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2008年3月29日 (土)

綾瀬市の坂-3

2008年3月29日

海老名駅バス停→国分寺台11・・・神明社・・・済運寺・・・堀の内橋(目久尻川)・・・南坂・・・馬坂・・・正福寺・・・どんどん坂・・・山王社・・・村野橋・・・駒井不動・・・貴志園・えんこら坂跡あたり・・・道庵橋・・・浪乗不動・豊川稲荷・・・しんせん坂・・・根恩馬バス停→海老名駅

 国分寺台11のバス停から南に吉岡地区の目久尻川近くの坂道散歩です。春日局に縁のある神明社、済運寺から堀の内橋に出て、南坂を上り馬坂を下る。どんどん坂はゆるやかだが途中からカーブしながら上る長い坂。坂下から村野橋を渡ると突当たりに駒井不動が祀られている。「早川地蔵に吉岡不動」といい吉岡では不動信仰が盛んという。貴志園の北側あたりを西に上っていたらしいえんこら坂は今は綾瀬ホームの裏側あたりで道は途絶えてしまう。

 目久尻川沿いに南に行くと、家光に仕えた医者の半井驢庵が架けたという道庵橋がある。驢庵が道庵に訛ったらしい。道庵橋を西に行けば県道406号を越えて海老名市に入り、驢庵坂が下っていて、東に行けば女坂交差点で中原街道に出る大山道だ。
 道庵橋から南に浪乗不動に寄り、神崎バス停そばのしんせん坂を上って根恩馬のバス停へ出た。予定より早く回ってしまったので相模線の門沢橋駅まで歩こうかと思ったがちょうどバスが来てので海老名駅まで乗ってしまった。天気もいいのにちょっと歩き足りない今日の坂道散歩だった。

  【ルート地図

 *参考:『あやせウオ-クガイド』の7

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4502 神明社(綾西2-11)

春日局の勧請により建立。

Img_4503 説明板

Img_4510 済運寺(吉岡1713) 《地図

春日局ゆかりの寺

Img_4511 説明板

Img_4515 南坂(坂下から) 吉岡の堀の内橋の北側から南東に上る。【ルート地図】の①

このあたりの集落の通称という。どこの南なのか?

Img_4517坂下方向

Img_4518 坂上方向

Img_4522 馬坂(坂下方向) 南坂の途中から南西に下る。【ルート地図】の②

なだらかな坂で馬も通りやすかった坂。

Img_4524 稲荷社(坂の途中)

Img_4525 坂下方向

Img_4529坂上方向

Img_4530 正福(しょうふく)寺(吉岡1006)

浄土宗の寺

Img_4531 説明板

Img_4532 法然上人若き日の旅立ち像(正福寺境内)

幼名を勢至丸

Img_4536 どんどん坂(坂上方向) 吉岡の山王社の西側から北からカーブすながら北東に上る。右は山王社 【ルート地図】の③

長い坂でどんどん下るからだろうか。

Img_4540 山王社

Img_4538 説明板

Img_4547坂上方向

Img_4553 坂下方向

Img_4556 駒井不動(吉岡2530) 《地図

Img_4557 不動明王(中央)

大山不動を勧請して、安政5年(1858)の造立。

Img_4562 えんこら坂跡あたり(坂上方向) 吉岡の貴志園の北側あたりにあった坂。《地図

「えんこら」と掛け声を上げ、気合を入れて上った急坂だったのか? 「えんやこら坂」とも呼んでいた。『綾瀬の地名』によると、「七人塚にゆかりのある坂」という。綾瀬市の民話:『七人塚

Img_4565 坂上方向

この先で道は途切れる。

Img_4577 浪乗不動尊(右)・豊川稲荷(左) (吉岡2726) 【ルート地図】の④

Img_4579 浪乗不動(中央)

火除けの神。安政6年(1859)の建立だから駒井不動と近い時期だ。

Img_4578 説明板

Img_4581 しんせん坂(坂上方向) 吉岡の神埼バス停そばから北西に上る。【ルート地図】の⑤

坂名の由来不明。

Img_4586 坂下方向

 

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2008年3月27日 (木)

綾瀬市の坂-2

2008年3月27日

Img_4470 海老名駅(小田急線)・・・音坂・・・堂坂・・・四十坂(海老名市)・・・小園橋(綾瀬市)・・・子之神坂(宮の前坂・東向坂)・・・小園東公園・向坂跡あたり(北坂・南坂)・・小園地蔵堂・・・お銀さまの墓・・・七曲り跡あたり(東名公園)・・・内藤橋(目久尻川)・・・第六天神社・・・谷戸坂・龍洞院・・・虚空蔵橋(目久尻川)・・・谷田坂・・・虚空蔵橋・・・尾ノ井戸坂尾ノ井・・・五社神社・・・馬坂(土合坂)・・・綾瀬西高・・・瀬棚橋(目久尻川)・瀬棚坂・・・城山公園・早川城跡・・・込ノ内坂(上の写真)・・・武者寄(むしゃよせ)橋・赤坂・江川天神社・・・天神森隧道・・・綾瀬市役所バス停→海老名駅

 音坂から堂坂の途中へ出て上り、ひさご塚の前から古東海道ともいう四十坂を下る。坂下の小園橋を渡ると綾瀬市に入り、子之神坂の上りとなる。向坂は小園東公園あたりを南北に通っていた坂だが今は跡形もない。小園地蔵堂から南に行くと貯水池の隣りの小公園にお銀さまの墓がある。渡辺崋山が赤坂(海老名市と綾瀬市の境)を通ってお銀さまを訪れた時の様子が「游相日記」に書かれている。七曲りは東名高速脇の東名公園あたりにあったというが、今は直線の坂だけになっている。

 内藤橋で目久尻川を渡り、虚空蔵橋から西へ谷戸坂、東へ谷田坂と似たような名前の坂が上る。馬坂と思って上って行った坂の坂上近くに尾ノ井があった。この坂が尾ノ井戸坂で、五社神社裏手を下る静かで気分のいい坂だ。その東側の坂が馬坂だった。馬坂も途中に道標不動明王が立つ昔ながらの道の感じで、五社神社の参道前まで上っている。
 瀬棚坂を上り、坂上あたりから新しい住宅街を抜けて早川城跡の城山公園に入る。物見塚などの城の遺構も残っている。込ノ内坂の上り口が分からず、あちこちうろついてから坂上の天神森隧道の上から下り口を見つけた。両側を木々が覆う未舗装の遊歩道といった坂道散歩にはうってつけの坂で、坂下は古矢橋(目久尻川)近くの道に出る。古矢橋の南が武者寄橋で江川天神社へ赤坂が上っている。武者寄橋の由来話がどうも納得がいかない。(後述) 赤坂の坂上で東郷道路と合流し、天神森隧道を抜け綾瀬市役所バス停へ向った。

  *音坂・堂坂・四十坂は「海老名市の坂-2」に記載。

 *参考:『あやせウオ-クガイド』の3・5

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4332 子之神坂(坂上方向) 小園の小園橋から北東に子之社の前に上り、早園小学校の方へ下る。【ルート地図】の①

子之社から西側を宮の前坂、東側を東向坂ともいう。

Img_4335 坂下(小園橋)方向

Img_4334 第六天神社?

Img_4341 小園子之社

Img_4342 説明板

Img_4345 子之社前あたりから早園小学校の方へ下りとなる。

Img_4361 小園地蔵堂(小園61) 《地図

堂内の市内最古という「木造地蔵菩薩坐像

Img_4357 説明板

Img_4359 涅槃像

Img_4362 いぼとり地蔵

地蔵堂の脇

Img_4365 お銀さまの墓(説明板の後ろのフェンス内) 《地図

渡辺崋山の「游相日記」にお銀さまを訪ねた時の様子が書かれている。

Img_4363 説明板

Img_4376 第六天神社(早川) 《地図

左角は不動講中供養塔

Img_4373 説明板

Img_4374 不動講中供養塔

右側面に「相洲高座郡上早川邑」とある。不動明王の像はすり減っている。

Img_4384 谷戸坂(坂下から) 早川(地名)の虚空蔵橋(目久尻川)から西に龍洞院へ上る。《地図

Img_4385 地蔵(龍洞院の看板の後ろの小堂内)

Img_4403 庚申塔・道祖神など(手前の角)

Img_4386 坂上方向

右へ上ると西山橋で東名高速を越える。

Img_4390 龍洞院の先は行き止まり。東名高速ができる前はもっと先まで道は続いていたのだろう。

Img_4391 龍洞院(早川1766)

Img_4388 右に上った坂上から

Img_4395 谷田坂(坂下から) 虚空蔵橋から北東に上る。【ルート地図】の②

Img_4396 坂上方向

Img_4399 坂下方向

Img_4407 尾の井戸坂(坂上方向) 五社神社の裏手から北東に下る。【ルート地図】の③

Img_4413 坂下方向

Img_4414 尾の井

Img_4412 説明板

Img_4417 坂下方向

Img_4420 馬坂(坂上近く) 尾ノ井戸坂の1本東側の坂。南に上り、カーブして西に五社神社の参道前まで上る。《地図

土合坂ともいう。

Img_4422 五社神社(早川1603)

Img_4425 道標不動明王(馬坂の途中)

Img_4433 坂上方向

Img_4441 瀬棚坂 瀬棚橋から北東に城山中学校へ上る。《地図

Img_4446 坂下方向

Img_4451早川城跡説明板(城山公園)

Img_4452 案内図

中世の山城で、鎌倉幕府の御家人の渋谷重国一族の舘跡という。

Img_4455 物見塚

塚の上の石碑は早川城主渋谷氏の末裔という東郷平八郎の「東郷元帥祖先発跡地碑」

Img_4454_2 説明板

Img_4468 込ノ内坂の坂上から天神森隧道(中原街道)

Img_4469 込(こめ)ノ内坂(坂下方向) 古矢橋の城山公園の駐車場そばから南に入り、南東に天神森隧道の上まで上る。【ルート地図】の④

Img_4483 武者寄橋(新武者寄橋(中原街道)から)

『綾瀬村風土記』に、「河越三河入道圓重ナルモノ平宰相成輔郷ヲ此地ニ於いて害し奉り、依テ往古ヨリ此近辺ニアル一ノ橋ヲ武者寄橋」ト云フ」とあるというが、平成輔が殺されたのは小田原の早川の河口だ。(江川天神社の説明板にもそう書いてある。) とすると『綾瀬村風土記』の橋名の由来話はちと辻褄が合わないのでは。

Img_4485 赤坂(坂下から) 武者寄橋から東に江川天神社の方へ上る。【ルート地図】の⑤

Img_4489 坂上方向(右が江川天神社)

祭神は菅原道真・平成輔

Img_4490 説明板

Img_4495 坂下方向

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2008年3月26日 (水)

綾瀬市(神奈川県)の坂-1

2008年3月26日

長後駅(小田急江ノ島線)・・・熊野橋(引地川)・・・熊野神社・・・蓮光寺・・・境橋(蓼川)・・・車屋の坂・・・薬師坂・藪根橋・・・新坂・・・上土棚新橋・・・地蔵坂・・・落合橋(比留間川)・・・第六天神社・・・新落合橋(比留間川)・長坂・・・稲著(いなつき)社・男坂・・・(東海道新幹線)・・・芝原橋(比留間川)・・・落合小学校・・・皇子塚・・・瓢箪転がし坂・取内橋(比留間川)・・御岳神社・・・中原街道・・・女坂(めざか)・・・綾瀬市役所バス停→海老名駅(小田急線)

 藤沢市の長後駅から熊野橋で引地川を渡り綾瀬市に入る。蓮光寺から戻り境橋を渡り、綾瀬グリーンハイツへ車屋の坂へ上る。
 薬師坂、新坂は蓼(たて)川へ下り、地蔵坂の坂下が蓼川と比留間川の合流点で、長坂は比留間川へ下る坂だ。男坂は鎌倉道、大山道との伝承がある坂だがその面影は薄い。

 皇子塚は桓武天皇の皇子の葛原親王の墓という言い伝えがあるが、案内板もなく、今は草に覆われた小さな塚で、金のかんざしが出土したとは想像もできない、皇子塚と言うより「乞食塚」だ。
 酒が入った瓢箪が転がったとか、斬られた首が転がったともいう瓢箪転がし坂の坂上を西に行き参道前に道標庚申塔や石造の不動明王が立つ御岳神社から中原街道へ入る。綾瀬浄水場あたりから女坂がゆるやかに上って女坂交差点を過ぎると藤沢市に入る。今日は20度を越え、坂道散歩沿いのあちこちの桜も一気に見ごろ、満開に近づいたようだった。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4209 熊野橋から上る坂

Img_4210_2熊野神社(上土棚5-11)

上土棚の鎮守。市指定文化財の「絵馬

Img_4215 蓮光寺脇の坂

Img_4217 蓮光寺(上土棚中2-15)

「殿様寺」とも呼ばれる。「内陣欄間の彫刻」。

Img_4216 説明板

Img_4220 地蔵堂

Img_4218 説明板

Img_4219説明板の廻り地蔵?

Img_4222 車屋の坂(坂上方向) 上土棚南3-7と3-8の間を北西に上る。坂上はグリーンハイツ。 【ルート地図】の①

「車屋」という屋号の家があったのだろう。

Img_4223 坂下方向

Img_4227 薬師坂(坂上方向) 上土棚南3-1と2-2の間を藪根橋から南西に上る。 《地図

坂上近くに薬師如来が祀られていた。

Img_4234 新坂(坂下方向) 上土棚南2-1と1-3の間を上土棚橋から南西に上る。【ルート地図】の②

Img_4236坂上方向

Img_4251 地蔵坂(坂下方向) 上土棚1-1と1-2の間を落合橋からから南方向に上る。【ルート地図】の③

坂上近くに小さな地蔵の祠(写真左のコンクリート階段上)がある。

Img_4252 地蔵さん

もとは蓼川の東の往還(蓼川東岸の南北方向の道)の傍らに建てられいた。

Img_4244 坂上方向

Img_4254 第六天神社(上土棚中2-8)

Img_4253 祭神

神代七代の第六代の夫婦神。

Img_4259 長坂(落合南橋から) 落合南4-21と4-22の間を新落合橋から南西に上る。《地図

新坂とも呼ばれた。

Img_4260 坂上方向

Img_4264 坂下方向

Img_4271稲著社(落合南8-5)

Img_4272 説明板

Img_4274 男坂(坂上方向) 稲著社の東側を北に上る。【ルート地図】の④

用田の女坂に対する坂名という。大山道、鎌倉道の伝承がある。

Img_4275 坂下方向

Img_4284 皇子塚(落合北3-6) 《地図

葛原(かずはら)親王(桓武天皇の皇子)の墓との伝承がある。昔は大きな塚で金のかんざしが出土したという。牛馬の餌の枯れ草を積んで干してあるみたいな塚だ。

Img_4287 瓢箪転がし坂(坂上から) 落合北1丁目と2丁目の間を取内橋から西に上る。【ルート地図】の⑤

早川に住んでいた侍が酒の入った瓢箪を転がしてしまった。また、兵佐衛門という人がここで斬首され、首が転がったので「兵佐衛門転がし坂」とも呼ばれたという。

Img_4289 坂下方向

Img_4292 坂上方向

Img_4298 御岳神社(吉岡東5-5)

Img_4299 説明板

Img_4296 不動明王(左)は安政3年(1856)の造立。

右は堅牢地神塔で、「堅牢地神」とは、もとはインド神話の神。仏教に入り大地をつかさどる。地天、地神ともいう。

Img_4301

道標庚申塔

天保9年(1838)造立の左側面。「東 江戸道 南 ふしさわ(藤沢)道」とある。右側面は「西 大山道 北 ほしのや(星谷)道」。「星谷道」は座間の星谷観音への道のこと。

Img_4307 道祖神

吉岡の中原街道沿いの出光ガソリンスタンドと佐川急便教習所の間。大正時代の建立。中原街道は中世以前からの古道。江戸時代には江戸虎ノ門から平塚中原御殿をつないでいた。

Img_4310 女坂(めざか) 吉岡の綾瀬浄水場と佐川急便研修所の間を南西に上る中原街道(県道45号)。《地図

Img_4312 坂上方向

右が綾瀬浄水場。目坂谷、目坂台という地名があるらしい。

Img_4314 坂上の藤沢市との境の交差点。

左奥は女坂食堂

Img_4316_2 「サイホウ塚」女坂交差点の角。

「南無妙法蓮華経為佐要坊塚」とあるそうだが消えていて全く読めず。

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2008年3月12日 (水)

長崎市の坂-11

2008年3月12日

新地バスターミナル→鍛治町・・・恵比寿神社・・・八坂神社・・・円成寺・・・武家屋敷・・・深堀神社・・・貝塚資料館・・・地蔵堂・・・馬場崎経塚・・・菩提寺(十人義士の墓・鍋島家墓地)・・・五官の墓・・・女の坂・・・深堀陣屋跡・・・深堀漁港・・・深堀バス停→新地バスターミナル

 長崎市唯一の城下町、大音寺坂(喧嘩坂)での長崎喧嘩騒動、深堀義士伝ゆかりの深堀を訪ねた。城下町といっても城はなく、武家屋敷あたりに面影が残る。菩提寺から女の坂への道がはっきりしない。墓地脇の石段を農具を持って上って行くお婆さんを手伝いながら聞いてみる。どうやら菩提寺の反対側の道のようだ。反対側に回ったが2本の道がある。もっと詳しく聞けばよかったものを。どっちの道もすぐ住宅街を離れ山道となって上って行く。キリシタン墓地の先の深堀八幡社の鳥居まで上った。地蔵があるというが見当たらなかった。もっと先か違う道だったか。いずれにせよこの道も昔からある峠越えの山道なのだろう。善長谷まで行くには時間に余裕がなく下り返す。深堀陣屋跡から深堀漁港に出て一休み。暑いくらいの晴天でのどかな半日だった。

  参考『深堀城下町探訪
  大音寺坂は「長崎市の坂-2」に記載。

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4144 恵比寿神社 《地図

Img_4145 八坂神社

Img_4148亀登山円成寺

ユニークな五色の塀と、寛保3年(1746)鋳造の梵鐘。

Img_4155_2 ここにも恵比寿さん

Img_4153 深堀武家屋敷跡 《地図

深堀鍋島家の始祖は鎌倉時代に承久の乱の恩功により上総国深堀(千葉県大原町)から地頭として下向した深堀(三浦)能忠。

Img_4149 説明板

Img_4156 深堀神社

天保八年(1837)の再建。

Img_4157 説明板

Img_4159 貝塚資料館

Img_4160 箱式石棺

Img_4161 説明板

Img_4162_2 深堀遺跡説明板

Img_4163 地蔵堂

Img_4167 馬場崎経塚

菩提寺六代住職が無病息災、世間安泰を祈念して2、3cmの平石に写経したものを埋め碑を立てた。

Img_4168 金谷山菩提寺

山号の金谷山は三浦氏発生の相模国三浦庄金谷村による。正面は安政7年(1860)に領主や檀家の寄付により再建された内円外方の石門。

Img_4169 説明板

Img_4173 深堀義士の墓

Img_4172 説明板

Img_4178 五官の墓 《地図

Img_4177 説明板

Img_4183 女(おなご・おんな)の坂(坂上方向 菩提寺の裏あたりから大籠町善長谷に通ずる坂。 《地図

この坂で領主の使者が、道端で休んでいた身重の女を斬り捨てた。その後、この坂を通ると、恨めしそうな姿をした女があらわれ通行人に声をかけるようになった。いつしかここを「女の坂」と呼ぶようになった。領主の声がかりで、女を慰霊する地蔵を立てたという。地蔵は見当たらず。もっと先なのか。一本道が違うのか?

Img_4184 坂上方向

坂というより峠越えの山道だ。

Img_4188 深堀八幡社の鳥居

社殿はもっと先なのか。後日、深堀八幡社を調べたが分からず。

Img_4192 深堀陣屋跡 《地図

深堀純心幼稚園の所。

Img_4191 説明板

Img_4193 深堀漁港

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2008年3月11日 (火)

島原市・諫早市(長崎県)の坂

2008年3月11日

Img_4073_2 長崎駅(長崎本線)→諫早駅(島原鉄道)→島原駅・・・七万石坂・・・猛島神社・・・道元坂・・・郷土資料館(休館日)・・・武家屋敷・・・島原城・・・寺町(善法寺・光傳寺・叶寺・護国寺)・・・白土(しらち)湖・・・江東寺・・・かんじん(勧進)坂・理性院・・・八幡坂・八幡神社・・・南島原駅(島原鉄道)→本諫早駅・・・勢屯(せいだもり)跡・・・眼鏡橋・・・高城橋・安勝寺・馬ん糞(うまんくそ・まんくそ)坂・・・御書院・・・(島原鉄道)・・・会下ん(いげん)坂(上の写真)・・・天祐寺・・・諫早公園(高城神社・高城址・眼鏡橋)・・・諫早神社・・・四面橋・・・諫早駅

 1両の島原鉄道は満席状態で、大きなカメラを持った鉄道ファンも多い。この電車に乗るのは3度目で、島原より先の原城と口之津まで行ったのだが、なぜかその時の電車や車内の記憶がまったくない。

 島原城の大手門風の島原駅の前から七万石坂が一直線に島原城に上っている。晴れてはいるが背後の眉山、普賢岳は霞んでいる。猛島神社は猛島漁港と池に挟まれた静かな雰囲気の中にある。神社前の道を戻り、国道251号の信号を渡るとゆるやか道元坂の上りとなる。道元といっても曹洞宗の道元にちなむ坂名ではない。途中に湧き水やレトロな青い理髪店跡などがある。坂上から島原城の堀沿いに行くと武家屋敷に出る。中央にきれいな湧き水が流れている。武家屋敷の生活用水に使われていて水奉行が厳重に管理していたという。

 島原城にはキリシタン関係の展示物が多く、特に隠れキリシタンの品々が面白い。島原城から南に寺町通りを抜けると白土湖に出る。普賢岳の噴火に伴ってできたもので湖というより池で、眉山の眺めがいい。古い街並みの通りを行き、江東寺に寄る。涅槃像のそばに島原の乱に関係した松倉重政(苛政をしいて島原の乱の引き金となる。)と板倉重昌(幕府から乱鎮圧のため派遣され戦死)の墓がある。高校時代に日本史で、似たよう名前でどっちがどっちか、書き方も覚えるのに苦労させられた二人だ。死んだ後も墓が仲良く並んで(向い合わせだったかも)いようとは。 「からゆきさん」ゆかりの理性院大師堂前の傾斜もほとんど感じない、かんじん坂からこれも緩やかな八幡坂を通って南島原駅に出た。

 上りの島原鉄道も学生たちで混んでいる。来る時見かけた鉄道ファンも何人か乗っている。終点の加津佐まで行って戻ってきたようだ。1日中電車に乗っているとはさすが鉄道マニアだが、坂道散歩ファン(マニアか?)にはとてもできない芸当だ。

 諫早駅の一つ手前の本諫早駅で下り本明川の方へ歩く。眼鏡橋が架かっていた所には歩行者専用の「眼鏡橋」が架かっている。高城橋を渡ると短い馬ん糞坂、むろん馬糞は落ちていない普通の車道で、落ちているのは犬糞ぐらいか。坂下から御書院に寄り、島原鉄道を渡って、会下ん坂を上る。坂の途中から古風で重厚な家並みが続き、車も人通りも少ない静かな坂で気に入った。今日歩いた坂はどれもいまいちの感じだったがこの坂に出会えたことで来た甲斐があったとすべきか。坂下から郷土舘の前を通り、天祐寺に寄る。広い寺で背後は墓地、上山公園になっている。天祐寺の向い側が諫早公園で、池に本明川から移築された眼鏡橋が架かり、上部は高城址だ。本明川沿いに諫早神社から諫早駅に向った。

  【ルート地図】(島原市)・【ルート地図】(諫早市)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_3910 島原鉄道

諫早→加津佐

Img_3913 島原駅

島原城の大手門風の駅舎。

Img_3912 七万石坂 島原駅から島原城の方へ上る。【ルート地図】の①

左後方は眉山、その後ろにうっすらと普賢岳の姿がある。島原藩は松倉重政の時は4万石、松平氏の時は6万5千石だった。半端な数字なので切り上げて七万石坂としたのか?

Img_3940 坂上近く

Img_3939 坂上から

正面は島原駅

Img_3917猛島神社(宮の町247)

猛島漁港から

Img_3923 神社前の池から眉山

Img_3924 道元坂(坂上方向) 七万石坂の二つ北側の通り。西方向にゆるやかに上る坂。【ルート地図】の②

旧制島原中学の伊藤道元先生の住居があった。左は「猿田彦」石塔、右に湧き水があり女性が水を汲んでいる。

Img_3930 坂上近く

Img_3926 青い理髪舘(道元坂の途中)

大正時代の建築で、戦後は床屋だった。今は喫茶店とギャラリー

Img_3927 説明板

Img_3942 島原城前の通り

Img_3943 菖蒲園(下)から島原城

Img_3957 武家屋敷通り(下の丁) 【ルート地図】の③

中央は武家屋敷の生活用水路の湧き水。

Img_3959 鳥田家

Img_3958 説明板

Img_3964 島原城

寛永元年(1624)松倉重政の築城。

Img_3966 説明板

Img_3973 天守閣から

中央が七万石坂・島原駅で、その向うに有明海。

Img_3982 寺町の通り

Img_3989 白土(しらち)湖から眉山

寛政4年(1792)の雲仙普賢岳の噴火による地震でできた湖。

Img_3987 説明板

Img_3997 古い町並み

Img_3996 山崎酒造(白土町1065)

Img_4001 涅槃像(江東寺)(中堀町42)

全長約8mコンクリート製の涅槃像としては日本最大。松倉重政と板倉重昌の追善供養のため建立。

Img_4003 説明板

Img_4007 松倉重政の墓

島原の乱の原因となる圧政をしいた島原藩主。

Img_4006 説明板

Img_4005 板倉重昌の墓

島原の乱鎮圧のため幕府から派遣されあえなく戦死。

Img_4004 説明板

Img_4010 かんじん(勧進)坂(坂上方向) 湊1丁目の理性院大師堂の前を南東に上るゆるやかな坂。【ルート地図】の④

理性院大師堂の開山廣田言証和尚が毎日、「勧進」のため素足で歩いた坂。大師堂には「からゆきさん」ゆかりの文物が多く残る。 

Img_4012 坂上方向

左側が理性院大師堂

Img_4015 理性院大師堂

Img_4017 天如堂

明治年間にシベリア、東南アジア、インド方面に托鉢、巡礼の旅に出た廣田言証氏が行く先々で「からゆきさん」を集め施餓鬼を行った。からゆきさんからのお布施を元に建立された。

Img_4018 坂下方向

Img_4025 八幡坂(坂下方向) 八幡町の八幡神社前を北西に上る八幡坂通り。【ルート地図】の⑤(地図では宮地獄神社と標示されている。)

Img_4028 坂上方向

左の石灯籠のところが八幡神社

Img_4031 八幡神社

Img_4035 南島原駅

Img_4038 本諫早駅近く

Img_4040 勢屯(せいだもり)跡あたり(諫早市役所前の中央公民舘あたり) 《地図

寛延3年(1750)の諫早一揆の集合場所。

Img_4039 説明板

Img_4042「眼鏡橋」が架かっていた所。今も橋名は眼鏡橋で歩行者専用。 《地図

Img_4129 当時の様子

正面奥の上は安勝寺の屋根だろう。この眼鏡橋は諫早公園に移築されている。頑丈な造りのため昭和32年の諫早大水害の際の激流でも壊れず、かえって流れをせき止める堤防の形になり、死者539人の大きな犠牲者を出す原因ともなった。

Img_4050安勝寺(金谷町9)

天正年間の初めの創建で、江戸時代の本陣という。シーボルトも泊まったそうだ。

Img_4049_2 鐘楼

昭和19年まで時を告げた鐘

Img_4047 馬ん糞(うまんくそ・まんくそ)坂(坂上方向) 高城橋から安勝寺の西側に沿って北方向に上る。【ルート地図】の①

この坂を馬が上る時によく糞をしたからという。今は短く傾斜もゆるいが、昔はもっと急坂だったようだ。

Img_4052 坂上から

Img_4063御書院(諫早高校の敷地内) 【ルート地図】の②

諫早家初代の龍造寺家晴が築いた池泉回遊式庭園。今日は入学試験日で入れず

Img_4059 説明板

Img_4068 会下ん坂(坂上方向) NTTと宮崎温仙堂の間の信号から島原鉄道を渡り南方向に上る。【ルート地図】の③

このあたりは武家屋敷で、坂上の家老の家でよく会合が開かれた。「会合場所の下の坂」から「会下ん坂」と呼ばれるようになった。

Img_4082 坂下方向

Img_4090 天祐寺(西小路町)

諫早家の菩提寺

Img_4091 説明板

Img_4098 境内

Img_4087 若杉春后の墓(天祐寺裏の墓地)

諫早一騎の指導者

Img_4086 説明板

Img_4093 背くらべ地蔵(天祐寺)

子供たちが岩の上の地蔵と背くらべをしたという。

Img_4101 高城神社(諫早公園内)

Img_4102 説明板

Img_4118 「高城」跡(諫早城址)の大クス(諫早公園内)

高城は15世紀に西郷氏が築く。のち龍造寺が入城して諫早氏を名乗り居城としたが二代の時に取り壊された。【ルート地図】の④

Img_4112 高城址から

Img_4123 眼鏡橋(諫早公園内) 【ルート地図】の⑤

天保10年(1839)に本明川に架けられた石橋。1961年にここに移築された。1958年に道路橋としてはじめて重要文化財に指定された。

Img_4125長崎の眼鏡橋より2倍以上長く、幅も1.5倍ほど広い。

Img_4127_2説明板

Img_4135諫早神社(宇都町1)

四面宮として神亀5年(725)創立という。

Img_4137 説明板

Img_4140 飛び石(諫早神社前の本明川)

今でも通行可能。

Img_4141 説明板

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2008年3月10日 (月)

長崎市の坂-10(浦上街道)

2008年3月10日

Img_3882 長崎駅 バス→時津(とぎつ)・・・時津港・・・浦上街道(時津街道)・・・八幡神社・・・祐徳稲荷・・・茶屋(本陣)跡・・・鳥越橋・・・鯖くさらかし岩・・・打坂・打坂地蔵尊・打坂峠・・・道ノ尾駅(JR長崎本線)・・・岩屋神社鳥居・・・六地蔵・・・赤迫の坂・・・住吉神社・・・チトセピア前・・・長崎大前・・・本大橋(浦上川)・・・川上神社・ベアトス様の墓・・・フランシスコ・ザベリオ堂跡・・・浦上天主堂・・・宿ん坂・・・病院坂・・・山王神社・・・長崎四国霊場第八十八番坂本山王観音堂・・・坂本国際墓地・・・歴史民俗資料館跡・・・銭座天満宮・・・生目(いくめ)八幡宮・・・長崎平和資料館・長崎四国霊場第五十八番西坂町地蔵堂・・・聖フィリッポ教会・西坂・「浦上街道ここに始まる」碑・・・長崎駅

 昨日とうって変わって気持ちのいい快晴の天気の中、浦上街道(時津港→西坂)の坂道散歩です。
 浦上街道は西坂から時津宿の約12kmで、日見峠越えの長崎街道が一般化する江戸時代の中頃までは長崎の第一の街道だった。時津宿からは大村湾を舟で彼杵(そのぎ)宿へ渡った。今は国道206号が新浦上街道となっている。

 時津港から旧道に入り、八幡神社、茶屋跡を過ぎ鳥越橋を渡ると国道と合流する。国道の崖上の鯖くさらかし岩の下を過ぎると打坂の上りが始まる。今は直線的な長いなだらかな坂だが、昔はカーブしながら上る急坂で浦上街道の難所だった。時津町と長崎市の境標識の所から打坂峠に上る旧道は短い区間ではあるが今でも昔の面影が残っている。

 時津町から長崎市に入り、横道交差点から大クスノキ、道ノ尾駅前を通り国道を横切り、岩屋神社の鳥居前に出た。神社の本殿がないのでキョロキョロして、通りがかりのおばさんに聞いたら、この先2kmくらい上った所だと笑って(呆れてか)教えられた。
 長崎本線沿いに進みガードをくぐり、国道の六地蔵歩道橋を渡ると、道路脇に六地蔵などの石仏が並んでいる。熱心に地蔵さんを水で拭いて手入れをしている女性がいた。赤迫の坂を上り下りしてきた後もまだやっていた。きっとご利益があることだろう。

 浦上街道から離れ赤迫の坂をぐるっと一周する。急坂と聞いていたが思っていたほどでもない。住吉神社の先のチトセピア前の公園で一休み。ポカポカ陽気で、ベンチに座っているといい気持ちで眠くなってきた。長崎大を過ぎ、浦上川の本大橋から川上神社の方へ上り、フランシスコ・ザベリオ堂跡前の坂を下って、浦上天主堂前の天主公園脇から平野町へと上る。坂上は平野宿があった所だがその面影をとどめているのは宿ん坂という坂名だけか。ただ、この坂も平凡な石段坂で宿場の風情はない。

 宿ん坂の坂下から浦上街道を山王神社に向う。途中、病院坂に寄るがこの坂は長崎大医学部附属病院内の坂で一般道ではない。緩やかに起伏のある浦上街道を山王神社の大クス、一本足鳥居、山王観音堂から坂本国際墓地の間へと進む。歴史民俗資料館跡の先あたりから下って行く街道沿いには小さな石祠や石仏などが残り、左右に細い石段坂が何本も上り下りしている。何本かの石段坂(そのうちの一つが上の写真)に入ってみたがあまり寄り道をしてもいられない。

 銭座天満宮、生目八幡宮を過ぎると西坂の坂上近くだ。西坂町地蔵堂のあたりは江戸時代に処刑場があったところ。秀吉の頃にもあったのだろう。26人のキリシタンも時津港からここまで歩かされて処刑され、後に聖人に列せられた。長崎で最初の日に上った西坂を下り、途中の西坂公園で小休止した頃にはだいぶ日も傾いてきた。晴天の中を南方向に歩き1日中陽射しを浴びたせいか、風呂に入ったら顔がヒリヒリした。

 西坂は「長崎市の坂-1」に記載。

  【ルート地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_3658 時津港 《地図

「日本二十六聖人上陸地」の碑

Img_3654 豊臣秀吉により捕られた26人のキリシタンはここで船から降ろされ、浦上街道を歩かされ西坂で処刑された。右後ろは恵比寿像。

Img_3653 説明板

Img_3667 八幡神社(時津町の旧浦上街道沿い) 《地図

石段右下に「ともづな石」

Img_3671 由緒書

Img_3670 ともづな石

このあたりは文政年間頃までは海岸で、船をつないでおくための石。

Img_3668 説明板

Img_3675 祐徳稲荷

Img_3674 由緒記

Img_3681 茶屋(本陣)跡 【ルート地図】の①

時津街道を通る大名、幕府役人たちの休憩、宿泊所。

Img_3677 説明板

Img_3686 鯖くさらかし岩(右上)・地蔵?(左下)

時津町の国道206号の継石バス停近く。《地図

Img_3688 継石観音大明神とある。

Img_3689 鯖くさらかし岩

鯖「腐らかし」で、浦上街道を長崎まで行く魚売りが、この岩の下まで来た時、岩が落ちてこないか心配して落ちた後に通ろうと思い待っていたら売り物の鯖が腐ってしまったという話。確かに上の岩は地震でもあれば落ちてきそうだが。

太田蜀山人の狂歌が説明板に載っている。

Img_3691 鯖くさらかし岩(継石坊主)説明板

Img_3696 打坂(坂上方向) 時津町から長崎市へ南に上る国道206号。【ルート地図】の②

長い急坂だったため馬や牛の尻を打って上った。

Img_3708 打坂地蔵尊(打坂途中のケンターッキーフライドトキンの向い側) 《地図

バスが故障した時、身を挺して乗客を守り殉職した車掌さんを祀っている。

Img_3709 台座の由来書

Img_3706 坂下方向

Img_3703 旧道(坂上方向) 《地図

Img_3704 坂下方向

打坂橋から

Img_3712 新道の坂上近く

長崎市との境

Img_3713 打坂峠へ

戻るように右に上る未舗装の道。

Img_3718 坂下(国道206号)方向

Img_3724 坂上近く

Img_3726 坂上から

Img_3728 土神の小祠(坂上近く)

Img_3732 大クス(横道交差点近くの県道111号?沿い)

江戸時代には打坂峠を越えてきた旅人の格好の休憩所だった。この木も被爆して黒こげになったが力強く再生した。

Img_3733 岩屋神社の鳥居

神社本体はここから2km位上ったところにある。

Img_3736 六地蔵(赤迫2丁目の国道206号の六地蔵バス停そばの歩道橋下) 【ルート地図】の③

Img_3739 赤迫の坂(南側の坂) 《地図

赤迫2-6と2-7の間からカーブしながら北東に上る。坂上は浦上自動車学校。

Img_3742 坂下方向

Img_3749 坂上方向

Img_3757 赤迫の坂(北側の坂・坂下方向) 《地図

赤迫2丁目と3丁目の間を北東から南東に上る。坂上は浦上自動車学校。

Img_3761 坂下方向

左下は公園

Img_3767 坂上方向

Img_3772 本大橋(浦上川)から川上神社の方へ上る浦上街道。《地図

Img_3779 川上神社(橋口町23)

Img_3778 ベアトス様の墓(橋口町22)

Img_3776 説明板

Img_3781フランシスコ・ザベリオ堂跡(橋口町7?) 中央右の木造家屋のあたり。《地図

秘密礼拝堂の一つ。

Img_3783 説明板

Img_3788 浦上天主堂

天主公園から

Img_3790浦上天守堂脇から平野宿の方へ上る浦上街道。《地図

上って宿ん坂の下りとなる。

Img_3799 宿ん(しゅくん)坂 平野町12と22の間を北に上る石段。【ルート地図】の④

坂上あたりに平野宿があった。今はまったく面影なし。

Img_3806 坂下から

Img_3807 病院坂(坂下から) 坂本1丁目の長崎大医学部附属病院へ上る坂。《地図

Img_3809 坂下方向

Img_3835 山王神社へ上る浦上街道

Img_3827 山王神社(坂本2丁目)の被爆大クスの木

Img_3822説明板

Img_3829 被爆クスの木

Img_3828 大クス説明板

Img_3814 山王神社の一本足鳥居

原爆により吹き飛ばされたニの鳥居の右半分。

Img_3817 飛ばされた左部分

Img_3815 説明板

Img_3840 長崎四国霊場第八十三番坂本山王観音堂(坂本2-3)

Img_3837 説明板

Img_3838 堂内

聖観音菩薩(中央)と地蔵菩薩。

Img_3847 坂本国際墓地から下る坂 《地図

この坂を下り聖徳寺、銭座跡、銭座市場を通り銭座天満宮の下へ出るのも浦上街道。

Img_3841 坂本国際墓地の間をゆるやかに上る浦上街道。

Img_3848 坂本国際墓地説明板

永井隆、グラバーの墓などがある。

Img_3853歴史民俗資料館跡(上銭座町3)

平野町の長崎平和会館内に移転して今は埋蔵文化財調査センター?のようだ。

Img_3854 郷土資料館跡前あたりから

Img_3857 浦上街道 《地図

緑町中部バス停そばから下る。

Img_3858_2何の石仏か?

Img_3860 不動明王か?

ユーモラスな表情だ。

Img_3862 浦上街道の標柱

Img_3865 銭座天満宮の方へ上る石段坂 《地図

Img_3866 銭座天満宮(天神町12)

Img_3863 浦上街道

Img_3869 石祠

Img_3870 祠内の石仏

Img_3874 生目八幡宮(天神町5)の方へ上る石段坂。

Img_3878 生目(いくめ)八幡宮(天神町5)

「いくめ」の由来には由緒書によると3説あるようだ。

Img_3876由緒書

Img_3891 長崎平和資料館(西坂町9)

公的な施設ではなく、市民が運営している。右側に石の祠がある。

Img_3892祠内の地蔵

Img_3900長崎四国霊場第五十八番西坂町地蔵尊・西坂供養塔(右端) (西坂町7)

Img_3899 西坂供養塔

江戸時代、このあたりに処刑場があった。元禄7年(1694)に建てられた処刑者の供養塔。

Img_3894_2由来書

Img_3903 聖フィリッポ教会(西坂町7)から

右端に見えるのは長崎観音

Img_3904 西坂の坂上近くから。【ルート地図】の⑤

Img_3908坂の途中の「浦上街道」の石柱。

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2008年3月 9日 (日)

長崎市の坂-9

2008年3月9日

Img_3559_2 長崎空港 バス→松山町→力馬坂バス停・・・力馬坂(右の写真)・筒水神社・・・三川橋・・・三川川・・・清観橋・・・観音橋・・・七曲り坂・・・御手水(おちょうず)の坂・御手水橋・・・すいこみ坂・・・西山台入口バス停→浦上天主堂前・・・江平中学校・地獄坂③・・・浦上天主堂通り・・・浦上川・・・遅刻坂③・被爆クスの木・長崎西高・・・梁川橋(浦上川)・・・茂里電停

 長崎空港では雨は上がっていたが、バスに乗っている間に降り出して力馬坂のバス停に着いた時は本降りとなった。上からの雨と下から跳ね返る雨、坂を流れる雨水を車が通るたびに跳ね上げられ、歩き出してすぐに歩く馬力が消えかかった。
 今日はここであきらめて長崎駅に出ようと三川橋バス停で待っている間に雨がやんで空が明るくなった。気を取り直し予定の坂道散歩コースを行くことにした。結局この後も降ったり止んだりの天気ではあったが。

 三川川沿いに観音橋まで行き七曲り坂、御手水の坂を上る。坂というより山道という感じで、地図では途中で道筋が途切れている。どこまで上ってもきりがないので適当な所で引き返す。清観橋まで戻り、すいこみ坂を上る。見事な急坂で坂下方向の眺めがいい。坂上の西山台からバスで浦上天主堂前まで下る。長崎大の北側沿いに江平中学校まで上り、地獄坂③を下る。地獄と呼ぶような急坂でもなく、長崎では普通の坂のようだが。まあ極楽坂ではないだろうが。坂下から浦上天主堂通りに出て、松山町交差点から長崎電気軌道、長崎本線を横切り、浦上川沿いに長崎西高に向かう。正門前に上る急坂が遅刻坂③だ。瓊浦中学の時からこの愛称で呼ばれていたという。なるほど納得の坂名だ。坂下から新浦上街道の茂里電停へ出て長崎駅へ向かった。明日は天気が良さそうだ。

  【ルート地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_3555 力馬坂(坂下方向) 川平町の「力馬坂バス停」前の坂。江戸時代の西山街道。

①昔、殿様が草住神社の浦上川対岸の広場で、力士や馬を休ませたことからついた坂名という。②殿様が休憩をして、食(じき)事をした場所で、食場(じきば)と呼ばれていたのがいつからか力馬になったとも。

Img_3558 「力馬坂」バス停

Img_3562 地蔵さん(坂の途中)

昔は狭い道で浦上川に落ちて死んだ人もいたという。

Img_3565 筒水神社(坂の途中)

Img_3566 坂下方向

Img_3572 七曲り坂(左へ)・御手洗の坂(右へ)分岐

三川川の観音橋を渡って左右に上る坂。

Img_3576 七曲り坂(坂上方向)

Img_3578 坂上方向

白いガードレール沿いに曲がりながら上って行く。

Img_3581 坂上方向

Img_3582 坂下方向

Img_3584 坂上方向

Img_3591 御手水の坂(御手水橋の所から坂上方向)

手水という地名は清水が湧く所という意味。

Img_3595 坂上方向

Img_3598 坂下方向

Img_3603 すいこみ坂(坂下から)

清観橋(三川川)から南西方向に西山台の峠の坂バス停あたりまで上る。

吸い込まれそうな急坂という意味。

Img_3604 坂下方向

正面の雲に覆われているのは帆場岳(505m)か?

Img_3610 坂下方向

正面は天竺山(387m)か?

Img_3616 坂下方向

Img_3615 坂上は「峠の坂」バス停

Img_3618 地獄坂③(坂上から) 江平2丁目の江平中学校の前から南西方向に下る細い坂。(由良商店と駐車場の間を下る。) 《地図

冬、坂道が凍った時はロープを張ってそれに伝わり上り下りするという。『長崎坂づくし』 これくらいの坂は長崎には珍しくもないと思うが。

Img_3621 坂下方向

Img_3628 坂の途中から

Img_3632 坂上方向

Img_3639 活水高校(宝栄町)

爆心地から南西約500mで、崩壊した鎮西学院があった。手前は浦上川。

Img_3637 鎮西学院説明板

Img_3650 遅刻坂③ 竹の久保町の長崎西高の正門に上る坂。

正面が長崎西高校(旧瓊浦中学)、右が被爆クスの木。けっこうな急坂で、夏場この坂を遅刻しないように駆け上がったら1時間目の授業は身に入らないかも。

Img_3640 瓊浦中学説明板

Img_3641 坂下方向

何か行事でもあったのか、日曜の5時を過ぎているのに生徒が登下校?している。

Img_3644 「被爆クスの木」説明板

説明文中央あたりに「遅刻坂」とある。

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