長崎市の坂-6
2008年2月12日
築町電停(長崎電気軌道)・・・日浦地蔵・・・館内の坂(唐人屋敷通り)・・・海星学園・・・ばってん坂・・・誠考院・オランダ坂②(ジョーコインの坂)・・・石橋電停・・・吉原坂(右の写真)・・・大浦小学校・・・遍照院・・・五十段坂・・・大浦小グランド・・・無名の石段坂・・・石橋電停近く・・・ゆうれい坂②・・・吉原坂・・・大浦石橋通り・・・亀の子坂・・・二本松神社・・・鍋冠山(169m)・・・県道237号(小ケ倉田上線)・・・星取橋・まるい坂・・・愛宕自動車学校・・・県道237号・・・南が丘交番・・・万年坂・・・県道237号・・・長崎南高校・地獄坂①・・・ピントコ坂・傾城塚・愛八の墓・・八剣神社・・・高島秋帆旧宅下・・・正覚寺・・・正覚寺下電停
昨日の夜、長崎ランタンフェスティバルを見ながら歩いた館内の坂からの坂道散歩。
館内の坂の坂上近くから細く入り組んだ道を迷いながら、なんとか海星学園沿いの広い通りへたどり着く。ここは1月に来たことがあるので一安心。海星学園沿いにばってん坂の石段を下る。この坂をどんどん下って行くと誠考院の脇を通り、オランダ坂②(ジョーコインの坂)の坂下近くへ出た。
吉原坂、ゆうれい坂②は石橋電停近くから上る石段坂で、吉原坂は五十段坂へと続いている。このあたりも細い道が何本も通っていて初めての者には分かりにくい。五十段坂の坂上近くからゆうれい坂②らしき石段に見当をつけて下ってみた。坂下の大浦石橋通りまで下りたが、ゆうれい坂②なのかはっきりしない。どうも違う感じだ。通りを行ったり来たりして、やっとゆうれい坂②への入り口を見つけた。私道でよそ者が通れば怪しまれそうで普段なら通るのをためらうが、何度も来るわけににもいかないので上り始める。細くて急で家々の玄関前を通り曲がって上る何ともすごい石段坂だ。家の間の狭い路地を抜けたら吉原坂の途中に出た。上の写真の少し下あたりだ。
同じ道を下り返すのはやめて吉原坂を下り、大浦石橋通りから亀の子坂に向う。この坂は普通の車道の坂だが長い坂で途中から急になり、二本松神社まで上っている。神社といっても小さな社だが。ここから鍋冠山は近い。
鍋冠山は夜景スポットの一つで、昼間でも長崎市街、長崎港、稲佐山方向の展望がなかなかのもの。今日は寒く風も強いので早々に引き返し、二本松神社の所から県道237号に入る。時々左側の展望が開ける道を進み、星取橋の所からまるい坂の途中に入り上る。この坂は愛宕自動車学校の教習用の道路で歩いている人はいないが。県道237号に戻って南が丘交番の脇から万年坂を上る。この坂もけっこう急な長い坂で、坂上を行くと愛宕自動車学校の方へと続いているようだ。坂下へ戻り、県道237号から長崎南高校の方へ入ると急な地獄坂①が下っている。地獄坂①の坂上を少し行くと道が二股に分かれる所に石仏が並び、ピントコ坂が北方向に下っている。下には長崎出島道路のオランダ坂トンネルが貫通している。この坂には面白い由来話が残っている(後述)。 ピントコ坂は茂木街道の道筋で、途中に坂名の由来話にゆかりの傾城塚やライオンの塔、愛八の墓などがあり、八剣神社から正覚寺の前の茂木街道の始点まで続いている。ここから正覚下電停はすぐそこだ。
*オランダ坂②は「長崎市の坂-3」に記載。
【地図】
写真をクリックすると拡大します。
このあたりは江戸時代は日浦海岸。ここから稲佐の方に日が落ちるのが見えたという。
館内の坂(坂上方向) 館内町を南東に上る唐人屋敷通り。《地図》
長崎ランタンフェスティバルの提灯がかかる。
観世音菩薩と関帝をまつる。
唐人屋敷空堀跡(館内の坂の坂上近くで、唐人屋敷街の南西隅あたり)
現在は水路として使用されている。
ばってん坂(坂下方向) 東山手町5の海星学園と13の間を南西に下る石段。
右は海星学園
坂の中程にある家の宮崎さんが設置。
ばってん坂をさらに下るとオランダ坂②(ジョーコインの坂)に突当たる。(正面の右から左へ下る急坂)
右の石垣が誠考院。正面は東山手用風住宅群の建物。
吉原坂の坂下 石橋電停そばの大浦石橋通りの佐々木歯科の脇から南東方向に大浦小学校へ上る石段。右の建物(佐々木歯科だろう)に大浦小学校への標識が掛かっている。
坂名の由来不明。「葭原」・「葦原」とも。
もとは「北大浦小学校」
グラバースカイロードと垂直エレベーターが見える。
吉原坂の坂上で、五十段坂へとさらに上って行く。
五十段坂(坂上方向) 東山町13と14の間を南東に上る石段。 《地図》
石段が下から13段、5段、50段。吉原坂の坂上からさらに上る坂。
正面に長崎港が見える。
ゆうれい坂②への入口 大浦石橋通りの福島ビル(写真左側のビル・大浦東町1?)の脇を入って曲がりながら大浦小学校の方へ上る石段。
ビルの間の細い道を入って左に曲がって石段を上って行く。私道だが大浦小への近道で通られているという。
ここで右に曲がって上る。手前は家の玄関。
急で踏み面が狭く上り下りづらく、ゆうれいが出そうな坂というより、上り下りが「怖い」ことから名づけられたという。夜や雨の時は通れそうもない坂だ。
下るのも大変な石段だ、
亀の子坂(坂上方向) 出雲1丁目と2丁目の間をカーブして北から南方向に上る。《地図》
昔は滑り止めの亀の形をした石敷きの坂だったという。正面奥で左に急カーブして上る。
鍋冠山展望台から長崎港
夜景スポットの一つ。
まるい坂(正面のS字に上って行く坂) 星取1-1のあたご(愛宕)自動車学校から県道237号の下を通り、大平橋バス停まで北方向に下る。手前は県道237号。写真の上の方が愛宕自動車学校。
平成4年に路上教習用に開通した私道。カーブが多いことと、「互譲の心」から「まるい」坂と名づけられた。
正面は県道237号
坂上は愛宕自動車学校
斜面にぎっしり建物が貼り付いて上っている。(県道237号から)
万年坂(坂上方向) 南が丘交番の脇から南が丘町と八景町の間を南東に上る。《地図》
急坂で亀の形の滑り止めがしてある。鶴は千年、亀は「万年」から。
地獄坂①(坂上から) 長崎南高校の東側から上小島4丁目と5丁目の間を東に下る。 《地図》
地獄のような急坂ということから。
ピントコ坂(坂上から) 上小島4-6と4-7の間から北西に正覚寺の前まで下る坂。茂木街道の道筋。 別名を傾城坂・花魁(おいらん)坂。
元禄3年(1690)、明国の商人の何旻徳(カピントク)が贋金造りの疑いで、木駄の原の刑場で処刑された。愛人の丸山遊郭筑後屋の遊女、阿登倭(おとわ)は、旻徳の遺体をもらい受け、坂の際に葬り、その墓前で後を追い自害したという。旻徳の罪は阿登倭に横恋慕する役人の讒言によるもので、「無実」だったともいう。坂の途中の墓地に二人の墓という「傾城塚」がある。『長崎文化 №41』
かつては松尾公園入口付近にあった。
愛八の墓(ピントコ坂の途中、傾城塚より坂下の所)
丸山の名妓、本名松尾サダ(1874~1933)。長崎の代表的な民謡「ぶらぶら節」と「浜節」のレコードを出し世に広めた。なかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」の主人公。
キリシタン全盛期の慶長9年(1604)に長崎奉行の助力で建てられた寺。「茂木街道ここに始まる」の石柱。江戸時代、長崎主要六口の一つ。
茂木街道ルート
ピントコ坂から田上、茂木港へ。
八剣神社、ピントコ坂へと続く。
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コメント
探しましたがお尋ねの写真、資料などはありませんでした。悪しからず。
投稿: モリヒロ様へ(坂道散歩) | 2011年6月16日 (木) 07:08
初めておじゃまします。 ご存知のように桜町に変更されるまでは
小川町という電停名でしたが、地元では自治会も諏訪神社の
登録も古地図も「こがわまち」が正しいと認識されているのに、
何故か長崎電気軌道さんの運転士の間では「おがわまち」と認識
されていたようで、そのせいか「おがわまち」という誤った
町名が広まり、今では「おがわまち」が正しいと思う人が
多いようです。 それで証拠として小川町電停に
「おがわまち」「OGAWA-MACHI」と併記されている名標の
写真を誰かお持ちではないか探しております。 また長崎電気
軌道さんの印刷物でそのように併記されてあるものでも
結構なのですが、お持ちではないでしょうか。 いろいろな
HPを閲覧して探しておりますがまだ見つかりません。
何かご存知でしたらお知らせいただければ幸甚です。
突然の問い合わせで申し訳ございません。 失礼いたしました。 草々
投稿: モリヒロ | 2011年6月15日 (水) 19:08