山背古道-2
2008年5月14日
奈良駅(JR奈良線)→玉水駅・・・玉川・・・椿坂下・橋本橋・・・橘諸兄旧跡・・・平ノ山橋(渋川)・・・以仁王墓・高倉神社・・・天神橋(天神川)・・・綺原(かんばら)神社・蟹満寺・・・(JR奈良線)・・・不動中橋(不動川)・・・(JR奈良線)・・・涌出宮・・・(棚倉駅)・・・和泉(わせん)寺・・・鳴子橋(鳴子川)・・・(JR奈良線)・・・西音寺・・・春日神社・・・(JR奈良線)・椿井大塚山古墳・・・阿弥陀寺・・・(JR奈良線)・・・松尾神社・・・(JR奈良線)・・・廻照寺・・・上狛環濠集落・大井戸・阿弥陀寺・西福寺・・・山城茶問屋ストリート・・・円成寺・地蔵石仏・泉橋(せんきょう)寺・・・木津川・・・狛の渡し跡・泉橋跡あたり・・・泉大橋(木津川・国道24号)・・・大智寺・・・和泉式部墓・・・(JR学研都市線)・・・正覚寺・・・北向地蔵・・・天王社・・・信楽寺・・・西蓮寺・・・大正橋(井関川)・・・新天神橋・・・・県道754号・幣羅(へら)坂(市坂)・市坂念仏石・幣羅坂神社・安養寺・・・幣羅坂・・・糠田橋(井関川)・・・文廻池・・・(JR奈良線)・・・跨線橋(JR奈良線)・・・岡田国神社・・・JR木津駅(JR奈良線)→奈良駅
昨日の続きで山背古道を椿坂下から幣羅坂までの坂道散歩です。天気予報では晴れてくるはずだが、玉水駅から玉川沿いに歩き始めるとポツポツと落ちてきた。傘は置いてきたので帽子を被って雨除けだ。橘諸兄旧跡で参道の石段を掃き清めている人としばし雑談。「また来てください。」と言われたが、それはどうか・・・。山背古道には川が多い。昨日は青谷川、南谷川、今日は玉川、渋川、天神川、不動川、鳴子川、木津川、井関川を渡る。大きな川は木津川だけだが、天井川も多く大きな災害の歴史もあるようだ。
蟹満寺の縁起話の「蟹の恩返し」(後述)は、東京福生市の「蟹坂」の由来話と同じだ。このような話は各地にあるのだろう。蟹満寺から南に行き、JR奈良線を渡る。ちょうど電車が南側のトンネルに入って行く。このトンネルは天井川の不動川の下を掘り貫いたものだ。上に川が流れているとは何度もこのトンネルを電車で通過しているのに知らなかった。
昨日、飲みすぎたせいか疲れてきた。これも天井川の鳴子川を越え春日神社手前の小公園で昼飯とし、ベンチで一眠りする。風が少し強いが陽射しが暖かく、誰も来ないのでぐっすり30、40分寝たら頭も体もスッキリして再出発。
三角縁神獣鏡が30数面も出土した椿井大塚山古墳は蟹満寺の蟹に切られた大蛇のように、JR奈良線の線路に胴体をちょん切られ、前方部の上には民家が並ぶ。そこで一句、「無惨やな 線路の下の 古代びと」 椿井大塚山古墳は邪馬台国畿内説を補強する古墳として語られることが多いが、古事記の崇神天皇の条にある建波邇安王(タケハニヤスノミコ)の叛乱伝承にからめて考えてみた。(後述)
山背古道から少し離れた小高い松尾神社(上の写真は神社への坂)に寄り、上狛環濠集落内をグルッと回り、南に山城茶問屋ストリートを過ぎると木津川が近い。日本一の高さという泉橋寺の地蔵石仏は露座のままだ。木津川の土手に上り、少し下流に行くと狛の渡し跡で、川の中と岸辺に泉橋の残骸が残っている。泉大橋を渡り、西へ和泉式部の墓へ向う。無住の寺の堂の前の小さな盛り土の上に「和泉式部墓」の石柱が立つ。ちょっと見すぼらしい感じなので前の花を入れて写真を撮る。後日、知ったがこれは和泉式部の墓ではなく、墓への道案内標柱だった。うっかり、がっかりだが、昨日は美人の小野小町の墓に行っているし、才媛の舎利頭(しゃりこうべ)に会っても仕方ないと負け惜しみを言うしかない。
南にあちこち寄りながら進み、JR奈良線を越えてしばらく行くと幣羅坂の上りとなる。ここはもう山背古道からは外れている。古事記に載る伝承の坂(後述)だが、今は市坂と呼ばれる国道754号で何の面白味もないただの直線的な車道で、おまけに工事中で騒音がひどく道沿いの商店も迷惑そうだ。もちろん伝承の坂で、どことは特定はできないが。坂上の幣羅坂神社に寄り、坂を下り途中から文廻池沿いを歩き、岡田国神社から木津駅に向った。
【ルート地図】
*参考:『木津川市 文化財』
写真をクリックすると拡大します。
橘諸兄旧跡 【ルート地図】の⑥
井出は諸兄の所有地で井出の左大臣と呼ばれ、広大な別業(別荘、別宅)があり、聖武天皇を招き壮麗な宴遊を催した。
以仁(もちひと)王墓(右)・高倉神社(左)
治承4年(1180)、以仁王は源頼政にかつがれ平家打倒に立ち上がったが宇治川の合戦で敗れ、奈良へ落ち延びる途中、ここで流れ矢に当りあえなく落命したという。邸宅が三条高倉にあったことから高倉宮と呼ばれた。
正式名は石柱に。
秦氏の一族の綺(かば)氏が養蚕及び衣服を織る技術者を祀って創建したともいう。ここの地名は「綺田(かばた)」
蟹満寺(観音堂の扁額)
蛇に巻きつかれた蟹がハサミで蛇をちょん切ろうとしている。蟹満寺の登録商標だろう。
蟹満寺縁起「蟹の恩返し」(今昔物語集):「昔、この地に信心深い親娘が住んでいた。ある日、娘が村人につかまった蟹を助けてやった。父親もある日、大蛇に飲み込まれようとする蛙を、娘を大蛇の嫁にやると約束して助けた。数日後、約束通り大蛇が娘をもらいにやって来た。父娘は一心不乱にお経を唱え、大蛇が退散するのを願ったが、大蛇は怒り狂い家の回りを暴れ回った。しばらくすると静かになったので外へ出て見ると、無数の蟹と切れ切れになった大蛇が横たわっていた。娘が助けた蟹が大勢の仲間を引き連れて恩返しに来たのだった。親娘は蟹と蛇の霊を弔うため寺を建てた。それが蟹満寺である。」 約束を破られた大蛇が怒り狂うのは当たり前。人間の身勝手な言動で死んでいった蛇と蟹が哀れな話だ。寺を建て経をあげ、供養すればすむ話ではなかろう。
奈良時代の白鳳期の末期(680年前後)に創立されたという。かつては紙幡(織)寺、加波多寺ともいわれた。「かばた」→「かむはた」→「かにまた」→「かにまん」か? もっと複雑のようだ。「かばた」は地名の綺田、この寺も秦氏にゆかりのある寺なのだろう。本尊の銅造釈迦如来坐像は国宝。足腰に霊験あらたかとか。
正面のトンネルの上を天井川の不動川が流れている。(棚倉駅の北側)
右は不動公園
正式には「和伎座天乃夫岐売(わきにいますあめのふきめ)神社
境内全体が弥生時代の集落跡。毎年2月の居籠祭は国指定重要無形民俗文化財。
高野山真言宗山城大師。和泉式部とは関係ない。
ここも天井川だ。
椿井大塚山古墳後円部 【ルート地図】の⑦
左はJR奈良線の線路
邪馬台国大和(畿内)説を強調したいような説明文だ。出土した30数面の三角縁神獣鏡は、ここ山城の地の支配者(邪馬台国ではない)だった被葬者が各地から集めたのでは。この地の支配者は古事記の崇神天皇の時の叛乱伝承(幣羅坂の所に記述)の建波邇安王(タケハニヤスノミコ)の一族ではないだろうか。ここ山城の地と交通の要衝の木津川を押さえ、ヤマト(倭)と対峙し、ヤマトが北方に進出するのを妨げ、折あらばヤマトへの進出も考えていたのではなかろうか。
3世紀末から4世紀初の築造。全長約180mの前方後円墳。
下をJR奈良線が通る。
前方部上には民家が建っている。
大宝元年(701)の創建、拝殿は慶長15年(1610)再建、本殿は文化5年(1808)奈良春日神社若宮本殿を移築。渡来人の秦氏の建立。
応仁の乱の時、外敵を防ぎ、村を守った堀割の名残りに、村人が団結した山城国一揆の面影が残る長径約600m、短径約300mのレモン形の環濠集落(周囲に濠をめぐらした集落。排水、外敵からの防御、集落の境界の機能をもつ。)
狛氏の居館跡。狛氏は高麗寺を建立した高句麗からの渡来人だろう。環濠集落内には共同井戸の郷井戸もあるはずだが見当たらず。
環濠集落内
高さ約4.5mで、日本一の石地蔵。
永仁3年から13年以上かかって完成。応仁の乱で焼かれ、頭部と両腕は元禄3年(1690)に補われた。
奈良時代の天平13年(714)に行基によって木津川(泉川)に架けられた泉橋を守護、管理、供養するために建立された寺。橋寺ともいう。
木津川は泉川といわれた。
明治時代?の建てられたそれほど古くないもの。
狛の渡し跡・泉橋跡あたり(泉大橋から500m下流(西側)あたり)
泉橋(明治26年に架けられたもの)の橋脚の残骸が川岸や川の中に見える。
奈良時代に行基が架けたという泉橋はその後、何度も流失し、平安時代には渡し船の「狛の渡し」に変えられ、明治26年に泉橋が架けられるまで続いた。
鴨長明の『方丈記』の出だし部分 「行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず・・・」
弘安年間(1278~88)に叡尊によって建てられた。真言律宗西大寺の末寺。
和泉式部の墓のある寺(無名、無住のようだ)【ル-ト地図】の⑨
平安時代の女流歌人で三十六歌仙の一人。生没年不詳。紫式部らと一条天皇の中宮彰子に仕えた。『和泉式日記』・『和泉式部集』など。恋愛遍歴が多く、藤原道長から「浮かれ女」と言われたとか。
「あらざらんこの世のほかの思い出に 今ひとたびの逢ふこともがな」 『百人一首』
左の「和泉式部墓」石柱の所が墓ではない。石柱の上部に「このおく」と彫られている。小野小町同様、和泉式部の墓も各地にある。
明治初年まで北大路中央にあり、廃仏毀釈で一時、正覚寺に移され、大正5年にここに安置された。
応永年中(1394~1428)、京都の八坂神社を勧請したという。
氏子がいない神社だとか。
幣羅(へら)坂(坂上奈良方向) 坂上に幣羅神社 【ルート地図】の⑩
古事記に登場する幣羅坂:「崇神天皇の御世、四道将軍の一人、大毘古命(オオビコノミコト)を越(こし)国を平定に向わせた。大毘古命が山城の幣羅坂まで来ると、腰裳をつけた少女が歌って言うには、「御真木入日子(ミマキイリビコ・崇神天皇のこと)はまあ、自分の命をひそかに狙っている者がこっそり伺っているのも知らないで、御真木入日子はまあ」 そして少女(天津乙女命)はたちまち姿を消した。怪しんだ大毘古命は都(磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや))へ取って返し報告すると、天皇はその歌は山城の大毘古命の異母兄の建波邇安王(タケハニヤスノミコ)が叛逆するということだと言い、丸邇(和爾)臣(ワニノオミ)の祖先の日子国夫玖命(ヒコクニブクノミコト)を副えて遣わした。日子国夫玖命は丸邇(和珥)坂に斎み清めた酒瓶を据えて神を祭り下って行った。山城の和言可羅河(ワカラガワ・泉川(木津川)の古名)まで来た時、建波邇安王は軍勢を整え待ち受けて行く手を遮り、川をはさんで互いに戦をしかけた。 (以下略)
*涌出宮の居籠祭(上述)は、この戦さの戦死者の霊を鎮めるために始まったとも言われている。
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和爾座赤坂比古神社近く
(2008年5月16日撮影)
「山の辺の道」の平等寺の南あたり
(2000年6月23日撮影)
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法然上人が念仏の功徳を証明するため、「南無阿弥陀仏」の名号の紙と、大石に向かい「名号の功徳の大きいこと石より重し」と唱えると、石は浮き、名号の紙は地にぴったり貼り付いてしまったという。
祭神は大毘古命と天津乙女命
近世まで「天神社」と称していた。鳥居の扁額には「天神宮」とある。
下をJR奈良線が通る。
広場の舞台を中心に拝殿、本殿(左右二つ)と並ぶ珍しい形式。
昭和58年竣工
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