島原市・諫早市(長崎県)の坂
2008年3月11日
長崎駅(長崎本線)→諫早駅(島原鉄道)→島原駅・・・七万石坂・・・猛島神社・・・道元坂・・・郷土資料館(休館日)・・・武家屋敷・・・島原城・・・寺町(善法寺・光傳寺・叶寺・護国寺)・・・白土(しらち)湖・・・江東寺・・・かんじん(勧進)坂・理性院・・・八幡坂・八幡神社・・・南島原駅(島原鉄道)→本諫早駅・・・勢屯(せいだもり)跡・・・眼鏡橋・・・高城橋・安勝寺・馬ん糞(うまんくそ・まんくそ)坂・・・御書院・・・(島原鉄道)・・・会下ん(いげん)坂(上の写真)・・・天祐寺・・・諫早公園(高城神社・高城址・眼鏡橋)・・・諫早神社・・・四面橋・・・諫早駅
1両の島原鉄道は満席状態で、大きなカメラを持った鉄道ファンも多い。この電車に乗るのは3度目で、島原より先の原城と口之津まで行ったのだが、なぜかその時の電車や車内の記憶がまったくない。
島原城の大手門風の島原駅の前から七万石坂が一直線に島原城に上っている。晴れてはいるが背後の眉山、普賢岳は霞んでいる。猛島神社は猛島漁港と池に挟まれた静かな雰囲気の中にある。神社前の道を戻り、国道251号の信号を渡るとゆるやか道元坂の上りとなる。道元といっても曹洞宗の道元にちなむ坂名ではない。途中に湧き水やレトロな青い理髪店跡などがある。坂上から島原城の堀沿いに行くと武家屋敷に出る。中央にきれいな湧き水が流れている。武家屋敷の生活用水に使われていて水奉行が厳重に管理していたという。
島原城にはキリシタン関係の展示物が多く、特に隠れキリシタンの品々が面白い。島原城から南に寺町通りを抜けると白土湖に出る。普賢岳の噴火に伴ってできたもので湖というより池で、眉山の眺めがいい。古い街並みの通りを行き、江東寺に寄る。涅槃像のそばに島原の乱に関係した松倉重政(苛政をしいて島原の乱の引き金となる。)と板倉重昌(幕府から乱鎮圧のため派遣され戦死)の墓がある。高校時代に日本史で、似たよう名前でどっちがどっちか、書き方も覚えるのに苦労させられた二人だ。死んだ後も墓が仲良く並んで(向い合わせだったかも)いようとは。 「からゆきさん」ゆかりの理性院大師堂前の傾斜もほとんど感じない、かんじん坂からこれも緩やかな八幡坂を通って南島原駅に出た。
上りの島原鉄道も学生たちで混んでいる。来る時見かけた鉄道ファンも何人か乗っている。終点の加津佐まで行って戻ってきたようだ。1日中電車に乗っているとはさすが鉄道マニアだが、坂道散歩ファン(マニアか?)にはとてもできない芸当だ。
諫早駅の一つ手前の本諫早駅で下り本明川の方へ歩く。眼鏡橋が架かっていた所には歩行者専用の「眼鏡橋」が架かっている。高城橋を渡ると短い馬ん糞坂、むろん馬糞は落ちていない普通の車道で、落ちているのは犬糞ぐらいか。坂下から御書院に寄り、島原鉄道を渡って、会下ん坂を上る。坂の途中から古風で重厚な家並みが続き、車も人通りも少ない静かな坂で気に入った。今日歩いた坂はどれもいまいちの感じだったがこの坂に出会えたことで来た甲斐があったとすべきか。坂下から郷土舘の前を通り、天祐寺に寄る。広い寺で背後は墓地、上山公園になっている。天祐寺の向い側が諫早公園で、池に本明川から移築された眼鏡橋が架かり、上部は高城址だ。本明川沿いに諫早神社から諫早駅に向った。
写真をクリックすると拡大します。
諫早→加津佐
島原城の大手門風の駅舎。
左後方は眉山、その後ろにうっすらと普賢岳の姿がある。島原藩は松倉重政の時は4万石、松平氏の時は6万5千石だった。半端な数字なので切り上げて七万石坂としたのか?
正面は島原駅
猛島神社(宮の町247)
猛島漁港から
道元坂(坂上方向) 七万石坂の二つ北側の通り。西方向にゆるやかに上る坂。
旧制島原中学の伊藤道元先生の住居があった。左は「猿田彦」石塔、右に湧き水があり女性が水を汲んでいる。
大正時代の建築で、戦後は床屋だった。今は喫茶店とギャラリー
中央は武家屋敷の生活用水路の湧き水。
寛永元年(1624)松倉重政の築城。
中央が七万石坂・島原駅で、その向うに有明海。
寛政4年(1792)の雲仙普賢岳の噴火による地震でできた湖。
山崎酒造(白土町1065)
全長約8mコンクリート製の涅槃像としては日本最大。松倉重政と板倉重昌の追善供養のため建立。
島原の乱の原因となる圧政をしいた島原藩主。
島原の乱鎮圧のため幕府から派遣されあえなく戦死。
かんじん(勧進)坂(坂上方向) 湊1丁目の理性院大師堂の前を南東に上るゆるやかな坂。
理性院大師堂の開山廣田言証和尚が毎日、「勧進」のため素足で歩いた坂。大師堂には「からゆきさん」ゆかりの文物が多く残る。
左側が理性院大師堂
明治年間にシベリア、東南アジア、インド方面に托鉢、巡礼の旅に出た廣田言証氏が行く先々で「からゆきさん」を集め施餓鬼を行った。からゆきさんからのお布施を元に建立された。
八幡坂(坂下方向) 八幡町の八幡神社前を北西に上る八幡坂通り。
左の石灯籠のところが八幡神社
南島原駅(島原鉄道)→本諫早駅 勢屯(せいだもり)跡あたり(諫早市役所前の中央公民舘あたり) 《地図》
寛延3年(1750)の諫早一揆の集合場所。
「眼鏡橋」が架かっていた所。今も橋名は眼鏡橋で歩行者専用。 《地図》
正面奥の上は安勝寺の屋根だろう。この眼鏡橋は諫早公園に移築されている。頑丈な造りのため昭和32年の諫早大水害の際の激流でも壊れず、かえって流れをせき止める堤防の形になり、死者539人の大きな犠牲者を出す原因ともなった。
安勝寺(金谷町9)
天正年間の初めの創建で、江戸時代の本陣という。シーボルトも泊まったそうだ。
昭和19年まで時を告げた鐘
馬ん糞(うまんくそ・まんくそ)坂(坂上方向) 高城橋から安勝寺の西側に沿って北方向に上る。
この坂を馬が上る時によく糞をしたからという。今は短く傾斜もゆるいが、昔はもっと急坂だったようだ。
御書院(諫早高校の敷地内)
諫早家初代の龍造寺家晴が築いた池泉回遊式庭園。今日は入学試験日で入れず。
会下ん坂(坂上方向) NTTと宮崎温仙堂の間の信号から島原鉄道を渡り南方向に上る。
このあたりは武家屋敷で、坂上の家老の家でよく会合が開かれた。「会合場所の下の坂」から「会下ん坂」と呼ばれるようになった。
諫早家の菩提寺
諫早一騎の指導者
子供たちが岩の上の地蔵と背くらべをしたという。
高城は15世紀に西郷氏が築く。のち龍造寺が入城して諫早氏を名乗り居城としたが二代の時に取り壊された。
眼鏡橋(諫早公園内)
天保10年(1839)に本明川に架けられた石橋。1961年にここに移築された。1958年に道路橋としてはじめて重要文化財に指定された。
諫早神社(宇都町1)
四面宮として神亀5年(725)創立という。
今でも通行可能。
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