常陸太田市(茨城県)の坂
2008年2月28日
常陸太田駅(JR水郡線)・・・木崎の坂・梅照院・・・竹下坂・滝の井・・・下井戸坂(右の写真)・下井水神宮・・・別雷神社・・・杉本坂・遍照寺・山田神社・・・源氏川・太田ニ高・十王坂(だいこん坂)・・・郷土資料館分館・郷土資料館(梅津会館)・・・秋葉神社・・・坂谷稲荷・板谷(ばんや)坂・真福寺・・・塙坂・東坂分岐・塙(はなわ)坂・・・浄光寺・・・東坂・・・古刀比羅神社・・・愛宕神社・・・こじき(乞食)坂・・・真渕坂・・・観音坂①・・・馬場八幡宮・・・太田稲荷・・・太田一高・・・帰願寺・・・宮本町交差点・・・乱波(らっぱ)坂・・・舞鶴(太田)城址(太田小学校)・・・進徳幼稚園・ヨネビシ醤油・・・東の辻(塙坂の坂上)・・・板谷坂・・・めひこ坂・・・観音坂②・・・常陸太田駅
日本武尊が東征の折、この地が海に浮かぶ鯨のように見えたことから鯨ケ丘と名づけたという常陸太田市の「鯨ケ丘七坂」を中心とした坂道散歩です。
常陸太田市は佐竹氏の時代から交通の要衝として栄え、佐竹氏が秋田に国替えとなった後も徳川水戸家の重要な地域だった。西方には「黄門様」こと水戸光圀が隠居して大日本史を編纂した西山荘がある。鯨の背中のような鯨ケ丘の街は江戸時代から昭和初期まで商業の集積地として繁栄し、今も蔵造りの商家、土蔵などが並び昔の面影を残している。
初めて乗った水郡線(水戸←→郡山)を上菅谷で乗り換え、終点の常陸太田駅へ。駅から北へ鯨ケ丘へ上るのが木崎の坂で、鯨ケ丘から西へ下井戸坂、杉本坂、十王坂が下り、東へ板谷坂、塙坂、東坂が下っている。以上の7つが鯨ケ丘七坂と呼ばれる坂で、段丘の間から流れる湧き水の「太田七井」があった。今も七坂はあるが、七井はいくつか残っているだけのようだ。
下井戸坂には昔ながらの家並みが残り、杉本坂は直線のみごとな急坂。十王坂には、「飴屋の幽霊」と同じような「だんご屋の幽霊」伝説が伝わる坂だが、今は「だいこん(大根)坂」として親しまれているようだ。真っ直ぐな石畳のきれいな坂で気持ちがいい。板谷(ばんや)坂は日立方面への古街道で、番屋があったともいう。塙坂も「塩の道」と呼ばれた重要な古道の道筋だった。東坂は新しく開かれた坂で東側の眺めがいい。どの坂も車の往来も少なく歩きやすく昔風情が残っている。
太田一高近くからこじき坂への道をなんとか見つける。小さな細い坂だがそれなりのいわれのある古い坂だ。坂上を行くと真渕坂の坂上近くに出る。真渕坂の坂下近くから観音坂①を上り返す。この坂も途中に馬頭観音などが残る旧棚倉街道の坂だ。坂上から馬場八幡宮まで足を伸ばし、小さな太田稲荷から太田一高沿いに学校の西側に出る。このあたりから入って西に下るのが乱波坂だが道筋がはっきりしない。住宅の間を抜けると道が途切れて荒地で崖のようになっている。大回りして帰願寺の前の道から宮本交差点に出て坂下からの上り口を探すことにした。やっと工事中の小屋やダンプ、重機が置いてある所に未舗装の細い道が草に覆われてカーブして上っているのを見つけた。工事中のようだし、今は通られている風でもなく、これが乱波坂とは自信がなかったがかまわず上ってみる。坂上からは住宅の間の道につながっていて間違いなし。さっき坂上近くまで来た道だった。乱波(らっぱ)とは忍者のこと、忍び者にゆかりの坂に出会ったのは初めてだ。何の工事をしているか分からなかったが折角の坂を残してほしいものだ。
だいぶ時間を食ったが鯨ケ丘の中心部へ戻り、板谷坂を下り観音坂②を探す。木崎の坂の方へ上っていく白い手すりのついた坂を見つけた。これが観音坂②だろうと思い坂下に行くと、案の定古い板の案内板が立っている。やっぱりこの坂だと読み始めたら「めひこ坂」とある。観音坂②の別名でもなさそうだ。「めひこ坂」は『おおた坂物語』にも載っていない坂で、鯨が丘には名前のついている坂が13あると聞いていたが、この坂は14番目の坂で嬉しくなった。坂上の木崎の坂を少し下った所から入って観音坂②を下り常陸太田駅に戻った。予定より一時間ほど遅い一本あとの電車になったが、歩きがいと収穫のあった1日だった。
【地図】
写真をクリックすると拡大します。
木崎の坂(坂上方向・右方向に上る坂) 常陸太田駅の北側から北西に鯨ケ丘に上る国道293号。
江戸時代、木崎は大樹が鬱蒼と茂る山で木崎山といわれ水戸藩のお留山だった。人々は山麓の小路を迂回して通行したという。頂上には木戸を設けて、出入りする者を厳しく取締まったという。明治初期頃に木崎山を掘りくずしてこの坂が開通したらしい。『おおた坂物語』より
「鯨ケ丘七坂」の一つ。正面右奥は梅照院の屋根。
「滝の井」は一段下の竹下坂の途中近くにある。
竹下坂(坂下から) 「福祉会館入口」バス停そばから曲がりながら北東に木崎の坂の途中に上る。《地図》
正面電柱の所から上る。
坂上で木崎の坂の途中に出る。
坂途中で左に入った所。「太田七井」の一つ。江戸時代の鋳銭座や、大正時代の製糸工場にも利用された。
下井戸坂(坂下方向) 木崎の坂の坂上の三叉路から南西に下る県道日立笠間線《地図》
笠間街道の始点の坂。
左側に下井水神宮
「太田七井」の一つ。今は涸れている?
下井戸坂の坂上から杉本坂の坂上に向う道沿い。
杉本坂(坂下方向) 遍照寺(西二町)と山田神社の間を東に上る。 《地図》
このあたりは明治の中頃までは樹木が鬱蒼と茂り、狐や狸が棲んでいたという。
杉本山遍照寺
1294年(永仁2)に開かれた時宗の寺。かつて群馬県大田市から呑竜上人の分身が勧請されたことにより、「太田の呑竜山」と呼ばれ親しまれている。
右側に山田神社。坂上を行くと板谷坂の下りとなる。
この坂付近の地名を十王坂といった。坂名が先か、地名が先かは定かでない。別名を「だいこん(大根)坂」。この坂で太田二高へ通学する女学生の足が3年間の上り下りで、大根のように逞しく(太く)なるからとか。入学前から大根足の子は、逆に引き締まった足になるかも。幸か不幸か、登校下校の時間帯でなく、女学生の足は確認できず。そんな時間にこの坂をウロウロしていれば「変なおじさん」がいると交番に通報されるのが落ちだろうが。坂下近くにはNHKTV『小さな旅』に登場した八百屋さんもある。今日も自慢の口笛が聞こえた。
十王坂に伝わる「だんご屋の幽霊」伝説: 「山吹の里」と呼ばれていたこの坂あたりのだんご屋に毎日、日暮れになるとやつれた女がだんごを買いに来た。ある日、だんご屋のあるじはこの女の後をつけて行くと寺が並んでいる寂しい所あたりで女は消えてしまった。するとどこからともなく赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。その声は墓地の土の中から漏れてくるので掘って見ると、赤ん坊が手足を動かしていた。赤子の母親が幽霊となってだんごを買いに来て、赤子にだんごを食べさせていたのだ。この赤ん坊は生まれながらにして頭髪は真っ白だった。子供に恵まれないだんご屋夫婦はこの子を育てることにした。この子は無事成長し、極楽寺の住職となり、白頭和尚と呼ばれた。その墓は新宿町の極楽寺跡の裏山にあり、白頭和尚入寂塚として今に伝えられている。『おおた坂物語』より
この話は各地に残る「飴屋(飴買い)幽霊」伝説の一つ。金沢市には、「あめや(飴屋)坂」(『金沢市の坂-6』に記載)があり、長崎市には「ゆうれい坂」(『長崎市の坂-2』に記載)に同じような話が伝わっている。東京港区の中原街道沿いの光福寺には「ゆうれい地蔵」も同様な話。落語『幽霊飴』
正面奥が太田ニ高。その先に水戸光圀の隠居所の西山荘(せいざんそう)」がある。
左側は郷土資料館分館
もとは銀行の建物だったそうだ。
郷土資料館(梅津会館)
分館の隣り
板谷(ばんや)坂(坂上から) 金井町の板谷坂下交差点から西に上る。 《地図》
日立方面へ続く古街道。佐竹氏時代には東方から街へ入る見付になっていて番屋がおかれていたとも。坂下近くに成田山真福寺がある。
佐竹氏代々の氏神。正面の扁額には「板」でなく「坂」の字が使われている。
阿武隈連山の風景は「真弓(眉美)千石」と呼ばれていた。
右は長山商店
日用品・雑貨店
東坂と塙坂の坂下
近くに太田七井の「金が井」がある。
塙坂は佐竹氏の時代から太田城(舞鶴城)下と太平洋を結ぶ物資輸送の重要な道。
塙坂(坂下方向) 東一町と東二町の間をカーブして北西に上る。坂上を行くと十王坂の下りとなる。 《地図》
太田城(舞鶴城)があった頃、東塙、西塙という地名があり、東塙がこの坂を登った浄光寺付近であることからこの名がついたものと思われる。『おおた坂物語』より
浄光寺(塙坂の坂上近く北側)
東坂(坂上方向) 塙坂の一本東側を北西に上る。 《地図》
昭和の初期に作られた坂。東町の坂なのでこう呼ばれているのではないか。『おおた坂物語』より
これも「真弓(眉美)千石」の眺望だろう。
東坂の坂上近く。
近くに水戸八景の一つ「太田落雁」、太田七井の一つ「観蔵井」がある。
こじき(乞食)坂(坂下方向) 真渕坂の坂上近くから南方向に下る。
戦国時代から江戸初期にかけて、坂近くの岩穴に住んでいた人たちがいて、この坂を通ったので誰いうとなく「こじき坂」と呼ばれるようになったのだろう。『おおた坂物語』より
ずっと昔からここに立っているのだろう。顔も磨り減っている。
真淵坂(坂下方向) 馬場坂下交差点から南西に上る。 《地図》
北側一帯は真渕城(馬場城)の城域だった。昭和3年、県道拡幅工事で再三掘り下げられ、今の真渕坂になった。
観音坂① (調整池の向う正面に見える坂)馬場町の馬場共同墓地の北側を北西に上る。《地図》
旧棚倉街道の坂で、大中、棚倉を抜けて奥州に向う古道。坂の北側一帯は南北朝時代に佐竹氏が築城した真渕城(馬場城)で、馬場八幡宮の中宮寺として観音寺があったといわれている。水戸光圀もこの坂を通って瑞竜山(地図)にある水戸家の墓所に詣でたという。『おおた坂物語』より 城主馬場政忠は佐竹氏に従い秋田に移ったが、子の政直は当地に残り、慶長7年(1602)に車丹波たちと水戸城奪還を企てて処刑された。
真渕坂の坂下近く。
馬場八幡宮(馬場町)
太田一高(旧制太田中学)の講堂は国指定重要文化財)
帰願寺(馬場町)
乱波(らっぱ)坂(坂上方向) 太田一高の西側から入り、西に下る未舗装の坂。
乱波とは戦国時代に各地に見られた忍者のこと。太田一高あたりが佐竹氏の「北郭」で、佐竹氏にも「忍者」がいたことの証拠がこの坂名の起こりかもしれない。すっかり忘れられてしまった坂だが、ひと昔前は旧制太田中学校の生徒や、新宿や増井に行く人々の近道として利用されていた。『おおた坂物語』より
進徳幼稚園(内堀町)
洒落た建物で幼稚園とは意外だった。北側の太田小学校の一帯は舞鶴城址。内堀町も城に由来する町名だろう。
ヨネビシ醤油(内堀町2365)
休憩所みたいになっている。右側の通りを行けば十王坂の坂上に出る。
読みづらいが、「この坂はめひこ坂と言われ崖け下から街中に出る重要な道である。この崖の上には宝光院、地福院、南窓院、修験者の除地があった。大正の初め頃まで坂の北側の窪地に風呂場があり近隣の人達の娯楽場であったと言われている。」 だろうか。「めひこ」の意味が分からない。
めひこ坂 木崎の坂の坂上近くから西方向に下る。観音坂②の北側の坂。
白い手すりがついているところ。今は住宅の間の細い新しい道になっている。
木崎の坂の坂上近く。
観音坂②への入口 木崎の坂の途中の小林家具の南側から入り、常陸太田変電所と簡易裁判所の間を東方向に下る。《地図》
坂上の梅照院境内に、十一面観音堂があった。
坂下は中華料理「龍門」の前
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