奈良市の坂-1
2008年6月3日
JR奈良駅・・・三条通り・・・高橋(佐保川)・・・県立図書情報館・・・(歴史の道)・・・下堂橋(秋篠川)・・・皆天満宮・・・(薬師寺)・・・(唐招提寺)・・・宝来山古墳(垂仁天皇陵)・・・三条通り(国道308号)・・・垂仁天皇陵陪塚・・・西蓮寺①・・・菅原神社・・・八坂神社・本教寺・・・西大寺・・・(近鉄奈良線)・・・二条町・・・(称徳(孝謙)天皇陵)・・・日葉酢媛陵・成務天皇陵・・・瓢箪山古墳・・・塩塚古墳・・・マラ塚・・・添御縣坐神社・歌姫越え(歌姫街道)・・・(猫塚)・・・(平城天皇陵)・・・葛木神社・・・西蓮寺②・・・水上池・・・磐之媛命陵・・・コナベ古墳(小奈辺陵墓参考地)・・・ウワナベ古墳(宇和奈辺陵墓参考地)・・・(JR奈良線)・・・不退寺・・・狭岡神社・狭穂姫伝承地・・・瑞景寺・・・長慶寺・・・興福院・・・下長慶橋(佐保川)・・・太田稲荷大明神・・・油坂・西方寺・蓮長寺・教行寺・・・念仏寺・・・漢国(かんごう)神社・・・開化天皇陵・・・三条通り・・・JR奈良駅
早くも昨日梅雨入りして今日も朝から雨だ。予定を変更し午前中は大安寺近くの県立図書情報館で過ごし、小雨の中を右回りで「歴史の道」沿いに歩く。日光・月光菩薩像たちが東京国立博物館へ出張中の薬師寺から低い崩れかかった土塀の残る道を唐招提寺へ向い、近鉄の線路を渡り北へ行くと満々と水をたたえた大きな濠の中に常世の国を探し求めた垂仁天皇陵の宝来山古墳が浮かぶ。小雨に煙るその姿はまさに常世の国、宝来山といった風情だ。
真ん中に地蔵堂がある二条町交差点から北に行くと、佐紀盾列(たてなみ・たたなみ)古墳群の天皇陵、皇后陵の並ぶ一帯に入る。広い濠に囲まれた道は静かで散策にはもってこいだ。瓢箪山古墳のから暗い小道を抜け、マラ塚らしき所を過ぎると添御縣坐神社で、大和と山城を結ぶ下ツ道の延長の歌姫越えの古道が通っている。この道は都が平安京に移り、奈良市街が東大寺、興福寺の門前町として発達するに従って、上ツ道(国道169号)の延長の奈良坂越えの方へ交通路が移って行った。今はただの車道で通行量も多く、添御縣坐神社までは起伏はゆるく、神社から北に下っていて奈良坂のような峠の感じはしない。
南に戻り雑木林に覆われ近づきにくい猫塚を眺め、葛木神社から水上池に出た。ここも大きな周濠に囲まれて磐之媛陵、小奈辺・宇和奈辺の陵墓参考地が並んでいる。JR奈良線を跨線橋で越え、在原業平の不退寺、狭穂姫の伝承地の狭岡神社から興福院まで行き、歴史の道から離れ、南に下長慶橋で佐保川を越え、ゆるやかに上って下ると油坂の坂下あたりに突き当たった。油問屋、油商人が住んでいて町名も油阪町のこの坂も、坂沿いに寺や旧家も残るものの今は車の多いだだっ広いだけの通りで何の面白味もない。だが坂道散歩としては一つでも名のある坂を歩けたことを良しとすべきか。
一昨日捻挫した右手首に医者でギブスのような物を付けられ、途中まで小雨の降る中、傘はさしにくく、写真も撮りにくかったが、平坦で何度か歩いているコースとはいえかなり歩いた。風呂に入って、一杯やって今日はよく眠れるだろう。
写真をクリックすると拡大します。
皆天満宮(薬師寺の隣り)
薬師寺東塔(右)
撮り方が悪いせいか傾いて見える。
「ゆく秋の 大和の国の薬師寺の 塔の上なる ひとひらの雲」 佐佐木信綱
垂仁(すいにん)天皇陵(宝来山古墳・全長227mの前方後円墳)
第11代天皇、皇后の狭穂姫は兄の狭穂彦の叛乱に加担して焼死。後の皇后の日葉酢媛が死去した時は殉死に替えて土偶を葬った(埴輪の起源説話)。田道間守(たじまもり)に命じて常世の国の非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)を求めさせた。手前の小島が田道間守の墓とされている。佐紀盾列古墳群の南端に位置する古墳。
垂仁天皇陵陪塚 《地図》
垂仁天皇と関連のある人物の古墳。陪塚といってもかなり大きい。
菅原氏は天皇陵造営や埴輪の製作をした土師(はじ)氏から改姓した。秋篠氏も同様。菅原道真はこの地で生まれたともいう。京都で生まれた説もあり定かでない。
天平神護元年(765)に称徳天皇(孝謙天皇のが東大寺に対抗して建立。
手前が東塔跡の基壇。当初は八角七重の大塔(手前の敷石が八角の基壇計画の所)を建てる予定だった。
西大寺の鎮守社。見世棚造の社殿。
二条町交差点の所 《地図》
称徳(孝謙天皇)天皇陵
聖武天皇と光明子のむすめ。この時代には藤原仲麻呂(恵美押勝)、吉備真備、道鏡、和気清麻呂らが活躍する。 西大寺の創建者。
垂仁天皇の後の皇后、丹波道主(たにわのみちぬし)王のむすめ。
第13代天皇だが記紀には事蹟、伝承の記述が少ない。
瓢箪山古墳(前方部から後円部方向) 《地図》
佐紀盾列古墳群の一つで、4世紀末~5世紀初頭の全長96mの前方後円墳。
瓢箪山古墳からマラ塚、l添御縣坐神社へ向う暗い小道。
マラ塚らしい 《地図》
地図からはここだが、案内板もなく、近くの畑で作業している人もいるが名前が名前だし、確かめなかった。
古代の下ツ道の北端の大和と山城の国境の歌姫越えに鎮座し、旅人の安全を守る手向けの神として崇敬されてきた。奈良坂越えにもちょうどここから真東の坂上に奈良豆比古神社が鎮座している。
「このたびは 幣(ぬさ)も取あへず手向山 紅葉の錦 神のまにまに」 菅原道真
この歌の手向山は東大寺の東の手向山八幡宮のことかと思っていた。
「佐保すぎて 寧楽(なら)の手向けに 置く幣は 妹を目離(めか)れず 相見しめとぞ」 長屋王(『たのしい万葉集』)
歌姫越え(歌姫街道)(坂下方向) 《地図》
越えるといっても峠のようではなく、添御縣坐神社まではほとんど傾斜はなく、神社前から北へ下って行く。「歌姫」とは古事記にも歌が載る仁徳天皇の皇后、磐之媛(葛城襲津彦のむすめ)にちなむ名とも。たしかに磐之媛陵も近い。
つぎねふや 山代川を 宮のぼり わがのぼれば あをによし 奈良を過ぎ をだて 大和を過ぎ わが見がほし国は 葛城高宮 吾家(わぎへ)のあたり 『古事記』 (葛城高宮(高丘宮跡)は葛城古道の道筋にある。)
5世紀前半の全長105mの佐紀楯列古墳群では中規模の前方後円墳。
平城天皇陵(正面) 《地図》
全長250mの前方後円墳
仁徳天皇が皇后の古代の豪族、葛城氏の出自の磐之媛を偲んで建立したのか。
葛城襲津彦のむすめで、仁徳天皇の皇后。嫉妬深く(情熱家?)で、『日本書紀』によれば仁徳天皇が八田若郎女を寵愛したため家出して、没するまで戻らなかった。上述の歌はその時の歌。
承和14年(847)在原業平が建立。
石段脇に狭穂姫の伝承の鏡池などが残る。
あまりなじみがない神だ。
「佐保」の地名は狭穂彦、狭穂姫からきているのだろう。
枯れていたのを平成17年に保水工事をした。
霊亀2年(715)に藤原不比等が邸宅「佐保殿」の丘に天神八座を祀ったことに始まるという。
可哀そうに茂みに後ろに隠れて正面からは見えない。
浄土宗知恩院派の尼寺。
下長慶橋から佐保川 《地図》
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