箱根(旧東海道)の坂-1
2008年4月16日
箱根湯本駅(小田急線)・・・三枚橋・・・旧東海道・・・白山神社・・・早雲寺・・・石垣神社・・・正眼寺・・・双体道祖神・・・一里塚跡(日本橋から22番目)・・・猿沢石畳・・・福寿院(箱根観音)・・・観音橋・・・観音坂・・・葛原橋・・・葛原坂・・・箱根大天狗山神社・・・初花の滝碑・・・駒形神社・・・霊泉の滝・鎖雲寺(初花堂・初花と勝五郎の墓)・・・須雲川自然探勝歩道入口・須雲川橋・女転し坂跡・弘法のいぼ取水・・・須雲川自然探勝歩道・・・須雲川・・・割石坂・・・接待茶屋跡・・・大沢坂(上の写真)・・・畑宿(本陣跡・駒形神社・守源寺(箱根七福神)・一里塚(23番目))・・・西海子(さいかち)坂・・・七曲り・・・橿木坂・・・樫の木平・見晴し茶屋・・・山根橋・・・甘酒橋・・・猿滑坂・・・笈の平・親鸞上人旧蹟碑・・・追込坂・・・旧街道資料館・甘酒茶屋・・・お玉坂・・・白水坂・・・天ケ石坂・・・箱根の森展望広場・・・馬子唄碑・・・お玉観音堂・・・権現坂・・・杉並木・・・興福院(箱根七福神)・・・箱根神社一の鳥居・賽の河原・・・身代り地蔵・・・一里塚(24番目)・・・杉並木・・・箱根関所跡・・・関所跡入口バス停→小田原駅
箱根湯本駅から芦ノ湖、箱根宿までの旧東海道の坂道散歩です。三枚橋を渡って旧東海道に入る。鎖雲寺あたりまでは見どころも多いがほとんど車道歩きとなり、車もけっこう通る。静かな散策道の須雲川自然探勝歩道から割石坂に入ると石畳の旧道となり、車道を横切ったり、平行したりして旧東海道の旧道は上って行く。箱根は街道一の難所で、坂道は雨が降ると脛(すね)までつかる泥道となるため、竹が敷かれた。しかし、竹を敷くには毎年多大の費用と労力がかかるため、江戸幕府は延宝八年(1680)に石畳に改修した。大沢坂の石畳は苔むしていて長い歳月を感じさせる。ただ湿っていて滑りやすく、下る時の方が苦労するだろう。
大沢坂を抜けると畑宿の集落で、本陣跡、寄木細工会館、駒形神社などが並ぶ。一里塚を過ぎて西海子坂を上り、車道の七曲りに出て何度か折り返しながら上ると橿木坂の急な石段が直線的に上っている。昔はもっと長い急坂の難所で、「苦しくてどんぐりほどの涙こぼる」と歌われたほどだ。今はただの石段坂で味気ないが、うぐいすや小鳥のさえずりを聞きながら上れば大したこともなく街道上の見晴茶屋に着く。茶屋下の旧道はしばらく平坦で、山根橋、甘酒橋を過ぎると、猿も滑ったほどの急坂だったという猿滑坂だが、これも途中を車道で分断されていて往時の面影はない。
笈の平を過ぎると追込坂からはなだらかになり、甘酒茶屋で一休みして、哀れな物語の残るお玉坂から白水坂、天ケ石坂、途中から入る箱根の森展望広場から二子山を眺め、馬子唄碑の前を通り、まだ新しいお玉観音堂に寄り、権現坂の坂上に出る。ここからは芦ノ湖へ向って下りとなる。石畳は上りより下りの方が歩きづらく、よそ見をしていると滑ったり転びそうになったりして気分的に疲れる。それでも下って行くのは早く、木々の間から芦ノ湖が見え始め、坂下の杉並木から観光客でにぎやかな湖畔の国道1号、現東海道へ出た。
朝早く歩き始めたこともあり、ここまで車道以外では人にほとんど出会わなかったがさすが箱根、このあたりは平日とはいえかなりの人だ。外人さんも多い。賽の河原、箱根神社一の鳥居から旧道の杉並木を通り箱根関所の江戸口御門から入り、京口御門を抜けた所で今日の坂道散歩の終点とした。今日歩いた坂は箱根東坂といい、この先、旧東海道は向坂、赤石坂、釜石坂、挟石坂と箱根峠まで箱根東坂は上って行き、甲石坂から箱根西坂となって三島宿まで下っている。近々、天気にいい日に歩くつもりだ。
『箱根の坂②』に続く
【ルート地図】
写真をクリックすると拡大します。
早川には中洲が二つあり、小田原側から地獄橋、極楽橋、三昧橋が架かっていた。三昧橋を渡ると早雲寺領で、この寺へ逃げ込めばどんな罪人でも罪を免れたといい、追手も地獄橋までしか追って来なかった。三昧は仏三昧で、早雲寺に逃げ込んだからには仏三昧に暮らせということ。三つの橋と三昧をかけて三枚橋になったという。
石祠内の道祖神はまだ新しいようだ。
落葉の焚き火の煙で境内は煙っていた。
豊臣秀吉が北条攻めの時に築いた社という。
曽我兄弟の仇討ちのゆかりの寺
曽我兄弟供養塔、曽我堂、曽我五郎の槍突石など。
仲良く手を取り合っている。ここは旧湯本茶屋村の村境。
日本橋から22番目
下って猿橋を渡る。《地図》
今はこれが観音坂か。
箱根観音(福寿院)(箱根町湯本茶屋)
跨いで撫でさすって祈るという「跨ぎ撫で観音」がある。
観音坂(坂上方向・観音橋から) 《地図》
このあたりを字古堂といい、昔、観音堂があったという。今の箱根観音ではない。
葛原橋から
神仏金剛宗という新興宗教らしい。割石坂の坂下近くにも奥の院?がある。
箱根霊験躄(いざり)仇討(後述)の初花が水垢離した滝。
対岸の湯坂山の中腹に初花の滝があるが見えず。
石段を上った小高い所にある。
浄瑠璃『箱根霊験躄仇討』:「大阪で町道場を開いていた父の仇討ちのため妻の初花と諸国を旅していた飯沼勝五郎は箱根に入った頃には足が不自由になって「躄(いざり)勝五郎」と呼ばれていた。初花は向かいの山中の滝にうたれ夫の病気平癒と仇討ち成就を祈った。その一念が天に通じ、仇の佐藤兄弟にめぐり合い見事、本懐を遂げた。」 父ではなく兄の仇とする話もある。
須雲川自然探勝歩道入口 《地図》
右に「女転し坂」の石柱
「登リ一町餘」とある。
女転し坂跡あたり 《地図》
寛永年間(1624~44)に女の旅人が落馬して死んだのでこの名がついた。一町(109m)ばかりを直線的に上っていたのだろう。関東大震災で崩落してしまった。
石柱の前のくぼみの水に浸せばイボが取れるという。箱根火山の安山石で、保水性が高く水は涸れないそうだ。
割石坂の上り口 《地図》
「登り一町餘」
このあたりは江戸時代の石畳。
碓氷道→足柄道→湯坂道→旧東海道→国道1号
「登り三町餘」
「座頭転ばし」ともいった。苔むした石畳で気分がいいが滑りやすい。
左側に排水路の説明板
寄木細工の板を干している。
右の石段は守源寺へ
箱根七福神の大黒天
日本橋から23番目。右側にもう一つある。塚は発掘調査に基づき平成10年に復元したもの。
道の両側に残るのは戸塚の品濃坂についで二つ目。
「登り二町許」
坂上方向 《地図》
坂上方向 《地図》
正面右へ橿木坂の石段が上る。
「登り五町許」
かつては五町(550m近く)ほど続く急坂で、「どんぐりぼどの涙こぼる」と歌われるほどだったが、崩落して今は石段になっている。
急だが鶯や小鳥のさえずる中を上って気分がいい。
見晴し茶屋 《地図》
定休日
見晴し茶屋の所
雲助になるのはけっこう難しく、悪さをする者はいなかったというが。
「元箱根まで2.7km」
「登り一町餘」
猿も登れないほどの急坂だったというが、車道で分断され面影が薄れてしまっている。車道に出てさらに上る。坂上からはゆるやかな道になる。
「登り二町餘」
「フッコミ坂」といったとも。
坂上方向 《地図》
この後の坂は傾斜がゆるくなり、権現坂で下って箱根宿へ入る。
【ル-ト地図】の57現在、改築中のようだ。甘酒1杯400円だが旨い。忠臣蔵「甘酒茶屋」のくだりで、神崎与五郎が馬喰の丑五郎に言いがかりをつけられたが、大事の前のためじっとこらえ詫証文を書いた所というが、説明板によると、実際は三島宿での大高源吾の話だという。
元禄15年(1702)、奉公先から逃げ帰る途中、関所破りをして処刑された伊豆大瀬村の農家の娘、お玉にちなむ。北側にお玉の首を洗ったというお玉ケ池がある。獄門にかけられたのがこの坂とも、お玉ケ池のほとりともいう。
「登り十二間餘」とあるが、もっと長い。
坂上方向 《地図》
「登り七間餘」
坂上方向 《地図》
もとは「天蓋石」でそれが訛ったとも。
箱根の森展望広場から左側に見える山。
右に見える山。
皇女和宮の降嫁ために改修されたが、ここ東海道を通らず中山道を下った。
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」
まだ新しい堂と観音像だ。
坂下方向 《地図》
坂の長さが八町あるので八町坂ともいう。下りの方が歩きづらい。昔はこの坂から箱根権現(箱根神社)への道が通じていた。
箱根七福神の布袋尊
箱根神社一の鳥居
薄曇りで富士山も逆さ富士も見えず。
江戸時代には地蔵信仰の霊地でもっと規模が大きく多数の石仏、石塔が並んでいた。
身代り地蔵 《地図》
宇治川の先陣争いで武名を高めた梶原景季が父の景時と間違われて襲われた時、身代りになったという地蔵。刀傷が残っているとか。
江戸日本橋から24番目。
箱根関所(江戸口御門)
「入り鉄砲に出女」いわれたが、この関所では江戸からの出女が厳しく取り調べられた。
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