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2008年2月28日 (木)

常陸太田市(茨城県)の坂

2008年2月28日

Img_3342 常陸太田駅(JR水郡線)・・・木崎の坂・梅照院・・・竹下坂・滝の井・・・下井戸坂(右の写真)・下井水神宮・・・別雷神社・・・杉本坂・遍照寺・山田神社・・・源氏川・太田ニ高・十王坂(だいこん坂)・・・郷土資料館分館・郷土資料館(梅津会館)・・・秋葉神社・・・坂谷稲荷・板谷(ばんや)坂・真福寺・・・塙坂・東坂分岐・塙(はなわ)坂・・・浄光寺・・・東坂・・・古刀比羅神社・・・愛宕神社・・・こじき(乞食)坂・・・真渕坂・・・観音坂①・・・馬場八幡宮・・・太田稲荷・・・太田一高・・・帰願寺・・・宮本町交差点・・・乱波(らっぱ)坂・・・舞鶴(太田)城址(太田小学校)・・・進徳幼稚園・ヨネビシ醤油・・・東の辻(塙坂の坂上)・・・板谷坂・・・めひこ坂・・・観音坂②・・・常陸太田駅

 日本武尊が東征の折、この地が海に浮かぶ鯨のように見えたことから鯨ケ丘と名づけたという常陸太田市の「鯨ケ丘七坂」を中心とした坂道散歩です。
 常陸太田市は佐竹氏の時代から交通の要衝として栄え、佐竹氏が秋田に国替えとなった後も徳川水戸家の重要な地域だった。西方には「黄門様」こと水戸光圀が隠居して大日本史を編纂した西山荘がある。鯨の背中のような鯨ケ丘の街は江戸時代から昭和初期まで商業の集積地として繁栄し、今も蔵造りの商家、土蔵などが並び昔の面影を残している。

 初めて乗った水郡線(水戸←→郡山)を上菅谷で乗り換え、終点の常陸太田駅へ。駅から北へ鯨ケ丘へ上るのが木崎の坂で、鯨ケ丘から西へ下井戸坂、杉本坂、十王坂が下り、東へ板谷坂、塙坂、東坂が下っている。以上の7つが鯨ケ丘七坂と呼ばれる坂で、段丘の間から流れる湧き水の「太田七井」があった。今も七坂はあるが、七井はいくつか残っているだけのようだ。

 下井戸坂には昔ながらの家並みが残り、杉本坂は直線のみごとな急坂。十王坂には、「飴屋の幽霊」と同じような「だんご屋の幽霊」伝説が伝わる坂だが、今は「だいこん(大根)坂」として親しまれているようだ。真っ直ぐな石畳のきれいな坂で気持ちがいい。板谷(ばんや)坂は日立方面への古街道で、番屋があったともいう。塙坂も「塩の道」と呼ばれた重要な古道の道筋だった。東坂は新しく開かれた坂で東側の眺めがいい。どの坂も車の往来も少なく歩きやすく昔風情が残っている。

 太田一高近くからこじき坂への道をなんとか見つける。小さな細い坂だがそれなりのいわれのある古い坂だ。坂上を行くと真渕坂の坂上近くに出る。真渕坂の坂下近くから観音坂①を上り返す。この坂も途中に馬頭観音などが残る旧棚倉街道の坂だ。坂上から馬場八幡宮まで足を伸ばし、小さな太田稲荷から太田一高沿いに学校の西側に出る。このあたりから入って西に下るのが乱波坂だが道筋がはっきりしない。住宅の間を抜けると道が途切れて荒地で崖のようになっている。大回りして帰願寺の前の道から宮本交差点に出て坂下からの上り口を探すことにした。やっと工事中の小屋やダンプ、重機が置いてある所に未舗装の細い道が草に覆われてカーブして上っているのを見つけた。工事中のようだし、今は通られている風でもなく、これが乱波坂とは自信がなかったがかまわず上ってみる。坂上からは住宅の間の道につながっていて間違いなし。さっき坂上近くまで来た道だった。乱波(らっぱ)とは忍者のこと、忍び者にゆかりの坂に出会ったのは初めてだ。何の工事をしているか分からなかったが折角の坂を残してほしいものだ。

 だいぶ時間を食ったが鯨ケ丘の中心部へ戻り、板谷坂を下り観音坂②を探す。木崎の坂の方へ上っていく白い手すりのついた坂を見つけた。これが観音坂②だろうと思い坂下に行くと、案の定古い板の案内板が立っている。やっぱりこの坂だと読み始めたら「めひこ坂」とある。観音坂②の別名でもなさそうだ。「めひこ坂」は『おおた坂物語』にも載っていない坂で、鯨が丘には名前のついている坂が13あると聞いていたが、この坂は14番目の坂で嬉しくなった。坂上の木崎の坂を少し下った所から入って観音坂②を下り常陸太田駅に戻った。予定より一時間ほど遅い一本あとの電車になったが、歩きがいと収穫のあった1日だった。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_3319 木崎の坂(坂上方向・右方向に上る坂) 常陸太田駅の北側から北西に鯨ケ丘に上る国道293号。 【ルート地図】の①

江戸時代、木崎は大樹が鬱蒼と茂る山で木崎山といわれ水戸藩のお留山だった。人々は山麓の小路を迂回して通行したという。頂上には木戸を設けて、出入りする者を厳しく取締まったという。明治初期頃に木崎山を掘りくずしてこの坂が開通したらしい。『おおた坂物語』より

鯨ケ丘七坂」の一つ。正面右奥は梅照院の屋根。

Img_3322_2 木崎の坂【坂標】

Img_3323 説明文

「滝の井」は一段下の竹下坂の途中近くにある。

Img_3331 坂上方向

Img_3543 「竹下坂」説明板

Img_3554 竹下坂(坂下から) 「福祉会館入口」バス停そばから曲がりながら北東に木崎の坂の途中に上る。《地図

正面電柱の所から上る。

Img_3544 坂上方向

坂上で木崎の坂の途中に出る。

Img_3548 坂下方向

Img_3549「滝の井」だろう

坂途中で左に入った所。「太田七井」の一つ。江戸時代の鋳銭座や、大正時代の製糸工場にも利用された。

Img_3334 下井戸坂【坂標】

Img_3335_2 説明文

Img_3348 下井戸坂(坂下方向) 木崎の坂の坂上の三叉路から南西に下る県道日立笠間線《地図》 

笠間街道の始点の坂。

Img_3337坂下方向

左側に下井水神宮

Img_3346 下井水神宮

Img_3339 説明板

Img_3345 下井

「太田七井」の一つ。今は涸れている?

Img_3344 坂上方向

Img_3349 別雷神社

下井戸坂の坂上から杉本坂の坂上に向う道沿い。

Img_3350 杉本坂【坂標】

Img_3351 説明文

Img_3353 杉本坂(坂下方向) 遍照寺(西二町)と山田神社の間を東に上る。 《地図

このあたりは明治の中頃までは樹木が鬱蒼と茂り、狐や狸が棲んでいたという。

Img_3357杉本山遍照寺

1294年(永仁2)に開かれた時宗の寺。かつて群馬県大田市から呑竜上人の分身が勧請されたことにより、「太田の呑竜山」と呼ばれ親しまれている。

Img_3362 坂上方向

右側に山田神社。坂上を行くと板谷坂の下りとなる。

Img_3361 山田神社

Img_3367 十王坂【坂標】

Img_3368 説明文

Img_3365 十王坂(坂下から) 太田ニ高交差点から東に上る。  【ルート地図】の②

この坂付近の地名を十王坂といった。坂名が先か、地名が先かは定かでない。別名を「だいこん(大根)坂」。この坂で太田二高へ通学する女学生の足が3年間の上り下りで、大根のように逞しく(太く)なるからとか。入学前から大根足の子は、逆に引き締まった足になるかも。幸か不幸か、登校下校の時間帯でなく、女学生の足は確認できず。そんな時間にこの坂をウロウロしていれば「変なおじさん」がいると交番に通報されるのが落ちだろうが。坂下近くにはNHKTV『小さな旅』に登場した八百屋さんもある。今日も自慢の口笛が聞こえた。

十王坂に伝わる「だんご屋の幽霊」伝説: 「山吹の里」と呼ばれていたこの坂あたりのだんご屋に毎日、日暮れになるとやつれた女がだんごを買いに来た。ある日、だんご屋のあるじはこの女の後をつけて行くと寺が並んでいる寂しい所あたりで女は消えてしまった。するとどこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。その声は墓地の土の中から漏れてくるので掘って見ると、赤ん坊が手足を動かしていた。赤子の母親が幽霊となってだんごを買いに来て、赤子にだんごを食べさせていたのだ。この赤ん坊は生まれながらにして頭髪は真っ白だった。子供に恵まれないだんご屋夫婦はこの子を育てることにした。この子は無事成長し、極楽寺の住職となり、白頭和尚と呼ばれた。その墓は新宿町の極楽寺跡の裏山にあり、白頭和尚入寂塚として今に伝えられている。『おおた坂物語』より 
 この話は各地に残る「飴屋(飴買い)幽霊」伝説の一つ。金沢市には、「あめや(飴屋)坂」(『金沢市の坂-6』に記載)があり、長崎市には「ゆうれい坂」(『長崎市の坂-2』に記載)に同じような話が伝わっている。東京港区の中原街道沿いの光福寺には「ゆうれい地蔵」も同様な話。

Img_3371 坂下方向

正面奥が太田ニ高。その先に水戸光圀の隠居所の西山荘(せいざんそう)」がある。

Img_3379 坂上から

左側は郷土資料館分館

Img_3381 郷土資料館分館(西二町)

もとは銀行の建物だったそうだ。

Img_3382 郷土資料館(梅津会館

分館の隣り

Img_3383 説明板

Img_3504 板谷(ばんや)坂(坂上から) 金井町の板谷坂下交差点から西に上る。 《地図

日立方面へ続く古街道。佐竹氏時代には東方から街へ入る見付になっていて番屋がおかれていたとも。坂下近くに成田山真福寺がある。

Img_3390 坂谷稲荷(板谷坂の坂上から左に入ったところ。)

佐竹氏代々の氏神。正面の扁額には「板」でなく「坂」の字が使われている。

Img_3389 坂谷稲荷から板谷坂の坂下から東の方向

阿武隈連山の風景は「真弓(眉美)千石」と呼ばれていた。

Img_3387 坂柱の裏面の説明文

Img_3396 板谷坂【坂標】

Img_3397 説明文

Img_3399 坂上方向

Img_3401 坂下方向

Img_3403 坂上方向

Img_3406坂下から

右は長山商店

Img_3404 長山商店

日用品・雑貨店

Img_3408 旧家

東坂と塙坂の坂下

Img_3431 東坂(右)・塙坂(左)

近くに太田七井の「金が井」がある。

Img_3413 「塩の道」説明板

塙坂は佐竹氏の時代から太田城(舞鶴城)下と太平洋を結ぶ物資輸送の重要な道。

Img_3412_2塙坂【坂標】の説明文

Img_3415古い【坂標】

Img_3416 説明文

Img_3418 塙坂(坂下方向) 東一町と東二町の間をカーブして北西に上る。坂上を行くと十王坂の下りとなる。 《地図

太田城(舞鶴城)があった頃、東塙、西塙という地名があり、東塙がこの坂を登った浄光寺付近であることからこの名がついたものと思われる。『おおた坂物語』より

Img_3419 坂上方向

Img_3421 坂下方向

Img_3422 坂上近く

Img_3424 浄光寺(塙坂の坂上近く北側)

Img_3433 東坂【坂標】

Img_3434 説明文

Img_3409 東坂(坂上方向) 塙坂の一本東側を北西に上る。 《地図

昭和の初期に作られた坂。東町の坂なのでこう呼ばれているのではないか。『おおた坂物語』より

Img_3427 坂下方向

Img_3436 坂上方向

Img_3437 東側の眺め

これも「真弓(眉美)千石」の眺望だろう。

Img_3430坂下方向

Img_3441 古刀比羅神社(金毘羅神社)

東坂の坂上近く。

Img_3440_2由緒書

Img_3442 人形店

Img_3445 愛宕神社(栄町)

近くに水戸八景の一つ「太田落雁」、太田七井の一つ「観蔵井」がある。

Img_3449 こじき坂の途中へ下る坂

Img_3450 こじき(乞食)坂(坂下方向) 真渕坂の坂上近くから南方向に下る。 【ルート地図】の③

戦国時代から江戸初期にかけて、坂近くの岩穴に住んでいた人たちがいて、この坂を通ったので誰いうとなく「こじき坂」と呼ばれるようになったのだろう。『おおた坂物語』より

Img_3454 途中の地蔵さん

ずっと昔からここに立っているのだろう。顔も磨り減っている。

Img_3455 坂上方向

Img_3457 坂上から

Img_3460 真淵坂(坂下方向) 馬場坂下交差点から南西に上る。 《地図

北側一帯は真渕城(馬場城)の城域だった。昭和3年、県道拡幅工事で再三掘り下げられ、今の真渕坂になった。

Img_3463 坂下方向

Img_3467 観音坂① (調整池の向う正面に見える坂)馬場町の馬場共同墓地の北側を北西に上る。《地図

棚倉街道の坂で、大中、棚倉を抜けて奥州に向う古道。坂の北側一帯は南北朝時代に佐竹氏が築城した真渕城(馬場城)で、馬場八幡宮の中宮寺として観音寺があったといわれている。水戸光圀もこの坂を通って瑞竜山地図)にある水戸家の墓所に詣でたという。『おおた坂物語』より 城主馬場政忠は佐竹氏に従い秋田に移ったが、子の政直は当地に残り、慶長7年(1602)に車丹波たちと水戸城奪還を企てて処刑された。

Img_3464 「瑞龍山道」道標

真渕坂の坂下近く。 

Img_3468 観音坂①(坂上方向)

Img_3470坂下方向

Img_3472 坂の途中の馬頭観音など

Img_3471 坂上方向

Img_3479 馬場八幡宮(馬場町)

Img_3480 由緒書

Img_3483 太田稲荷(太田一高のグランドの東側)

太田一高(旧制太田中学)の講堂は国指定重要文化財)

Img_3487 帰願寺(馬場町)

Img_3488 乱波(らっぱ)坂(坂上方向) 太田一高の西側から入り、西に下る未舗装の坂。【ルート地図】④

乱波とは戦国時代に各地に見られた忍者のこと。太田一高あたりが佐竹氏の「北郭」で、佐竹氏にも「忍者」がいたことの証拠がこの坂名の起こりかもしれない。すっかり忘れられてしまった坂だが、ひと昔前は旧制太田中学校の生徒や、新宿や増井に行く人々の近道として利用されていた。『おおた坂物語』より

Img_3490 坂下方向

Img_3491 坂上方向

Img_3492 坂上近く

Img_3494 坂上を行くと太田一高の西側に塀に突当たる。

Img_3497 進徳幼稚園(内堀町)

洒落た建物で幼稚園とは意外だった。北側の太田小学校の一帯は舞鶴城址。内堀町も城に由来する町名だろう。

Img_3499ヨネビシ醤油(内堀町2365)

Img_3501 東の辻(塙坂の坂上)

休憩所みたいになっている。右側の通りを行けば十王坂の坂上に出る。

Img_3500

Img_3502 「鯨ケ丘の由来」

Img_3517 「めひこ坂」説明板

読みづらいが、「この坂はめひこ坂と言われ崖け下から街中に出る重要な道である。この崖の上には宝光院、地福院、南窓院、修験者の除地があった。大正の初め頃まで坂の北側の窪地に風呂場があり近隣の人達の娯楽場であったと言われている。」 だろうか。「めひこ」の意味が分からない。

Img_3514 めひこ坂 木崎の坂の坂上近くから西方向に下る。観音坂②の北側の坂。 【ルート地図】の⑤

白い手すりがついているところ。今は住宅の間の細い新しい道になっている。

Img_3515 坂上方向

Img_3521 坂下方向

Img_3526 めひこ坂への下り口

木崎の坂の坂上近く。

Img_3539 「観音坂②」説明板

Img_3527 観音坂②への入口 木崎の坂の途中の小林家具の南側から入り、常陸太田変電所と簡易裁判所の間を東方向に下る。《地図

坂上の梅照院境内に、十一面観音堂があった。

Img_3530 坂下方向

Img_3537 坂下から

坂下は中華料理「龍門」の前

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2008年2月14日 (木)

長崎市の坂-8

2008年2月14日

Img_3177 住吉電停(長崎電気軌道)・・・住吉神社・・・かまぼこ坂・・・昭和町通り・・・西浦上中学校・地獄坂②・・・文教通り・・・浦上橋(浦上川)・・・本原通り・・・県道235号・聖フランシスコ病院・・・十字架道(上の写真)・十字架山・・・みどり谷・・・アンジェラス通り・・・浦上天主堂・天主公園・・・サントス通りの坂・如己(にょこ)堂・・・大橋(浦上川)・・・城山小学校・永井坂・平和坂・・・築橋・・・平和公園・原爆落下中心地・・・セントポール通りの坂・・・長崎原爆資料館・・・宿(しゅく)ん坂(時津街道)・・・浜口町電停→長崎駅前

 今回の長崎坂道散歩の最後は浦上方面で、西浦上駅(長崎本線)近くの住吉町電停から南方向に歩いた。十字架道では一本西側の道を上ってしまい民家の敷地内に入ってしまったが、快く通してもらえて坂下まで引き返さずにすんだ。

 浦上天主堂あたりからは被爆関連の所が多く気持ちが重くなりながら、かなりの時間を費やした。セントポール通りの坂を下って、宿ん坂から時津街道(浦上街道)を南に西坂まで歩く予定だったが、宿ん坂で打ち止めにして浜口町電停から電車で長崎駅まで出て長崎空港に向った。全国的に寒波が到来して寒かったようだが、『長崎も今日は寒かった』の4日間だった。

  【ルート地図

 真をクリックすると拡大します。

Img_3134 住吉神社(住吉町13)

石段下の通りは浦上街道(時津街道)

Img_3135 由緒書

Img_3137 かまぼこ坂(西側の坂下から) 花丘町2と3の間を東に上って、下る。 【ルート地図】の①

かまぼこの形のように上り下りすることから。

Img_3141坂上から

かまぼこの表面のようなカーブがあるように見える。

Img_3143 坂上から

東側への下り坂となる。

Img_3146 坂下から

Img_3148 地獄坂②(坂下から) 西浦上中学校の西側から千歳町と家野町の間を西に上る。 【ルート地図】の②

体育系のクラブがこの急坂で上り下りのトレーニングをするので部員は地獄坂と呼んでいる。

Img_3149 坂上から

坂下正面が西浦上中学校

Img_3199十字架道へ 

Img_3194 十字架道(坂上方向) 聖フランシスコ病院前バス停近くから、辻町9と10の間を十字架山へ上る石段。【ルート地図】の③

右の壁に「十字架山登り口」の標識

Img_3173十字架山

キリスト教公式巡礼地

Img_3174 説明板

Img_3175十字架山から坂下方向

Img_3204 みどり谷への坂

下って上りとなる。

Img_3216 浦上天主堂(本尾町1-79)

Img_3217 カトリック長崎大司教館?

Img_3222 サントス通りの坂(坂下方向) 浦上天主堂前の中里橋から北西に上り、南西に大橋の方へ下るサントス通り。《地図

如己堂前あたりから。正面奥は浦上天主堂。姉妹都市のブラジルのサントス市にちなむ通りの名。

Img_3228 如己堂(上野町22、サントス通りの永井記念館の所)

Img_3225 説明板

Img_3235 大橋の方へ下るサントス通りの坂。

Img_3240 浦上川(築橋あたり)

Img_3254 城山小学校(城山町23)の案内図

原爆で児童1400名、教職員31名が犠牲となった。永井坂・平和坂・被爆校舎・被爆のクスノキなどが載っている。

Img_3246 永井坂(坂下方向) 城山小学校正門に上る坂。【ルート地図】の④

永井隆博士にちなむ坂名。

Img_3245城山小学校の生徒の書いた「永井坂」の説明

Img_3266 被爆校舎

一部が保存されている。

Img_3267 被爆校舎の写真

Img_3252 永井坂(坂上方向)

Img_3260 平和坂(坂下から) 城山小学校の北側から校内へ上る坂。《地図

Img_3259 被爆クスノキ

Img_3257 説明板

Img_3263 被爆クスノキと平和坂

Img_3262 坂上から

城山小学校の校内から

Img_3277平和公園(松山町)

平和の泉の間から平和祈念像。

Img_3290 原爆落下中心地

Img_3292 説明板

Img_3298 セントポール通りの坂(平和公園側から坂上方向) 浜口町電停前から北に原爆資料館の方へ上り、平和公園の方へ下るセントポール通り。《地図

姉妹都市のアメリカミネソタ州のセントポール市にちなむ通り。

Img_3306 坂下(浜口町電停)方向

原爆資料館菅前あたりから浜口町電停の方へ下る。

Img_3309 宿ん(しゅくん)坂(坂下から) 平野町11と22の間を北に上る。【ルート地図】の⑤

坂上に時津街道(浦上街道)の平野宿があった。

Img_3312 坂下方向

Img_3316 坂上

平野宿跡らしきものは何も残っていないようだが。

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2008年2月13日 (水)

長崎市の坂-7

2008年2月13日

Img_3083_2 蛍茶屋電停(長崎電気軌道)・・・旧長崎街道・・・蛍茶屋跡・一の瀬橋・馬落し坂・・・(国道34号)・・・庄現坂・渡鳥塚・・・聖母の騎士修道院・・・日見新道・・・ざぼん坂・・・英彦山不動院・・・善覚寺・・・日見峠・地震石神神社・関所跡・・・旧長崎街道・日見の七曲り・・・芒(すすき)塚・・・金倉寺・・・稲荷社・・・岩這薬師堂(歯痛観音)・・・三国屋橋(日見川)・・・日見宿跡・・・腹切坂①・国道34号・・・市営宿町第3団地・境界標石・腹切坂②(上の写真)・・・網場道バス停→蛍茶屋・・・旧長崎街道・・・トロトロ坂・・・シーボルト通り・・・頼朝坂・・・シーボルト通り・・・市役所通り・・・囁き坂上・・・市立図書館・・・長崎駅

 一の瀬橋の蛍茶屋跡から馬落し坂、庄現坂と旧長崎街道を進み、聖母の騎士教会下あたりから日見新道に入る。ゆるやかに上る道で、途中、右に上るざぼん坂、意外に小さな英彦山不動院、境内に多くの不動明王像が立つ善覚寺を過ぎると日見峠は近い。地震石神神社から日見峠関所跡を通り下って、日見新道との合流点からすぐの旧長崎街道の日見の七曲りを下る。芒塚を過ぎ、県道116号を渡ると人家の間の道となってさらに下って行く。道沿いに歯痛観音の堂や石仏などが並ぶ昔の面影を残す道だ。

 日見川の三国橋を渡って日見宿に入る。宿と言っても長崎市街からは近く、矢上宿もすぐ先で大きな宿場ではなかったようだ。江戸時代には矢上宿の次ぎの永昌宿(諫早)までが1日の行程だった。腹切坂には二つの由来話がある(後述)。どちらも武士の切腹の話で、武士の面目とか責任の取り方、形式張った武家社会の有様を伝える話だ。腹切坂の道筋も二つ考えられる。ただ新しい道路や住宅の建築で昔の道筋は大きく変えられているようだが。今はこのあたりは切腹なんて血生臭いことからはほど遠い明るい住宅街が広がっている。腹切は切腹ではなく、山の中腹を切って通した坂というのが本当かも。なんだか味気ない由来話になってしまうが。

 帰りは網場道バス停からバスに乗る。日見トンネルを通って10分足らずで蛍茶屋に着いた。文明の利器は恐ろしい。旧長崎街道に入り、トロトロ坂で古橋を渡り、シーボルト邸跡への道へ入り頼朝坂を上る。ただし、源頼朝が通ったという言い伝えも、道筋もはっきりとはしない坂だ。シーボルト通りへ戻り、諏訪神社下の馬町交差点から市役所通りに入り新しい市立図書館に寄ってみた。

 トロトロ坂は「長崎市の坂-4」、囁き坂は「長崎市の坂-2」に記載。

 ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2901 一の瀬橋

旧長崎街道の蛍茶屋があった所。馬落し坂の坂下。

Img_2902 説明板

Img_2896 蛍茶屋跡碑

旅人歓送迎用の茶屋があった。ここあたりは蛍の名所だった。

Img_2897 説明板

Img_2894 馬落し坂(坂上方向) 一の瀬橋から北東に上る旧長崎街道。 【ルート地図】の①

馬が崖下に転げ落ちるような急坂だった。庄現坂へと続いていた。今は国道34号を横断するか、地下道でくぐって行く。

Img_2891 坂沿いの石仏

かつては坂下近くにあったという。右上は国道34号。

Img_2890坂下方向

Img_2906 庄現坂(坂上方向) 馬落し坂から続く旧長崎街道の坂。《地図

このあたりを庄現といい、老樹「庄現桜」があったという。

Img_2905 坂下方向

Img_2909 渡鳥塚(句碑) (右端)

芭蕉の門人たちが建てた芭蕉と向井去来の句碑。

Img_2907 説明板

Img_2908 句の説明板

Img_2910 地蔵の小堂

Img_2911 子育地蔵か

Img_2912 坂下方向

右に渡鳥塚、左に地蔵の小堂

Img_2916 聖母の騎士修道院(聖母の騎士社)(本河内2-2)

Img_2922ざぼん坂 日見新道から本川内町3-9と3-13の間を南に上る石段。【ルート地図】の②

Img_2924 ざぼん坂(坂上方向)

右にざぼんの木

Img_2933 本河内高部水源池

Img_2936 日見新道

明治15年完成の日本初の有料道路。

Img_2937 英彦山不動院(本河内3-28)

長崎四国八十八ケ所霊場第34番札所。

Img_2951 善覚寺境内(本河内3-45)

Img_2946 一心不動の滝(跡)か

Img_2953 新茶屋跡碑

日見新道(明治新道)ができた時の茶屋。

Img_2954 日見峠への道標

Img_2965 日見峠へ上る

Img_2968 地震石神神社、右は稲荷社。

Img_2967 神社石段下の道を上る。

日見峠の頂上へは反対方向に進むようだ。稲佐山が見える所があるらしい。

Img_2971 やがて下りとなる。

Img_2963 日見峠関所跡

関所は常時設置されてはいなかったそうだ。

Img_2959 関所跡から下った日見新道との合流点

「明治新道」の道標

Img_2957 道標の前から明治新道(長崎市街方向)

右上が日見峠

Img_2962_2道脇の湧き水を飲んで日見の七曲りへ。

Img_2977 日見の七曲り(日見新道から分かれて下る所) 日見峠下から日見宿の方へ下る旧長崎街道。【ルート地図】の③

Img_2990 坂下方向

右上は長崎自動車道

Img_2996 芒(すすき)塚

向井去来の句碑 「君が手も まじるなるべし 花薄」

Img_2995 説明板

Img_3009 梨の木茶屋跡(芒塚の下)

日見トンネルの出口が近い。

Img_3006 日見トンネル

Img_3004 説明板

Img_3016 日見宿の方へさらに下る旧長崎街道

Img_3029 長崎四国八十八ケ所霊場第七十六番金倉寺(左側)

Img_3026 中央が薬師如来?

Img_3031 石灯籠

左側が崩れかけている。後ろの日見川の手すりに長崎街道の標識。

Img_3037 第六番岩這薬師堂

Img_3039 歯痛観音(薬師堂内)

片手を頬にあてて瞑想する姿が歯の痛さを押さえているように見えるから。

Img_3047 旧長崎街道

三国屋橋を渡った所から振り返る。

Img_3051 旧家

祇園橋の所

Img_3056 日見宿跡あたり

右角に「日見の宿跡」の石柱

Img_3055 説明板

Img_3058 腹切坂① 宿町25と51の間を北東に上り、網場入口交差点で国道34号を渡り、市営宿町団地の方へ上る。(写真は国道34号の網場入口交差点までの坂) 【ルート地図】の④

Img_3062 腹切坂碑(右端)など

網場交差点脇の国道34号の「網場道」バス停の所。

Img_3065 腹切坂碑

Img_3060 腹切坂①の由来

切腹した武士の墓は矢上の教宗寺にある。もう一つの由来話がある。それの(腹切坂②)の位置は別の所。

Img_3061 腹切坂の図

右手に海を見て上っている。

Img_3095 網場入口交差点を越えてさらに上る腹切坂①

この坂の途中から左へ石段となって上っている。

Img_3103坂下方向

正面は国道34号で、腹切坂碑などが立つ。

Img_3066_3 さらに上る旧長崎街道の道筋。これも腹切坂①に含まれるだろう。左下に「長崎街道」の標示。住宅の造成で道筋や形も変わっているだろうが。

石段上近くが佐嘉領との境で、腹切坂②となって矢上宿の方へ下る。昔は右手に海が見えたのだろう。今は市営宿町団地の住宅が立ち並ぶ。

Img_3100 石段をさらに下った所からは今でも海が見える。

Img_3069 腹切坂②の坂上 市営宿町第3住宅の北側から北東に下る旧長崎街道。【ルート地図】の⑤

手前の石柱が日見領と佐賀領との境界石 日見側(写真で見える面)に、「彼杵郡之内日見領」・矢上側(裏側)に、「従是佐嘉領」と刻まれている。

文化5年(1808)に長崎に来港した英国軍艦フェートン号事件で、長崎奉行松平図書守康英は責任を取って切腹した。警備担当だった佐嘉藩も責任を問われ、藩主が百日の逼塞、深堀豊前、鍋島主水たち聞役、物頭など7人は切腹を命ぜられた。この報告に向った早田助平ら17名は、佐嘉領矢上に入ったこの坂で追い腹を切ったという。『長崎街道を行く』から。この由来話からすれば腹切坂②は佐嘉領に入ったこの坂ということになる。 ただし、この境石も元の位置から離れて移設されていれば坂の位置も違ってくるが。

Img_3076坂下方向

矢上宿の方へ下って行く

Img_3078 坂上方向

Img_3125 頼朝坂(坂下から) 鳴滝1-1と1-7の間を西から北方向に上る。《地図》 

源頼朝が通ったという伝承があるようだが、頼朝が長崎に来たという話は聞いたことがない。

正面の桜ケ丘幼稚園の所で右にカーブする。

Img_3118 坂上方向

Img_3112 坂下方向

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2008年2月12日 (火)

長崎市の坂-6

2008年2月12日

Img_2659 築町電停(長崎電気軌道)・・・日浦地蔵・・・館内の坂(唐人屋敷通り)・・・海星学園・・・ばってん坂・・・誠考院・オランダ坂②(ジョーコインの坂)・・・石橋電停・・・吉原坂(右の写真)・・・大浦小学校・・・遍照院・・・五十段坂・・・大浦小グランド・・・無名の石段坂・・・石橋電停近く・・・ゆうれい坂②・・・吉原坂・・・大浦石橋通り・・・亀の子坂・・・二本松神社・・・鍋冠山(169m)・・・県道237号(小ケ倉田上線)・・・星取橋・まるい坂・・・愛宕自動車学校・・・県道237号・・・南が丘交番・・・万年坂・・・県道237号・・・長崎南高校・地獄坂①・・・ピントコ坂・傾城塚・愛八の墓・・八剣神社・・・高島秋帆旧宅下・・・正覚寺・・・正覚寺下電停

 昨日の夜、長崎ランタンフェスティバルを見ながら歩いた館内の坂からの坂道散歩。
 館内の坂の坂上近くから細く入り組んだ道を迷いながら、なんとか海星学園沿いの広い通りへたどり着く。ここは1月に来たことがあるので一安心。海星学園沿いにばってん坂の石段を下る。この坂をどんどん下って行くと誠考院の脇を通り、オランダ坂②(ジョーコインの坂)の坂下近くへ出た。

 吉原坂、ゆうれい坂②は石橋電停近くから上る石段坂で、吉原坂は五十段坂へと続いている。このあたりも細い道が何本も通っていて初めての者には分かりにくい。五十段坂の坂上近くからゆうれい坂②らしき石段に見当をつけて下ってみた。坂下の大浦石橋通りまで下りたが、ゆうれい坂②なのかはっきりしない。どうも違う感じだ。通りを行ったり来たりして、やっとゆうれい坂②への入り口を見つけた。私道でよそ者が通れば怪しまれそうで普段なら通るのをためらうが、何度も来るわけににもいかないので上り始める。細くて急で家々の玄関前を通り曲がって上る何ともすごい石段坂だ。家の間の狭い路地を抜けたら吉原坂の途中に出た。上の写真の少し下あたりだ。
 同じ道を下り返すのはやめて吉原坂を下り、大浦石橋通りから亀の子坂に向う。この坂は普通の車道の坂だが長い坂で途中から急になり、二本松神社まで上っている。神社といっても小さな社だが。ここから鍋冠山は近い。

 鍋冠山は夜景スポットの一つで、昼間でも長崎市街、長崎港、稲佐山方向の展望がなかなかのもの。今日は寒く風も強いので早々に引き返し、二本松神社の所から県道237号に入る。時々左側の展望が開ける道を進み、星取橋の所からまるい坂の途中に入り上る。この坂は愛宕自動車学校の教習用の道路で歩いている人はいないが。県道237号に戻って南が丘交番の脇から万年坂を上る。この坂もけっこう急な長い坂で、坂上を行くと愛宕自動車学校の方へと続いているようだ。坂下へ戻り、県道237号から長崎南高校の方へ入ると急な地獄坂①が下っている。地獄坂①の坂上を少し行くと道が二股に分かれる所に石仏が並び、ピントコ坂が北方向に下っている。下には長崎出島道路のオランダ坂トンネルが貫通している。この坂には面白い由来話が残っている(後述)。 ピントコ坂は茂木街道の道筋で、途中に坂名の由来話にゆかりの傾城塚やライオンの塔、愛八の墓などがあり、八剣神社から正覚寺の前の茂木街道の始点まで続いている。ここから正覚下電停はすぐそこだ。

  オランダ坂②は「長崎市の坂-3」に記載。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2564 日浦地蔵尊(銅座橋の南側近く)

このあたりは江戸時代は日浦海岸。ここから稲佐の方に日が落ちるのが見えたという。

Img_2582 館内の坂(坂上方向) 館内町を南東に上る唐人屋敷通り。《地図

長崎ランタンフェスティバルの提灯がかかる。

Img_2589 観音堂(館内町35)

観世音菩薩と関帝をまつる。

Img_2588 説明板

Img_2600 坂下方向

Img_2598 唐人屋敷空堀跡(館内の坂の坂上近くで、唐人屋敷街の南西隅あたり)

現在は水路として使用されている。

Img_2597 説明板

Img_2610 海星学園東側の坂

Img_2615 ばってん坂(坂下方向) 東山手町5の海星学園と13の間を南西に下る石段。【ルート地図】の①

Img_2616 坂下方向

右は海星学園

Img_2620 ばってん坂お休み処

坂の中程にある家の宮崎さんが設置。

Img_2643ばってん坂をさらに下るとオランダ坂①(ジョーコインの坂)に突当たる。(正面の右から左へ下る急坂)

右の石垣が誠考院。正面は東山手用風住宅群の建物。

Img_2646 吉原坂の坂下 石橋電停そばの大浦石橋通りの佐々木歯科の脇から南東方向に大浦小学校へ上る石段。右の建物(佐々木歯科だろう)に大浦小学校への標識が掛かっている。 【ルート地図】の②

坂名の由来不明。「葭原」・「葦原」とも。

Img_2645 「吉原坂登る 約200m」とある。

もとは「大浦小学校」

Img_2654 坂下方向

Img_2658 坂の途中からグラバー園方向

グラバースカイロードと垂直エレベーターが見える。

Img_2666 遍照院の子育地蔵と子安弘法大師

Img_2668 遍照院の前から

吉原坂の坂上で、五十段坂へとさらに上って行く。

Img_2671 五十段坂(坂上方向) 東山町13と14の間を南東に上る石段。 《地図

石段が下から13段、5段、50段。吉原坂の坂上からさらに上る坂。

Img_2675 坂上方向

Img_2676 坂下方向

正面に長崎港が見える。

Img_2684 さらに大浦小のグランドの方へ上って行く。

Img_2677 長崎港・稲佐山方向

Img_2724_2 ゆうれい坂②への入口 大浦石橋通りの福島ビル(写真左側のビル・大浦東町1?)の脇を入って曲がりながら大浦小学校の方へ上る石段。【ルート地図】の③

ビルの間の細い道を入って左に曲がって石段を上って行く。私道だが大浦小への近道で通られているという。

Img_2706 坂上方向

Img_2712 坂下方向

ここで右に曲がって上る。手前は家の玄関。

Img_2716坂上方向

急で踏み面が狭く上り下りづらく、ゆうれいが出そうな坂というより、上り下りが「怖い」ことから名づけられたという。夜や雨の時は通れそうもない坂だ。

Img_2717 坂下方向

下るのも大変な石段だ、

Img_2719 狭い所を上って行く。

Img_2720 ここを抜けると吉原坂の坂上近くに出た。

Img_2733 亀の子坂(坂上方向) 出雲1丁目と2丁目の間をカーブして北から南方向に上る。《地図

昔は滑り止めの亀の形をした石敷きの坂だったという。正面奥で左に急カーブして上る。

Img_2742 坂下方向

Img_2753 二本松神社(亀の子坂の坂上)

Img_2754 鍋冠(なべかんむり)山(正面・169m)は近い

Img_2761

鍋冠山展望台から長崎港

夜景スポットの一つ。

Img_2757水辺公園・旭大橋方向

Img_2759 女神大橋方向

Img_2767 まるい坂(正面のS字に上って行く坂) 星取1-1のあたご(愛宕)自動車学校から県道237号の下を通り、大平橋バス停まで北方向に下る。手前は県道237号。写真の上の方が愛宕自動車学校。 【ルート地図】の④

平成4年に路上教習用に開通した私道。カーブが多いことと、「互譲の心」から「まるい」坂と名づけられた。

Img_2782 坂下方向

正面は県道237号

Img_2780 愛宕自動車学校の看板

Img_2773 坂上方向

坂上は愛宕自動車学校

Img_2784 斜面にぎっしり建物が貼り付いて上っている。(県道237号から)

Img_2786 万年坂(坂上方向) 南が丘交番の脇から南が丘町と八景町の間を南東に上る。《地図

急坂で亀の形の滑り止めがしてある。鶴は千年、亀は「万年」から。

Img_2799坂下方向

Img_2798 坂の途中

Img_2796 坂の途中から

Img_2804 地獄坂の坂上近く

Img_2806 地獄坂①(坂上から) 長崎南高校の東側から上小島4丁目と5丁目の間を東に下る。 《地図

地獄のような急坂ということから。 

Img_2809 坂上方向

Img_2835 ピントコ坂(坂上から) 上小島4-6と4-7の間から北西に正覚寺の前まで下る坂。茂木街道の道筋。 別名を傾城坂・花魁(おいらん)坂。 【ルート地図】の⑤

元禄3年(1690)、明国の商人の何旻徳(カピントク)が贋金造りの疑いで、木駄の原の刑場で処刑された。愛人の丸山遊郭筑後屋の遊女、阿登倭(おとわ)は、旻徳の遺体をもらい受け、坂の際に葬り、その墓前で後を追い自害したという。旻徳の罪は阿登倭に横恋慕する役人の讒言によるもので、「無実」だったともいう。坂の途中の墓地に二人の墓という「傾城塚」がある。『長崎文化 №41』

Img_2833 坂上の石仏

Img_2836説明板

Img_2842 坂の途中の石仏

Img_2847 傾城塚(おいらん塚・唐人塚) (坂の途中の墓地内)

かつては松尾公園入口付近にあった。

Img_2846 説明板

Img_2856 坂下方向

Img_2861 坂上方向

Img_2869 愛八の墓(ピントコ坂の途中、傾城塚より坂下の所)

丸山の名妓、本名松尾サダ(1874~1933)。長崎の代表的な民謡「ぶらぶら節」と「浜節」のレコードを出し世に広めた。なかにし礼の小説「長崎ぶらぶら節」の主人公。

Img_2876 八剣神社

Img_2878 説明板

Img_2888 正覚寺

キリシタン全盛期の慶長9年(1604)に長崎奉行の助力で建てられた寺。「茂木街道ここに始まる」の石柱。江戸時代、長崎主要六口の一つ。

Img_2886茂木街道ルート

ピントコ坂から田上、茂木港へ。

Img_2887 説明板

Img_2889 茂木街道の始点(正覚寺前) 

八剣神社、ピントコ坂へと続く。

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2008年2月11日 (月)

長崎市の坂-5

2008年2月11日

Img_2393_2 長崎駅・・・旭大橋・・・旭町通り・・・ロシア村跡・・・三菱通り・・・恵美須神社・・・変電所の坂・九州電力飽浦変電所・・・三菱通り・・・上の坂(右の写真)・・旭橋・悟真寺前通り・悟真寺・稲佐国際墓地の坂・・・泰三寺・・・弁財神社・・・数字坂・・・椿坂・・・淵神社・桑姫社・長崎ロープウエイ→稲佐山・・・椿坂・・・コンクリート坂・・・稲佐橋・・・県庁坂・・・新地中華街・・・湊公園・長崎ランタンフェスティバル・・・館内の坂(唐人屋敷通り)・土神堂・天后堂・福建会館・・・湊公園

 1月に来た時の長崎は春のような陽気だったが、今回の坂道散歩は冬らしく寒くなるようだ。今日はまださほど寒くはないが。浦上川河口の旭大橋を渡り南に行き、飽の浦のバス停の手前から長崎で車が通れる坂で一番急な坂道という変電所の坂を上る。坂下へ引き返し、二つの銀行の間から長く細い上の坂を上る。小さな流れに沿ってくねくねと曲がりながら家々の間を上って行くと上の坂バス停近くの新道の車道に出る。坂下から旭橋まで来た道を戻り悟真寺へ向う。

 稲佐国際墓地の坂の坂上からの眺めがいい。稲佐小学校そばの数字坂は面白い坂名だが坂自体に面白味はなく、椿坂は今は坂名のような風情はまったくない平凡な坂になっている。椿坂の坂下から淵神社へ入り、ロープウエイで稲佐山展望台へ。自慢の夜景にはまだ早いがけっこうな景色が広がっている。

 コンクリート坂を下って稲佐橋を渡り一休み。長い日もとっぷり暮れた頃、新地中華街から長崎ランタンフェスティバル会場の湊公園へ向う。休日のこともありすごい人出だ。ついでに唐人屋敷通りの館内の坂まで足を伸ばしてみた。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2342 旭大橋から稲佐山

Img_2348 ロシア村跡あたり(旭大橋から旭橋の間の旭町通り沿い)

道永栄(稲佐のお栄)が明治22年頃開業したホテル「ヴェスナ」もこのあたりにあった。「ヴェスナ」とは「春」のこと。

Img_2344 説明板

Img_2351 恵美須神社(飽の浦町)

Img_2360変電所の坂(坂下から) 飽の浦町10と13の間を北方向に上る。 【ルート地図】の①

九州電力が変電所用として建設した私道。

Img_2364坂下方向

坂下正面は三菱重工長崎造船所

Img_2370 坂上は九州電力飽浦変電所。

Img_2385 上の坂(坂上方向) 入船町11の十八銀行と12の新和銀行の間を曲がりながら西方向に上る。【ルート地図】の②

Img_2398坂下方向

Img_2402 坂上近くで新道に出ると「上の坂」バス停が近い。

Img_2414悟真寺山門(赤門) (曙町6)

現存する長崎の最古の寺。稲佐の地名の由来となった豪族、伊奈佐氏の館跡とも伝えられている。

Img_2419 説明板

Img_2428 稲佐国際墓地の坂 《地図

墓地の中央の坂。坂上で稲佐山登山道路へ出る。坂本、大浦とともに長崎の3つの国際墓地の一つ。

Img_2425 説明板

Img_2436 坂下方向

Img_2438 坂上から左へ上る稲佐山登山道路。

Img_2440 右へ泰三寺の方へ下る。

Img_2446 弁財神社(曙町)

「稲佐の弁天さん」

Img_2445 由来書

Img_2453 数字坂(坂下方向) 稲佐町11の稲佐小学校のグランドの北側を北東からカーブして南東に下る。佐下で椿坂の途中に出る。 【ルート地図】の③

この坂を通って通学する旧制県立瓊浦中学校(現在の長崎西高の所にあった)の生徒たちが坂沿いの家の表札に数字がつく名前(たとえば一郎・五右衛門・平八郎など)が多くあることからこう呼び始めたという。『長崎文化 №41』

Img_2455 坂下方向

Img_2456 坂上方向

Img_2459 稲佐小学校

稲佐国民学校があった所。

Img_2514 説明板

Img_2513椿坂 稲佐小学校の前から北西方向に下る。【ルート地図】の④

昔は石畳の情緒ある坂で、坂沿いに沢山の椿が繁り、坂下の御手洗川には「つばき坂橋」が架かっていた。『長崎文化 №41』 今は椿も石畳も「つばき坂橋」もなく、かつての情緒、風情の面影はない。

Img_2463坂下方向

右へ下るのが椿坂、左は数字坂の坂上方向

Img_2469 坂上方向(坂下近くから)

この下に「つばき坂橋」が架かっていたのだろう。今も小さな流れがあるが橋と呼べるものはない。

Img_2474 淵神社(淵町8)

右の大石灯籠は昔は参道前の海中にあったという。

Img_2472 大石灯籠説明板

Img_2473 海中にあった石灯籠の絵図

参道の下まで海が入り込んでいたようだ。

Img_2475 桑姫社(淵神社境内)

キリシタン大名大友宗麟の孫娘で、洗礼名をマキゼンシア。桑を植え養蚕を広め没後、「桑姫君」と呼ばれるようになった。キリシタンを祀る神社として、全国に珍しいという。

Img_2478 説明板

Img_2492稲佐山展望台(340m)から

下は旭大橋(浦上川)、長崎港。函館、神戸と並ぶ日本三大夜景の所だが日暮れまではまだ時間がある。

Img_2495 女神大橋方向

Img_2503 正面右の小高い所は風頭山

Img_2501

Img_2516 コンクリート坂(坂上から) 稲佐町8の稲佐児童公園から北東に稲佐橋の方へ下る。《地図

早くにコンクリートに舗装された坂。

Img_2521 坂下から

正面は稲佐山

Img_2523長崎ランタンフェスティバル 湊公園会場(新地町7)

もとは長崎に住む華人が旧正月を祝う祭りで中華街で行われていた。ランタンは中国提灯のこと。

Img_2540 

Img_2543

Img_2544

Img_2562 館内の坂(坂下から) 館内町を南方向に上る唐人屋敷通り。 【ルート地図】の⑤

Img_2546 土神堂

Img_2575 説明板

Img_2550 天后堂

Img_2585 説明板

Img_2553 館内の坂(坂下方向)

Img_2559 福建会館

Img_2581 説明板

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