« 長崎市の坂-6 | トップページ | 長崎市の坂-8 »

2008年2月13日 (水)

長崎市の坂-7

2008年2月13日

Img_3083_2 蛍茶屋電停(長崎電気軌道)・・・旧長崎街道・・・蛍茶屋跡・一の瀬橋・馬落し坂・・・(国道34号)・・・庄現坂・渡鳥塚・・・聖母の騎士修道院・・・日見新道・・・ざぼん坂・・・英彦山不動院・・・善覚寺・・・日見峠・地震石神神社・関所跡・・・旧長崎街道・日見の七曲り・・・芒(すすき)塚・・・金倉寺・・・稲荷社・・・岩這薬師堂(歯痛観音)・・・三国屋橋(日見川)・・・日見宿跡・・・腹切坂①・国道34号・・・市営宿町第3団地・境界標石・腹切坂②(上の写真)・・・網場道バス停→蛍茶屋・・・旧長崎街道・・・トロトロ坂・・・シーボルト通り・・・頼朝坂・・・シーボルト通り・・・市役所通り・・・囁き坂上・・・市立図書館・・・長崎駅

 一の瀬橋の蛍茶屋跡から馬落し坂、庄現坂と旧長崎街道を進み、聖母の騎士教会下あたりから日見新道に入る。ゆるやかに上る道で、途中、右に上るざぼん坂、意外に小さな英彦山不動院、境内に多くの不動明王像が立つ善覚寺を過ぎると日見峠は近い。地震石神神社から日見峠関所跡を通り下って、日見新道との合流点からすぐの旧長崎街道の日見の七曲りを下る。芒塚を過ぎ、県道116号を渡ると人家の間の道となってさらに下って行く。道沿いに歯痛観音の堂や石仏などが並ぶ昔の面影を残す道だ。

 日見川の三国橋を渡って日見宿に入る。宿と言っても長崎市街からは近く、矢上宿もすぐ先で大きな宿場ではなかったようだ。江戸時代には矢上宿の次ぎの永昌宿(諫早)までが1日の行程だった。腹切坂には二つの由来話がある(後述)。どちらも武士の切腹の話で、武士の面目とか責任の取り方、形式張った武家社会の有様を伝える話だ。腹切坂の道筋も二つ考えられる。ただ新しい道路や住宅の建築で昔の道筋は大きく変えられているようだが。今はこのあたりは切腹なんて血生臭いことからはほど遠い明るい住宅街が広がっている。腹切は切腹ではなく、山の中腹を切って通した坂というのが本当かも。なんだか味気ない由来話になってしまうが。

 帰りは網場道バス停からバスに乗る。日見トンネルを通って10分足らずで蛍茶屋に着いた。文明の利器は恐ろしい。旧長崎街道に入り、トロトロ坂で古橋を渡り、シーボルト邸跡への道へ入り頼朝坂を上る。ただし、源頼朝が通ったという言い伝えも、道筋もはっきりとはしない坂だ。シーボルト通りへ戻り、諏訪神社下の馬町交差点から市役所通りに入り新しい市立図書館に寄ってみた。

 トロトロ坂は「長崎市の坂-4」、囁き坂は「長崎市の坂-2」に記載。

 ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2901 一の瀬橋

旧長崎街道の蛍茶屋があった所。馬落し坂の坂下。

Img_2902 説明板

Img_2896 蛍茶屋跡碑

旅人歓送迎用の茶屋があった。ここあたりは蛍の名所だった。

Img_2897 説明板

Img_2894 馬落し坂(坂上方向) 一の瀬橋から北東に上る旧長崎街道。 【ルート地図】の①

馬が崖下に転げ落ちるような急坂だった。庄現坂へと続いていた。今は国道34号を横断するか、地下道でくぐって行く。

Img_2891 坂沿いの石仏

かつては坂下近くにあったという。右上は国道34号。

Img_2890坂下方向

Img_2906 庄現坂(坂上方向) 馬落し坂から続く旧長崎街道の坂。《地図

このあたりを庄現といい、老樹「庄現桜」があったという。

Img_2905 坂下方向

Img_2909 渡鳥塚(句碑) (右端)

芭蕉の門人たちが建てた芭蕉と向井去来の句碑。

Img_2907 説明板

Img_2908 句の説明板

Img_2910 地蔵の小堂

Img_2911 子育地蔵か

Img_2912 坂下方向

右に渡鳥塚、左に地蔵の小堂

Img_2916 聖母の騎士修道院(聖母の騎士社)(本河内2-2)

Img_2922ざぼん坂 日見新道から本川内町3-9と3-13の間を南に上る石段。【ルート地図】の②

Img_2924 ざぼん坂(坂上方向)

右にざぼんの木

Img_2933 本河内高部水源池

Img_2936 日見新道

明治15年完成の日本初の有料道路。

Img_2937 英彦山不動院(本河内3-28)

長崎四国八十八ケ所霊場第34番札所。

Img_2951 善覚寺境内(本河内3-45)

Img_2946 一心不動の滝(跡)か

Img_2953 新茶屋跡碑

日見新道(明治新道)ができた時の茶屋。

Img_2954 日見峠への道標

Img_2965 日見峠へ上る

Img_2968 地震石神神社、右は稲荷社。

Img_2967 神社石段下の道を上る。

日見峠の頂上へは反対方向に進むようだ。稲佐山が見える所があるらしい。

Img_2971 やがて下りとなる。

Img_2963 日見峠関所跡

関所は常時設置されてはいなかったそうだ。

Img_2959 関所跡から下った日見新道との合流点

「明治新道」の道標

Img_2957 道標の前から明治新道(長崎市街方向)

右上が日見峠

Img_2962_2道脇の湧き水を飲んで日見の七曲りへ。

Img_2977 日見の七曲り(日見新道から分かれて下る所) 日見峠下から日見宿の方へ下る旧長崎街道。【ルート地図】の③

Img_2990 坂下方向

右上は長崎自動車道

Img_2996 芒(すすき)塚

向井去来の句碑 「君が手も まじるなるべし 花薄」

Img_2995 説明板

Img_3009 梨の木茶屋跡(芒塚の下)

日見トンネルの出口が近い。

Img_3006 日見トンネル

Img_3004 説明板

Img_3016 日見宿の方へさらに下る旧長崎街道

Img_3029 長崎四国八十八ケ所霊場第七十六番金倉寺(左側)

Img_3026 中央が薬師如来?

Img_3031 石灯籠

左側が崩れかけている。後ろの日見川の手すりに長崎街道の標識。

Img_3037 第六番岩這薬師堂

Img_3039 歯痛観音(薬師堂内)

片手を頬にあてて瞑想する姿が歯の痛さを押さえているように見えるから。

Img_3047 旧長崎街道

三国屋橋を渡った所から振り返る。

Img_3051 旧家

祇園橋の所

Img_3056 日見宿跡あたり

右角に「日見の宿跡」の石柱

Img_3055 説明板

Img_3058 腹切坂① 宿町25と51の間を北東に上り、網場入口交差点で国道34号を渡り、市営宿町団地の方へ上る。(写真は国道34号の網場入口交差点までの坂) 【ルート地図】の④

Img_3062 腹切坂碑(右端)など

網場交差点脇の国道34号の「網場道」バス停の所。

Img_3065 腹切坂碑

Img_3060 腹切坂①の由来

切腹した武士の墓は矢上の教宗寺にある。もう一つの由来話がある。それの(腹切坂②)の位置は別の所。

Img_3061 腹切坂の図

右手に海を見て上っている。

Img_3095 網場入口交差点を越えてさらに上る腹切坂①

この坂の途中から左へ石段となって上っている。

Img_3103坂下方向

正面は国道34号で、腹切坂碑などが立つ。

Img_3066_3 さらに上る旧長崎街道の道筋。これも腹切坂①に含まれるだろう。左下に「長崎街道」の標示。住宅の造成で道筋や形も変わっているだろうが。

石段上近くが佐嘉領との境で、腹切坂②となって矢上宿の方へ下る。昔は右手に海が見えたのだろう。今は市営宿町団地の住宅が立ち並ぶ。

Img_3100 石段をさらに下った所からは今でも海が見える。

Img_3069 腹切坂②の坂上 市営宿町第3住宅の北側から北東に下る旧長崎街道。【ルート地図】の⑤

手前の石柱が日見領と佐賀領との境界石 日見側(写真で見える面)に、「彼杵郡之内日見領」・矢上側(裏側)に、「従是佐嘉領」と刻まれている。

文化5年(1808)に長崎に来港した英国軍艦フェートン号事件で、長崎奉行松平図書守康英は責任を取って切腹した。警備担当だった佐嘉藩も責任を問われ、藩主が百日の逼塞、深堀豊前、鍋島主水たち聞役、物頭など7人は切腹を命ぜられた。この報告に向った早田助平ら17名は、佐嘉領矢上に入ったこの坂で追い腹を切ったという。『長崎街道を行く』から。この由来話からすれば腹切坂②は佐嘉領に入ったこの坂ということになる。 ただし、この境石も元の位置から離れて移設されていれば坂の位置も違ってくるが。

Img_3076坂下方向

矢上宿の方へ下って行く

Img_3078 坂上方向

Img_3125 頼朝坂(坂下から) 鳴滝1-1と1-7の間を西から北方向に上る。《地図》 

源頼朝が通ったという伝承があるようだが、頼朝が長崎に来たという話は聞いたことがない。

正面の桜ケ丘幼稚園の所で右にカーブする。

Img_3118 坂上方向

Img_3112 坂下方向

|

« 長崎市の坂-6 | トップページ | 長崎市の坂-8 »

「旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/161343/40228281

この記事へのトラックバック一覧です: 長崎市の坂-7:

« 長崎市の坂-6 | トップページ | 長崎市の坂-8 »