名前の通りの地獄坂だった。グラバー園の旧三菱第2ドックハウス内に入った時は膝から下と靴の中はぐっしょりの状態だが、それよりも地図が濡れて破れかけてきたのには参った。グラバー園の紹介ビデオを2回半見て、案内の女性と長話しをしている間に雨も少し小降りになってきた。

 グラバー園を出て、グラバー通りを南西に向う。観光客もこちらの方には足を伸ばして来ず静かだ。コンスイ坂、ドンドン坂、プール坂とも長崎港方向に下る直線的な急坂だ。グラバー通りを戻り、(下がり松)オランダ坂を下り、大浦天主堂に寄る。天主堂の脇から諏訪神社へ抜け、新相生通りをグラバー園近くの南山手レストハウスまで上り返す。この坂が祈念坂かとも思っていたがどうも違う感じだ。犬と散歩している人に聞いて祈念坂の下り口がはっきりした。しばし、長崎や坂の話をして祈念坂を下る。なるほどこの坂もなかなか情緒豊かな坂で気に入った。坂下から石橋電停に出て、長崎水辺の森公園から復元されつつある出島オランダ商館跡を見学した頃には雨はすっかり上がっていた。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1717_2 十人町の坂(坂上方向) 十人町2と9の間を南西に上る。《地図

別名を「ピエル・ロチの坂」

Img_1723 坂上方向

坂の途中に「ピエル・ロチ寓居の地」碑と説明板が立つ。

坂上からオランダ坂②の下りとなる。

Img_1719 説明板

Img_1727 C・M・ウイリアムズ宣教師舘跡(オランダ坂②の坂上近く)

日本初の新教教会堂の英国聖公会教会堂を建てた。

Img_1728 オランダ坂②(坂下方向) 活水学院と海星高校(英国聖公会会堂跡)の間を南西に下り、オランダ坂通りと合流し、東山手洋風住宅群と誠孝院の間を南西に下る坂。【ルート地図】の① 右が活水学院

外国人が石橋から英国聖公会会堂に行くために通った坂なのでこう呼ばれるようになった。

Img_1734 坂上方向

正面は活水学院

Img_1738 「英国聖公会 会堂跡」碑(オランダ坂①の途中の海星学園の石垣の所)

オランダ坂の由来も書かれている。

Img_1765 聖公会会堂碑から海星学園の間を上る石段。

居留地時代の石段。

Img_1767 坂の途中から坂下方向

Img_1754 オランダ坂③(切通し(ロティ坂)から活水坂へ続く坂) 活水学院と東山手十三番舘・十二番舘の間を南東から東方向に上る。 坂下の切通しから坂上方向。《地図》 ここの部分をピエル・ロチにちなんでロティ坂というらしいが、今は使われてなくオランダ坂③に含める。

Img_1751_2 左はオランダ坂③(活水坂)、右はオランダ坂②のジョー・コイン(誠孝院)の坂へ続くオランダ坂通り。

Img_174155 オランダ坂③(切通し・ロティ坂)の坂下方向

Img_1743 坂の途中の地蔵さん

Img_1748 オランダ坂③(活水坂)(坂上方向) 【ルート地図】の②

左が活水学院、「オランダ坂」の石柱が立つ。活水学院は、明治12年(1879)メシジスト派の宣教師、エリザベス・ラッセル女史とジェニー・ギール女史が東山手16番に設立した日本の女学校の草分け。活水の名前の由来はヨハネ伝の「さらば汝に活ける水を与えしものを」から。『長崎さるくマップブック』

Img_1758 坂下方向

Img_1759 坂上方向

坂上はオランダ坂②の聖公会会堂跡碑のある石段近く。

Img_1761 坂下方向

Img_1771

オランダ坂②(右)とオランダ坂③(切通し)が合流する所。

このあたり(昭和会病院?の前)に「オランダ坂通り」の標識がある。

Img_1772 合流点からオランダ坂②(ジョー・コインの坂)へ続くオランダ坂通り。

このあたりは傾斜は感じられないがが、これもオランダ坂の一部だろう。
ゆるやかな下りとなって右へ急坂となる。

Img_1776 急坂となって下るオランダ坂②(ジョー・コイン(誠孝院)の坂)

斜度20%

Img_1779 右が東山手洋風住宅群(7棟)

Img_1781 明治20年代後半に建てられた木造洋館7棟が保存されている。

Img_1783 左が誠孝院(ジョウコウイン)

Img_1786 誠孝院(東山手町7)

日蓮宗の寺

Img_1785 坂上方向

Img_1794 坂下から

左下の斜度20%の標識。

Img_1798 相生地獄坂(右の階段)・グラバースカイロード(斜行エレベーター)(左) 《地図

グラバースカイロードは地域住民の足として設置されたものだが、グラバー園への観光客も乗れる。無料だがやっぱり歩くべきだ。でも今度、一回乗ってみようか。

Img_1799

坂下方向

Img_1802 雨に煙っている。

Img_1804 グラバースカイロードを降りて、この垂直エレベーターに乗ればグラバー園の第2ゲートに着くが。

Img_1806 垂直エレベータに乗らずに、雨で暗くなっている中を相生地獄坂を上る。どしゃぶりでシャワーのような雨になった。前がよく見えずに上って行ったら民家の玄関の前へ出て行き止まりで引き返す。地獄坂に偽りなしか。

Img_18112 グラバー園

旧三菱第2ドックハウス

Img_1817 旧ウオーカー邸

Img_1820 旧長崎地方裁判所長官舎

Img_1822 旧リンガー邸

Img_1826旧オルト邸

Img_1829 旧スチイル記念学校

Img_1833 旧グラバー邸

Img_1831 「マダム・バタフライ(蝶々夫人)」を演じる三浦環の像

Img_1836_2稲佐山方向

Img_1841 旭大橋・夢彩都方向

Img_1850 コンスイ坂(ゆずりはの坂) 南山手町の杠葉(ゆずりは)病院の前から北東に海岸の方へ下る。《地図

コンスイとはロシア語で領事館のことで、ロシア領事館があった。『長崎坂づくし』 坂の途中に土地の所有権?を示すロシアの看板が取り付けてある所があった。

Img_1852 坂下方向

正面奥は長崎港

Img_1853 坂下から

左に斜度20%の標識

Img_1857 ドンドン坂 東山手町12と15の間を南東に上る。坂上はグラバー通り、マリア園 【ルート地図】③

急坂で、雨が降ると流れ落ちる水がどんどん早くなるからとか、歩いて下り出したらどんどん勢いがついて止まらない坂だからとも。両側の側溝(U字溝か三角溝)を勢いよく雨水が流れている。横浜市の山手にも洋風側溝の「ブラフ溝」がある。二つの市には歴史的にも地形的にも共通点がある。この坂は映画、TV、コマーシャルなどによく登場する坂。

坂下左に「ドンドン坂」の標示。坂上にもある。

Img_1869 坂下方向

正面は長崎港

Img_1875 坂上から

Img_1878 坂上にマリア園(南山手町12)

Img_1880 プール坂 南山手町14と16(浪平小学校跡)の間をグラバー通りから南東に上る。《地図

浪平小学校のプールに沿う坂だが、浪平小は去年(平成19年)の3月に廃校。跡地とプールはどうなるのだろうか?

Img_1886 坂下方向

Img_1888 坂上方向

右側がプール。

Img_1901 

プール坂の坂上からさらに上った所から長崎港

この上は行き止まり。

Img_1910 (下がり松)オランダ坂④(坂下方向、右はグラバー園) 

南山手町の全日空グラバーヒルから大浦天主堂、グラバー園入口の上るグラバー通り。【ルート地図】④

グラバー邸に「下がり松」という大きな松があり、海岸通りの埋立地を「下がり松」と呼んだ。その後、「下がる」は縁起が悪いので松ヶ枝町に改称された。『長崎坂づくし』

Img_1932 大浦天主堂の前を下る。

Img_1919 大浦天主堂(南山手5)

元治元年(1964)の竣工。「26聖殉教者天主堂」と命名された、26聖人の殉教地の西坂に向って建てられている。

Img_1924 正面のマリア像

Img_1930 坂下方向

Img_1934 坂下から

Img_1940 旧香港上海銀行

(下がり松)オランダ坂④の坂下

Img_1942 説明板

Img_1950 新相生通り 相生町10の諏訪神社と相生町11の間を曲がりながら南西方向に南山手レストハウス、グラバー園の方へ上る。《地図

Img_1953 坂下方向

Img_1962 坂下方向

Img_1964 南山手レストハウス(新相生通りの坂上近く)

Img_1965 説明板

Img_1970 祈念坂(坂上から) 諏訪神社と大浦天主堂の間を南山手レストハウスの方へ上る。新相生通りの北側の坂。【ルート地図】の⑤

大浦天主堂、諏訪神社、妙行寺(坂下)に接する坂で、お祈りするには絶好の坂。地元では「祈りの三角ゾーン」とも呼ばれている。映画「解夏」にも登場する坂。

Img_1978 坂上方向

Img_1983 祈念坂

坂の途中に貼ってある。

Img_1996 大浦天主堂の所で左に曲がって上る。

Img_1991 諏訪神社

Img_1997 国際あいさつ通り

諏訪神社下から石橋電停の方へ下る。

Img_2001 石段下のT字路に案内図

右上に「祈念坂」、その左が「新相生通り」、その下が「国際あいさつ通り」、左が「相生地獄坂」

Img_2010 長崎水辺の森公園(常盤町)から長崎港

正面は長崎女神大橋

Img_2012 稲佐山方向

Img_2015 旭橋・夢彩都方向

                     

Img_2023 出島オランダ商館跡

昔は手前の中島川は海だった。

詳細は、『蘇る出島』で

Img_2033_2 表門

Img_2028 出島の絵

Img_2043 ミニ出島

15分の1モデル。

Img_2040 出島内

Img_2039_2 カピタン部屋

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2008年1月10日 (木)

長崎市の坂-2

2008年1月10日

Img_1616 長崎駅・・・長久橋(中島川)・俵物役所跡・・・ピンコロ坂(江戸町商店街)・・・県庁(けんちょん)坂・・・五足の靴碑・・・大音寺坂(ミゼリ・コルディア本部跡・大音寺跡)・坂上天満宮・・・中央公園・・・巌流坂(萩藩蔵屋敷跡・新町活版所跡)・・・安豊稲荷・・・豊後坂・・・囁き(ささやき)坂・喫茶店「囁き坂」・報時所跡(長崎市役所)・・・東新橋(中島川)・・・興福寺・・・龍馬通りの坂下・深崇寺・禅林寺・・・ゆうれい坂・・・光源寺(赤子塚碑)・・・伊良林地蔵堂・・・とりい坂・・・若宮稲荷神社・・・良林亭跡・・・亀山社中跡・・・龍馬通りの坂・・・亀山焼窯跡・・・風頭公園・風頭山(152m)・・・大光寺・・・崇福寺・・・大音寺・皓台寺・幣振坂②・楠本イネ(シーボルトの娘)墓・・・幣振坂③・・・延命寺・長照寺・・・思案橋・・・見返り柳・思切り橋跡・・・忍び坂・船大工町大師堂・・・勅使坂(上の写真)・楠稲荷神社・梅ケ崎天満宮・・・丸山公園・丸山交番・丸山遊郭二重門跡・・・大崎神社・金剛院の坂・・・山崎屋の坂・料亭青柳・・・丸山オランダ坂・・・一文字地蔵・・・高島秋帆旧宅跡・・・福屋跡・・・中の茶屋・・・玉泉(ぎょくせん)稲荷・・・梅園身代り天満宮・・・長崎検番・・・料亭花月・・・思案橋

 朝の出勤時間で県庁坂を職員が上ってくる。あたりのビルにも勤め人が急いでいる。平日にのんびり坂道散歩なんかしていて申し訳ない・・・。とは全然思わないが。
 大音寺坂には仇討ちの話があり、けんか坂とも呼ばれている。囁き坂の途中の喫茶店「囁き坂」に入ろうかと思ったがまだ早過ぎて準備中。

 中島川を渡り寺町の興福寺へ向う。境内に「長崎の坂動きだす三日かな」の句碑がある。ゆうれい坂は各地に残る「飴屋の幽霊」伝説の坂だが、坂自体は面白味がなく、通称されている坂名ではないようだ。とりい坂、龍馬通りの坂、幣振坂は、いずれも風頭公園に続く長い坂で、今日は3往復くらいした勘定になる。若宮稲荷神社へ上るとりい坂の途中では、石段を上っていく地元のおっさんとちょっとした口論となった。今日はここが「けんか坂」のようだ。

 幣振坂③を下りて今日の予定は終わったが、まだ時間も早く明日は雨らしいので、思案橋で少し思案して丸山花街散策をすることにした。昨日の夜、あてもなく適当にこのあたりをぶらついたので案外スムーズに歩けた。忍び坂、山崎屋の坂は小さな石段坂。勅使坂では猫の街らしく、猫が勅使のように悠然と坂を横断していた(上の写真)。 丸山オランダ坂には、「ほんとうのオランダ坂」の看板が掲げてあるが、由来はともかく坂自体に魅力はいまいちだ。料亭や街並みにかつての華街風情が残る丸山界隈を歩いているうちにだいぶ日が傾いてきた。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1315 ピンコロ坂(坂上方向) 江戸町と築町の間を県庁前交差点から南東に下る江戸町商店街通り。坂下に長久橋(中島川) 【ルート地図】の①

昔はかまぼこ型の石敷の坂だった。立方体の石を建築用語でピンコロ石といい、そこからついたのではないか。別名を長久坂・長久橋の坂 『長崎坂づくし』

Img_1316 坂上から

坂上は県庁坂

Img_1317 県庁(けんちょん)坂(坂上方向) 江戸町の長崎県庁の前を南東に上り、下る県庁坂通り。《地図

中央橋交差点から県庁の方へ上る坂。

Img_1321 坂上方向

正面奥が長崎県庁。県庁の所は森崎という岬の突端で、慶長5年(1600)から慶長19年(1614)までイエズス会本部が置かれ、寛永10年(1633)からは長崎奉行所があった。後に役所内に海軍伝習所、医学伝習所が開講した。『長崎坂づくし』

Img_1323 坂下の文明堂カステラ店(江戸町1-1)

Img_1324五足の靴

家庭裁判所(万才町6)のあたりにあった旅館上野屋の泊まった文人5人の碑。

Img_1328 大音寺坂(けんか坂・天満坂)(坂上から) 万才町の長崎地方検察庁と長崎地方法務局の間を南東に下る石段。【ルート地図】の②

大石内蔵助も家来を派遣し、赤穂浪士討入りの手本にもなったという、長崎版忠臣蔵の長崎(深堀)喧嘩騒動、深堀義士伝由来の坂。赤穂浪士討入り(元禄14年)の1年前の事件。深堀氏は、本姓は三浦で上総国深堀(千葉県大原町)に本領があり、牧の管理をしていた。承久の乱の勲功により、建長7年(1255)深堀能仲がこの地に来た。 「長崎喧嘩騒動」の顛末は由来書で。

Img_1329「長崎喧嘩騒動」由来書

些細なことで武士の面目で仕返し、討入り、切腹だと命のやりとりをする。これが武士道とはお粗末な話ではあるが。

Img_1327 長崎地方法務局の所

1584年に建設されたミゼリ・コルディア本部の教会は、キリシタン弾圧で1619年に破壊され跡地が大音寺になった。大音寺は寛永15年(1638)に現在地(幣振坂②の坂下)に移り、坂上天満宮が建った。天満宮も原爆で焼失し法務局となり、坂の下に「坂の上天満宮」が再建された。『長崎坂づくし』

Img_1330 坂下から

Img_1333 坂下の天満宮

大音寺坂の別名は天満(宮)坂。

Img_1337 巌流坂(坂下から) 栄町1と2の間を北東に上る。《地図

坂を挟んで長州萩藩と豊前小倉藩の蔵屋敷があった。この坂を両藩の間の関門海峡の巌流島に見立ててこう呼んだ。

Img_1338 説明板

Img_1339 坂上から

左側に「詩儒吉村迂斉遺跡」標柱と「新町活版印刷所」碑。

Img_1342

Img_1341

Img_1343 安豊稲荷(豊後坂の坂上近く)

Img_1344 豊後坂(坂上から) 市役所通りの桜町交差点から北西に桜町通りへ下る。《地図

旧町名の豊後町による坂名。

Img_1345 坂下方向

向い側は小川町の坂

Img_1347 坂上方向

Img_1351 「囁き坂」喫茶店

囁き坂の途中。まだ早すぎて「準備中」だった。

Img_1354囁き坂(坂上方向 ) 長崎市役所の西側を南東に上る。《地図

Img_1358 坂上から

自動車の先が喫茶「囁き坂」

Img_1362 興福寺山門(寺町)

元和6年(1620)創建の日本で最初の唐寺。

Img_1360 説明板

Img_1371 唐人屋敷門

Img_1370 説明板

Img_1369 鐘鼓楼

Img_1368説明板

Img_1378 鱖魚(けつ魚)

叩いて飯時を知らせる木魚。何百年も叩かれお腹の所が凹んでいる。

Img_1377 説明板

Img_1365坂の街、長崎の迎春を詠んだ有馬朗人の句碑

興福寺境内

Img_1402 ゆうれい坂(坂上方向) 八幡町から伊良林1丁目の光源寺へ上る。 《地図

民話「飴屋の幽霊(産女(ウグメ)の幽霊)」の舞台、光源寺へ上る坂

飴屋の幽霊」、「飴買い幽霊」の話は各地にある。石川県金沢市にも、「飴買い幽霊」の話とあめや(飴屋)坂がある。「金沢市の坂⑥
東京港区の中原街道沿いの光福寺には「ゆうれい地蔵」がある。
落語『幽霊飴

光源寺に残る「産女のゆうれい」の木彫り像。(「長崎坂づくし」所載) この像は毎年8月16日に開帳される。「産女の幽霊井戸」が一覧橋から興福寺に向う途中(麹屋町の泉屋第二ビルそば)にあるというが見当たらず。

Img_1404 坂下方向

Img_1410坂上方向

左側が光源寺

Img_1416 光源寺(伊良林1-4)

Img_1413 赤子塚民話の碑

Img_1412_2「赤子民話の碑」由来(平成14年建立)

Img_1419 伊良林地蔵堂

長崎四国八十八霊場第41番霊場

Img_1420 とりい坂(坂下から) 伊良林2丁目の若宮稲荷神社に上る石段坂。《地図

Img_1429坂上方向

Img_1435 途中からの眺め

Img_1438 若宮稲荷神社(伊良林2-10)

秋祭りの「竹ん芸」が有名。

Img_1437 説明板

Img_1441 方形の鳥居

Img_1440_2説明板

Img_1443 良林亭跡(亀山社中跡近く)

日本人が開いた初めての西洋料理店

Img_1445 龍馬のブーツ像(亀山社中跡の前)

Img_1444 説明板

Img_1446 亀山社中跡 《地図

坂本龍馬が設立した日本初の商社、海援隊の前身。

Img_1442 説明板

Img_1454龍馬通りの坂(坂下方向) 寺町の禅林寺と深崇寺の間を風頭公園の方へ上る。《地図

Img_1462 坂上方向

龍馬の絵が掛かっている。

Img_1399 坂下から

右が深崇寺・左が禅林寺

Img_1397 深崇寺(寺町6)

Img_1398 禅林寺(寺町7)

正保元年(1644)に禅僧の石峯租芳が創建。

Img_1471 龍馬通りの坂上近く。(左の石段)・右は亀山焼窯跡、若宮稲荷への坂。

Img_1477 亀山焼説明板

Img_1482 風頭公園へ

ここも龍馬通り

Img_1483風頭公園の岩場

ここから諏訪神社の一の鳥居の石材を切り出し、「幣振坂」を下ったのか?

Img_1493 長崎港

晴れているがかすんでいる。

Img_1494 ながさき女神大橋(左奥)がうっすら見える。

Img_1495_2 龍馬像

Img_1501風頭山(152m)から下る石段坂(坂下方向) 《地図

坂下は大光寺

Img_1508 坂下方向

Img_1524 大光寺(鍛冶屋町)

「姿三四郎」のモデルとなった西郷四郎の墓があるという。

尾道市の浄土寺のそばには四郎の銅像が立っている。「尾道市の坂-2

Img_1546  崇福寺三門(鍛冶屋町7)

Img_1527 説明板

Img_1528 峰門

Img_1529 説明板

Img_1530 大雄宝殿

Img_1532 説明板

Img_1544 媽姐(まそ)堂

Img_1542 説明板

Img_1548 大音寺(鍛冶屋町)

本蓮寺、もとは大音寺坂にあった。本堂裏の墓地に大イチョウ。本蓮寺、皓台寺と並ぶ長崎三大寺の一つ。

Img_1547 説明板

Img_1555 幣振坂②(坂下から)

大音寺(右)・皓台寺(左)の間を風頭山方向へ上る坂。【ルート地図】の③

Img_1558 説明板

Img_1549 坂下方向

坂の途中にシーボルトの娘で、日本初の女性の西洋医学の産科医、楠本イネの墓がある。

Img_1584 幣振坂③ 長照寺と延命寺の間を風頭公園方向に上る坂。《地図

坂の途中に延命院が設置した『往来伝承』。同じ由来が書いてある。

Img_1575 坂上方向

Img_1579 坂下方向

Img_1588 坂下から

左・延命寺、右・長照寺

Img_1587 説明板(坂下)

幣振坂①②と同じような内容。

Img_1591 延命寺山門

長崎奉行所立山役所の門を移築。(現在は門扉のみ) 長崎四国八十八ケ所霊場巡りのスタート地点。

Img_1592 説明板

Img_1595 延命寺(寺町)

Img_1600 長照寺(寺町)

Img_1597 説明板

Img_1601 思案橋交差点

最初は1592年に架けられた土橋。石橋から鉄橋になったが、現在は暗渠となり橋はない。川口橋と名づけられたが、丸山の花街の入り口で、「行こうか、もどろうか」思案したのでこう呼ばれるようになったという。♪『思案橋ブルース』♪がヒットした。

Buramap 丸山ぶらぶら散策地図(「ナガジン」発見!長崎の歩き方)から

Img_1602 カステラの福砂屋(船大工町3-1)

創業寛永元年(1624)

Img_1603 見返り柳・思切り橋跡(丸山遊郭)

柳の下で遊女への未練から振り返るというわけ。

Img_1605 思切り橋の橋げた(明治19年に架けられた小橋)

この橋で遊女への未練な思いを断ち切るということ。

Img_1604 由来記

Img_1606 忍び坂 船大工町3と9の間を南に上り、曲がって南西に上る石段。坂上は勅使坂の途中。《地図

丸山遊郭で遊んだ帰りに大門を通るのが気が引けて、この裏道の石段坂を通ったことから名づけられた坂名。正面の石段上に船大工町大師堂。

場所柄のせいか、坂の雰囲気が金沢市の主計町茶屋街の暗がり坂に似ている。

Img_1607 船大工町大師堂

Img_1608 右に曲がって上る。

坂上は勅使坂

Img_1609 坂下方向

Img_1612 忍び坂(左)・勅使坂(右)

Img_1636 勅使坂(坂下方向) 丸山公園の北側から大徳寺公園の北側へ南西に上る。【ルート地図】の④

天皇の勅使が梅ケ崎招魂社(大徳寺公園内にあった)へ参詣するために整備され、以来こう呼ばれるようになった。

招魂社は台湾の役、西南の役の戦没者の遺骨が粗末に扱われているのに憤慨した谷干城が天皇に直訴して建てられた。『長崎坂づくし』

右上に梅ケ枝焼餅の店がある。

Img_1620 楠稲荷神社

船大工町の鎮守。商売繁盛のご利益があるそうだ。

Img_1623 大徳寺の大楠(楠稲荷の後ろ側)

樹齢約800年の県下一の巨木。大徳寺は明治元年に廃寺。「長崎七不思議」の一つ、「寺もないのに大徳寺」

Img_1614 丸山交番 勅使坂の坂下の丸山公園の前。

交番前に丸山二重門(大門)があった。

Img_1626 梅ケ崎天満宮 勅使坂の坂上の大徳寺公園の前。

籠町の氏神。

Img_1651 大崎神社(本石灰町・もとしっくいまち)

右隣の互助会館?の所に明治12年3月の丸山大火で焼けた金剛院があった。

Img_1641 金剛院の坂(坂下方向 ) 思案橋通りから本石灰町6の料亭松亭の脇を南方向に上る。《地図

坂上に金剛院があった。

Img_1643 坂標

Img_1644 坂下方向

Img_1646 坂下から

右は明治28年創業の「料亭松亭」

Img_1655 山崎屋の坂 料亭青柳前の石段 《地図

左上の料亭青柳は、山崎屋という茶屋の跡。ここには江戸時代、丸山遊郭の裏門があり門番が置かれていた。『長崎坂づくし』

Img_1653 丸山華街(花街)跡説明板

石段下の左側

Img_1657_2 坂上から

Img_1660(丸山)オランダ坂(坂下方向) 思案橋通りから丸山町7と8の間を南西に上り、左に曲がり、さらに右に曲がって上る。坂上は山崎の坂上そば。【ルート地図】の⑤

坂名の由来は説明板にある二つ。

①丸山遊郭の遊女がこの坂を下り、船で出島のオランダ屋敷に向った。②西洋料理店福屋に行く外国人が丸山花街の中を通らずこの坂を通った。

Img_1662 説明板

「ほんとう」も「うそ」もないだろうに。「丸山オランダ坂」でよかばってん。長崎史談会さん。

Img_1669 坂下方向

坂下に「丸山オランダ坂」の坂標が立つ。

Img_1673 坂下から

Img_1676 一文字地蔵 《地図

Img_1675 説明板

Img_1679 高島秋帆宅跡(東小島町) 左の塀一帯で1400坪ある。

わが国最初の西洋砲術家。雨声楼と呼ばれたここに4年半住んだ。

Img_1677 説明板

Img_1681 福屋跡へ上る坂 《地図

外国人は丸山遊郭を通らずオランダ坂からこの坂を上って西洋料理店の福屋へ行ったという。

Img_1686 福屋跡(中小島1丁目の中小島公園の所)

Img_1682 説明板

Img_1688 中の茶屋(寄合町)

遊郭、中の筑後屋の敷地内のお茶屋。

Img_1689 庭園

Img_1687 説明板

Img_1691 中の茶屋から玉泉稲荷への迷路のような細い道。《地図

Img_1692 車は通れないだろう。

Img_1693 玉泉(ぎょくせん)稲荷神社(寄合町)

Img_1700 梅園身代り天満宮(丸山町2-20)

元禄13年(1700)の創建。「身代わり」の由来話が説明板に書かれている。

Img_1697 説明板

Img_1701梅塚

今でも梅干の種が入っている。

Img_1702 説明板

Img_1705 天満宮から長崎検番へ下る坂 《地図

Img_1708 坂下から

左が長崎検番

Img_1709 長崎検番から山崎屋の坂、料亭青柳方向。

検番は芸者の手配、統括をする所で、町の中の検番は「町検」、ここは「山検」と呼ばれていた。

Img_1711 周辺地図

左上に丸山オランダ坂、左下隅に忍び坂。

Img_1713料亭花月(丸山町2-1)

丸山随一の妓楼引田屋の庭園にあった亭の名。
右側が向井去来の句碑「いなづまや どの傾城と かり枕」

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年1月 9日 (水)

長崎市の坂-1

2008年1月9日

長崎駅・・・西坂・日本二十六聖人殉教地(西坂公園)・・・本連寺(勝海舟寓居跡/サン・ジョアン教会跡/サン・ラザロ病院跡)・・・筑後通り・・・福済寺・長崎観音・・・幣振(ヘイフリ)坂・東本願寺・・・小川町の坂(さくら坂?)・・・桜町通り・・・代官坂・桜町公園・桜町小学校(代官屋敷跡/サント・ドミンゴ教会跡)・・・玉薗(たまぞの)町の坂・・・聖福寺・・・永昌寺・歴史文化博物館・・・六角道(かすみ路)・・・東照宮・長崎県神社庁・・・月見茶屋・・・諏訪神社・長坂・・・鎮西橋(中島川)・・・桃渓(ももたに)橋・出来大工町地蔵堂(卜意地蔵)・・・眼鏡橋・・・恵比寿神社・・・中央橋・・・思案橋通り・・・銅座橋(銅座川)・・・新地中華街・・・長崎駅

 坂と橋と猫の街?の長崎市街の坂道散歩です。春のような陽気の中、思ったより急な西坂を上り、西坂公園に入ると猫が何匹もいて、ニャァーニャァー鳴きながら人なつっこく近寄ってくる。東京の猫より人なれしていて、顔も鳴き声も品が良く見える。住んでいる人の猫への接し方の違いによるのかも。

 幣振坂は東本願寺脇を真っ直ぐに上る石段坂で、映画「解夏」にも出てくるそうだ。幣振坂は市内に3つあり、同じ由来を記した坂の説明板が設置されている。似たような坂に同じ坂名と由来をとってつけたものだろう。安直でいい加減だが、もともと坂名のつけ方はこんなもんで、それが通称されてしまえば致し方なし。

 玉薗町の坂の坂上の唐寺の一つ聖福寺はどっしりとした重厚な造りで、開放的な寺だ。観光客もなく静かで、ゆったり落ち着いた気分で拝観できる。歴史博物館から六角道に抜ける細い坂でも飼い猫らしい子猫が出てきて、道の真ん中に座ってこっちを見て可愛く鳴き始めた。いつもならこういう細い道では、いきなり犬に吼えられてびっくりするのが相場なのだが。

 六角道は長崎公園から長崎中学校まで上る急カーブの長い坂で、坂上近くから英彦(ヒコ)山の眺めがいい。六角道を下って途中から東照宮の前を通り、諏訪神社の境内に入る。ここにはいろんな狛犬があって面白い。「長崎くんち」の観覧席となる参道の石段の長坂を下って、鎮西橋からレトロ風な橋々を見ながら、5時を過ぎてもまだ日が沈まず明るい中島川沿いをゆっくり歩いた。

  【ルート地図

  *参考:『長崎坂づくし

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1058 西坂(坂下から) 長崎駅前の新浦上街道から西坂公園に上り、浦上街道へ続く坂。 【ルート地図】の①

秀吉によりここで(写真の左側の西沢公園)26人のキリシタンが処刑された。後に殉教者はローマ教皇から聖人に列せられた。

Img_1065 坂下方向

Img_1068_2 日本二十六聖人殉教碑(西坂公園内)

Img_1066 説明板

Img_1075 坂上方向

右側の石柱は、「長崎浦上街道ここに始まる」

Img_1072 浦上街道(時津街道)説明板

Img_1080 西坂の途中から下る坂

右側に小祠がある。

Img_1079 祠内は何の石像か?

Img_1087 本蓮寺(筑後町)

サン・ジョアン教会、サン・ラザロ病院の跡地。幕末、勝海舟が4年ほど住んだ所。

Img_1083 説明板

Img_1081 「勝海舟寓居の地」説明板

Img_1099 福済寺

興福寺、崇福寺とともに三福寺といわれる唐寺。

Img_1097 説明板

Img_1098 長崎観音(福済寺)

体内に世界3位の直径25.1mのフーコーの振り子(地球の自転の確認・証明装置)が吊るされている。

Img_1100 説明板

Img_1121 幣振(ヘイフリ)坂(坂下から) 筑後町の東本願寺の東側を北東に上る。 【ルート地図】の②

御幣を振って石材を降ろす人夫たちを鼓舞したというが、急坂で、上り下りに腹に力が入り、ふんばって思わず、「屁ふり」・「屁っぷり」・「屁っぴり」坂だったのでは。映画「解夏」に出てくる井戸があるというが見当たらず。石段上から左に曲がってさらに上る坂の途中にあるようだ。

Img_1118 説明板

石段下に立っている。

Img_1108_2

坂下方向

正面は長崎港。

Img_2193_2 石段上から左に曲がりさらに上って行く。

この坂を『長崎さるくマップブック』は幣振坂としている。

Img_2194 坂下方向

Img_1126 小川町の坂(坂下方向) 上町のNBC長崎放送と中町公園の間を桜町通りから北に上る。《地図

旧町名による坂名。坂上近くに「さくら坂マンション」がある。さくら坂と呼んでいるかもしれない。

Img_1130 坂下近く

桜街通りを挟んで向う側に豊後坂が上る。

Img_1129 坂上方向

Img_1133 桜町公園脇から市役所通りをくぐる市電(長崎電気軌道

Img_1134 代官坂(坂上方向) 上町の桜町公園に沿って北東から南東に上る。坂上は市役所通りの市役所前交差点。【ルート地図】の③

坂上の桜町小学校の所に一時期、代官屋敷があった。その前はサント・ドミンゴ教会があった。

Img_1137 右に曲がって上る。

坂上は市役所前交差点

Img_1139坂下方向

Img_1146 代官屋敷跡(桜町小学校の塀)

Img_1145 説明板

Img_1142 代官井戸

Img_1141説明板

Img_1153 玉園町の坂(坂上方向) 玉薗町1-1と1-2の間を北に上る。坂上に聖福寺。《地図

Img_1157坂上方向

Img_1158 坂上から

Img_1160 聖福(しょうふく)寺山門

Img_1161 説明板

Img_1177 歴史文化博物館前の坂

Img_1179 坂下方向

Img_1186防空本部跡(歴史文化博物館の敷地内)

Img_1181_2 説明板

Img_1182内部平面図

Img_1184 内部(通路)

Img_1183 参謀室?

Img_1203 六角道(かすみ路) 長崎公園から何度も大きくカーブしながら長崎中学校まで上る。【ルート地図】の④

途中に六角堂があったことに由来するのだろう。今の六角堂は堂とは呼べない公園内の休憩所のような簡易なものだが。「かすみ路」は下から見ると、かすみ(雲)のようにゆらゆらとしていることからとか。

Img_1209 坂下方向

道路の真ん中に神木の大きなクスノキが何本も植わっていて、その横を車が通り抜けて行くので歩きにくい。

Img_1213 坂の途中から

長崎港が見える。

Img_1224 坂上近くから

斜面を住宅がぎっしりと埋めながら、上へ這い上がっている。

Img_1259 諏訪神社(鎮西大社) 上西山町18

始めは諏訪町の長照寺の所にあった。

Img_1247 狛犬の井戸

「銭洗いの狛犬」ともいう。鎌倉の「銭洗い弁天」のように混んではいないが。

Img_1246 説明板

Img_1243 止事成就狛犬

Img_1244 説明板

Img_1256 願掛け狛犬

台座の円筒部分が回る。狛犬を回して願を掛ける

Img_1248 説明板

Img_1255河童狛犬

Img_1252説明板

Img_1261 長坂 諏訪神社の石段。【ルート地図】の⑤

Img_1267長坂

秋の神事「長崎くんち」の絶好の観覧席になる。

Img_1274 福沢諭吉使用の井戸(諏訪神社下の馬町交差点の裏通り)

Img_1289 桃渓橋(中島川) 《地図

Img_1286 説明板

Img_2056 桃渓橋(右奥)、左側に出来大工町地蔵堂(長崎四国第五十五番霊場)

Img_1287 堂内の地蔵さん

桃渓橋の説明板にある卜意地蔵だろう。

Img_1297 光永寺(古町橋脇)

福沢諭吉が1年間ほど宿泊し蘭学を学んだ寺。

Img_1298_2説明板

Img_1304 眼鏡橋 《地図

寛永11年(1634)に架設された、わが国最古の石像アーチ橋。

Img_1305 説明板

Img_2051 恵比寿神社(賑町11)

魚類商売の人たちの守護神。正式には「事代主神社」

Img_2050 説明板

Img_1310 銅座橋(銅座川)から

銅座町に銅代物替貿易用の棹銅を鋳造する銅吹所が置かれていた。正面は新地橋で、その左が新地中華街の北門。

Img_1308 新地中華街 《地図

日本最古の中華街で、横浜・神戸と並ぶ日本三大中華街の北門。東西南北を守る四神の一つ、北を守る玄武が彫られている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年1月 5日 (土)

所沢市の坂-3

2008年1月5日

所沢駅(西武池袋線)・・・県道4号(東京所沢線)・・・(西武池袋線)・・・十人坂・・・永源寺・・・西所沢駅→秋津駅・・・新秋津駅(JR武蔵野線)→東所沢駅・・・県道179号(所沢青梅線)・・・七曲坂・・城山神社・・滝の城跡・滝の城址公園・・・東坂・(関越自動車道)・県道179号・・城下橋(東川)・・・東光寺・・・藤森稲荷神社・・・鎌倉坂・天神社・・・川越街道(国道254号)・・・旧川越街道・・・大和田の坂(新座市)・・・鬼鹿毛の馬頭観音・・・新座駅(JR武蔵野線)

 十人の武士の切腹伝説のある十人坂には十体の小さな石仏が並んでいる。初めて降りた東所沢駅から東へ、県道所沢青梅線の城の公民館から右へ入ると滝の城跡に沿って急カーブが続く七曲坂が下っている。滝の城跡の北東側に城の名前の由来となった滝跡が残っている。
 城村の東端にある東坂は2つの道筋が考えられが、関越自動車道ができて道筋が変わってしまったかもしれない。坂之下には、稲荷坂、赤坂、根岸坂、鎌倉坂が『新編武蔵風土記稿』に載っているが、鎌倉坂以外は位置が特定できなかった。川越街道(国道254号)から旧川越街道へ入り、大和田の坂を上り新座駅に出た。

  【ルート地図】(所沢駅~十人坂~西所沢駅は省略)

  鎌倉坂・大和田の坂は、「新座市の坂-6・所沢市の坂-1」に記載

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0944_2十人坂(坂下方向) 久米の所沢高校と所沢中央自動車教習所の間を南西に、「じゅうにん坂」交差点へ下る。《地図

坂名の由来は、①この坂で十人の武士が切腹した。②昔、十人の落武者がここで割腹した。③伊勢参宮の者が帰途、十人がここで病気をした。『埼玉県伝説集成 上』

Img_0946_2坂の途中に並ぶ10体の石仏

かなり風化している。全部同時期に建てられたのではないようだ。
坂下は「じゅうにん坂」交差点。

Img_0950_2坂下近くから坂上方向

坂下は「じゅうにん坂」交差点。

Img_0959_2永源寺(久米1342)

右の小堂は延命・子育地蔵尊

Img_0954 庚申塔(永源寺境内)

安永2年(1773)の建立

Img_0956由来

Img_0963 大石信重墓塔

永源寺の開基で、武蔵・伊豆の守護代。滝の城を築城したのは大石氏。羽村市の遠江坂 の大石遠江守は大石信重のことか?

Img_0960 説明板

Img_0965_2弁財天堂

Img_0964 説明板

Img_0970_2七曲坂(坂上から) 城の滝の城址公園の西側に沿って曲がりながら北方向に上る。 【ルート地図】の①

『新編武蔵風土記稿』に、「城跡の西に沿いて屈曲せる坂なり。その曲折七段あり。故にかく呼べり。」とある。今は7つは曲がっていない。左は城山神社の石柱。この坂は、『埼玉の伝説集成』では、「七廻り坂」とし、馬塚という親石、子石が二つ並んで建っている下の坂で、この馬塚を拝まないで坂で転ぶと、片袖を馬塚に上げなければならなかったという。馬塚らしき物は見つからず、七曲坂とは別の坂のことを言っているのだろうか?

Img_0973_2 坂上方向

右の小さな石柱は豊臣秀吉の家来の浅野長政が滝の城を攻めた時の伝説の「血の出る松の跡」(写真)。

Img_0975 坂下方向

正面右は稲荷社

Img_0971_2 滝の城跡見取り図

右下の現在地の右側の曲がりくねった道が七曲坂。

Img_0994 滝の城本丸跡 【ルート地図】の②

戦国時代に武蔵国の多摩・入間・高麗郡を支配した大石氏が築城。その後、北条氏照の滝山城の支城となった。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際に落城した。平山城式で、別名を本郷城という。

Img_0992 説明板

Img_0995 城山神社

本丸跡の向い側、滝の城の櫓台跡の上に建つ。

Img_0998 本丸跡から

滝の城址公園、柳瀬川とJR武蔵野線

Img_0999 空堀跡

Img_1006石仏たち

Img_1009滝の城址公園の池

Img_1010 滝跡(池の反対側) 【ルート地図】の③

滝の城の由来となった滝だろう。本丸の北東側あたり。今でも少し水がある。

Img_1012 東坂①(坂上方向) 城の関越自動車道の南西側に沿って北西に上る坂。《地図

Img_1017 坂下方向

Img_1021 東坂②(坂上方向) 城の東川の南側の坂。《地図

Img_1023坂下方向

左下は東川、正面は埼玉コープセンターで右に迂回して下っている。

『新編武蔵風土記稿』には、「(城)村の東にあるわずかな坂」とある。このあたりは関越自動車道の開通で昔とはかなり道筋なども変わってしまっているだろうから、東坂①②とも違っているかもしれない。

Img_1024城下橋から東川 

Img_1025 東光寺(坂之下388)

北条氏照が滝の城の北東に鬼門除けとして建てた。廃城後の慶長5年(1600)ここに移された。

Img_1026 藤森稲荷神社(坂之下172)

Img_1027 稲荷坂?(坂上方向) 藤森神社前を南西に上る。左手前が稲荷神社の石柱。《地図

『新編武蔵風土記稿』の稲荷坂は、「(坂之下村)の西の方なり。北より南に下る坂」で、ここの坂は坂之下の中央あたりで、北には上っていない。記稿の「稲荷坂」ではないだろう。

Img_1043 赤坂?根岸坂?(坂下から) 坂之下413と416の間をカーブして北方向に上る。《地図》 坂上は国道463号

両方とも『新編武蔵風土記稿』の「坂下村」ある坂。根岸坂は(村の東の方、北より南に下る」とある。この坂は今でも細く曲がった薄暗い坂で、昔は赤土の急坂ではなかっただろうか。とすれば赤坂かも。

Img_1049 坂上近く 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2007年12月 | トップページ | 2008年2月 »