秩父の坂(秩父巡礼道)-1
2008年6月14日
和銅黒谷駅(秩父鉄道)・・・国道140号・・・聖神社・・・和銅遺跡・和銅露天掘り跡・・・祝山橋(和銅沢川)・・・内田家・・・下小川橋(横瀬川)・・・西行戻しの坂(黒草坂)(上の写真)・・・原谷橋(横瀬川)・・・彩甲斐街道(国道140号)・・・山神宮・・・瑞岩寺・・・泉福寺・・・札所一番四萬部(しまぶ)寺・旅籠一番「えびす屋」・・・八坂神社・・・清水橋(定峰川)・・・如意輪堂・・・二番真福寺・・・岩棚のキンモクセイ・・・沢の口橋(大棚川)・・・弁天橋・・・光明寺・・・山田橋(横瀬川)・・・三番常泉寺・・・秩父ふるさと歩道橋(横瀬川)・・・四番金昌寺・・・織姫神社・・・長興寺・・・五番語歌(ごか)堂・・・語歌橋(横瀬川)・県道11号・・・坂氷交差点(国道299号)・・・(秩父市役所)・・・西武秩父駅(西武秩父線)
奈良は2年後の平城遷都1300年記念祭の「せんとくん」と「まんとくん」のマスコットキャラ争いで盛り上がっていた。(一部だけかも 下に写真あり) ここ秩父は和銅元年(708)に銅が採掘されて今年が1300年だ。秩父鉄道の黒谷駅も4月から和銅黒谷駅と改称され、秩父札所の34ケ寺では、7月18日まで本尊が開帳されている。近くに寄り道しながら秩父札所を順番通り巡る坂道散歩です。巡礼道には江戸時代から現在までに立てられた石の道標、新しい木柱の道標や道案内掲示板などが整備されている。一番から三十四番まで番付通り歩かない方が距離が短く合理的だが、別に急ぐ旅でもないし今回は番付順に歩くつもりだ。
和銅遺跡は思ったより高い位置にあった。露天掘りの跡から下って和銅沢川の祝山橋から市街地へ出て、札所一番との分岐から秩父往還を下小川橋の方へ向う。橋を渡ると右へ旧道の西行戻しの坂が上っている。西行が戻ったのはこの坂が急だからでも、狐狸妖怪の類いが出たからでもない(後述)。 坂上で新道に合流し、南に行き原谷橋で横瀬川を越えて、だいぶ遠回りして瑞岩寺前の巡礼道に出た。泉福寺前で江戸からの巡礼道とぶつかると札所一番四萬部寺は近い。土曜日だし本尊も開帳しているので参詣者が多いかと思ったがどこの札所もそうでもない。それも車で札所を回っている人たちがほとんどで歩いている人は皆無に近い。
一番から二番真福寺の間は如意輪堂の分岐を過ぎ、馬頭観音のあたりから高篠山(665m)の方への長い上りとなる。山道ではなく舗装されている道なのでけっこう前後から車が来る。20分位上り右に入ると二番真福寺だ。標高は300mほどらしい。二番から光明寺、三番常泉寺へのつづら折りの急坂の下りの途中から林間の巡礼古道に入る。新道に出る手前に岩棚のキンモクセイとかつて巡礼宿だった旧家がある。二番と三番の納経所の向嶽山光明寺の門前から真向かいに武甲山を見て下り、右に曲がって真っ直ぐ行くと県道を横切り山田橋に出る。ここからの横瀬川の眺めがいい。昔の巡礼道は川岸に下って川を渡ったらしい。山田橋を渡り、南に行くと第三番常泉寺だ。あじさい寺というが花はあまり咲いていなかった。まだ早いのだろうか。
秩父ふるさと歩道橋で横瀬川を越えて、真っ直ぐ行くと仁王門の大ワラジ、参道に並ぶ石仏たちと子育観音像の四番金昌寺で、さすがここは訪れる人も多い。子育観音もいいが、酒呑み地蔵の方が親しみがわく。四番から南方向に行くと平坦地にぽつんと仁王門、観音堂が立つ五番語歌堂で、おかし味のある仁王像が立ち、縁起には聖徳太子も登場する。今日の予定はここまでで、語歌橋バス停から西武秩父駅までバスに乗ろうと思ったが1時間以上も待つので歩くことにした。途中、コンビニで買った缶ビールを飲みながら、大きく山肌を削られた武甲山の痛々しい姿を眺め、酒呑み地蔵風にのんびりと駅まで向かった。暑い中をかなり歩いたので疲れてきた。西武池袋線は特急レッドアローに乗って帰ることにする。特急といっても新幹線の特急料金に比べればただみたいなものだが。
【ル-ト地図】
*参考:『和同開珎』(Web Guiede秩父)
『秩父三十四観音霊場』(秩父札所連合会)
写真をクリックすると拡大します。
和銅奉献1300年を記念し、2008年4月1日に駅名を黒谷駅から改称し、駅舎もレトロ風にリニューアルした。
聖神社 《地図》
和銅採掘の祝典のために祝山に建てられた宮をここに移し聖神社と称した。
『秩父の伝説』によると、平将門の愛妾の桔梗の前が、平忠文の回し者であることが発覚し、尼御前と名を変えてこの地に落ち延びて境内の岩窟に隠れていた。しかし城峰山にこもっていた将門の兵士に見つかって竹槍で打ちとられたという。岩窟(跡)も説明板にもそれらしき記載はない。ここではなく瑞岩寺近くの聖神社のことなのか? ここの伝説では桔梗の前は将門を裏切った敵方だが、取手市には、桔梗の前は将門の敗死を聞いて沼に入水し、そこが「桔梗田」として管理されている。
月を信仰の対象にした、月待ち行事の際の供養塔。二十三夜塔は多いが、二十二夜塔は珍しいのでは。
和銅露天堀り跡のモニュメント 《地図》
飛ぶ鳥よりも早く毎日都へ和銅を送り届けたという、『羊太夫の伝説』
群馬県吉井町の多胡碑の『羊太夫の伝承』
内田家 《地図》
17世紀初期の建築。2階は養蚕部屋
札所道標(二又の所・元禄8年(1695の銘)) 《地図》
左は熊谷方面から札所一番へ向う巡礼道で国道140号と合流し、一番四萬部寺方向、右は国道を渡り、下小川橋から西行戻しの坂を上り、秩父の中心街へ通ずる秩父往還。
西行戻しの坂は正面の木の茂みの手前で右に曲がって上り、坂上で新道と合流する。
西行戻しの坂(坂上方向) 下小川橋(横瀬川)の南から北西から南に上る。 《地図》
西行が旅の途中で、下小川橋のそばの農家でお茶を無心し、茶を飲みながら娘の織る絹織物を見て、「その絹機(きぬばた)は売るか」と尋ねた。娘は、「うるかとは 川の瀬に住む 鮎のはらわた」と答えた。西行は娘のとっさの返し歌に驚き、礼を言って坂を上って行くと籠を背に鎌を手にした少女が下ってきた。西行がどこへ行くのかと問うと、少女は「冬ほきて 夏枯れ草を 刈に行く」(これから夏に刈る麦を刈に行く)と答えて通り過ぎて行った。西行はこの歌の意味が分からず、秩父では娘まで歌の道にすぐれている。行く先々で歌問答の難問が出るやも知れぬ。大宮郷(秩父神社のある秩父の中心街)に行くにはまだ早いと、坂を上らずに引き返したという。それから後、この黒草坂を「西行戻しの坂」ともいうようになった。秩父神社の妙見さまが、西行の歌の道の慢心を戒めるために娘に化身して、西行を歌で負かして、大宮郷に入れず途中で引き返させたのだという。『秩父の伝説』より
*荒川日野地区の白久(しろく)にも同じような話がある。:「西行が白久の円通寺近くの草の上で昼寝をしていると、麦刈り鎌も持った農民が通りかかった。農民は真っ黒に日焼けした西行の顔を見て、「白久にも黒い坊主が寝ているな」とつぶやいた。これを聞いた西行は起き上がり、「白久という字も墨で書く」とやり返した。すると農民は「俺はこれから冬ほきて 夏枯れ草を 刈に行く」と問いかけた。農民は意味の分からない西行を後にして、鼻高々に去って行った。(西行法師と農民と)『秩父の伝説より』
*江島道の「西行戻り松」も同じような伝承で、そこでは、「夏枯れて 冬ほき草を 刈に行く」となっている
*奥州街道の白河宿には、「宗祇戻し(の橋)」があり、「白河での連歌興行に向う途中の宗祇が、ここで綿を背負った娘に出会った。娘に「その綿は売るか」と尋ねると、娘は、「阿武隈の 川瀬にすめる 鮎にこそ うるかといへる わたはありけれ」と答えた。この歌の巧みさ、風流さに宗祇は自信をなくして、都に戻ってしまったという。」
『奥の細道』で松尾芭蕉に随行した、曽良の日記には、これとは別の逸話が記されているが、あまり面白くない。「白河市(福島県)の坂」に記載。
山神宮 《地図》
小さな社
瑞岩寺 《地図》
後ろの岩山一面に咲くつつじは市の天然記念物。中腹に不動堂があり上まで上れるようだ。
泉福寺前 《地図》
江戸からの巡礼道は川越通りがもっともよく使われた。川越、小川から粥新田峠を越え、この寺の前を通り、熊谷通りからの巡礼道と合流し、札所一番に入った。左下に道標(下の写真)が立つ。
「右ハ 小川 まつ山 よ里い 左ハ 小平 めうぎ」
巡礼が立てたものだろう。
第一番四萬部寺 《地図》
長享2年(1488)の札所番付では二十四番だった。江戸時代に入り、江戸から秩父に入る2本の主要道の秩父往還の川越通りと熊谷通りの出会う地点の当寺が番付の改変で一番寺になった。
行基の作と伝える本尊の聖観世音菩薩像は開帳しているが本堂内は撮影禁止。
毎年8月24日の大施餓鬼会は関東三大施餓鬼の一つ。古くは30俵の米を炊き、信者はもとより多くの乞食たちにも施したという。関東三大施餓鬼は、この寺と浦和の玉蔵院、杉戸町の永福寺のようだが、菖蒲町の長龍寺を入れる説のある。関東といっても全部埼玉県だが。
二番へは右に清水橋へ下る。
元禄15年の銘で、「右 大たな道 左 志加う道」
「大たな道」は二番大棚山真福寺、「志加う道」は定峰峠を越え、慈光寺(坂東札所九番)へ向う道。
下に「右 三ばん 左 二番」の道標
地元では「によりさま」と呼び、お産の神様として信仰されている。
このあたりから傾斜がきつくなる。
安永9年?の銘
第二番真福寺本堂 《地図》
納経所は光明寺
けっこう高さがある。
樹齢500年以上
光明寺 《地図》
第二番、三番の納経所。
光明寺の山号は「向嶽山」
下って右に曲がり少し行くと、「右 三番道 左 四番道」の道標。直進して山田橋へ。
山田橋(横瀬川) 《地図》
旧巡礼道は左側の細い道を下って川を渡った。
正面に「ホテル美やま」
右に道標と地蔵
第三番常泉寺 《地図》
正面が本堂、左端が観音堂
妊娠中の婦人のように見え、この石を抱くと子宝に恵まれるとか。
ふるさと歩道橋の手前
秩父ふるさと歩道橋 《地図》(道と橋の標示はない)
以前はこの歩道橋はなく、巡礼道は川岸に下り、小さな橋を渡って、右岸を上ったようだ。
手前に上部が欠けた「四番道」の道標が立つ。
第四番金昌寺 《地図》
仁王門と大草鞋
江戸時代には3800体もあったという。明治の廃仏毀釈で破棄され、現在は1300体余という。
江戸時代の作、乳を飲ませる母親の慈母観音像。艶っぽく異国風でこの石仏の下絵を描いたのは浮世絵師の喜多川歌麿だとか、、蓮台にカエルが彫られていることから「ミカエル」と称し、隠れ切支丹が礼拝した「マリア観音」だとする人もいる。
酒樽の上に座り、頭に大盃を載せご機嫌だ。
織姫神社 《地図》
金昌寺から五番語歌堂への途中。
長興寺 《地図》
五番語歌堂の納経所
五番語歌堂 《地図》
周囲を木や垣根、塀などに覆われてなく平坦地にポツン仁王門と本堂が立っている。
語歌堂
寺名の由来となった歌道の奥義を論じ合った僧は聖徳太子の化身だったとか。時代がちょっと違うのでは。 「西行戻しの坂」で一旦戻った西行が歌道の修行を積んで再度、秩父を訪れたとする方が少しはましな縁起話になるのでは。
メタ腹で田舎のオッサン風の顔がいい。
慈覚大師の作と伝える本尊の准胝(じゅんてい)観音は仏母ともいわれる密教の女性尊で、百観音霊場中(西国、坂東、秩父)、西国五番と十一番にあるだけ。別名を子返し観音。
語歌橋を越え、国道299号の坂氷交差点へ出る途中。
「秩父が嶽」と呼ばれていたこの山の岩室に、日本武尊が東征の折、自らの甲を奉納したので武甲山と呼ぶようになったという伝説の山も、セメントの原料の石灰岩を採掘のため削られ裸の山肌が痛々しい。
*****番 外******************
「せんとくん」
平城遷都1300年祭の公式キャラクター
「まんとくん」
市民団体が公募で選んだキャラクター
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コメント
neoyaさんへ
私も山頭火のような漂泊の旅ができたらと思っていますが、なかなかそうもいきません。
ただ、歩く時は山頭火のように一人なので先日、二番への道筋で出会った方とは違います。
昨日(25日)にお先に、十三番から十九番まで歩きました。
投稿: 坂道散歩(ヤタガラス) | 2008年6月26日 (木) 08:50
お初にお目に掛かります。
6/14は私も黒谷から一番札所二番三番と十番まで歩きました。二番札所へ行く坂道で二人の方に追い抜かれましたので、もしかしたらそのうちのお一人かと思いましてコメントを書きました。しかも十番の横の山道も通ったのですか、私も登りました。この週末に残りの十一番から十八番まで行く予定です。なお、途中ですが私のHPも見てくださるとありがたいです。
投稿: neoya | 2008年6月24日 (火) 22:42