綾瀬市(神奈川県)の坂-1
2008年3月26日
長後駅(小田急江ノ島線)・・・熊野橋(引地川)・・・熊野神社・・・蓮光寺・・・境橋(蓼川)・・・車屋の坂・・・薬師坂・藪根橋・・・新坂・・・上土棚新橋・・・地蔵坂・・・落合橋(比留間川)・・・第六天神社・・・新落合橋(比留間川)・長坂・・・稲著(いなつき)社・男坂・・・(東海道新幹線)・・・芝原橋(比留間川)・・・落合小学校・・・皇子塚・・・瓢箪転がし坂・取内橋(比留間川)・・御岳神社・・・中原街道・・・女坂(めざか)・・・綾瀬市役所バス停→海老名駅(小田急線)
藤沢市の長後駅から熊野橋で引地川を渡り綾瀬市に入る。蓮光寺から戻り境橋を渡り、綾瀬グリーンハイツへ車屋の坂へ上る。
薬師坂、新坂は蓼(たて)川へ下り、地蔵坂の坂下が蓼川と比留間川の合流点で、長坂は比留間川へ下る坂だ。男坂は鎌倉道、大山道との伝承がある坂だがその面影は薄い。
皇子塚は桓武天皇の皇子の葛原親王の墓という言い伝えがあるが、案内板もなく、今は草に覆われた小さな塚で、金のかんざしが出土したとは想像もできない、皇子塚と言うより「乞食塚」だ。
酒が入った瓢箪が転がったとか、斬られた首が転がったともいう瓢箪転がし坂の坂上を西に行き参道前に道標庚申塔や石造の不動明王が立つ御岳神社から中原街道へ入る。綾瀬浄水場あたりから女坂がゆるやかに上って女坂交差点を過ぎると藤沢市に入る。今日は20度を越え、坂道散歩沿いのあちこちの桜も一気に見ごろ、満開に近づいたようだった。
【地図】
写真をクリックすると拡大します。
上土棚の鎮守。市指定文化財の「絵馬」
「殿様寺」とも呼ばれる。「内陣欄間の彫刻」。
車屋の坂(坂上方向) 上土棚南3-7と3-8の間を北西に上る。坂上はグリーンハイツ。
「車屋」という屋号の家があったのだろう。
薬師坂(坂上方向) 上土棚南3-1と2-2の間を藪根橋から南西に上る。 《地図》
坂上近くに薬師如来が祀られていた。
新坂(坂下方向) 上土棚南2-1と1-3の間を上土棚橋から南西に上る。
地蔵坂(坂下方向) 上土棚1-1と1-2の間を落合橋からから南方向に上る。
坂上近くに小さな地蔵の祠(写真左のコンクリート階段上)がある。
もとは蓼川の東の往還(蓼川東岸の南北方向の道)の傍らに建てられいた。
神代七代の第六代の夫婦神。
長坂(落合南橋から) 落合南4-21と4-22の間を新落合橋から南西に上る。《地図》
新坂とも呼ばれた。
用田の女坂に対する坂名という。大山道、鎌倉道の伝承がある。
皇子塚(落合北3-6) 《地図》
葛原(かずはら)親王(桓武天皇の皇子)の墓との伝承がある。昔は大きな塚で金のかんざしが出土したという。牛馬の餌の枯れ草を積んで干してあるみたいな塚だ。
瓢箪転がし坂(坂上から) 落合北1丁目と2丁目の間を取内橋から西に上る。
早川に住んでいた侍が酒の入った瓢箪を転がしてしまった。また、兵佐衛門という人がここで斬首され、首が転がったので「兵佐衛門転がし坂」とも呼ばれたという。
右は堅牢地神塔で、「堅牢地神」とは、もとはインド神話の神。仏教に入り大地をつかさどる。地天、地神ともいう。
道標庚申塔
天保9年(1838)造立の左側面。「東 江戸道 南 ふしさわ(藤沢)道」とある。右側面は「西 大山道 北 ほしのや(星谷)道」。「星谷道」は座間の星谷観音への道のこと。
吉岡の中原街道沿いの出光ガソリンスタンドと佐川急便教習所の間。大正時代の建立。中原街道は中世以前からの古道。江戸時代には江戸虎ノ門から平塚中原御殿をつないでいた。
女坂(めざか) 吉岡の綾瀬浄水場と佐川急便研修所の間を南西に上る中原街道(県道45号)。《地図》
右が綾瀬浄水場。目坂谷、目坂台という地名があるらしい。
左奥は女坂食堂
「南無妙法蓮華経為佐要坊塚」とあるそうだが消えていて全く読めず。
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コメント
もうこの時点には閉店されていたのですね。
2010年7月に中原街道を歩いた時には、建物から「女坂食堂」の文字が消えていたので、閉じまいされたと分かり、何となく寂しさを感じたことを思い出しました。
投稿: 坂道散歩 | 2012年12月29日 (土) 14:04
こんにちわ。
女坂食堂は祖母が経営していました。
が、痴呆が始まってしまい、色々あって2007年に閉店しました。
投稿: | 2012年12月25日 (火) 21:19