足利市(栃木県)の坂
足利市駅(東武伊勢崎線)・・・中橋(渡良瀬川)・・・足利デパート・・・法玄寺・・・織姫神社・機神(はたがみ)山山頂古墳・行基平古墳・・・三宝院・・・常念寺(足利七福神毘沙門天)・観音坂・子安観音堂・・・厳島神社①(長尾弁天・足利七福神の弁財天)・・・二重坂(の切通し)(上の写真)・二重坂の地蔵・・・足利公園・足利公園古墳群・・・八雲神社①・・・福厳寺(足利七福神の布袋尊)・・・八雲神社②・・・鑁阿(ばんな)寺(足利七福神の大黒天)・・・御嶽神社(蔵王宮?)・・・御影寺・・・県立図書館・・・八幡神社・・・厳島神社②・・・善徳寺・・・足利学校・・・足利市駅
足利氏発祥の地、織物業で栄えた足利市の坂道散歩です。暑くはなるとは予想していたが、今日は隣りの館林市(群馬県)では最高気温が32.2度だった。
織姫神社の石段を上り、少し上の機神山山頂古墳(標高118m位)に上るだけで汗びっしょりになった。このあたりは両崖山の尾根の最南端で月見ケ丘といい、行基が月見の宴を開いたので行基平という名も残る。ここから長林寺へ向おうとしたが、両崖山の方へ上ってしまったり、行き止まりの道に入ってしまい、散歩中の人に聞いてもよく分からないようなので、再び織姫神社へ出てから石段を下った。鳥居脇の自然水が美味かった。
三宝院から中央通りに出ると常念寺で、その西側を観音坂の石段が上っている。坂上の子安観音堂から両崖山へのハイキングコースに通られている道で一般道の坂ではない。常念寺から西に行くと中央通りの車道の両側は切通しの崖となる。どちらかの崖上に二重坂の地蔵が座っていて、切通された二重坂があるはずだが地蔵の姿は見えない。北側の崖の方だと検討をつけ細い道を入ってみたが行き止まってしまうようだ。民家が建て混んでいてあまりうろついているのもまずいので、南側の崖の方の探索に入る。
観音坂の坂下、常念寺の向かい側から坂が緑町配水場の方へ上っている。途中から崖の方へ入る小道があるかもと思っていたら、すぐに右に入る道があり、少し上ると赤土のむき出た崖下に「足利開鑿二重坂之碑」が立っていた。切通しを抜けると道は細くなり、下の車道と平行して下って行く。見上げると左の崖の上(車道の崖上ではなかった)に地蔵さんがひっそりと座っていた。嬉しくなりほっとした。地蔵さんの所まで細い階段がつけられ、地蔵の前には花が供えられていた。もとは二重坂は地蔵さんの高さまで上って下っていたのを、切通して道を切り下げたので地蔵さんは崖上に残ったのだろうと勝手に推測した。折角、開鑿された道も今はあまり使われていない廃道寸前のようで、切通しの崖下には車が放置され、その先は細くなり民家の前の、人が一人通れる位の道になっている。道同様、開鑿碑も忘れられ気づく人も読む人もいないだろう。下の車道を走る車も地蔵さんが崖上から交通安全を祈ってじっと見守ってくれていることも知らずにスイスイ通過して行くだけだ。
予定の坂は見つけられたし、後は気が楽だ。日本で一番最初に調査されたという足利公園古墳群から、「九・一そば」の第一立花で昼休みを取り、見学者の多い、読むのも書くのも難しい鑁阿寺、有名な足利学校などを回り、再び中橋渡って足利市駅に戻った。
【地図】
写真をクリックすると拡大します。
昭和25年創業の学校の制服を主に販売の衣料店のようだ。建物といい「デパート」といいいちょっとレトロっぽい所がいい。*(惜しくも2013年10月に閉店したそうだ。)
ここから229段の階段を上ると織姫山(機神山)の中腹に社殿がある。
顔を近づけると自動的に水が出てくる、まさに「自然水」のすぐれもの。
約1300年の伝統を持つ足利織物の守り神。昭和12年にここに遷座。
機神山山頂古墳(織姫神社からさらに上った所) 前方部西側から
6世紀半ば頃築造の全長約36mの前方後円墳。
後円部の墳頂下
行基平古墳 《地図》
機神山山頂古墳の北側。このあたりで行基が月見の宴を催したという。
前方部を南に向けた全長約36mの前方後円墳。機神山山頂古墳より早い5~6世紀の築造と推定される。
足利七福神の長尾「弁財天」
藤原秀郷の子孫という藤姓足利氏の足利五郎太藤原行国の墓がある。足利藤原氏は源平合戦の時、平氏に味方し源頼朝に滅ぼされた。足利尊氏は清和源氏の家系。
時宗の寺、足利七福神の毘沙門天
坂上に子安観音堂、右側は常念寺
左は常念寺
幟には、「足利坂東三十一番子安観世音菩薩 多宝山 福厳寺」とある。
観音山、天狗山から両崖山(251m)へ続くハイキングコースの道。
正面の新しい馬頭観音碑の後ろ側を登って行くようだ。両崖山には藤原(足利)成行が天喜2年(1054)に築城した足利城(両崖山城)があった。
左側の崖の裏側に、切通しの道の二重坂、二重坂の地蔵がある。
二重坂(坂上方向) 常念寺の向かい側から緑町配水場の方へ上り、途中から北西(右)に上り、車道の方へ下る。
左下に「足利開鑿二重坂之碑」
二重の意味が分からない。
本文は全部漢字でよみづらい。最後に明治11年9月とある。
左の方へゆるくカーブ。
台座の左側面に宝暦13年(1763)と彫られている。
もう民家の私道のような感じだ。
「近代水道百選」に選ばれている配水場
足利七福神の布袋尊
百日咳、ぜんそくなど咳の病にご利益あり。
近くの織姫神社と合わせたデザイン・カラー(紅白)にしているのだろう。
鑁阿(ばんな)寺配置図
鑁(ばん)・阿(あ)はそれぞれ金剛・胎蔵の大日如来をあらわす種子で真言宗の理想を示す文字という。
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足利学校入徳門
奥が学校門
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